泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

フリーデンタールもしくはSS第502猟兵大隊以前

 アーマーモデリング2015年6月号連載のラスト・オブ・カンプフグルッペ第34回は「SS駆逐戦隊群」でした。初回の内容は「フリーデンタール特別戦隊」から「SS第502猟兵大隊」の創設までです。(ラスト・オブ・カンプフグルッペV「SS駆逐戦隊群」に掲載)
 でもなんで「第502」なの?・・・と疑問に思った方はいませんか?
 答えは「第500と第501がすでにあったから」なのですが、それならこの2つの部隊はどんな部隊だったのか、気になりますよね、ね、ね(笑


1.SS野戦募兵所「ボブルイスク」

 SS野戦募兵所「ボブルイスク」は1942年2月15日に警察及び武装SSの義勇兵募集・訓練部隊としてボブルイスク に設立され、練兵場は旧ソ連軍の兵舎を利用しており「森林キャンプ」とも呼ばれました。
 1943年5月の時点では警察部隊の訓練を予定しましたが7月からは武装SSに移管され、ブレスラウからSS擲弾兵訓練・補充大隊「オスト」の新兵898名とドイツ本国とルーマニア出身の志願兵が到着し、7月31日時点で士官11名、下士官102名、兵2,007名となりました。7月に到着したルーマニア出身のドイツ人志願兵は17才~40才(平均年齢28才)で多くはルーマニア軍での従軍経験があり一部は実戦経験もありましたが、ほとんどが農場労働者でドイツ語ではなく地元のルーマニア語方言を話しており、読み書きができない者、衛生観念や健康状態に問題がある者もおり、訓練にも支障があるためまずはそこから取り組まねばなりませんでした。

 訓練部隊は4個大隊が設立され、第1補充訓練大隊は第1中隊~第4中隊、第2補充訓練大隊は第5中隊~第8中隊、第3補充訓練大隊は第9中隊~第12中隊により編成され、同時に第4補充訓練大隊も編成されましたがこの中隊は情報がありません。各大隊は訓練が進むとともに戦線後方での保安任務にも従事しており、パルチザン掃討作戦で実戦経験を積んだ第1~第3補充訓練大隊は1943年9月15日付けでSS第1〜第3猟兵大隊へと改称されました。
 とはいっても中隊ごとに訓練の進捗度には差があり、8月末の時点で訓練をほぼ終了した中隊がある一方で、武器の不足により訓練不足の中隊は補給部隊の警備任務に充てられ、農作物収穫作業の警備には3週間の訓練を終えた年配の兵が送られました。また戦闘任務には不適と選別された兵は労働部隊に集められ、練兵場での建設作業などに従事しました。
 SS野戦募兵所「ボブルイスク」の司令部には訓練部隊の他に直轄部隊として次のような管理・運営部隊も配備されていました。
・ラトビア警察中隊:士官1名、下士官7名、兵134名
・労働監督部隊(管理要員と分遣隊):士官1名、下士官4名、兵52名
・捕虜収容所(収容所管理要員):士官2名、下士官2名、兵1名
その他にも協力者の軍属や民間人も配属されたようです。

 1943年9月15日、SS野戦募兵所「ボブルイスク」はRudolf Pannier SS大佐が司令官を務める武装SS及び警察補充司令部「中央ロシア」の管轄下となり、9月17日にベラルーシ西部のBrreza-Kartuska(現ベリョザ)地区に新設された「SS練兵場Moorager」と一体運用されることとなり、以後は訓練の中心は「SS練兵場Moorager」へと移行されてゆきました。


2.補充訓練大隊

 第1補充訓練大隊は第1中隊~第4中隊の4個中隊により構成されており、1942年6月30日から開始された「Maikäfen作戦」に第2補充訓練大隊とともに参加して始めての実戦を経験しました。この作戦は第221保安師団によりボブルイスク~モギレフ街道の北側で展開されたパルチザン掃討作戦であり、大隊は作戦の一部に参加しました。
 続いて7月20日からは第286保安師団によるパルチザン掃討作戦、「Adler作戦」に再び第2補充訓練大隊とともに参加しました。SS野戦募兵所「ボブルイスク」の各大隊は1942年中には「Panther作戦」、「Falke作戦」及び「Owl作戦」の諸作戦に参加しており、8月~9月30日の「Greif作戦」では第286保安師団の指揮下に第2及び第3補充訓練大隊とともに配属されて作戦に参加し、その後も1943年の前半まで引き続き保安師団に配属されてパルチザン掃討作戦に従事しました。
 パルチザン掃討作戦で実戦経験を積んだ大隊は1943年4月15日付けで「SS第1猟兵大隊」と改称されるとともに、それまでの第1中隊~第4中隊に代わり第2及び第3補充訓練大隊から第8中隊~第12中隊の5個中隊が編入されました。

