泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

第512重戦車駆逐大隊

 戦争も末期の1945年2月、西部戦線でヤークトティーガー装備の「重戦車駆逐大隊」が新編成されました。中隊長としてアルバート・エルンスト中尉とオットー・カリウス中尉という重戦車エースをそろえたこの重戦車駆逐大隊はどんな活躍をしたのでしょうか?

1.創設
 第512重戦車駆逐大隊は1945年2月6日、第653重戦車駆逐大隊に続く二番目のヤークトティーガー装備大隊としてデレースハイム練兵場で部隊の編成命令が出され、兵員は第424重戦車大隊(旧第501重戦車大隊)および第511重戦車大隊から抽出して編成されました。
 計画では大隊は各10両編成の3個中隊と大隊指揮班に3両の合計33両のヤークトティーガーで編成され、各中隊は中隊本部に1両と各3両を装備する3個小隊で編成される予定でしたが、この内大隊指揮班の3両は装甲兵車に置き換えられ、ヤークトティーガーは30両を装備するよう変更されました。
 第1中隊は1945年2月中旬、第2中隊は2月下旬、第3中隊は3月上旬には順次作戦可能となる予定で、最初のヤークトティーガー5両が2月12日にはデレースハイム演習場に到着し、リンツ近郊のニーベルンゲン製作所(Nibelungen Werk)では大隊向けの6両が完成していました。しかし、第653重戦車駆逐大隊での運用実績からギヤボックスなどの不具合個所の改修が実施されることになり、これらのヤークトティーガーは工場に送り返され、大隊の編成は大幅に遅れてしまいました。なお、この間に大隊はデレースハイム練兵場からゼンネラーガー練兵場に移動しました。

第512重戦車駆逐大隊(1945年3月13日現在)
Schwere Panzerjager Abteilung 512
大隊本部:ウォルター・シェルフ大尉(のち少佐)
  指揮班:装甲兵車×2両?
  機甲対空小隊:3.7cm対空戦車×4両/2cm4連装対空戦車×4両
第1中隊:アルバート・エルンスト中尉(のち大尉)
  中隊本部:ヤークトティーガー×1両
  第1小隊:ヤークトティーガー×3両
  第2小隊:ヤークトティーガー×3両
  第3小隊:ヤークトティーガー×3両
第2中隊:オットー・カリウス中尉
  中隊本部:ヤークトティーガー×1両
  第1小隊:ヤークトティーガー×3両
  第2小隊:ヤークトティーガー×3両
  第3小隊:ヤークトティーガー×3両
補給中隊:
修理工場中隊:ベルゲパンター装備


 1945年3月5日、改修されたヤークトティーガー5両がゼンネラーガーに到着し、7日にはさらに5両が到着しました。この10両は第2中隊に配属され3月8日から訓練が開始されますが、3月7日にはレマーゲンでライン河の橋がアメリカ軍に奪取されており、もはや十分な訓練を行う時間もありませんでした。
 第2中隊はわずか1週間後の3月14日には訓練を切り上げ、3本の軍用列車に積載されてレマーゲン地区北方のジークブルグ地区へ輸送されました。3月18日、カリウス中尉は自動車で一足早くジークブルグに到着しましたが、鉄道駅は既にアメリカ軍砲兵の射程内にあり、おまけに半数の5両のヤークトティーガーを載せた列車が誤って100kmも北西のデュイスブルグへ行ってしまうドタバタもあり、輸送列車は3月19日の夜にやっとジークブルグに到着しました。
 しかし、列車からの下車作業は砲撃や空襲を避けて夜間に限られ、また輸送してきた装輪車輌はすべてタイヤが被弾しており、戦闘体制を整えるのにさらに数日を要しました。ここで第2中隊は「第506重戦車大隊」、「第654重戦車駆逐大隊」とともに、第15軍の直轄指揮下に置かれ、バンツァーグルッペ「フーデル」(Panzergruppe Hudel)としてまとめられました。

