泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

戦車師団「タトラ」/野戦訓練戦車師団「タトラ」/第232戦車師団
Panzer Division "Tatra"
Panzer Feldausbildungs Division "Tatra"
232.Panzer Division

 スロヴァキアでの軍事蜂起に際して戦線後方の各種教育訓練部隊をもとに編成されたさまざまな戦闘団については「ラスト・オブ・カンプフグルッペIV」で紹介されています。その中でも戦闘団「フォン・オーレン」および戦闘団「フォン・ユンク」をもとに戦車師団「タトラ」が編成されたのですが、戦車師団といいながら兵力約6,000名で装備戦車は訓練用の中古IV号戦車15両程度の典型的な「末期戦的最貧部隊」でした。この師団はスロヴァキアでの軍事蜂起鎮圧後、どんな運命を歩んだのでしょうか?

1.戦闘団「フォン・オーレン」と戦闘団「フォン・ユンク」
 スロヴァキア軍内部では1943年末から軍事蜂起のための軍事司令部が設立され、前線のスロヴァキア軍と国内の残留部隊が連携した軍事蜂起の準備が秘密裏に進められていました。しかし、1944年8月になると中部スロヴァキアでのパルチザングループの活動が活発化し、8月28日に発生したドイツ軍軍事顧問団襲撃事件により遂にドイツ軍は2個戦闘団を中部スロヴァキアに派遣してパルチザン掃討作戦が開始されることとなり、これを契機として8月29日、スロヴァキア軍による軍事蜂起は準備不足のまま決行されました。
 スロヴァキア軍による軍事蜂起に対してドイツ軍の対応は早く、パルチザン掃討作戦に投入されていた2個戦闘団はそのまま軍事蜂起鎮圧作戦に投入され、8月29日17時30分には早くもチャドカ南西において戦闘団「フォン・オーレン」の先鋒部隊と蜂起軍側歩兵大隊との間で最初の戦闘が行われました。

 戦闘団「フォン・オーレン」(Kampfgruppe "von Ohlen")と戦闘団「フォン・ユンク」(Kampfgruppe "von Junck")は1944年8月に中部スロヴァキアでの対パルチザン掃討作戦のためにともに各地の教育訓練部隊をもとに編成され、スロヴァキアに派遣されました。
 戦闘団「フォン・オーレン」はベーメン・メーレン軍管区の第82補充および教育機甲擲弾兵連隊、ウィーン・メートリング軍管区の第4補充および教育戦車大隊などから兵力を抽出して編成され、フォン・オーレン中佐の指揮下に兵力は約2,400名でした。一方の戦闘団「フォン・ユンク」はグランヴィッツ(Gleiwitz)駐屯の戦車師団番号第178部隊(Panzer Division Nr.178)の第85補充および教育機甲擲弾兵連隊およびオッペルン(Oppeln)駐屯の第8補充および教育戦車猟兵大隊の一部から緊急編成され、フォン・ユンク中佐の指揮下にこちらも兵力は約2,400名でした。【補足-1】
 なお、グランヴィッツ(Gleiwitz)は現在はポーランド領のグリヴィツェ(Gliwice)、オッペルン(Oppeln)は同様にポーランド領のオポーレ(Opole)となっています。


戦闘団「フォン・オーレン」
Kampfgruppe "von Ohlen"

第82補充および教育機甲擲弾兵連隊
  第1大隊
  第2大隊
第4補充および教育戦車大隊の1個中隊:IV号戦車H型×15両?
1個重榴弾砲中隊(自動車化):150mm重榴弾砲×4門装備


戦闘団「フォン・ユンク」
Kampfgruppe "von Junck"

第85補充および教育機甲擲弾兵連隊
  第1大隊:第13補充および教育機甲擲弾兵大隊
  第2大隊:第30/51補充擲弾兵大隊
  第8補充および教育戦車猟兵大隊の1個中隊:III号突撃砲×14両?
  1個砲兵大隊:3個中隊


