泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

SS第500/第600降下猟兵大隊
SS Fallschirmjager Abteilung 500/600

 1939年に陸軍の降下大隊が空軍に移管されて以来、空挺部隊は長く空軍の専売特許となっていました。しかし、ゲーリングの大言にもかかわらず包囲下のスターリングラードへの補給が失配し、1943年2月に第6軍が降伏するとゲーリングは大いに面目を失ってしまいました。一方、ライバルのヒムラーにとっては武装SSが空軍の領域に侵食するチャンス到来となり、特殊作戦用という名目でSS降下猟兵部隊が編成されることになりました。

1.創設
 1943年秋、こうしてSS降下猟兵大隊の編成が開始され、兵員の半数はSS第500猟兵大隊からの志願兵、残りは強制収容所の警備部隊と一部は懲罰部隊からの兵も加わえて編成されました。大隊はチェコスロバキアのチルムで編成が開始され、大隊長にはヘルベルト・ジルホーファーSS少佐が着任しました。1943年10月からはユーゴスラビアのサラエボ近郊の空軍第3降下訓練学校で降下訓練も開始され、その後12月には空軍第3降下訓練学校の移動とともにハンガリーのパパに移動して訓練が続けられました。

 1944年1月から2月にかけて、訓練の終了した大隊(兵力約1,000名)はユーゴスラヴィアに送られ、セルビア、ボスニア、モンテネグロ、マケドニアなどを転戦してパルチザン掃討作戦に従事しました。大隊はその後4月中旬にはサラエボに呼び戻され、大隊長もクルト・リブカSS少佐に交代しましたが、これは次の作戦であるチトーパルチザン司令部攻撃作戦のための準備でもありました。


SS第500降下猟兵大隊の編成(1944年5月現在)

大隊本部/本部中隊:267名
  伝令分隊
  通信小隊
  オートバイ分隊
  修理工場小隊
  落下傘管理小隊
第1降下猟兵中隊:3個小隊
第2降下猟兵中隊:3個小隊
第3降下猟兵中隊:3個小隊
  3個中隊合計:492名
第4降下猟兵重装備中隊:200名
  機関銃小隊
  迫撃砲小隊
  火炎放射器小隊
  対戦車砲小隊
補給中隊:91名
野戦補充中隊:181名
  大隊兵力合計:1,140名


2.ナイトの跳躍作戦
 1944年になるとチトーをリーダーとするユーゴスラヴィアの共産パルチザンの活動はますます活発になっており、十分な兵力が投入できないドイツ側保安部隊は常に守勢に立たされていました。そのため、ボスニアのドルヴァル(Drvar)にあるチトーパルチザン司令部を直接攻撃し、チトー本人を抹殺して戦局の逆転を狙うという大胆な作戦、「ロッセルスブルンク(Rösselsprung=ナイトの跳躍)作戦」が立案されました。
 作戦ではSS第500降下猟兵大隊の一隊がチトー司令部のある洞窟近くに降下し、チトー本人と同行しているソ連、アメリカ、イギリスの軍事顧問を抹殺し、地上からは第373クロアチア歩兵師団とSS第7義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」を中心とした部隊が攻撃を開始して、作戦第1日目には第373(クロアチア)歩兵師団がSS降下猟兵と合流することになっていました。
 この作戦に必要な輸送機とグライダーは各戦線から集められましたが、最終的に大隊を一度に輸送するための十分な機数を集めることができず、チトー司令部攻撃班(370名)のみがグライダーに乗り、他の班は2波(第1波:280名、第2波:200名)に分かれてパラシュート降下することになりました。


ドイツ軍側地上部隊の編制

第373(クロアチア)歩兵師団
  第383歩兵連隊
  第384歩兵連隊
  第373戦車猟兵大隊
  第373偵察大隊
SS第7義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」
ブランデンブルク連隊
  第2大隊
  第3大隊
第92(自動車化)擲弾兵連隊
第1山岳猟兵師団
ウスタシ部隊(200名~300名)
チェトニク部隊(約500名)