 第2補充訓練大隊は第5中隊~第8中隊の4個中隊により編成されており、1942年6月30日から開始されたパルチザン掃討作戦、「Maikäfen作戦」に第1補充訓練大隊とともに作戦の一部に参加して始めての実戦を経験し、続いて7月20日~8月7日の「Adler作戦」にも第1補充訓練大隊とともに参加しました。
 1942年中には「Panther作戦」、「Falke作戦」及び「Owl作戦」の諸作戦に参加し、8月17日~8月29日の「Greif作戦」では第286保安師団の指揮下に第1び第3補充訓練大隊とともに配属されて作戦に参加し、1943年になると1月28日から開始された「Schneehase作戦」に参加しました。
 パルチザン掃討作戦で実戦経験を積んだ大隊は1943年4月15日付けで「SS第2猟兵大隊」と改称されるとともに、それまでの第5中隊~第8中隊に代わり第1補充訓練大隊の第1~第4中隊が編入されました。
 「SS第2猟兵大隊」はその後7月はじめには第36歩兵師団に配属されてボブルイスク南方約45kmのベレジナ川沿いのパリチ(Parichi)橋頭堡での防衛戦に投入され、翌8月には第203保安師団に配属されてスルツク周辺での防衛戦に9月まで参加した後、休養と部隊刷新のため後退しました。この時期のSS第2猟兵大隊は大隊長の名前からSS戦闘団「ベイハック」(SS Kampfgruppe Beilhack)とも呼ばれていました。

 第3補充訓練大隊は第9中隊~第12中隊の4個中隊により編成され、1942年8月17日~8月29日の「Greif作戦」では第1及び第2補充訓練大隊とともに参加しました。
 パルチザン掃討作戦で実戦経験を積んだ大隊は1943年4月15日付けで「SS第3猟兵大隊」と改称されるとともに、それまでの第9中隊~第12隊に代わり第2補充訓練大隊から第5~第7中隊が編入され、第4補充訓練大隊からも補充要員が編入されました。
 1944年6月に「SS第501猟兵大隊」が戦闘により大損害を被って1944年6月14日付けで解隊された際には、大隊を元に「SS第501猟兵大隊」が再建され、元のSS第501猟兵大隊の兵員は第4中隊として新大隊に編入されました。

 第4補充訓練大隊の編成内容は不明ですが「第3補充訓練大隊」が1943年4月15日付けで「SS第3猟兵大隊」と改称された際には第4補充訓練大隊から補充要員が編入され、同日付けで武装SS労働大隊「中央ロシア」(Arbeits Abteilung der Waffen SS Russland Mitte)に改編・改称され、1945年2月10日に解隊されました。


3.主なパルチザン掃討作戦

Maikäfen作戦
 1942年6月30日~、第221保安師団によるボブルイスク~モギレフ街道の北側でのパルチザン掃討作戦
作戦参加兵力:
第221保安師団
SS野戦募兵所「ボブルイスク」の第1及び第2補充訓練大隊

Adler作戦
 1942年7月20日~8月7日、モギリョフ(Mogilev)~ベレジノ(Beresino)~バブルイスク(Bobruisk)の三角地帯を結ぶ街道を確保するためのパルチザン掃討作戦。この作戦でのドイツ側の損害は戦死25名、負傷64名、行方不明2名で、パルチザン側は1,381名が死亡し428名が拘束され、迫撃砲×13門、高射砲×5門、対戦車砲×9門が破壊されました。
作戦参加兵力:
【戦闘団「ブッシュマン」】Kampfgruppe Buchmann
第2警察連隊の第1大隊及び第2大隊
SDの数個分遣隊(中隊規模)