 戦闘団は北西からスロヴァキア領内へと進撃し、8月31日にヴルトゥキへの攻撃を開始しましたが、IV号戦車を先頭にしたこの日の攻撃は失敗しました。蜂起軍側は支援の砲兵と対戦車砲部隊、LTvz38戦車やマーダーIII対戦車自走砲まで装備しており、山間の地形と相まって防衛側に有利な状況となっていました。2日後には事前に急降下爆撃も要請して、再びIV号戦車7両を投入して攻撃しましたが今度も撃退され、9月4日午後に戦闘団は三度目のヴルトゥキを攻撃を実施し、ついに蜂起軍はヴルトゥキを放棄しプリエコパへと後退しました。
 9月5日、一旦後退した蜂起軍側がヴルトゥキへの逆襲を敢行し、蜂起軍のIII号戦車N型は市街地まで突入したものの撃退されました。さらに9月7日にも蜂起軍による攻撃が実施されたましたが、これも失敗しました。これに対して戦闘団は9月8日に反撃作戦を実施しましたが、これはプリエコパ前面で阻止されてしまい、逆にIV号戦車1両とIII号突撃砲1両が蜂起軍側に鹵獲されてしまいました。この戦車は蜂起軍による9月9日のヴルトゥキへの反撃作戦に早速投入されました。

2.戦車師団「タトラ」
 1944年9月9日、戦闘団「フォン・オーレン」および戦闘団「フォン・ユンク」に第1009教育擲弾兵大隊などが増強され、戦車師団「タトラ」が誕生しましたが兵力は約6,000名で、戦車は訓練用の中古IV号戦車を15両程度装備するのみであり、実際の兵力はせいぜい「旅団」規模でした。こんな部隊を戦車師団と呼ぶのは末期のドイツ軍でもさすがに珍しく、これは蜂起軍側へのブラフ効果も期待されたのでしょう。
 戦車師団「タトラ」は9月中旬以降も増強と改編を繰り返しており、その編成内容には諸説があります。第4補充および教育戦車大隊には9月中旬以降に38(t)戦車×15両?装備の1個中隊が追加配備され、一方で第1009教育擲弾兵大隊は9月28日付けで第1戦車師団に転出しました。


戦車師団「タトラ」(1944年10月)
Panzer Division "Tatra"

師団司令部
第82補充および教育機甲擲弾兵連隊
  第1大隊(第2補充および教育機甲擲弾兵大隊)
  第2大隊(第10補充および教育機甲擲弾兵大隊)
第85補充および教育機甲擲弾兵連隊
  第1大隊(第13補充および教育機甲擲弾兵大隊)
  第2大隊(第30/51補充擲弾兵大隊(自動車化))
第1009教育擲弾兵大隊(9月28日から第1戦車師団に転出)
第4補充および教育戦車大隊
  第1中隊:IV号戦車H型×15両?
  第2中隊:38(t)戦車×15両?(9月中旬以降追加配備)
第8補充および教育戦車猟兵大隊の1個中隊:III号突撃砲×16両?
砲兵大隊「タトラ」:3個中隊
第82補充および教育機甲擲弾兵連隊の1個工兵中隊
第80教導および教育機甲工兵大隊の1個工兵中隊
第482擲弾兵教育連隊第1大隊:第1及び第2中隊
野戦補充大隊
師団補給大隊
その他支援部隊


 9月15日、戦車師団「タトラ」はクラロヴァニ東方で東方から進撃してきたSS戦闘団「シェーファー」との連絡に成功し、さらに9月20日にはマルチンを経由して前進し、9月23日には南西から進撃してきたSS戦闘団「シル」と合流し、9月25日にはトワルチャンスク・テプリエを奪取しました。
 10月27日、SS戦闘団「シル」とSS戦闘団「シェーファー」が蜂起軍司令部があるバンスカ・ビストリツァに突入し、ついに陥落しました。蜂起軍のヴィエスト大将は第1チェコスロヴァキア軍に対して部隊を解散し、ゲリラ戦に転ずるよう最後の命令を発しましたが、蜂起軍の残余はリプトフスカ・オサダ~コリニツァ~スタレ・ホイの12km四方の狭い地域に押し込められ、10月31日までに壊滅しました。
 11月8日にバンスカ・ビストリツァで行われたドイツ軍の祝勝パレードには、師団の第8補充および教育戦車猟兵大隊の突撃砲も参加しました。

3.野戦訓練戦車師団「タトラ」
 1945年1月に戦車師団「タトラ」は戦車師団番号第178部隊の訓練部隊を吸収して野戦訓練戦車師団「タトラ」(Panzer Feldausbildungs Division "Tatra")と改称され次のような編成となりました。