 1944年5月25日の朝7時、ドイツ軍機とクロアチア軍機による爆撃の後、SS第500降下猟兵大隊の第一波の降下猟兵280名が「赤」:85名、「緑」:95名、「青」:100名の3班に分かれてドルヴァルの町とその周辺に降下し、リブカSS少佐はそのうちの赤グループを直率して降下しました。それに続いてグライターに分乗した370名がチトー司令部のある洞窟付近に突入しました。しかし、ドイツ側の動きはパルチザン側も探知しており、チトーは350名の護衛の他、司令部周辺には6,000名の部隊を配置して警戒を強めていました。
 洞窟付近でのパルチザン部隊の抵抗は激しく、グライターで突入したグループは大きな損害を出して攻撃は行き詰まり、リブカSS少佐も赤グループを率いてドルヴァルの町から駆けつけましたが、もはや奇襲効果は薄れており降下猟兵は損害を出しながら一歩づつ前進するしかありませんでした。8時ごろには洞窟一帯は降下猟兵によりほぼ制圧されたものの、そのころチトーはすでに洞窟から脱出しており、チトーの護衛部隊に付近のパルチザン士官候補生学校の生徒も加わり激しい反撃が開始されていました。

 正午ごろオベルマイャー隊の200名が増援として降下したものの、チトーの指令により駆けつけたパルチザン第1師団の第6旅団によりドルヴァルの一帯は包囲されつつあり、状況は好転しませんでした。午後になると、パルチザン部隊の攻撃はますます激しくなり、重火器による砲撃も加わるようになると、軽装備の降下猟兵はますます苦境に立たされました。このため状況不利と見たリブカ大隊長は午後遅くに洞窟からの撤退を決断し、大隊の生き残りはドルヴァルの町外れの小高い丘にある墓地に集結して、パルチザン部隊の包囲攻撃に耐えるしかありませんでした。
 5月26日の夜が明けるころ、ついにSS第7義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」の救援部隊が到着し大隊は救出され、その後師団主力も到着したためパルチザン部隊は後退しました。この作戦ではSS第500降下猟兵大隊は作戦の目的であるチトー本人の抹殺に失敗したばかりか戦闘で大きな損害を被り、以後大隊の兵力が再び完全に充足されることはありませんでした。

3.東部戦線
 1944年6月11日、大隊はリュブリャアナで休養と再編成に入り、大隊の「野戦補充中隊」は再訓練実施のためパパ(ハンガリー)の空軍第3降下訓練学校へと送り出されました。戦闘後の大隊の兵力は約200名まで減少しており、その後回復した軽傷者が順次大隊に復帰しましたが、兵力の回復は進みませんでした。
 6月26日より大隊長はジークフリート・ミリウスSS大尉に交代し、6月29日には大隊は新たな作戦のために東プロイセンのゴッテンハーフェンへと鉄道輸送されましたが、6月30日の時点でも大隊の兵力は292名(将校:15名、下士官:81名、兵:196名)に過ぎませんでした。

 6月9日からフィンランドのカレリア地峡ではソ連軍の大攻勢が開始されており、6月20日からはラドガ湖の北の戦線でも大攻勢が始まり、フィンランドの情勢は予断を許さない状況となっていました。このため、予想されるフィンランドの単独講和への対抗策としてバルト海のオーランド諸島を占領してボスニア海への航路を確保する作戦が立案されました。しかし6月22日には東部戦線の中央軍集団戦区でソ連軍のバグラチオ作戦が開始されており、東部戦線に崩壊の危機が迫っていました。
 このため作戦は中止され大隊はエストニアのラクヴェーレ(ヴェッセンブルク)へと鉄道輸送され、7月7日にはナルヴァ戦線の「第3SS戦車軍団」に配属されましたが、7月10日にはラクヴェーレからリトアニアのカウナスに緊急空輸され直ちに防衛戦に投入されました。
 カウナス地区では「第3戦車軍」が防衛戦を展開しており、SS第500降下猟兵大隊は到着後直ちに第26軍団に配属されました。この時ドイツ軍防衛線のはるか西方ではビリニュス(ウィルナ)で守備隊が包囲されており、7月11日には救援作戦のために第26軍団の兵力を中心として攻撃集団「カウナス」が編成されおり、SS第500降下猟兵大隊も直ちに攻撃集団に編入されました。