2.レマーゲン~ルール地方での戦闘
 3月24日早朝、中隊はジークブルグからレマーゲンのアメリカ軍橋頭堡北側への攻撃に参加しましたが、強力な防御陣地に阻まれてほとんど前進できないまま作戦は中止されました。3月25日にはアメリカ第9軍の攻勢によりドイツ軍は防戦一方となり、第2中隊もジーク河沿いに交通の要衝であるジーゲンまで後退しますが、その途中3月26日にはエッセンとキルヘンの中間地点で未熟な車長がパニックとなり、故障した2両を自爆処分しなければなりませんでした。
 オットー・カリウス中尉の指揮する第2中隊のジークブルグへの移動時のドタバタや、2両の自爆の経緯については、「ティーガー戦車隊・下巻」(大日本絵画)に詳しく語られています。第2中隊は経験も訓練も不足した若い兵士が多く、おまけにカリウスは砲塔の旋回しないヤークトティーガーを嫌っており、かなり苦労しています。なお、第2中隊はターレットナンバーを付けていなかったようです。

 一方第1中隊には3月13日の夜に10両のヤークトティーガーが到着して早速訓練が開始されましたが、こちらも訓練をそうそうに切り上げて3月19日/20日には貨車に積み込まれオルペに向けて出発しました。しかし、オルペへの到着は大幅に遅れ3月26日の夜になってからでした。
 この列車では大隊本部、本郡中隊の一部及び補給中隊の一部も同時に進出しており、第1中隊とともにジーゲン地区に移動して大隊本部を設営しました。3月27日には後退してきた第2中隊と合流して、ジーゲンには大隊の2個中隊が集結しました。
 ジーゲンに移動した第1中隊は、3月28日には南東方向のディレンブルクへ向けての攻撃に参加しましたが、攻撃は簡単に跳ね返されて第1中隊はジーゲンの南での後退戦のなかで4両のヤークトティーガーを失うという損害を出しました。
 第1中隊はエルンスト中尉が連れてきたベテランが多く、積極的な戦闘によりかなりの戦果を上げています。その代わり損害も多く、最後まで残ったヤークトティーガーは3両だけでした。
 アルバート・エルンスト中尉と彼の第1中隊の戦闘については「パンツァー・フォー」(大日本絵画)を参照してください。

 補給中隊のハンス・フィンク(Hans Fink)中尉は第512重戦車駆逐大隊の補給責任者でしたが、「大飯ぐらい」のヤークトティーガーのために常にガソリンの確保に奔走していました。そんな時にヴェルドール(Werdohl)近郊の鉄道トンネルにガソリンを積んだ補給列車が隠れているのを発見し、彼はオットー・カリウス中尉とともに列車に駆けつけ、輸送トラックに積んだ100Lドラム缶に燃料を満載にすることができました。
 この補給列車は国防軍最高司令部(OKW)の予備燃料列車であったため後で大騒ぎとなったのですが、本人たちは知る由もありませんでした。とにかくこの燃料のおかげで大隊は最後の10日間の戦闘行動の間、燃料に不自由することはありませんでした。

 4月4日、すべてのヤークトティーガーはウンナ地区の防衛に投入されることになり、第2中隊はグンマースバハで7両のヤークトティーガーを貨物列車に積載して、4月7日にはウンナ南方8kmほどのメンデンに到着し、8日にはウンナでアメリカ軍と戦闘に入りました。ウンナの防衛司令官はカリウスもあきれるような素人で、4月9日にはウンナは簡単に陥落し、中隊はウンナの南のラングシューデに移動し、ここで12日までアメリカ軍の南下を阻止しました。

3.降伏
 4月12日、第2中隊はカールスホフに到着したものの、13日には東方8kmほどのメンデンが陥落し、村に接近してきたアメリカ軍を一度は撃退しましたが、カリウスはカールスホフにある病院を戦火から守るために無血開城を決意し、アメリカ軍と交渉を行った後、西方数キロのエルグステ地区まで後退しました。
 4月15日、エルグステにもアメリカ軍が接近したため、さすがのカリウスも最後まで残った6両のヤークトティーガーを自爆処分した後、アメリカ軍に降伏しました。