野戦訓練師団「タトラ」(1945年1月頃)
Panzer Feldausbildungs Division "Tatra"

師団司令部
第101機甲擲弾兵連隊:2個大隊(第85補充および教育擲弾兵連隊より)
第102機甲擲弾兵連隊:2個大隊(第82補充および教育擲弾兵連隊の一部より)
戦車大隊「タトラ」:3個中隊Ⅲ号戦車、Ⅳ号戦車、突撃砲装備(第4補充および教育戦車大隊より)
砲兵大隊「タトラ」:3個軽野砲中隊、1個迫撃砲小隊:
通信中隊「タトラ」:
戦車猟兵中隊「タトラ」:重Pak×10門(自走?)、重Pak×12門(牽引)
工兵中隊「タトラ」:4個工兵小隊、1個ロケット小隊
補給大隊「タトラ」:輸送段列、補給中隊、修理工場中隊、衛生中隊


 野戦訓練部隊となった師団は中部スロバキアのニトラ(Nitra)地区に駐屯して兵員の訓練と同時にスロバキアの占領任務にも従事したものと思われます。これより少し前の12月14日、ソ連軍第6親衛戦車軍はイペリ川沿いのサヒ(Šahy)地区でドイツ軍の前線を突破し、12月20日までに約北西約20kmのレビツェ(Leva /Levice)に到達すると、ソ連軍第22親衛親衛戦車旅団と第20親衛戦車旅団が街に突入して1520時にはこれを占領しました。  この事態に対してスロバキアにあった野戦訓練戦車師団「タトラ」にも緊急出動が下令され、師団の大隊がレビツェ(Leva /Levice)の西と北西にあるガラム川の渡河地点に送られてこれを確保することとなりましたが、この大隊の派遣は間に合いませんでした。ソ連軍先遣隊がNagykálna(現Kalnánad Hronom)に接近したため、ガラム川の道路橋は1630時に爆破されされましたが、それまでに3両のT34/85戦車が西岸に渡っていました。また平行してかかる鉄道橋はドイツ軍鉄道工兵に爆破命令が届かず無傷で残り、この橋を使ってソ連軍は増援部隊を送り込みました。この鉄道橋をめぐる戦闘は12月22日まで続き、0535時にドイツ軍突撃部隊がついに爆破に成功して西岸に取り残されたソ連軍を排除して勝利しましたが、ソ連軍は即席の筏やボートで増援を送りこみ、渡河をあきらめませんでした。
 1月から2月10日にかけて、師団では10個戦車師団と2個機甲擲弾兵師団からの回復兵、野戦補充部隊からの下士官、それに行軍部隊で送られてきた若い補充兵をかき集めて兵力約1,700名の戦闘団「タトラ」(Kampfgruppe Tatra)が編成され、第8軍の後方管理部隊である第558軍後方地域司令部(KoRück-558)とともにレビツェ(Leva/ Levice)西方地区に送られ、この戦線の穴埋めに緊急投入されました。
 戦線の隙間は2月17日から24日にかけて、戦車軍団FHH及びSS第1戦車軍団による反撃「南風(Südwind)作戦」が実施されてやっと塞がれ、戦闘団「タトラ」の残余はブラスチラバ(Bratislava/Preßburg)北西地区へと後退し、野戦訓練戦車師団「タトラ」に復帰することができました。

4.第232戦車師団
 3月1日、師団はウィーンの第17軍管区やブレスラウの第8軍管区などから各種予備兵力を加え、第232戦車師団と改編・改称され本格的な野戦部隊となりました。しかし、戦車師団としての装備、兵員は大幅に不足しており、3月25日に発令された「1945年型戦車師団の基本編成に関する命令」による編成基準に照らしても「戦車師団戦闘団」相当の戦力しかありませんでした。【補足-2】
 3月中旬、南方軍集団によるバラトン湖とVelence湖の南部でのドイツ軍最後の大攻勢「春の目覚め作戦」(Unternehmen Frühlingserwachen)が中止された後、3月22日までに第232戦車師団戦闘団はパーパ(Papa)西方の集結地へと移動し、バコニ森林地帯(Bakony-Wald)で第6SS戦車軍の予備部隊となりました。3月22日から23日にかけて、第232戦車師団戦闘団はジェール(Györ)西方地区を通過して、パーパ(Papa)北西約10kmのEisenburger/Marcal運河西方の集結地へと移動し、Marcaltö地区で軍集団の防衛部隊に編入されました。ドナウ河の両岸で実施されたソ連軍の大攻勢(ウィーン作戦)の初日に第232戦車師団戦闘団は突破された戦線中央部のチョルナ(Csorna)の南部で戦闘に巻き込まれました。戦闘団には行軍部隊による補充兵と補給物資の一部しか到着しなくなり、ハンガリー北西部のドイツ軍防衛線が崩壊したことはすでに明白でした。