ビリニュス要塞守備隊(1944年7月7日現在)Stahel少将

第399擲弾兵連隊
第1067擲弾兵連隊
第16SS警察連隊
第16降下猟兵連隊の一部
第240砲兵連隊の第2大隊
第256戦車猟兵大隊
第296高射砲大隊
※ビリニュス要塞守備隊は兵力約5,000名であり、1944年7月9日に包囲された。


攻撃集団「カウナス」
Angriffsgruppe”Kauen”

第26軍団司令部
第6戦車師団戦闘団
第69歩兵師団
第93歩兵師団
第16降下猟兵連隊
SS第500降下猟兵大隊


 1944年7月13日、攻撃集団「カウナス」による救援作戦が開始され、同時にビリニュスからは守備隊が突破を図りランドワロウ(Landwaeow)経由ヴィエビス(Vievis)を目指しました。SS第500降下猟兵大隊は第6戦車師団戦闘団に配属され、第16降下猟兵連隊の第2中隊とともに戦車連隊「グロスドィチェラント」第1大隊の随伴歩兵となりました。攻撃集団「カウナス」には約300両の車両が用意されており、ヴィエビスで守備隊の生き残り2,000名を収容すると無事味方戦線に連れ戻すことに成功しました。

 その後大隊は第6戦車師団戦闘団の南隣の戦闘団「ロズキッシャー」(Rothkirch)の戦区に移動し、7月15日にはダルスニスキス~ピロウオナ地区で激しい防衛戦を展開しました。リトアニアに移動した時点でSS第500降下猟兵大隊のは兵力290名でしたが、ウィルナ救援作戦では約30名の損害を出し、その後のダルスニスキス~ピロウオナ地区での数日間の戦闘により約190名もの損害を被りました。
 7月29日にはソ連軍の攻撃により大隊の左右両翼で主戦線が突破され、大隊は味方戦線まで血路をきる開かなければなりませんでした。8月1日の時点で大隊の兵力は約70名にまで減少しており、第505工兵大隊、第743工兵大隊、第21降下猟兵連隊の第1大隊とともに後方のサキアイ(Sakiai)へと移動して部隊の再集結が図られましたが、それでも大隊の兵力はやっと100名を数える程度にまで減少してしまいました。

 8月9日ソ連軍の攻勢が第9軍団の戦区で開始され、第212歩兵師団及び第252歩兵師団が守るラセイネン(Raseinen)地区を突破したソ連軍は、一気にメーメル(Memel)を目指して突進しました。今や中隊規模の戦力となったSS第500降下猟兵大隊も第252歩兵師団の戦区に急行し、8月10日の夜には家屋の1軒1軒を奪い合う市街戦に投入されました。戦闘は8月14日まで続き、ドイツ軍守備隊はソ連軍をラセイネン市街地から押し戻し、126.5高地を確保して防衛線のを立て直しに成功しました。
 8月16日SS第500降下猟兵大隊はラセイネン南方のスクリスキアイ(Sukuriskiai)に移動し、8月17日には一旦第212歩兵師団に配属されましたが、2日後には再びサキアイへと移動し軍集団予備となりました。この時点での大隊の兵力は157名(内戦闘可能な兵員は90名!)に過ぎませんでした。
 8月末には大隊はワルシャワ地区で戦闘中の第4SS戦車軍団に配属される計画もありましたが、8月31日から開始されたソ連軍の攻勢により軍団は9月22日までの戦闘で35,000名以上の損害を被り、この計画は中止されました。9月15日、SS第500降下猟兵大隊は鉄道輸送によりオストプロイセンのフィッシュボルン(Fischborn)へと移動することとなり、同地では9月26日から本格的な再編作業が開始されました。
 この時点での大隊の兵力は合計251名(内戦闘要員は201名、戦闘可能な兵員は155名)となり、軽機関銃×15丁、8.14cm迫撃砲×1門を装備していました。大隊の第1中隊は解散しその兵員は第2~第4中隊に編入され、野戦補充中隊が新しい第1中隊として編入されることとなりました。9月27日、大隊はオストプロイセンのツェッヘナウ(Zichenau)へと移動し、翌日にはウィーンへと空輸されました。【補足-1】

