極東の異邦人:外国商船の太平洋戦争1941-1945
封鎖突破船/補給艦「カルロッテ・シュリーマン」(Charlotte Schliemann)

 「カルロッテ・シュリーマン」(Charlotte Schliemann)の前身は1928年にデンマークのナクスコウ(Nakskov)で建造されたノルウェータンカー「Sir Karl Knudsen」(総排水量7,747トン)で、1939年にハンブルクの海運会社「Reederei Schlimann & Menzell」に売却されて「カルロッテ・シュリーマン」と改名されました。
 開戦の危機が迫ると「カルロッテ・シュリーマン」はドイツ海軍に徴用され、1939年9月2日にはスペイン領のカナリア諸島ラス・パルマス港(Las Palmas)に到着し、タンカーの「コリエンデス」(Corrientes)とともに停泊しており、1941年7月まで密かに来航するUボートへの補給任務に従事しました。Uボートは夜間に入港し、数時間で補給作業を終えて夜明け前には出港していました。このような行為はもちろん中立違反でしたが、この時期のスペイン政府は枢軸寄りであり、見て見ぬふりでドイツ側に便宜を図っていました。

 1941年6月以降、イギリス軍は大西洋で活動するドイツ海軍の補給艦への攻撃を強化しており、このため10月3日に「コタピナン」(Kota Pinang)、11月22日に仮装巡洋艦「アトランティス」(Atlantis)、12月1日に「ピュートン」(Python)、12月24日に「ベンノ」(Benno)が相次いで撃沈されてUボートへの海上補給が不可能な事態となりました。
 このため、「カルロッテ・シュリーマン」は1942年2月20日に南大西洋での補給艦に指定され、2月23日にラス・パルマスを出港しました。6月4日までUボートへの補給艦として活動するとともに仮装巡洋艦「ミヒェル」(Michel)の随伴タンカーとして4月13日~15日、5月6日~14日、6月21日~27日の3回にわたり補給を実施しました。5月6日には「ミヒェル」から拿捕船員75名を収容し、6月10には仮装巡洋艦「シュティーア」(Stier)とも会合して拿捕船員68名を移乗させました。その後6月23日には日本に向かう途上の封鎖突破船「ドッケルバンク」(Doggerbank)とも会合し、それまで収容していた拿捕船員を「ドッケルバンク」に移乗させ、同時に「ミヒェル」からも54名が移乗したため「ドッケルバンク」は合計197名の拿捕船員を載せて日本に向かいました。

 1942年8月27日、「カルロッテ・シュリーマン」は仮装巡洋艦「シュティーア」(Stier)と会合して最後の燃料を補給すると、南大西洋を離れて喜望峰を回りインド洋~スンダ海峡経由で9月初めにはシンガポールに到着しました。ラス・パルマス港を出港してから約8カ月の長い航海の後でしたが、乗組員は休む間もなくここでガソリンを満載するとそのまま日本へと向かい、1942年10月20日に横浜港に到着しました。また、シンガポールではスマトラで開戦時からオランダ側に抑留されていたドイツ人船員31名も便乗しており、日本本土へと移動しました。

 「カルロッテ・シュリーマン」は横浜でそれまでの航海で傷んだ箇所の修理を行うとともに、自衛用として日本製の75mm砲×1門、ドイツ製の37mm機関砲×1門、20mm機関砲×4門を搭載し、補充要員も乗船して乗組員は合計90名となりました。横浜停泊中の11月30日には新港埠頭に停泊中の高速給油艦「ウッカーマルク」(Uckermark)の爆発事故がありましたが、「カルロッテ・シュリーマン」は離れた埠頭に停泊しており、また消防隊の活躍もあり危うく難を逃れました。

 1943年3月、「カルロッテ・シュリーマン」はフランスへの回航命令を受け、一旦はシンガポールで椰子油を満載しましたがヨーロッパへの出発は中止となり、満載した椰子油はそのまま神戸まで運ばれました。1943年5月25日に神戸を出発すると再びシンガポールに寄港し、さらにバタビアに回航されて燃料を搭載するとインド洋でのUボートへの補給任務に出撃しました。
 1943年6月22日~26日の間、「カルロッテ・シュリーマン」はモーリシャス(Mauritius)の南方550マイルの洋上でU-198、U-196、U-181、U-178、U-197、U-177の潜水艦に次々と補給を行いました。このUボートのグループは南アフリカ~アフリカ東海岸~マダガスカル沖の海域で活動していました。補給後にU-197が英軍機に撃沈されましたが、他の4隻のUボートはボルドー帰還に成功し、U-178のみはペナンに向かい8月27日に到着しました。

 補給任務を終えた「カルロッテ・シュリーマン」は1943年7月にバタビアに帰還し、シンガポール経由で8月28には横浜に到着しました。横浜には12月まで留まり、その後再びシンガポールに向かうと12月24日にはシンガポールに到着し、Uボート用の補給物資を搭載した後、燃料積載のためバタビアに向かいました。