 1945年3月25日から27日にかけて、Marcaltö(ジェールGyör南方、Raabへの運河の入り口であるSusannen-Stellung)の防衛戦では、ソ連軍第4親衛軍の戦車部隊はバコニ(Bakony)森林地帯を突破すると北西へと進撃しました。第232戦車師団戦闘団には空軍重高射砲連隊の8.8cm高射砲部隊も配属されて、戦闘団「バック」(Kampfgruppe Back)とも呼ばれましたが、Raab-RiegelからMarcaltö東方へ送られた第556軍後方地域司令部(KoRück-556)とともにEgyedで数日間にわたり敵の強力な攻撃を受けました。3月28日、第232師団戦車戦闘団は橋頭保での防衛をあきらめ西方へと退却を開始し、部隊は包囲されバラバラになりながらもCzirak-Györö北方地区へと突破し、その後Paly(Pali)近郊で再集結しました。しかし、戦闘団はシェプロン(Sopron=Ödenburg)南西地区でソ連軍先鋒部隊に再び捕捉され、その後3月末までは第1SS戦車軍団に配属されてDt. Kreuz近郊のCsabod-Röjökで防衛戦に投入されましたが、その後さらにノイジードル湖東側のロイパースベルク(Loipersberg)~ルスト(Rust)西方防衛線のシェプロン(Sopron)西方へと後退しました。

 第232戦車師団戦闘団の一部はブルック(Bruck)~ブラチスラバ(Bratislava)防衛線の一部であるアイゼンシュタット(Eisenstadt)北部のEsterhazaにあり、さらに第101擲弾兵連隊の一部は1945年4月1日の時点でブラチスラバの南方地区にありました。最後はウィーンの南方及び東方郊外で戦い、5月8日に増強機甲擲弾兵大隊規模の部隊がオーストリアのリンツ(Linz)近郊でアメリカ軍に降伏したほか、師団司令部と後方部隊はカルルスバート(Carlsbad)でアメリカ軍に降伏しました。


第232戦車師団戦闘団
Kampfgruppe 232.Panzer Division

師団司令部
第101機甲擲弾兵連隊:2個大隊(各4個擲弾兵中隊、1個重装備中隊)
重歩兵砲中隊:150cm重歩兵砲(牽引)×6門
第102機甲擲弾兵連隊:2個大隊(第101機甲擲弾兵連隊と同様)
戦車大隊「タトラ」:混成戦車中隊(III号戦車/IV号戦車)×2(第17軍管区より)
戦車猟兵中隊「タトラ」:重Pak×8門(自走?)、Ⅲ号突撃砲×10両
砲兵大隊「タトラ」:3個軽榴弾砲中隊
高射砲中隊「タトラ」:3個小隊 88mmFlak×4門
第80工兵大隊(自動車化):2個中隊(第17軍管区より)
機甲通信中隊(自動車化):
補給中隊(自動車化):輸送段列、補給隊、修理工場、衛生隊
管理中隊(自動車化):主計隊、屠殺隊、製パン隊


【補足-1】
戦車師団番号第178部隊
Panzer Division Nr.178

 師団の前身は補充軍の師団番号第178部隊(Division Nr.178)であり、1940年12月15日にリーグニッツで設立され、シュレージェンにおける機械化部隊の本部的組織として指揮、命令、訓練その他、新兵の補充・訓練を任務としました。この時期の師団は下記のような編成となっていました。