4.SS第600降下猟兵大隊
 1944年10月1日、ウィーンに帰還した大隊はドイッチェ・ワグラムで生き残りの古参兵にSS降下猟兵補充訓練中隊(兵力200名)を新たな第1中隊として編入して再建されるとともに「SS第600降下猟兵大隊」と改称されました。再建された大隊はオーストリアで訓練が開始されましたが、それもつかの間の1944年10月14日、ハンガリーでの反乱鎮圧作戦のためにプタペストに出動しました。
 ハンガリーは摂政ホルティ提督の独裁下にあり、1940年からドイツの強力なパートナーでしたが、ドイツの敗色濃厚となった1944年になるとホルティは密かに連合軍側と接触して単独講和を図るようになりました。この動きを察知したドイツ側はスコルツェニーSS少佐の指揮下に阻止作戦を計画し、まず10月15日にホルティ提督の息子ミクロスを含む和平派を拉致する「ミッキーマウス作戦」が実施され、ホルティ提督自身はドイツ国内へ「退避」することになりました。
 翌16日にはブタペスト市街と王宮を制圧する「パンツァーファースト作戦」が実施され、これ以後ハンガリーはハンガリーファシスト「矢十字党」の党首サラーシが指導者となり、最後までドイツとともに戦うことになりました。SS第600降下猟兵大隊はSS猟兵大隊「ミッテ」、第503重戦車大隊、ウィーン士官学校部隊、サラーシ派のハンガリー軍部隊などとともにこの作戦には参加し、和平派ハンガリー軍部隊の武装解除などを実施しました。
 1944年11月10日の時点でSS第600降下猟兵大隊の兵力は将校17名、下士官113名、兵555名、合計685名にまで回復していました。この後大隊はスコルツェニーSS少佐の指揮する特殊部隊である「SS猟兵部隊」の所属となり、以後ますます数奇な戦歴をたどることになるのでした。


SS猟兵部隊(SS-Jagdverbanden)

SS第600降下猟兵大隊
SS猟兵大隊「ノルドヴェスト」
SS猟兵大隊「ジュートヴェスト」
SS猟兵大隊「ジュートオスト」
SS猟兵大隊「オスト」
SS猟兵大隊「ミッテ」(SS第502猟兵大隊より)


5.アルディンヌ
 1944年12月、SS第600降下猟兵大隊は「ラインの護り作戦」の一環として実施されるスコルツェニーSS中佐(前記のハンガリー鎮圧作戦の功績により昇進)の「グライフ作戦」のために「第150戦車旅団」の編成要員を提供することとなり、グラーフェンヴエールで編成中の旅団の中核要員として2個中隊の兵員が参加することとなりました。「第150戦車旅団」の中核要員としては他にスコルツェニーSS中佐の古馴染み、SS猟兵大隊「ミッテ」からも1個中隊の兵員が参加していました。
 第150戦車旅団の当初の計画は中核要員以外は全軍からの志願兵により編成し、完全にアメリカ製装備で偽装するという野心的なものでしたが、捕獲したアメリカ製装備の不足、英語が出来る兵士の不足、おまけに作戦実施までの準備時間もないため計画どおりに実現することは出来ず、完全にアメリカ兵に変装できたのはスティーラウSS大尉指揮下の150名の特別コマンド隊員のみで、旅団本隊の方はドイツ製兵器(ご存知M10に偽装したパンター戦車と、わけのわからん偽装Ⅲ号突撃砲)でそれらしく偽装するしかありませんでした。このためスコルツェニーSS少佐は実戦部隊から経験豊富な兵員を集める方針に切り替え、戦車兵、突撃砲乗員、装甲偵察車乗員、砲兵、旅団本部要員などを各部隊から供給を受け、旅団は大急ぎで編成を完了しました。