 1944年1月12日、「カルロッテ・シュリーマン」はシンガポールを出港し、「モンスーン戦隊」のUボートへの補給任務のため再びインド洋へと出撃しました。今回の会合海域もモーリシャス(Mauritius)の西南西550マイルの海域であり、1月27日から28日にかけてヨーロッパから来航したモンスーン戦隊のU-510とバタビアからヨーロッパに向かうU-178に補給を行い、同時にU-510からU-178には新しいエニグマ暗号キーが引き渡されました。
 その後も2月11日にはモーリシャスの東方900マイルの海域でヨーロッパへと向かうU-532への補給が予定されましたが、この補給は悪天候のため会合は遅れていました。U-532は1月4日に錫、ゴム、タングステン、キニーネ、アヘンを積載してペナンを出発しており、インド洋での商船攻撃を終えてヨーロッパに向かうための最後の燃料補給を予定していました。

 「カルロッテ・シュリーマン」の出撃は1月の時点から連合軍による暗号解読、無線傍受及び方向探知(HF/DF)により探知されており、イギリス海軍は「THWART」作戦として護衛空母1隻、巡洋艦3隻、仮装巡洋艦1隻、駆逐艦2隻、フリゲート艦1隻からなる追跡艦隊を1月12日にコロンボ港から出撃させていました。艦隊には随伴タンカーと捜索用カタリナ飛行艇6機も加わっていました。


巡洋艦「ニューキャッスル」(HMS Newcastle)<旗艦>
巡洋艦「サフォーク」(HMS Suffolk)
巡洋艦「ケニア」(HMS Kenya)
駆逐艦「ローバック」(HMS Roebuck)
駆逐艦「リレントレス」(HMS Relentless)
補助巡洋艦「カントン」(HMS Canton)
フリゲート艦「バン」(HMS Bann)
護衛空母「バトラー」(HMS Battler)
オーストラリア海軍駆逐艦「ネパール」(HMAS Nepal)


 艦隊主力は1月12日にコロンボを出港し、1月16日には護衛空母「バトラー」も合流し、1月19日には捜索を開始しましたが、1月21日は成果のないままモーリシャスに帰還しました。一方、護衛空母「バトラー」、巡洋艦「ケニア」、オーストラリア海軍駆逐艦「ネパール」による別動隊は1月23日まで捜索を継続しましたが、悪天候のため捜索を中止し、こちらも1月30日にはモーリシャスに帰還しました。

 1944年2月11日、モーリシャスから発進したカタリナ飛行艇はモーリシャスの東方900マイルの海上で補給中の「カルロッテ・シュリーマン」とU-532を発見しました。U-532は直ちに潜航して姿を隠し、カタリナ飛行艇は「カルロッテ・シュリーマン」に対して呼出符号を要求しました。「カルロッテ・シュリーマン」は偽の呼出符号を答えましたが哨戒機は騙されず、その後も90分間にわたり接触を継続しました。
 一方、不審船発見の報に捜索中の軽巡洋艦「ニューカッスル」と駆逐艦「リレントリス」は現場海域に急行していました。「カルロッテ・シュリーマン」は夜の暗闇を利用して全速力で東に向かいましたが、2月11日~12日の真夜中には追跡してくる軍艦が視界に入り、船長は船の放棄と脱出を決断しました。
 追跡艦は軽巡洋艦「ニューカッスル」と駆逐艦「リレントリス」であり、2月12日午前1時頃、「ニューカッスル」の砲銃撃と「リレントリス」が200mの距離まで接近して放った魚雷が船体中央部に命中して止めの一撃になりましたが、乗組員の脱出時には自沈用の80kg爆薬にも点火されており、船は急速に沈没しました。
 脱出した乗組員のうち40名は駆逐艦「リレントリス」に救助されましたが、真夜中の海上には他に40名~50名が4隻の救命艇で漂流していました。救命艇のうち1隻は2月26日に10名を乗せてマダガスカルの東海岸に漂着し、もう1隻は3月1日に12名を乗せてやはりマダガスカルの東海岸に漂着しましたが、残りの約20名が乗っていた2隻の救命艇は行方不明となりました。

 一方、補給中のU-532は急速潜航して現場を離れましたが、3日間に渡る執拗な追跡を受けながらこれを振り切り、2月26日にはU-178から燃料補給を受けることができました。しかしヨーロッパへ向かうには十分ではなく、3月11日から12日にかけて補給艦「ブラーケ」(Brake)と再度会合したものの、今回も悪天候のため十分な補給を受けることはできず、直後に「ブラーケ」がイギリス軍に撃沈されてしまいました。U-532は救助した「ブラーケ」の乗組員45名をU-168へと移乗させると、結局ヨーロッパへの帰還をあきらめてインド洋での通商破壊戦を継続した後、4月19日に無事ペナンに帰還することができました。
 U-532が「カルロッテ・シュリーマン」の乗員の一部を救助したとする資料もありますが、3日間も追跡を受ける厳しい状況で浮上して救助できるとは思えず、あるいは「ブラーケ」の乗組員45名を救助したことと混同されているのかもしれません。


2019.6.16 新規作成

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