泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

SS戦闘団「シル」/SS機甲擲弾兵連隊「シル」

 1945年1月、武装SSの最後の人的資源を搾り出すようにして、SS第32義勇擲弾兵師団「1月30日」が編成されました。その中でもSS第86義勇擲弾兵連隊「シル」の母体となったSS戦闘団「シル」(SS連隊「シル」)は、師団の中で唯一実戦経験のある部隊として師団戦力の中核となりました。それでは、このSS戦闘団「シル」はいったいどのような実戦を経験したのか、気になりませんか?

1.スロヴァキアの武装放棄
 連隊の前身はベーメン・メーレン保護領(チェコ)の反乱に備えた鎮圧計画(暗号名「シルSchill」)により、鎮圧部隊として計画された戦闘団「シル」(Kampfgruppe "Schill")にまでさかのぼります。その後の東部戦線の戦況悪化による状況の変化によって、この計画は近隣のスロヴァキアでの反乱にも備えるものに変更となりました。

 スロヴァキアでは1943年末に作られた非合法の「スロヴァキア国民会議」により武装蜂起のための軍事司令部がスロヴァキア軍内部に設立され、蜂起軍司令部をバンスカ・ビストリツァ(Banská Bystrica)に開設してその準備がすすめられました。
 蜂起の中心戦力はカルパチア山脈で戦っている東部スロヴァキア軍の第1、第2歩兵師団であり、戦車連隊を含む約30,000名の兵力のスロヴァキア軍部隊がソ連軍と連携してスロヴァキア国内への進撃路を開く予定でしたが、部隊指揮官への武装蜂起の根回しや準備は遅れていました。
 蜂起軍司令部の置かれた中部スロヴァキアでは軍管区参謀長のゴリアン中佐が総司令官となり、憲兵隊本部も蜂起軍側についていたため順位は順調に進み、35,000~40,000名程度の兵力を動員可能でした。
 首都のブラスチラヴァがある西部スロヴァキア地域の治安は最も安定しており、1944年8月末の時点でもパルチザングループが存在していませんでしたが、ブラスチラヴァ軍管区での要人拘束や放送局などの重要施設の確保が期待されていました。

 しかし蜂起計画は思わぬところから破綻しました。1944年春頃からソ連の支援により活動している共産パルチザンは東部戦線の戦況により活動を活発化させており、パルチザンの活動自体はスロヴァキア軍の蜂起計画とは無関係でしたが、鎮圧のためスロヴァキア国内にドイツ軍部隊が派遣されることとなったことから事態は急展開しました。
 8月28日(27日との資料もある)、バンスカ・ビストリツァ(Banská Bystrica)地方のTurčiansky Svätý Martin(独語Turz-Sankt Martin/現マルティンMartin)でパルチザン第1旅団の一部がルーマニアから引き揚げてきたドイツ軍事顧問団を襲撃し、高級将校24名を殺害する事件が発生しました。
 この事件を引き金として8月28日にドイツ大使ハンス・エラート・ルディンはベルリンに軍事介入を要請し、スロヴァキア政府もこれに同意しました。翌8月29日夕方には国防大臣のチャトロシュ将軍がラジオでドイツ軍による占領受け入れを発表しました。
 8月29日1500時、バンスカ・ビストリツァの蜂起軍司令部にはドイツ軍がスロヴァキア領に侵攻した最初の報告が入り、準備不足のままやむを得ずスロヴァキア軍の武装蜂起は決行されることとなりました。

2.SS戦闘団「シル」/SS機甲擲弾兵連隊「シル」
 これに対して8月29日には暗号「シル」が発動され、ボヘミア・モラビア保護領では計画どおりに鎮圧部隊として戦闘団「シル」が編成されました。戦闘団は「機甲擲弾兵連隊」に分類されましたが、実際には装甲兵員輸送車は数両しか装備しておらず、車輌の大部分はチェコ製のトラックと自動車を徴発して賄われ、その際にはなんとチェコ人の運転手までも一緒に徴用されました。


SS戦闘団「シル」
SS Kampfgruppe "Schill"
指揮官:ルドルフ・クローツSS少佐 第1大隊:ハンス・ケットゲンSS少尉
  第1中隊
  第2中隊
  第3中隊
  第4重装備中隊:7.5cm軽歩兵砲×2門、15cm重歩兵砲×1門
  機甲工兵小隊 第2大隊:ヴィルヘルム・チュートベルクSS大尉
  第5中隊
  第6中隊
  第7中隊
  第8重装備中隊:鹵獲10cm榴弾砲vz.14/19×4門
  第9戦車猟兵中隊:ヘッツァー×16両(20両との説もあり)
  第10軽榴弾砲中隊:10.5cm軽榴弾砲×4門?