 一方第1中隊は、オルペを経由して北上し、4月8日にはアルテナに到着しました。4月9日にはハーゲンを経由してエルグステに到着し、4月11日には可動4両のヤークトティーガーを中心に突撃砲×4両、IV号戦車×3両、対空自走砲×4両により小戦闘団を編成してエングシューデからウンナ方面への攻撃を実施し、ビスマルク記念塔のある丘に陣取った戦闘団は遠距離砲戦によりシャーマン戦車×11両を含む50両あまりを撃破しましたが、航空攻撃によりヤークトティーガー×1両ほか、対空自走砲を失い後退しました。
 4月12日、中隊はダイリングホーフェン地区の飛行場を維持せよとの命令を受けて移動し、シャーマン戦車×1両を撃破してアメリカ軍の前進を撃退しました。4月13日、中隊のいるヘーメル北方数キロのメンデンが陥落し、エルンストはカリウスと同様にヘーメルの無血開城を決意して、アメリカ軍と交渉を行った後イゼーローンへ後退しました。
 4月15日、第1中隊はイゼーローン近郊で3両のヤークトティーガーにより最後の戦闘行動を行い、3両のシャーマン戦車を撃破しました。4月16日、第1中隊もイゼーローンでついに降伏し、最後まで残った3両のヤークトティーガーはアメリカ軍に引き渡されました。

□イゼーローンでアメリカ軍に降伏する第512重戦車駆逐大隊第1中隊

https://www.youtube.com/watch?v=7QoHuxbgjHw

 第1中隊の10両は「X1」から「X10」までのターレットナンバーをつけていました。最後の3両の内の2両は「X1」と「X2」であることが確認できますが、他の1両は偽装のため確認できません。「X2」の砲身にはなんと5本(!)のキルマークが記入されていますが、これは第1小隊長のハインツ・ロンドルフ少尉の乗車で、彼は第503重戦車大隊からやってきたベテランですからやはり流石です。  また、降伏のためイゼーローン広場に整列した中隊の写真には、3両のヤークトティーガーの他、1両のベルゲパンターが確認できます。この時広場で撮影された鮮明な写真が「Jagdtiger 2 Operational History」(Schiffer 1999)や「Panzerwrecks 3」(Panzerwrecks 2006)に掲載されています。【補足-1】

4.第3中隊
 第512重戦車駆逐大隊第3中隊は第511重戦車大隊の再編成(第1中隊:ヘッツァー×10両、第2中隊:ティーガーII×10両装備)により余剰となった兵員の補充を受け、3月13日から編成が開始されました。
 ニーベルンゲン製作所では3月10日までに中隊用の6両のヤークトティーガーが完成しており、5両が鉄道輸送で送り出され、3月25日の夜になってやっとゼンネラーガーに到着し、26日からさっそく訓練が開始されました。
 次のヤークトティーガーは3月29日~30日に到着予定でしたが、1両は3月23日の空襲のため工場の積出場で損傷し、さらに中隊向けの2両のヤークトティーガーが修理のために工場に送り返されました。
 3月26日、ヤークトティーガー2両が列車で工場からゼンネラーガー練兵場に送り出されましたが、中隊には届きませんでした。さらに3両目も完成していましたが同日の空襲で損傷して修理が必要となり、工場は空襲によりこのあと2週間の間操業停止となったため第3中隊向けのヤークトティーガーはこれ以上供給されませんでした。


第512重戦車駆逐大隊第3中隊(1945年3月25日現在)
第3中隊:シュレーダー中佐
  中隊本部:
  第1小隊:ヤークトティーガー×3両
  第2小隊:ヤークトティーガー×2両
  第3小隊:兵員のみ


 このころアメリカ軍はすでにゼンネラーガー西方のリップシュタット地区にせまり、4月1日には第3中隊も訓練を中止してアメリカ軍迎撃のため出撃しました。この時ゼンネラーガーの練兵場には
・第507重戦車大隊:ティーガーII×21両、ヤークトパンター×3両(他の大隊からティーガーIIを集成)
・第508重戦車大隊:ティーガーI×1両、パンター×6両
・第424重戦車大隊第3中隊:ティーガーI×2両、パンター×1両、IV号戦車×1両(第500補充訓練大隊から訓練用戦車を受領し、訓練教官が搭乗)
・クンマースドルフ戦車中隊:ヤークトティーガー×1両、ティーガーII×2両、パンター×4両、II号戦車×1両(テスト用戦車を装備し訓練教官が搭乗)

などの戦車部隊が在りました。
 このうち「第507重戦車大隊」がSSの補充訓練部隊とともにSS機甲旅団「ヴェストファーレン」又はSS戦闘団「ヴェストファーレン」を編成した他、それぞれ小戦闘団を編成してパーダーポルン~ゼンネラーガー地区周辺で戦闘に投入されました。

