Екатерининский Дворец


白の食堂

 現地では大して気にとめなかったが、「白の食堂」の写真の片隅に写っている陶磁器もひょっとして東洋のものかもしれない。もしそうなら、ペテルブルグが首都であったころの皇族の食事には、東洋の工芸品が活躍し、播州皿屋敷もどきの怪談もロシアで生まれていた?などと考えたりする。
 あと記憶があいまいでなんだが、部屋中が青で統一されたような間(「青の食堂」?)もあった気がする。(記憶違いかも…)
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 さて、いよいよ「琥珀の間」である。もともとの「琥珀のパネル画」はプロイセンのフリードリッヒ・ウィルヘルム1世からピョートル大帝に友好の証として贈られ、「琥珀の間」としてロシアで完成した。はじめはペテルブルグの第3の冬の宮殿の書斎の装飾だったが、1755年ラストレッリが、フィレンツェ風モザイクのパネル画と彫刻をつけ加えて、「琥珀の間」をエカテリーナ宮殿に移した。もちろん「琥珀の間」は女帝が許した人間しか入ることはできなかった。
 この部屋は、第2次大戦中にナチスドイツ軍がそのすべての琥珀を運び去ったことで、さらに有名になった。琥珀は7人という人数で36時間という短い時間で、手際よく解体されドイツに運ばれた。その行方は未だ謎のままである(2003年末現在)。
 エカテリーナ宮殿の現在の「琥珀の間」の復元は国家プロジェクトとして推進された。復元の過程はひたすら地道な試行錯誤や研究、そして根気そのものであった。2003年、18世紀のデザインに基づいている「琥珀の間」は新たに復活した。
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視覚
琥珀の間(左側にかかっている
モザイク画は「視覚」を意味する)
味覚
同じく琥珀の間(かかっている
モザイク画は「味覚」を意味する)
 宮殿に対してそんなに興味がなかったとはいえ、ペテルブルグに来たなら「琥珀の間」は一見の価値がある、そう思わざるを得なかった。入った瞬間から、うひゃぁ〜!という感嘆の声しか出なかった。それから、どういうわけか、意外と狭く、結局は秀吉の金の茶室と同じようなものかもと妙に冷静になったりした。「琥珀の間」を最初に作ったプロイセンも然り、どうしてこんなものを作るのだろう?と思ったりしたが、やはり私も素直に反応したとおり、とにかくそれを見た人に「あっ」と言わせる、このことに最大の価値があるのだろうと思う。人々を治めるには、さまざまな方法があるが、専制政治下のおそるべき建造物や遺物は、人々を崇めさせるための一つの有効な手段であったのだ。
 「琥珀の間」の片隅には、第二次大戦中に被害に遭った時の写真が飾られていて、そういった展示の仕方はどこの国でも同じなんだなと思った。
 宮殿はエリザヴェータ女帝以降の皇帝にも愛されたが、宮殿内の部屋の様式については各々の皇帝でこだわりがあったようである。
 自ら「英国心酔病」と告白したエカテリーナ2世は、エリザヴェータが造らせたフランスの様式(庭など)を堅苦しく思い嫌っていた。右の「緑の食堂」は、そんなエカテリーナ2世がスコットランドの建築家チャールス・キャメロン(1740頃−91)に依頼して1780年代につくらせた。女帝は彼を「スコットランド人に生まれ,スチュワート王家を支持し,古代の文化に育まれた偉大な設計者」と評している。尤も、ドイツ人である女帝は、臣下たちからの支持を失うのを恐れていたので、公務の時はしっかりロシア式を全うしたようである。「緑の食堂」はあくまで女帝の私的な生活を象徴している部屋である。ただ、白の食堂などとは異なり、この部屋だけは宮殿内でも浮いている感じがしたのは否めない。
緑の食堂
 宮殿内見学が終了したあと、トイレ休憩もかねて自由時間になった。私はカッサに寄ったあと、外に飛び出した。

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