 第1大隊はプラハ近郊ベネショフの「SS練兵場ベーメン」(SS-Truppenübungsplatz Böhmen)のSS機甲擲弾兵学校「キーンシュラーク」(SS-Panzergrenadierschule Kienschlag)の生徒、ブルノのSS第10補充及び訓練機甲擲弾兵大隊(SS-Panzergrenadier-Ausbildungs- und Ersatz-Bataillon 10)などから編成され、兵員数約1,000名で軽機関銃×54丁、重機関銃×24丁、81mm迫撃砲×12門を装備しました。
 第2大隊もSS機甲擲弾兵学校「キーンシュラーク」の生徒、SS機甲擲弾兵教育連隊(SS-Panzergrenadier-Ausbildungs-Regiment)第3大隊から編成され、兵員数約900名で重装備中隊はスロヴァキア軍から捕獲した歩兵砲を装備していました。
 このほかに第9戦車猟兵中隊はSS戦車猟兵学校「ヤノヴィッツ」(SS-Panzerjäger-Schule "Janowitz")からの部隊との説があり、第1大隊の機甲工兵小隊はSS第4工兵学校「フラディスコ」(SS-Pionier-Schule Hradischko)から編入されるなど、ベーメン・メーレン保護領各地の教育訓練部隊から兵員と兵器が集められた寄せ集め部隊でありながらも、なかなかバランスの取れた実戦的な編成となっていました。

 戦闘団は鉄道輸送により8月31日/9月1日の夜にブラチスラバ(Bratislava)に到着し、直ちにスロヴァキア軍駐屯地の武装解除を行いました。その後はトルナバ(Trnava)を経由して9月2日にニトラ(Nitra)に集結したスロヴァキア軍を戦闘なしに降伏させました。
 トルナバの駐屯部隊は歩兵連隊の予備大隊、第1労働大隊、VOP中隊で、蜂起部隊に参加してフリンカ親衛隊、スロヴァキア人民党、ドイツ党のメンバーを逮捕したものの周辺都市の駐屯部隊が蜂起軍に参加しなかったため、孤立することを避けて約2,000名の兵力で東方の蜂起軍の領域へと撤退しました。
 ニトラには当時二番目の規模でスロヴァキア軍が集結していましたが、ニトラのスロヴァキア軍指揮官は戦闘団のことを『SS師団の先遣隊』と勘違いし、最初から抵抗することを諦めました。
 翌9月3日には戦闘団の第1大隊と突撃砲中隊がニトラの北方約30kmにあるトポルチャニ(Topol’čany)地区へと前進し、トポルチャニの手前のルダニツェLudanice地区で最初の戦闘を経験しましたが、約30分間の銃撃戦後にトポルチャニは占領されました。トポルチャニの第1砲兵連隊の駐屯地では多数の武器・弾薬が鹵獲され、鹵獲した10cm榴弾砲は早速第8重装備中隊に配備されました。
 トポルチャニ東方のバトヴァニBaťovanoch(現パルティザンスケPartizánske)地区には蜂起軍が集結しており、防衛に向かない開けた地形にもかかわらず、第1チェコスロヴァキア軍の中隊規模の歩兵部隊、地元の義勇兵、パルチザン部隊が協力して防衛戦を展開し、戦闘団は9月4日~9月8日まで5日間にわたって足止めされましたが、蜂起軍は大きな損害を出して最終的には東方に後退しました。

