亡父 のこと

                         20121124日 ノサリンより         

20121122日の午前11時に、大正121111日生まれの父が家族

に見守られながら母の所へ逝きました。 

111日の「母の命日」にかかりつけの病院に入院し、113日の「父母の結婚記念日」

にホスピスに入れるという連絡があり、
115日に高槻日赤のホスピス病棟に転院しました。 

父が描いた油絵の「母の肖像画」を弟が20日に飾ってくれて、いつも母が見守っているまなざしの

部屋で2日後に穏やかな最期をむかえました。 89歳になったところでした。 

  ちょうど1122日は「いい夫婦」の日で、仲のよかった母が迎えにきたとしか思えないようなタイミン

グでした。  「おかあさん、25年間お待たせしました。 お父さんをよろしくね。」

  耳が聞こえにくく頑固なところがあるので、私とは大きな声で言い合いする場面も多々ありましたが

(笑)、ホスピスに入院してからは、癒しと自然のあふれる環境の中でとても穏やかな日々でした。

父は徳島の農家で生まれ、 「とにかく勉強好きで、いつも甘いものを食べながら机に向かっていた。」

と叔父や叔母が話していました。大学時代に京都に出てきて、孝幸おじさんの薦めで母と出会いました。

私の父の思い出は、「バリバリの商社マン」で夜は遅くまで仕事で帰らず、土日は接待ゴルフでいない、

もの心ついた頃は、シンガポールに3年間の単身赴任や海外出張、海洋博の時は4年間沖縄に単身赴

任ということで、父の存在は小さく、私は完全に「お母さん子」でした。

たまに、近所の公園でボール遊びをしてくれたり、柔道の技をかけられたり、聞き分けのない私だった

ので、よく怒られはしました。一度だけ、バシンと本で頭をたたかれたことを今でも根にもっています。(笑)

 ところが、母が54歳で発病し、「がん告知」 をせずの献身ぶりは本当に感動ものでした。一度だけ夫婦

二人でヨーロッパ旅行できたのが、幸せだったと思います。母の闘病が始まると病院の近所に部屋を借り

て、つきっきりの看病でした。 母を亡くしてからの25年間は、趣味の囲碁、俳句、油絵、TVでの野球観

戦、小旅行に没頭していました。 弟家族が一緒に暮らして世話をしてくれたので、かなりわがままを言い

ながらも充実した老後だったと思います。 お父さん、みなさん、色々とありがとうござました。 合掌。

 



 2011年1月  息子から父へ

誕生日と還暦おめでとうございます!そしてお疲れ様です☆
これからも若々しい父、飲み食いが好きな父、優しい父、そして心から尊敬する父でいてください。
僕もいつか母のような素敵な奥さんをもらってうちのような愛で溢れる家庭を築きたいもんです。
お疲れ様というにはまだまだ早過ぎるようですが、とりあえず60歳ということでお疲れ様でした。
そしてこれからもよろしくお願いします!!
僕がおごるので改めて寿司にでも行きましょう☆

 
 「結婚披露宴 両家代表挨拶」  平成21年 2009年 3月28日

 新婦の父でございます。両家を代表いたしまして一言御礼のご挨拶を申し上げます。

本日は2人のために京都の地へお運びいただき、ありがとうございました。
温かい励ましのお言葉や見事に編集された数々の写真、
楽しい余興で場を盛り上げて頂きました。深く感謝申し上げます。

 さて、私事で恐縮ですが、暫くおつきあいください。

 長女が生まれた日、初めて顔を見たとき不思議な感動に包まれたことを忘れません。
喜びと同時に「あぁこの子はいつか嫁に行く日が来るのかなぁ」と飛躍した考えが頭をかすめたことでした。

 場面は変わりますが、今年2月、妻と2人で福井県大野市の、新郎のご実家へ寄せて頂きました。
お母様と妹さんに大変歓待して頂きました。その折、強く心にに残ったことがありました。
それは、新郎の小さい頃を指して「それは可愛かったですよ!」とおっしゃられたお母様のお言葉です。
その一言に彼への愛情が凝縮されたものを感じました。
また、お話の中から、お父様が如何にお子さんに愛情を注がれていたかということも感じた次第です。
そのお父様は3年前に他界されました。ご存命ならば今日のこの日をどれほどお喜びだったかと思います。
この場で挨拶をされていたことでしょう。でも、きっと天国から笑顔でこの光景を見守っておいででしょう。

 今日の光景といえば、私にはダブって見えているものがあります。
それは今から29年前の私たち夫婦の結婚披露宴、私の立場で、本日列席の妻の父が挨拶をしてくれました。
そのときの慈愛に富んだ義父の表情を思い出します。

