@心象風景を楽しむために・・・・・・・・・心象画の見方(曖昧さをさがせ) |
心象画は心象風景を描いたともいえますが、同時に観る人の心象風景をいざなう絵ともいえます。
見る側も描く側も、最も自由な心象風景を与えてくれるものは白い紙でしたね。白い紙はどんなイメージで眺めてもそれに応じた風景を見せてくれるのでした。
けれども、それでは絵は生まれませんから、描く側は線を引き始めます。
その一方で具体的な形が生まれてくると、観る側のイメージの幅は限定され狭められていきます。
描く側が、自分の心象風景を写真のように完璧に描き切ったら、観る側の心象を働かせる自由はなくなってしまう理屈になります。
そこで描く側は、観る側の自由な想像を促すために、絵にあいまいさを残すことになるのです。
観る側は、絵によって設定された舞台に立ちます。
するとそこに 「これは何?」 と思わせる仕掛けが待っているのです。
観る側は、そこから自分の心象風景をふくらませ始めるでしょう。
描く側の狙いはそこにあります。絵という舞台の中で、観る人の心が自由に遊べる空間、観る人の心象風景を重ねてもらいたいのです。
心象画の重要なポイントは、描く側も観る側も「あいまいさ」ということになるのです。
手前味噌ながら、のしてんてんの絵を観てみましょう。
暗い、陰気・・・・ほっといてください。
冗談はさておき、この絵のあいまいな所はどこでしょうか。
それをさがすのは簡単です。
「何?・どうなっているの?・分からない・不思議」という心の声の聞こえるところが、あいまいなところなんですね。
さあ、あいまいなところが見つかりましたか?
たとえば、これは何なのか、箱なのか、包み紙なのか、金属?
中に何が入っているの?、暗い向こうは何?地面は何・・・・・
まさにあいまいのオンパレード(人格が出てます)
その代わりあなたに楽しんでいただけるのですから、この無責任をどうかお許しください。
ということで、あなたはこのあいまいさから、あなたの心象風景を見ることになるでしょう。
絵が答えを出していない分、あなた自身の心象風景を重ね合わせて、あなたが答えを探し出す。そこに心象画の面白さがあるのです。
心象画は、描く側の具体的なメッセージではなく、観る側の自由な心の働きを助長して、互いの心象風景を重ね合わせる舞台だと私は思っています。
いい心象画の条件は、観る人にあいそをつかされないよう興味を引きながら、あいまいさを描くことでしょう。
A心象風景を楽しむために・・・・・・・・・心象画の見方(のしてんてんの絵から) |
A心象風景を楽しむために・・・・・・・・・心象画の見方(終わりに) |
心象画とは、心象風景を描いたものですが、決してそれは作者の心象だけを一方的に描いたものではありません。
仮に一方的に作家の心象風景を克明に描いた絵があるとするなら、それは写実画というべきでしょう。
心象風景は誰もが自分の心の中に持っている風景であり、それはあなた自身を現しているといってもいいかもしれません。
その心象風景をしっかり意識してつかまえ、自分を理解していくことにつながるなら、それを描いたり、眺めたりすることはいいことに違いないと思います。
あなたの心象風景をどうぞ楽しんでください。