3.蜂起軍の鎮圧
 SS戦闘団「シル」(SS Kampfgruppe "Schill")はその後蜂起軍の拠点であるバンスカ・ビストリツァ(Banská Bystrica)に向かって進撃し、10月25日にはゲットゲンSS少尉の第1大隊がズボレン(Zvolen)地区北方、バンスカ・ビストリツァ南郊12㎞ほどのトリ・デュビー(Tri Duby)飛行場(現スリアチュ空港)に突入して26日にはこれを奪取し、蜂起軍に大打撃を与えました。
 トリ・デュビー飛行場はソ連軍からの補給物資や援軍として空輸された「第2チェコスロヴァキア空挺旅団」の空輸拠点となっていたほか、スロヴァキア軍の「降下学校」が開設されておりスロヴァキア降下猟兵中隊の拠点にもなっていましたが、わずか1個中隊では如何ともしがたく、その後はゲリラ戦に移行し11月中旬に部隊は解散しました。

 戦闘団「シル」の第1大隊はそのままバンスカ・ビストリツァへの進撃を続け、ゲットゲンSS少尉はトーチカと地雷原で守られた拠点への夜間攻撃を決意し、10月27日深夜1時過ぎに装甲偵察部隊の援護の下で自ら兵を率いて突進し、明け方の0630時にはバンスカ・ビストリツァの市街地の外縁まで突入して一番乗りを果たしました。
 第1大隊は蜂起軍の激しい抵抗を排除して前進し、東方からはSS戦闘団「シェーファー」がSS第18戦車大隊第2及び第3中隊の突撃砲を先頭に突入して、4時間後には街をほぼ完全に制圧しました。数日後にはスロヴァキア軍の総司令官ヴィースト大将、参謀長ゴリアン大将をはじめ蜂起軍の大部分が投降して、スロヴァキア軍による反乱は終息しました。

 第1大隊を指揮したハンス・ゲットゲンSS少尉は、第1SS戦車師団と第5SS戦車師団で経験を積み、ベーメンのSS機甲擲弾兵学校「クラインシューラク」の教官を務めていましたが、SS戦闘団の編成時に第1大隊長を拝命しました。ハンス・ゲットゲンSS少尉は反乱鎮圧への貢献が高く評価され、1945年2月14日付けで騎士十字章が授与され、のちにSS大尉に昇進しました。
 スロヴァキア鎮圧作戦にはSS戦闘団「シル」の他に、SS戦闘団「ヴィルトナー」(兵力約1,500名)も投入されました。この戦闘団は7月に東部戦線で大損害を受け、ハンガリーで再編成中のSS第14武装擲弾兵師団「ガリツィア第1」から兵力を抽出し急遽編成されたものでしたが、その戦闘力はあまりに低く一時はSS戦闘団「シル」の下位部隊として運用されたものの結局は役に立たず、SS戦闘団「ヴィルトナー」は10月始めには解散されました。


SS戦闘団「ヴィルトナー」
Kampfgruppe "Wildner"
SS第29擲弾兵連隊の第3大隊(3個中隊)
SS第14砲兵連隊の軽砲兵中隊
SS第14戦車猟兵大隊の2個小隊
SS第14工兵大隊の2個小隊
SS第14通信中隊
補給大隊


 SS戦闘団「シル」はスロヴァキア各地を転戦して武装蜂起の鎮圧にあたり、最後まで鎮圧作戦の先頭に立ちつづけました。スロヴァキアの武装蜂起を鎮圧した後もSS戦闘団「シル」は解散することなく、その高い戦闘能力により東部戦線の貴重な即応戦力として温存されました。

4.オーデル戦線
 1945年1月、SS機甲擲弾兵連隊「シル」(SS戦闘団「シル」)は東部戦線に移動し、2月初旬には第9軍戦区のオーデル川戦線でSS第5山岳軍団/第391特別編成師団に臨沂配属されてフランクフルト=オーデル(Frankfurt an der Oder)地区南方のオーデル川とオーデル=シュプレー(Oder=Spree)運河合流地点のヴィーゼナウ(Wiesenau)村~フォーゲルザング(Vogelsang)村付近のソ連軍「楡屋敷」橋頭堡への攻撃に貢献しました。
 橋頭堡への攻撃は経験豊富なSS機甲擲弾兵連隊「シル」を中心に実施され、2月5日の攻撃でツィルテンドルフ(Ziltendorf)を奪回し、2月7日には第1大隊の第1中隊と戦車猟兵大隊「1月30日」の突撃砲による攻撃で見事フォーゲルザング村を奪還し、増援として第2大隊も到着しました。
 一方で2月10日には工兵大隊「1月30日」の一部、SS機甲擲弾兵連隊「シル」の偵察小隊及びSS中隊「Heyer」の1個小隊からなる戦闘団により実施されたフォーゲルザング村南方のオーデル=シュプレー運河沿いの発電所への攻撃はソ連軍の猛烈な砲火により80名の損害を出して撃退されました。その後2月15日にも工兵大隊「1月30日」によるソ連軍占領下のヴィーゼナウ村への攻撃が実施されましたが、これもソ連軍の重火器による反撃で粉砕されました。