 それぞれの父や母、祖父母達の、その思いを今、私は共有しています。
それは、親から子、子から孫へ連綿と続く「家族の愛」だと思います。

 一方で、結婚は奇跡的な出会いと男女の強い愛のなせる業ですが、他人同士の結びつきであり、
だからこそ素晴らしく、だからこそ築いていくための互いの努力が必要です。
夫婦の「絆」を紡いでいくことが温かい家庭をつくることに繋がるのだと思います。
このことを2人へのはなむけとして、挨拶とさせて頂きます。

 本日は誠にありがとうございました。

                                                            新婦父より


 「亡き母のこと 」     04/10/19]

 去る10月7日早朝に母が長寿を全うし永眠致した。享年89歳だった。
 9月8日に自宅で転倒し腰を痛めた。暫く頑張っていたが、痛みが激しく再検査の結果、胸腰椎圧迫骨折ということで9月15日にS病院に入院した。
緊急のことで初めて入る病院だった。
入院した頃はむしろ当初より痛みは減少していた様子で、歩けなくなってはいけないとベッドの上で足を動かしたり、話すこともしっかりしていた。
年をとってからでも、足の骨折や肝機能不調、検査入院等で何度も入退院を繰り返していた経験上、今回もすぐに元気になって退院するものと思っていた。
 しかし、導尿して安静状態になってから調子が落ちたようだった。10月2日には話していることの半分くらいが整合性を欠いていた。
それでも今までにもそのようなこともあったので「退院して家に帰ったらまた復活するよ」と家族で話していた。
しかし、10月5日に主治医の先生から危険な状態に陥るかも知れないと聞かされ、すぐには理解することができなかった。
まったく突然の急変に驚いてしまった。そのすぐあと病室に行くと母は眠ったままで、何か声を発するけれど目的的なものではなく、
意識は混濁しているようだった。
10月6日、主治医より「今日、明日にも」と聞かされた…。そして10月7日午前5時25分に死亡した。
家族の見守る中で母は静かにゆったりと逝った。
医療機器のディスプレーが映し出す肺や心臓機能、血圧の波線が順番にスーッと横一本になっていくのが印象的だった。
私と妻と二人の子どもはそれと母の顔を交互に見ていた。
母の表情は本当に安らかで、家族は悲しさや寂しさより母への感謝の気持ちに包まれていたと思う。
 ひとつ残念だったのは、最期の場所が長く世話になってきたT病院ではなかったことである。
10年前、K先生と出会ってからどれほどT病院にお世話になってきたことか。
また、Mクリニック、デイケアの方々のおかげで、母は晩年を本当に充実させて生きることができた。
その恩はとても言葉にできるものではないと感謝している。母は以前から「寝たきりにはなりたくない。
家族に迷惑はかけたくない、ポックリ死にたい。」とよく言ってた。また「延命治療は嫌」と書付を残しているほどだった。
その意味では母の思い通りになった。年をとって体がいうことをきかなくなり、時々精神機能も衰えたり、
目が特に不自由で愚痴も多くなり、それなりに家族の苦労も多かったが、何より妻が母を励まし支えてくれた。
そして私たち家族を支えてくれたのがT病院、デイケアの方々だった。それからもうひとつ、忘れてならないのは近所の方々との付き合いである。
長年住み慣れた大阪市内から高槻へ移り住んだが、
環境の変化にもかかわらずうまく順応できたのは昔ながらの隣組を思わせるような近所の方々の優しさだった。
多くの人に気遣ってもらいながら、まるで子どもに帰っていくようにゆっくりとした時間を過ごした晩年だった。
心から感謝の気持ちをこめてお世話になった方々へお礼を申し上げたい。
 母は昔、和裁の先生をしていた。私の子どもの頃にはたくさんの若い娘さんが我が家へ毎日稽古に来ていて、賑やかだったことを覚えている。
和裁の腕も相当のものであったらしい。負けず嫌いで勝ち気だった。昔気質の頑固な父親ともよく喧嘩をしていた。
仲が悪かったわけではない。母の子どもの頃はよく引っ越しをしたけれど、いつもすぐに友達ができて先生にも可愛がられたと口癖のように言っていた。
私が大人になるまで見たことがなかった○○女学校とかいう女学生の頃の写真は、なかなか美人なので驚いた。
母はある意味自立して生きた女性だったのだろう。二人の子どもを生んだが、兄に先立たれたのは流石に応えたようだった。
あれほど仏壇を大事にしてきたのに、自分の骨は「撒いてくれ」と言う。信心深いのかそうでないのかわからない。
ただ九十年の生涯をまあ自分の思うままに生きたのではないかと思う。
 私が子どもの頃大好きだった光景、父と母が仲良く笑っていた茶の間が思い出されて仕方がない。

          平成16年10月 19日