 12月16日、「ラインの護り作戦」は開始されたものの、「第150戦車旅団」は前進路の後方で大渋滞に巻き込まれて動きがとれなくなり、計画どおり前線を突破することが出来ませんでした。そのため12月21日からは通常の戦闘部隊としてマルメディを攻撃しましたが、アメリカ軍の予想外の抵抗に会い大きな損害を出して攻撃は失敗しました。旅団は12月28日まで前線にとどまりましたが、その後シュリエルバッハから鉄道輸送でグラーフェンヴエールへ移動したあと部隊は解散され、SS第600降下猟兵大隊から参加した兵員も原隊に復帰しました。

6.シュベット橋頭堡
 1945年1月中旬、SS第600降下猟兵大隊はオーデル河のシュベットに移動し、スコルツェニーSS中佐を指揮官とする橋頭堡部隊「シュベット要塞師団」に編入されました。シュベット橋頭堡の防衛を命じられたスコルツェニーSS中佐は、使えそうな部隊を手当たり次第に集めるとともに、周囲をくまなく捜索して使えそうな装備を徴発し、75mm対戦車砲×15門、多数のMG42機関銃、88mm高射砲搭載の8tハーフトラックなどを手に入れ、寄せ集めながら兵力15,000名の強力な守備隊が誕生しました。


シュベット要塞師団の編成

SS第600降下猟兵大隊(4個中隊:380名)
SS猟兵大隊「ミッテ」
SS猟兵大隊「ノルトヴェスト」
SS突撃中隊「シューベルト」
SS狙撃中隊「ヴィスラー」
SS第103擲弾兵連隊「ルーマニア第1」
国民突撃大隊「ハンブルク」
1個国民突撃大隊
降下機甲擲弾兵師団「ヘルマン・ゲーリング2」の1個大隊(600名)
第210突撃砲旅団:Ⅳ号突撃砲×31両装備


 2月9日、ソ連軍による橋頭堡への攻撃が開始され、以後2月28日まで激戦が展開されましたが、ソ連軍は橋頭堡への攻撃に1個戦車軍団と数個狙撃師団を投入したにもかかわらず大損害を出し、SS第600降下猟兵大隊を始めとする橋頭堡守備隊はオーデル河東岸にしがみついていました。しかし、両軍の兵力差はどうにもならず2月下旬には強力な第210突撃砲旅団が北部のグライフェンハーゲン橋頭堡に抽出され、3月1日にはオーデル河東岸はついに放棄されることとなり、守備隊はオーデル河西岸の新たな防衛線に後退後、シュベットの橋は爆破されました。

 その後、SS第600降下猟兵大隊はシュベットからやや南方、フィーノ運河沿いの街オーデルベルグに移動し、第610特別編成師団担当地区に配属されました。シュベットの南からフィーノ運河にかけての防衛線には第610特別編成師団が配置されていましたが、師団の戦力は弱体であり、大隊はフィーノ運河とオーデル河の合流地点東岸のゼーンデン付近に構築された小橋頭堡の防衛に投入されました。【補足-3】
 橋頭堡守備隊としてSS第600降下猟兵大隊とSS猟兵大隊「ミッテ」を中心としてSS戦闘団「ゾーラ」(SS Kampfgruppe "Solar")が編成され、戦闘団の指揮はミリウスSS大尉が執ることになりました。


SS戦闘団「ゾーラ」の編成
SS Kampfgruppe "Solar"

SS第600降下猟兵大隊
SS猟兵大隊「ミッテ」
SS重装備中隊
SS突撃中隊
SS通信中隊
SS狙撃兵小隊
SS補給中隊
第3装甲車補充訓練大隊の1個中隊:装甲車×6両
戦車小隊:Ⅳ号戦車×4両
予備歩兵砲中隊の一部:150mm歩兵砲×2門
※ミリウスSS大尉によると大隊は降下猟兵用7.5cm歩兵砲×4門を装備しており、他に150mm歩兵砲×6門と7.5cm対戦車砲×3門を増援として受け取っています。