 1945年2月中旬、SS機甲擲弾兵連隊「シル」は砲兵連隊「1月30日」の第1大隊及びSS中隊「Heyer」とともにフォーゲルザング~フュルステンベルク(Fürstenberg)地区のオーデル河屈曲部で約1kmの防衛線を担当しており、第2大隊が北のフォーゲルザング村付近に、第1大隊は南側フュルステンベルク村付近に配置され、第13中隊と第14中隊が予備部隊として二つの村の中間地点の堤防の背後に配置され、連隊本部は見晴らしの良い堤防上に設置されていました。
 連隊には駐屯地の警戒部隊、武装SSの新兵、国民突撃隊及び士官学校の士官候補生が補充兵として編入されましたが、そのほとんどは基礎訓練と小規模部隊による戦闘訓練しか受けておらず、兵士の訓練レベルもまちまちで一貫性に欠けており、こうした訓練不足はその後の戦闘に多大な影響をおよぼしました。
 2月中旬の時点でSS第32義勇擲弾兵師団「1月30日」はフランクフルト・アン・デア・オーデル~フュルステンベルク村間の約25kmの戦線に布陣しており、編成の完了した部隊から順次師団に配属されました。


SS第32義勇擲弾兵師団「1月30日」戦区(1945年2月中旬)
・ギュルデンドルフ(Güldendorf)~ロッソー(Lossow)~ブリースコー(Brieskow)地区
 :SS大隊「Hengstmann」、砲兵連隊「1月30日」の一部、戦闘団「Becker」(後に第88義勇擲弾兵連隊に改編)
・ヴィーゼナウ(Wiesenau)~アウリトフ(Aurith)~ツィルテンドルフ(Ziltendorf)地区
 :SS機甲擲弾兵連隊「クーアマルク」、工兵大隊「1月30日」、砲兵連隊「1月30日」第2大隊、第3大隊
・フォーゲルザング(Vogelsang)~フュルステンベルク(Fürstenberg)地区
 :SS機甲擲弾兵連隊「シル」、砲兵連隊「1月30日」第1大隊、SS中隊「Heyer」


SS第5山岳軍団(1945年2月19日現在)
・フランクフルト・アン・デア・オーデル要塞部隊
・戦闘団「レーゲナー」
・第391特別編成師団
・SS第32義勇擲弾兵師団「1月30日」


SS第32義勇擲弾兵師団「1月30日」
32. SS Freiwilligen Grenadier Division“30 Januar”
師団司令部
SS第86義勇擲弾兵連隊「シル」
  第1大隊:4個中隊
  第2大隊:4個中隊
  第13歩兵砲中隊
  第14戦車猟兵中隊
SS第87義勇擲弾兵連隊「クーアマルク」:2個大隊
SS第88義勇擲弾兵連隊:2個大隊
SS第32砲兵連隊:4個大隊
SS第32工兵大隊
SS第32戦車猟兵大隊
  第1中隊:7.5cm対戦車砲
  第2中隊:III号突撃砲
  第3中隊:III号突撃砲
  第4中隊:突撃榴弾砲?
SS第32高射砲大隊
SS第32通信大隊
SS第32軽歩兵大隊
SS第32野戦補充大隊
SS管理大隊
  製パン中隊
  と殺中隊
  野戦郵便局
SS獣医中隊
SS衛生中隊
SS補給連隊
第32野戦憲兵分遣隊