師団番号第178部隊
Division Nr.178

第15予備戦車大隊
第85自動車化予備狙撃兵連隊
第30自動車化予備歩兵大隊
第51自動車化予備歩兵大隊
第116自動車化予備砲兵大隊

 1942年4月20日、師団番号第178(自動車化)部隊(Division Nr.178(mot.))と改称され、1943年4月5日には戦車師団番号第178部隊(Panzer Division Nr.178)と再び改称・改編されました。

戦車師団番号第178部隊
Panzer Division Nr.178

第15予備訓練戦車大隊
第85機甲擲弾兵訓練連隊
  第13訓練大隊
  第110訓練大隊
第8(自動車化)擲弾兵訓練連隊
  第30訓練大隊
  第51訓練大隊
第55機甲偵察予備訓練大隊
第8戦車猟兵予備訓練大隊

 1944年9月、戦車師団「タトラ」新設の際には兵員補充の中核となり、その後12月末には野戦訓練戦車師団「タトラ」編成の際に配下の訓練部隊は吸収されて解散し、師団本部のみは1945年始めまで存続した模様です。また、野戦訓練戦車師団「タトラ」に吸収されなかった一部の部隊により戦闘団が編成され、1945年1月末にオーデル河戦線に投入された模様です。
【戻る】


【補足-2】
1945年型戦車師団戦闘団
 1944年秋以降になると戦車師団用の兵器・機材は大幅に不足する状況となり、戦車師団の編成定数も1945年3月にはこれに合わせて大幅にスケールダウンした「1945年型戦車師団」が制定されると同時に「一時的な措置」としてさらに戦力の劣る「1945年型戦車師団戦闘団」が制定されました。

1945年型戦車師団戦闘団
Kampfgrppe 45

師団司令部
混成戦車連隊
  戦車大隊:戦車中隊×4(パンター×2個中隊、Ⅳ号戦車×2中隊)
  装甲兵車大隊:装甲兵車中隊×3(Sd.kfz.251各10両装備)
機甲擲弾兵連隊
  第1機甲擲弾兵大隊:擲弾兵中隊×3、擲弾兵中隊(自動車化)×2
  第2機甲擲弾兵大隊:擲弾兵中隊×3、擲弾兵中隊(自動車化)×2
  工兵中隊(自動車化)
  重歩兵砲中隊(牽引式):150mm重歩兵砲×4門
機甲偵察大隊
  偵察中隊(自動車化)
  装甲車中隊
戦車猟兵大隊
  本部中隊(Ⅳ号駆逐戦車又はヘッツアー×2両)
  駆逐戦車中隊(Ⅳ号駆逐戦車又はヘッツアー×10両)×2
  装甲兵車中隊
機甲砲兵連隊
  第1砲兵大隊
    105mm自走砲中隊(ヴェスペ×6両)×2
    150mm自走砲中隊(フンメル×6両)×1
  第3砲兵大隊
    105mm榴弾砲中隊(105mm榴弾砲×6門)×2
    150mm榴弾砲中隊(150mm榴弾砲×6門)
陸軍高射砲大隊
  重高射砲中隊(88mmFlak×6門)×2
軽高射砲中隊(牽引式3.7mmFlak×9門)
対空自走砲小隊(自走4連装20mmFlak×3両)
機甲工兵大隊
  装甲兵車中隊
  工兵中隊(自動車化)×2
機甲通信中隊
野戦補充大隊:4個中隊
自動車化輸送大隊
  30t輸送段列×3
  120t輸送段列
修理工場大隊
  修理工場中隊×2
  車両補充中隊
管理中隊:主計隊、屠殺隊、製パン隊
野戦郵便局
獣医中隊
衛生大隊:衛生中隊(自動車化)×2
【戻る】


参考資料
ラスト・オブ・カンプフグルッペIV (大日本絵画 2015)
1945年のドイツ国防軍戦車部隊 (大日本絵画 2006)
ドイツ装甲部隊全史III (学習研究社 2000)
Panzerwaffe 1945 vol.2 (MILITARIA 2004)
Axis Slovakia Hitle’s Slavic Wedge 1938-1945 (Axis Europa Books 2002)
The German Order of Battle:Panzer and Artillery in World War II (Greenhill Books 1999)
Die Gepanzerten und Motorisierten Deutschen Grossverbande(Podzun 1986)
Verbände und Truppen der deutschen Wehrmacht und Waffen-SS 1939-1945 (Biblio 1980)


2016.3.13 新規作成
2021.12.30 追記

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/