 第3中隊はパーダーポルンの街での戦闘で、損傷した2両を自爆処分後ヴェーザー河方面に後退し、4月7日にはヴェーザー河を渡りますが、4月8日のオッフェンザー近郊での戦闘ではさらに1両を失いましたが、4月8日の夜には中隊に残ったヤークトティーガー×2両はビーエルリハウゼンから鉄道輸送され、9日にはネウデン・ハルデンベルグの駅で下車し4月10日には第507重戦車大隊の2両のティーガーIIと伴にハルツ山地のオステローデ近郊にたどり着きました。
 この時ハルツ山地では「第11軍」が編成され、88,000名の兵力とわずかばかりの戦車を掻き集めて持久戦によって時間を稼ぐはずでしたが、ハルツ山地はアメリカ軍にアッサリと迂回されてしまい、逆にアメリカ軍の中に孤立してしまいました。

 第3中隊はパーダーポルン(Paderborn)の街での戦闘で損傷した2両を自爆処分後ヴェーザー河方面に後退し、4月7日にはヴェーザー河を渡ることができました。4月8日までにアメリカ軍の攻撃はゲッティンゲン(Göttingen)とヴァールスブルク(Wahlsburg)方面に向けられましたが、第3中隊第1小隊のヤークトティーガー×3両と第507重戦車大隊のティーガーIIによりアーデレプゼン(Adelebsen)で足止めされました。
 この小戦闘団はオッフェンセン(Offensen)を通過してフェアリーハウゼン(Verliehausen)へと後退しましたが、途中オッフェンセン近郊でヤークトティーガー×1両が道路から滑り落ちて回収不能となり自爆処分されました。

 4月8日の夜には第3中隊に残ったヤークトティーガー2両はフェアリーハウゼン(Verliehausen)から鉄道輸送され、幸運にもすでにアメリカ軍先鋒部隊の迫るゲッティンゲン(Göttingen)の駅を通過することができ、4月9日にはゲッティンゲンから10km北上したネルテン=ハルデンベルク(Nörten-Hardenberg)の駅で下車することができました。
 4月10日には第507重戦車大隊の2両のティーガーIIと伴に北東に約24km進み、ハルツ山地のオスターオーデ・アム・ハルツ(Osterode am Harz)近郊にたどり着きました。この時ハルツ山地では「第11軍」が編成され、8万8千名の兵力とわずかばかりの戦車を掻き集めて持久戦によって時間を稼ぐはずでしたが、ハルツ山地はアメリカ軍にアッサリと迂回されてしまい、逆にアメリカ軍の中に孤立してしまいました。

5.最後の戦闘
 4月9日にネルテン=ハルデンベルクの駅で下車したヤークトティーガー2両は鉄道輸送用履帯から戦闘用履帯に交換することができず、2両の戦車長であるアーノルト曹長とベッカー曹長はオステローデまでの24kmを苦労して移動しなければなりませんでした。これは輸送上の手違いなのか?、交換作業に必要なクレーン車が手配できなかったのか?、あるいはアメリカ軍の先鋒部隊が迫っていたため、あえて交換せずに駅から撤収したのか?、本当の事情は分かりません。【補足-3】
 2両がやっとオステローデの郊外にたどり着いた4月10日の夜、早くもアメリカ軍の戦車が接近したためアーノルト曹長車が暗闇の中で迎撃して3両を撃破し、4両目を武装SSの擲弾兵がパンツァーファウストで撃破するとアメリカ軍は後退しました。アーノルト曹長のヤークトティーガーもシャーマン戦車から命中弾を受けたものの、分厚い前面装甲が敵弾を簡単に跳ね返して、わずかながら本領を発揮しました。しかし、この戦闘での命中弾の断片が原因で砲が動かなくなってしまいました。

 翌4月11日、戦闘不能となったアーノルト曹長車は第507重戦車大隊の修理部隊を探してオステローデ方面に向かい、ただ1両残ったベッカー曹長車が再びアメリカ軍を迎撃しましたが、予想外の林道を進んできたシャーマン戦車に側面を狙われ、700mの距離から撃破されてしまいました。
 最後の1両となったアーノルト曹長車は4月14日、オステローデから東へ8kmのKamschlackenの近くでアメリカ軍を迎撃したものの、砲撃により左側履帯を切断して行動不能となりついに放棄され、残った乗員は4月22日にはハルツ山地の他の部隊と共にアメリカ軍に降伏しました。【補足-2】