5.SS第86義勇擲弾兵連隊「シル」
 SS機甲擲弾兵連隊「シル」はSS第32義勇擲弾兵師団「1月30日」の新編成に伴い1945年2月25日付けでSS第86義勇擲弾兵連隊「シル」(SS-Freiwilligen-Grenadier-Regiment 86 "Schill")と改編・改称されまた。
 連隊はルドルフ・クロッツ(Rudolf Klotz)SS少佐が引き続き指揮を執り、師団で唯一実戦経験のある部隊として戦力の中核となりましたが、燃料不足のために連隊の自動車は馬匹牽引に変更され、橋頭堡をめぐる戦闘では大きな損害も出していました。
 SS機甲擲弾兵連隊「シル」の戦車猟兵中隊はベーメンのSS突撃砲学校「ブコヴァン」(SS-StrumgrschützBukovany-Schule Bukovany)の戦闘団「レスナー」(Kampfgruppe “Rëssner”」とともに新師団のSS第32戦車猟兵大隊へと改編・改称されました。
大隊には補充としてSS第16機甲擲弾兵師団RFSSの第16戦車猟兵大隊も編入され、1945年4月7日の時点でIII号突撃砲×22両と突撃榴弾砲×9両を装備していました。
 2月27日/28日夜に開始されたソ連軍の攻撃は連隊の戦区であるフォーゲルザング~フュルステンベルク地区に向けられ、この地域は28日午前中までに堤防とともにソ連軍に占領されました。
 3月2日0700時、フォーゲルザング村への反撃が開始され、1300時にはSS第86義勇擲弾兵連隊「シル」とSS第32戦車猟兵大隊第4中隊の突撃砲による二回目の攻撃が実施されましたが、約70名の戦死者を出して攻撃は失敗しました。3月7日には発電所への攻撃が実施されましたが、この攻撃もソ連軍の砲撃によって再び約70名の戦死者を出して撃退されました。
 SS第32義勇擲弾兵師団「1月30日」の攻撃失敗の原因は準備不足と指揮能力の欠如と指摘されましたが、3月17日の時点で師団の兵力は編成途中の第88義勇擲弾兵連隊と編入前のSS第32高射砲大隊を除き2,846名と報告されており、1945年型歩兵師団の標準編成から計算すると、傷病兵を含めても師団の兵力は約6,000名程度に過ぎなかったと推定されています。
 その後3月末には橋頭堡に対して2個士官候補生連隊による反撃作戦が、4月12日/13日には第600歩兵師団(ロシア)がヘッツァーと鹵獲T34戦車を先頭に歴史的な攻撃を行ないましたが、いずれの攻撃も失敗し、結局この橋頭堡は4月16日から開始されるベルリン攻勢でもソ連軍の主要な出撃陣地となりました。

 1945年4月上旬、SS第5山岳軍団の命令により軍団予備として強力な2個戦闘団の編成が命令され、SS第32戦車猟兵大隊から戦闘団「クラウス」と戦闘団「シュットレ」が編成されてフュアシュテンヴァルデ方面とピースコウ方面に派遣されました。また師団本隊も4月12日に第9軍予備としてSS第11戦車軍団戦区への移動命令を受け、4月14日にSS第88義勇擲弾兵連隊は第1237士官候補生連隊及び国民突撃隊と交代してブリースコー(Brieskow)地区の陣地から離脱を開始しました。【補足-1】

戦闘団「クラウス」
Kampfgruppe "Krauβ"
SS第32戦車猟兵大隊
  第2中隊:III号突撃砲
  第4中隊:突撃榴弾砲?
SS第32工兵大隊の1個中隊
要塞擲弾兵大隊(陸軍)
軽歩兵大隊(陸軍)


戦闘団「シュットレ」
Kampfgruppe "Schöttle"
SS第32戦車猟兵大隊
  第1中隊:対戦車砲
  第3中隊:III号突撃砲
SS第32工兵大隊の1個中隊
SS第86義勇擲弾兵連隊「シル」第14戦車猟兵中隊の1個小隊
SS第32軽歩兵大隊の1個中隊