 3月7日から橋頭堡の守備に就いたSS戦闘団「ゾーラ」はロシア軍の波状攻撃を撃退し続け、3月25日から27日にかけてのソ連軍による激しい砲撃、爆撃を伴う攻撃に対しても4km四方の橋頭堡を死守しました。結局オーデル河東岸に残ったゼーンデン橋頭堡は放棄されることとなり、SS戦闘団「ゾーラ」は3月28日の夜に西岸のオーデルベルグに後退しました。SS第600降下猟兵大隊がどの程度の兵力を残して撤退したかは不明ですが、一説では3月28日の時点で36名にまで減少していたといわれています。
 4月上旬、SS第600降下猟兵大隊は第4SS警察擲弾兵師団の戦闘団「ホルツァー」に配属されることとなり、第7SS装甲擲弾兵連隊に編入されるとともに第13SS野戦補充連隊から兵員の補充を受け再建されました。【補足-2】

7.最後の戦い
 1945年4月16日、ソ連軍によるベルリン総攻撃がついに開始され、SS第600降下猟兵大隊はフィーノウフルト付近からプレツラウ方面へ移動しながら防衛戦を展開しました。4月26日、プレツラウではウッカー河に架かる鉄道橋の東岸に橋頭堡が築かれ、SS第600降下猟兵大隊はSS第103擲弾兵連隊「ルーマニア第1」、SS猟兵大隊「ミッテ」の最後の生き残り、そして第4SS警察師団の残余である第7SS装甲擲弾兵連隊、第210突撃砲旅団の数両の突撃砲とともに最後の抵抗を試みました。しかし4月26日にはプレツラウも陥落し、大隊の残余は第7SS装甲擲弾兵連隊とともにさらに西へと後退しました。4月28日の時点で第46戦車軍団が掌握している部隊は次のような状態でした。


第46戦車軍団(4月28日現在)

第281歩兵師団
第28SS義勇擲弾兵師団「ワロニエン」の戦闘団
第7SS警察装甲擲弾兵連隊(SS第600降下猟兵大隊を含む)
戦車補充訓練部隊「オストゼー」
第1海軍歩兵師団
第27SS義勇擲弾兵師団「ランゲマルク」の戦闘団


 1945年5月2日、SS第600降下猟兵大隊のミリウスSS大尉に率いられた180名の降下猟兵はSS第7警察装甲擲弾兵連隊とともにハーゲナウ(Hagenow)でアメリカ第9軍に降伏しました。
 SS第500/第600降下猟兵大隊はヒムラーとゲーリングの権力闘争の狭間で誕生しましたが、最初でしかも唯一となった降下作戦「ロッセルスブルンク作戦」は目的を果たすことなく失敗し、その後は専ら精鋭の歩兵部隊として地上戦闘に投入され消耗しました。わずか1個大隊の戦力では戦局に大きく貢献することもなく、前後2回にわたり壊滅同様の損害を出してはそのたびに補充兵により再建されたため、末期には降下訓練を受けたベテランは10人にも満たない状況となりましたが、最後まで降下猟兵の名に恥じない働きを見せました。


【補足-1】
 1944年8月23日、ルーマニアは連合国に対して講和交渉を開始しました。このため首都ブカレスト北方のプロイェシティ油田に駐屯していた空軍高射砲部隊に対してブカレスト攻撃が命令され、8月24日には兵力約2,000名の戦闘団が前進を開始しました。これに対する増援部隊としてブカレスト郊外のオトペニ飛行場には「ブランデンブルク空挺大隊」が空輸されましたが、部隊を空輸したJu52とMe323ギガントの大半は撃墜されてしまい、着陸に成功したわずかな兵員のみが空軍部隊と合流の後に降伏しました。この降下猟兵の中には「SS第500降下猟兵大隊」のSS降下猟兵も含まれていたことがルーマニア側の捕虜尋問記録から判明していますが、SS第500降下猟兵大隊の本隊は東部戦線で戦闘中であり、あるいは訓練中の野戦補充中隊の一部が抽出されて緊急に派遣されたものかもしれません。
出典:「ストーミング・イーグルス」(大日本絵画1993)
  :「ルーマニア王国降下猟兵小史」(日高氏個人研究2004)
【戻る】