第14警察連隊
第286保安師団
特別部隊「ディルレヴァンガー」
戦闘団「Kopf」(第203保安師団の一部)
戦闘団「von Gelden」(第286保安師団の一部)
SS野戦補充部隊「バブルイスク」の第1及び第2補充訓練大隊

Panther作戦
 1942年のパルチザン掃討作戦。詳細は不明。

Falke作戦
 1942年のパルチザン掃討作戦。詳細は不明。

Owl作戦
 1942年のパルチザン掃討作戦。詳細は不明。

Greif作戦
 1942年8月17日~8月29日、ベラルーシのオルシャ(Orsha)~ビテブスク(Vitebsk)地区の街道を確保するためのパルチザン掃討作戦。特別戦隊「グラウコップ」は8月17日にパルチザン部隊を攻撃した際に住民を「人間の盾」として利用しました。
 この作戦ではパルチザン部隊指揮官のBlochinを殺害したほか、幹部を捕虜としてパルチザン部隊に大きな損害を与え、パルチザン796名を殺害、599名を捕虜とし、小銃5丁、対戦車砲7門、対空砲3門、稼働戦車2両、機関銃17丁、迫撃砲6門を鹵獲し、ドイツ側の死者は26名でした。
作戦参加兵力:
第13SS警察連隊
第14SS警察連隊
特別戦隊「グラウコップ」
https://togetter.com/li/1828311 第286保安師団
SS野戦募兵所「ボブルイスク」の第1~第3補充訓練大隊
第59軍団の2個歩兵大隊

Schneehase作戦
 1943年1月28日~2月15日、ベラルーシのポラツク地区でのパルチザン掃討作戦。この地域は北方軍集団への補給路の中でも漸弱な地域であり、常にパルチザン部隊の攻撃目標となっていました。ドイツ軍はパルチザン部隊をポロツク~イドリツァ鉄道沿いの地域から追い出し、ラトビア国境付近のオスヴェイスコエ湖方面に追い込んで壊滅させる計画でしたが、パルチザン部隊はポラツク北側のドレトウニの駅付近とヤズノ湖の南側から2個打撃群で2月11日から反撃を開始して対抗し、2月15日までの戦闘でロッソノ(Rosony)地区からドイツ軍を撃退しました。
 パルチザン側の推計ではロッソノ地区では260戸の家屋が焼かれ、住民1,245名が殺害されましたが、別の資料ではパルチザン側の死者2,283名となっており、約1,000名前後がパルチザン部隊の損害ではないかと考えられます。ドイツ側の損害は死者37名で銃器54挺を鹵獲しました。
作戦参加兵力:
第201保安師団
SS第1(自動車化)歩兵旅団SS第8(自動車化)歩兵連隊
第281保安師団の一部
第391野戦訓練師団の一部
セーベジ(Sebezha)、イドリツァ(Idritsa)、ピルトシカ(Pustoshka)、Novohoranskの守備隊
第61保安連隊
第61装甲列車
SS野戦募兵所「ボブルイスク」第2補充訓練大隊
航空部隊


4.SS第500猟兵大隊
SS Jager Bataillon 500

 大隊の前身は1942年2月15日に設立されたSS野戦募兵所「ボブルイスク」の第2補充訓練大隊であり、武装SSの新兵募集と訓練を行うとともに、戦線後方での保安任務にも従事していました。
 実戦経験を積んだ大隊は1943年4月15日付けで「SS第2猟兵大隊」と改称されるとともに、それまでの第5中隊~第8中隊に代わり第1中隊~第4中隊が配属されました。また1943年秋に武装SSによる独自の降下猟兵部隊である「SS第500降下猟兵大隊」が設立され際には、大隊から多くの志願兵が降下猟兵に転属しました。
 SS野戦募兵所「ボブルイスク」は1943年9月15日付けで武装SS及び警察補充司令部「中央ロシア」の管轄下となり、9月17日にベラルーシ西部のBrreza-Kartuska(現ベリョザ)に「SS練兵場Moorager」新設されると「SS第2猟兵大隊」は「SS第1猟兵大隊」とともに再訓練のためにMooragerに送られ、10月~11月の間はブレスラウのSS擲弾兵訓練・補充大隊「オスト」とともに統合運輸され、パルチザン掃討作戦に投入され「SS第33猟兵連隊」又は「SS猟兵連隊Pannier」とも呼ばれました。