6.ベルリン攻勢開始
 1945年4月16日からのソ連軍のベルリン攻勢はこのような師団にとっては最悪のタイミングに開始され、ギュルデンドルフ(Güldendorf)地区では第1237士官候補生連隊の戦線が突破され、ロッソ―(Lossow)地区では移動途中のSS第88義勇擲弾兵連隊が駆けつけて一旦は旧陣地まで押し戻しましたが、すぐにソ連軍の波に飲み込まれました。
 第1大隊はここで壊滅し第2大隊の残余のみがオーバーリンドウ(Oberlindow)地区まで脱出し、その後は4月18日にカイザーミュール(Kaisermühl)地区まで後退して4月21日まで持ちこたえました。
 一方ラウテンクランツ (Rautenkranz)地区ではSS第32工兵大隊、SS第32野戦補充大隊、SS第32戦車猟兵大隊の一部(対戦車砲?)により戦闘団「フレンケン」が編成され、4月18日1000時から突破した敵に対して反撃が実施されましたが、午後には撤退を余儀なくされました。


戦闘団「フレンケン」
Kampfgruppe "Frenken"
SS第32工兵大隊
SS第32野戦補充大隊
SS第32戦車猟兵大隊の一部:対戦車砲?


 マルケンドルフ(Markendorf)~ホーエンヴァルデ(Hohenwalde)地区ではSS連隊「ファルケ」(SS-Regiment “Falke”)の第3大隊が新防衛線を構築しており、マルケンドルフ地区ではソ連軍が87号線を横断しようとして特に激戦となった。
 マルケンドルフ地区ではパウル・クラウス(Paul Krauβ)SS大尉の戦闘団「クラウス」がSS第32戦車猟兵大隊第2中隊、第4中隊のIII号突撃砲と突撃榴弾砲により工兵中隊とともに奮戦しており、4月18日~19日の間はこの防衛線が攻防の焦点となりました。
 その後ソ連軍はマルケンドルフの町を包囲しSS連隊「ファルケ」第3大隊の第1中隊と第2中隊、SS総監部(FHA)の戦闘団「アイスベルク」(Kampfgruppe “Eisberg”(FHA))、LSSAH師団の第1補充及び訓練大隊の1個警戒部隊に対して猛砲撃を浴びせました。
 4月21日の夜、クラウスSS大尉はSS連隊「ファルケ」残余、フランクフルト要塞のSS連隊「F」、SS警戒中隊「Petersen SS中尉」、SS警戒中隊「Weber SS少尉」などの残存部隊をまとめて戦闘団「クラウス」とともに包囲陣から北西方向に突破してリヒテンベルク(Lichtenberg)地区で戦闘団「ロブマイヤー」(Kampfgruppe “Lobmeter”)の前線に、一部は戦闘団「SS伍長」(Kampfgruppe SS-Uscha)の前線にたどり着きました。【補足-2】

 SS第32義勇擲弾兵師団「1月30日」は4月19日の時点でリヒテンベルクLichtenberg~マルケンドルフMarkendorf~カイザーミュールKaisermühl~ラウテンクランツRautenkranz~リーセンRießen~ポーリッツPohlitz地区の防衛線へと後退しました。
 しかし、師団が移動予定であったSS第11戦車軍団戦区はソ連軍の突破により危機的な状況になっており、第9軍の命令により連隊規模の2個戦闘団を編成して急ぎ北方に派遣することとなりました。


戦闘団「シル」
Kanpfgruppe "Schill"
SS第86義勇擲弾兵連隊「シル」
連隊本部
  第2大隊
SS第87義勇擲弾兵連隊「クーアマルク」第2大隊


戦闘団「クーアマルク」
Kampfgruppe "Kurmark"
SS第87義勇擲弾兵連隊「クーアマルク」
連隊本部
  第1大隊
SS第86義勇擲弾兵連隊「シル」第1大隊


7.最後の戦闘
 戦闘団「シル」は4月20日/21日にフュルステンヴァルデ(Fürstenwalde)地区のシュプレー川沿いの防衛線に移動しましたが、戦闘団「クーアマルク」は交代する部隊が到着しないため出発は大幅に遅れました。
 4月22日の時点で戦闘団「シル」はノイ・ツィッタウNeu Zittau(現ゴセン=ノイ・ツィッタウGosen-Neu Zittau)地区で新たな防衛線を構築しつつあり、戦闘団「クラウス」もその約5km南方のヴェルンスドルフ(Wernsdorf)地区まで後退しながら第36義勇擲弾兵連隊第2大隊とともに頑強な抵抗を続けていましたが、ソ連軍がシュプレー川を渡河してダーメ川沿いのニーダーレーメ(Niederlehme)方面に向けて進撃したため、午後までにはツェルンスドルフ(Zernsdorf)を経由してさらにダーメ川西岸のケーニヒス・ヴスターハウゼン(Königs Wusterhausen)地区まで撤退しました。