【補足-2】
 1945年4月、SS第600降下猟兵大隊のうちの1個中隊はSS戦闘団「千夜一夜(アラビアンナイト)」(または「SS第1001戦車旅団」)に配属されており、第9軍第101戦車軍団予備としてヴリーツェンの西に布陣していました。

SS戦闘団「千夜一夜(アラビアンナイト)」の編成
SS Kampfgruppe ”1001 Nacht”

SS第560戦車駆逐大隊
大隊本部中隊
第1戦車猟兵中隊:ヘッツァー×14両
第2戦車猟兵中隊:ヘッツァー×14両
第3戦車猟兵中隊:ヘッツァー×14両
第4突撃砲中隊:突撃砲×14両
第5降下猟兵中隊:SS第600降下猟兵大隊の1個中隊
補給中隊
機甲偵察大隊「シュペー」
本部中隊
ケッテンクラート中隊
SPW(装甲兵員輸送車)中隊

 SS戦闘団「千夜一夜(アラビアンナイト)」は1945年3月26日までに第9軍戦区で後方部隊をかき集めて緊急編成されました。編成当初はSS第560戦車猟兵大隊には兵力390名の3個随伴歩兵中隊が配属されましたが、3月27日から開始されたキュストリン要塞奪回の第2次「ブーメラング作戦」の戦闘で大損害を被り、特に随伴歩兵の消耗は激しく、翌日の朝までにわずか40名にまで減少していました。このため4月にはSS降下猟兵1個中隊が随伴歩兵の補充として配属されました。
 ベルリンへの最後の攻撃が開始された4月16日以降、SS戦闘団「千夜一夜(アラビアンナイト)」はソ連軍の突進を食い止めながらヴリーツェンから北西方向に後退し、4月23日までにはベルナウ北方でフィナウ運河を渡り、運河北岸に防衛線を構築しました。その後戦闘団の残余は第3戦車軍に配属され、第547国民擲弾兵師団、第2降下猟兵補充師団などとともに第28軍団を構成して引き続き防衛戦を展開しました。
 SS戦闘団「千夜一夜(アラビアンナイト)」はその後も4月28日にはリッヒェン~テンブリン~リンゲンヴァルデ地域、4月30日にはレヒリン~ミロウ地域、5月2日にはマイエンブルク地域で防衛戦を展開し、5月8日の終戦によりついに降伏しました。
【戻る】


【補足-3】
第610特別編成師団の編成(1945年3月17日現在)
Division z.b.V. 610

第610特別編成師団司令部
第1610通信中隊
第8SS警察連隊の第1大隊
第8SS警察連隊の第2大隊
第8SS警察連隊の第10中隊
第50SS警察連隊の第1大隊
国民突撃大隊「ハンブルグ」(Hamburg)
国民突撃大隊「ケーニヒスベルク」(Königsberg)
2個建設中隊

【戻る】


参考資料
ルーマニア王国降下猟兵小史(日高氏個人研究2004)
月刊パンツァー2002年1月号(アルゴノート社2002)
グランドパワー別冊ドイツ武装親衛隊Ⅱ(デルタ出版1999)
月刊モデルグラフィックス1997年12月号 ラスト・オブ・カンプフグルッペ(大日本絵画1997)
月刊モデルグラフィックス1996年2月号 ラスト・オブ・カンプフグルッペ(大日本絵画1996)
ストーミング・イーグルス(大日本絵画1993)

Das SS-Fallschirmjager-Bataillon 500/600(Michaelis-Verlag 2004)

Forgotten Legions(Paladin Press 1991)


2002.3.2 新規作成
2002.4.3 ドイツ軍側地上部隊の編制を追加
2002.6.12 「6.シュベット橋頭堡」にSS戦闘団「ゾーラ」を追加
2008.4.12 「3.東部戦線」の項目他を追補
2010.4.4 改訂版公開

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