 1944年4月15日、大隊は「SS第500猟兵大隊」へと改称され、春から夏にかけてはベラルーシにおいて中央軍集団/第9軍後方地域での保安任務やパルチザン掃討作戦に従事しました。6月14日付けで「SS第501猟兵大隊」(旧SS第1猟兵大隊)が解隊した際には、その兵員の一部が第5中隊として大隊に編入されました。
 1944年6月22日から開始されてソ連軍の大攻勢「バグラチオ作戦」は中央軍集団の戦線を崩壊させ、大隊も西方へと後退しました。1944年6月30日現在の大隊兵力は将校14名、下士官120名、兵1,137名の合計1,271名と報告されています。
 7月~8月にかけて大隊は再建されたSS第501猟兵大隊とともに戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属されて中央軍集団戦区で後退戦の穴埋めに投入され続けており、その後8月~9月にかけてワルシャワ武装蜂起の際には鎮圧部隊としてワルシャワに投入され、悪名高いSS連隊「ディルレヴァンガー」に配属されました。
 1944年10月、大隊は前線より引き上げられ、西プロイセンのブルス(Bruss)へと後退して同地で解隊され、残余の兵員はSS第35装甲擲弾兵補充訓練大隊に編入されました。


5.SS第501猟兵大隊
SS Jager Bataillon 501

 大隊の前身は1942年2月15日に設立されたSS野戦募兵所「ボブルイスク」の第1補充訓練大隊であり、訓練とともに戦線後方での保安任務にも従事していました。
 パルチザン掃討作戦で実戦経験を積んだ大隊は1943年4月15日付けで「SS第1猟兵大隊」と改称されるとともに、それまでの第1中隊~第4中隊に代わり第2大隊と第3大隊から第8中隊~第12中隊の5個中隊が配属されました。

 SS野戦募兵所「ボブルイスク」は1943年9月15日付けで武装SS及び警察補充司令部「中央ロシア」の管轄下となり、9月17日にベラルーシ西部のBrreza-Kartuska(現ベリョザ)に「SS練兵場Moorager」新設されると「SS第1猟兵大隊」は「SS第2猟兵大隊」とともに再訓練のためにMooragerに送られ、10月~11月の間はブレスラウのSS擲弾兵訓練・補充大隊「オスト」とともに統合運輸され、パルチザン掃討作戦に投入され「SS第33猟兵連隊」又は「SS猟兵連隊Pannier」とも呼ばれました。

 1944年2月8日、大隊は「SS第501猟兵大隊」と改称しましたが、6月までの戦闘により大損害を被ったようで、6月14日付けで正式に解隊されました。SS第501猟兵大隊はその後「SS第3猟兵大隊」から再建されることとなり、SS第3猟兵大隊の第5中隊~第7中隊が第1中隊~第3中隊に改称されるとともに、旧SS第501猟兵大隊の兵員が第4中隊として編入されてました。
 1944年6月30日現在、SS第501猟兵大隊は前線での防衛戦に投入されており、大隊兵力は将校9名、下士官113名、兵820名の合計942名と報告されています。夏の間は第3戦車軍戦区での防衛戦に投入され、7月~8月にかけて大隊は「SS第500猟兵大隊」とともに戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属されて中央軍集団戦区で後退戦の穴埋めに投入され続けました。
 その後8月~9月にかけてワルシャワ武装蜂起の際には鎮圧部隊としてワルシャワに投入され、悪名高いSS連隊「ディルレヴァンガー」に配属されました。
 1944年10月、大隊は前線より引き上げられ、西プロイセンのブルス(Bruss)へと後退して同地で解隊され、残余の兵員はSS第35装甲擲弾兵補充訓練大隊に編入されました。


参考資料(2024.2.10)
ラスト・オブ・カンプフグルッペV「SS駆逐戦隊群」(大日本絵画2017)
Forgotten Legions(Paladin Press 1991)


2015.5.13 新規作成
2016.10.15 部隊表記を修正
2024.2.10 全面改訂版

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/