 4月22日、ソ連軍の第1白ロシア戦線と第1ウクライナ戦線の部隊がミュクゲル湖(Müggelsee)地区で合流し、第9軍のSS第11戦車軍団、SS第5山岳軍団、第5軍団の部隊は所謂「ハルベ包囲陣」の中に包囲されました。
 4月24日、戦闘団「シル」はノイ・ツィッタウ地区の北方約5kmのエルクナー(Erkner)地区でベルリン方面への突破を試みましたが失敗に終わり、第87義勇擲弾兵連隊第2大隊はオーデル=シュプレー運河沿いの後退戦でちりぢりとなり、SS第86義勇擲弾兵連隊「シル」第2大隊もヴェルンスドルフ(Wernsdorf)地区で大損害を被り、戦闘団「シル」は壊滅しました。

 戦闘団「クーアマルク」は4月23日にチューリンゲンの国民突撃隊と交代してベースコー(Beeskow)方面への移動を開始しましたが、30分後には戦線が突破されて見方部隊の敗走の混乱に中に巻き込まれてしまいました。
 戦闘団は混乱の中でベースコー(Beeskow)地区へと後退し、シュプレー川の両岸で防衛戦を行った後、シュトルコー(Storkow)~フリーダースドルフ(Friedersdorf)~ヴェルンスドルフ(Wernsdorf)地区へと後退し、戦闘団残余はその後プリーロス(Prieros)地区へと南下しました。

 4月24日までにSS第86義勇擲弾兵連隊「シル」とSS第87義勇擲弾兵連隊「クーアマルク」は壊滅状態となり、SS第32義勇擲弾兵師団「1月30日」の残余は4月25日に数千人の落伍兵や避難民とともにグレーベンドルフ(Gräbendorf)地区に集結しました。
 SS第86義勇擲弾兵連隊「シル」の残余は4月27日に南東約5kmのヘルムスドルフ(Hermsdorf)地区に到着したものの同地はすでにソ連軍に占領されており、4月28日に第1大隊の残余がヘルムスドルフ~シュトレーガンツ(Streganz)地区で最後の力を振り絞って攻撃を行い、ヘルムスドルフを奪還しました。
 SS第32義勇擲弾兵師団「1月30日」の残余は4月29日にハルベ(Halbe)地区から西方への包囲突破戦の中で壊滅し、戦闘団「クラウス」とSS第32戦車猟兵大隊の一部のみが西方への突破に成功して5月1日早朝に第12軍の警戒線に収容されました。
 オーデル川戦線で師団に配属された約12,000名のうち約4,000名が捕虜となり約800名が行方不明になったと推定され、エルベ川に到達できたのはわずか148名の生き残りのみでした。


【補足-1】
SS第32戦車猟兵大隊とその戦闘団

 SS第32戦車猟兵大隊と大隊から編成された戦闘団「クラウス」及び戦闘団「シュットレ」に主要な装備はIII号突撃砲×2個中隊、10.5cm榴弾砲×1個中隊、対戦車砲×1個中隊なのですが、大隊編成の内容については資料本により差があります。戦闘団「クラウス」は本文では第1中隊と第3中隊ですが、突撃砲と105cm榴弾砲があったのは確かなのでSS第32戦車猟兵大隊の編成の違いにより戦闘団の編成も変化しています。
出典:【Das Regiment "Falke"】

SS第32戦車猟兵大隊
大隊本部
第1中隊:突撃砲×10両
第2中隊:突撃砲×10両
第3中隊:10.5cm自走榴弾砲ウェスペ×10両
第4中隊:7.5cm対戦車砲
第5中隊:補給中隊:修理工場小隊を含む
衛生小隊
随伴歩兵小隊:将校1名、兵30名