□オステローデ近郊の丘陵で放棄されたヤークトティーガー



https://steemit.com/wwii/@balticbadger/destroyed-german-tank-and-a-shot-of-the-battlefield-never-before-seen-wwii-images

 第3中隊はパーダーポルンの町で自爆した1両が「Y」のターレットナンバーを付けているのが確認できます。最後まで残った2両は第2小隊の1号車「321」と2号車「322」だったらしいのですが、車体にターレットナンバーは記入していなかったようです。
 第512重戦車駆逐大隊は、ついに3個中隊がまとまって戦うことはありませんでしたが、短い期間にもかかわらず150両以上の敵戦車撃破を報告しています。しかしこれはちょっと盛りすぎな気がします(笑

 ところで、第3中隊に届くはずだった2両のヤークトティーガーは、鉄道輸送の途中で空襲に遭い損傷して工場に逆戻りした後、SS第501重戦車大隊がリンツの近郊での戦闘に使用したらしいのですが、これはまた別の機会に・・・

 そーいえば、クンマースドルフ戦車中隊が装備した1両のヤークトティーガーは、4月5日にゼンネラーガー練兵場近くの森の中でアメリカ軍に捕獲されるのですが、これはシャーシナンバー「305004」で、後にボービントン戦車博物館に運ばれた有名な車輌です。
 アメリカのアバディーン戦車博物館に展示されているのは第653重戦車駆逐大隊第3中隊の331号車はシャーシナンバー「305020」で、1945年3月にアメリカ第10戦車師団により撃破、鹵獲されました。この車両はタミヤ模型の1/35「ヤークトティーガー」の原型となったと言われています。
 モスクワのクビンカ戦車博物館には第653重戦車駆逐大隊所属のシャーシナンバー「305083」で、1945年4月15日に完成した後4月29日から戦闘に投入され、5月5日にシュトレンベルク(Strengberg)で運用可能な状態でソ連軍に降伏しました。


【補足-1】(2001.1.17)
 最後のベルゲパンターはG型ベースの車輌で、消炎型のマフラーを装備していました。上部車体の前と中央のリブの間に鉄十字マークが、中央と後のリブの間に数字の「4」が記入されています。この車輌のアップの写真が「Panzer Tracts No.16 Bergepanzerwagen」(1997)の最後のページに掲載れています。
【戻る】


【補足-2】(2002.2.5)
 第3中隊の最後の2両によるオステローデでの戦闘については、高橋慶史氏による「ラスト・オブ・カンプフグルッペ」の「SS戦車旅団ヴェストファーレン」の章の最後の部分で詳しく紹介されています。
【戻る】


【補足-3】(2026.9.3)
 ティーガーI戦車とティーガーII戦車&ヤークトティーガー重駆逐戦車の輸送用履帯は1944年9月以降は積載重量80tのSSyms貨車の備品となり、識別用にティーガーI戦車用は「緑色のマーキング」が、ティーガーII戦車用は「赤色のマーキング」がされていました。
 履帯の約10リンクごとに2~3リンクにマーキングを施す事になりました。残念ながらこのマーキングがわかる写真は発見されていないのですが、末期戦の模型作成の際にはアクセントになるかもしれません。
https://x.com/tk4m23/status/1397188945142849540
https://x.com/PanzerFibel/status/1827116799156219911
https://sites.google.com/view/panzerfibel/the-two-colors-of-tiger-transport-tracks
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参考資料
Panzerwrecks 3(Panzerwrecks 2006)
ラスト・オブ・カンプフグルッペ(大日本絵画 2001)
Jagdtiger 2 Operational History(Schiffer 1999)
グランドパワー1998年9月号 ヤークトティーガー(デルタ出版 1998)
モデル・グラフィックス1998年1月号 ラスト・オブ・カンプフグルッペ(大日本絵画 1998)
重戦車大隊記録集-1 陸軍編(大日本絵画 1996)
ティーガー戦車隊・下巻(大日本絵画 1996)
重駆逐戦車(大日本絵画 1994)
ティーガー・下巻(大日本絵画 1991)
パンツァー・フォー(大日本絵画 1988)


1999.11.22 新規作成
1999.12.7 「第9軍」を「第11軍」に訂正。
2001.1.17 「補足」を追加
2002.2.5 「補足-2」とオステローデでの戦闘を追加。
2026.8.29 いろいろ追記・修正
2026.9.3 「補足-3」の内容に追記・修正


泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/