戦闘団「クラウス」
SS第32戦車猟兵大隊
  第2中隊
  第3中隊
軽歩兵中隊(陸軍)
歩兵中隊又は大隊(陸軍):フランクフルト/オーデル要塞部隊から派遣された
工兵小隊(武装SS):将校1名、兵30名
砲兵観測員1名:フランクフルト/オーデル要塞部隊から派遣された
【戻る】


【補足-2】
SS連隊「ファルケ」/SS機甲擲弾兵連隊「ファルケ」
SS-Regiment "Falke"
SS- Panzergrenadier -Regiment "Falke"
 1945年1月に補充訓練部隊からバート・ザーロー(Bad Saarow)地区の空軍兵舎でSS特別編成連隊「フックスバウ」(SS-Regiment z.b.V. “Fuchsbau”)として編成され、その後SS連隊「ファルケ」/SS機甲擲弾兵連隊「ファルケ」へと改名された。
 連隊はSS第5山岳軍団の予備部隊となり、第1大隊はリヒテンベルク(Lichtenberg)地区左翼でフランクフルト(オーデル)~ミュルローゼ間の87号線とベルリン~フランクフルト(オーデル)間のアウトバーンの防衛を、第3大隊はマルヒョウMalchow近郊のミュールローゼMüllroseの森でヴォータン陣地(Wotan Stellung)の構築を行い、周辺住民を動員して対戦車壕や地雷原の構築を担当しましたが、第2大隊のみは第3戦車軍戦区のオーダーベルク(Oderberg)地区に派遣されました。
SS機甲擲弾兵連隊「ファルケ」
SS Panzergrenadier Regiment "Falke"
指揮官:Erich Rosenbusch SS中佐
第1大隊:第16訓練及び補充機甲擲弾兵大隊(Panzergrenadier-Ausbildungs- und Ersatz-Bataillon 16)より
第2大隊:第3訓練及び補充機甲擲弾兵大隊(Panzergrenadier-Ausbildungs- und Ersatz-Bataillon 3)より
第3大隊:第1訓練及び補充機甲擲弾兵大隊(Panzergrenadier-Ausbildungs- und Ersatz-Bataillon 1)より
オートバイ小隊
工兵中隊
補給中隊


戦闘団「ロブマイヤー」
Kampfgruppe "Lobmeter"
 第561特別編成駆逐戦車大隊指揮官のロブマイヤー(Lobmeyer)SS少尉の戦闘団で、第561特別編成駆逐戦車大隊とSS機甲擲弾兵連隊「ファルケ」第1大隊により1945年4月18日に編成されました。


第561特別編成駆逐戦車大隊
Jagdpanzer-Abteilung(s) 561 z.b.V.
指揮官:ロブマイヤー(Lobmeyer)SS少尉
大隊本部
通信小隊
高射砲小隊:自走4連装2cm軽高射砲×2基、自走連装(?)2cm軽高射砲×2基
工兵小隊
第1駆逐戦車中隊:ヘッツアー
第2駆逐戦車中隊:ヘッツアー
第3駆逐戦車中隊:ヘッツアー
2個突撃小隊
修理班
補給中隊


戦闘団「アイスベルク」(FHA)
Kampfgruppe "Eisberg" (FHA)
 武装SSと一般SSの運営事務所である「SS総監部」SS Führungshauptamt(FHA)の要員から編成された戦闘団と思われますが詳細はわかりません。いずれにしても事務職を招集して武器も訓練も貧弱な状態で戦闘に投入されたのは明らかで、まさに末期的な戦闘団には違いないと思われます。
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参考資料
ラスト・オブ・カンプフグルッペ IV (大日本絵画2015.8)
Das Regiment “Falke” (Nation & Wissen 2016)
The Oder Front 1945 Volime 2(Helion 2014)
The 32nd SS-Freiwilligen-Grenadie-Division "30. Januar" (Schffer 2008)
欧州火薬庫潜入リポート(アリアドネ企画)
アーマーモデリング 2002年6月号SS最貧師団列伝 第28話(大日本絵画 2002.6)
第2次大戦欧州戦史シリーズ-18 武装SS全史-Ⅱ(学習研究社 2002.1)
コマンド・マガジンNo.26 ドイツ軍戦闘団の誕生と進化(国際通信社 1999.4)
月刊モデルグラフィックス 1998年3月号ラスト・オブ・カンプフグルッペ 第25話(大日本絵画 1998.3)


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