泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

戦車訓練大隊「ジュート」
Panzer Ausbildung Abteilung Sud(Pz.Ausb.Abt.Sud)

 今回紹介する部隊は戦闘部隊ではなく訓練部隊です。戦闘部隊であってもマイナーな部隊ともなれば部隊史が取り上げられることもめったにありませんが、訓練部隊ともなれば「皆無」と言っても過言ではないでしょう。そこで、取り上げちゃいます(笑)

1.創設
 1943年9月のイタリア降伏後、ドイツ陸軍は大量のイタリア製装甲車輌を獲得しました。これらの車輌は陸軍部隊が使用したばかりでなく、警察部隊でも多数が使用されました。1943年10月、南部編成司令部(Aufstellungsstabes Sud)の指揮下に、イタリア製車輌を装備して新編成や再編成されるドイツ軍部隊のために、イタリア製の戦車、突撃砲及び装甲偵察車輌の乗員養成訓練を任務として陸軍の戦車訓練大隊「ジュート」が設立されました。大隊は最初ヴェローナ(Verona)近郊のサン・ミケーレ(San Michele)に駐屯しましたが、連合軍の空襲を避けてヴェローナの東方約25kmのロニゴ(Lonigo)に移動しました。
 1944年9月に第12(増強)警察戦車中隊がイタリア製車輌により再編成された際には、ロニゴの戦車訓練大隊「ジュート」で装甲車輌乗員の訓練とイタリア製戦車の引渡しが行われました。イタリア製車輌を装備した他の警察部隊についても、同様に乗員の訓練と装甲車輌の引渡しが行われたと思われますがその詳細は不明です。【補足-1】

2.装備車両
 1944年10月から11月にかけて、戦車訓練大隊「ジュート」はロニゴ(Lonigo)から北部スロベニア・オーバークライン地方のクラインブルク(Krainburg)(北部スロベニアのクラージ(Kranj))に移動し、その後1945年1月には再び北西イタリアに戻り、ウディネ(Udine)の西方約25kmにあるバルバゾーネ(Valvasone)に移動しました。このとき大隊は3個中隊で編成されており、装備車輌ごとに13個小隊で編成されており中隊ごとの編成はわかっていませんが、この頃の各小隊は下記のような車輌を装備していました。


L35小隊 7両(定数2両)
L6小隊 3両(定数3両)
M13/14小隊 6両(定数5両)
M15小隊 4両(定数4両)
P40小隊 5両(定数5両)
L6突撃砲小隊 5両(定数5両)
指揮車輌小隊(L6指揮戦車)2両(定数2両)
M42短砲身型(75/18)突撃砲小隊 5両(定数5両)
M42長砲身型(75/34)突撃砲小隊 3両(定数5両)
M43 10.5cm突撃砲小隊 3両(定数2両)
M42指揮戦車小隊 5両(定数5両)
AB41装甲車小隊 6両(定数7両)
リンチェ装甲車小隊 5両(定数5両)


 1945年1月中に大隊にはさらに訓練用として3両のヘッツァーが配属されました。イタリア駐留ドイツ軍で使用されるイタリア製車輌は、徐々にM43突撃砲、AB41/43装甲車及びリンチェ装甲車などの「使える」車種に切り替えられており、訓練用の車輌もこれらの車種とヘッツァーに更新が進められました。1945年3月中旬の時点で、大隊の装備車両は下記のように変化していました。


M13/14小隊 3両(定数5両)
P40小隊 5両(定数5両)
M42短砲身型(75/18)突撃砲小隊 5両(定数5両)
長砲身突撃砲小隊 M42(75/34)2両及びM43(75/34又は75/46)1両(定数5両)
M43 10.5cm突撃砲小隊 3両(定数2両)
M42指揮戦車小隊 5両(定数5両)
AB41装甲車小隊 6両(定数7両)
リンチェ装甲車小隊 5両(定数5両)
ヘッツァー小隊 3両(定数3両)


3.終戦
 1945年3月の時点で大隊はバルバゾーネ(Valvasone)-カザールサ・デッラ・デリーツィア(Casarsa della Dellizia)地区に展開しており、パルチザンとの戦闘で死傷者も出していたようです。その後、4月25日の戦闘ではウディネ(Udine)及びサン・ビト・アル・タリアメント(San Vito al tagliamento)で損害を被り、5月2日までに装備していた残存車両を自爆処分あるいは放棄し、フリウリ(Friuli)で終戦を迎えました。


【補足-1】
第12警察戦車中隊(再編成)
 第12(増強)警察戦車中隊は1944年9月からウイーン警察自動車学校の予備戦車大隊において再編成が行われ、一部はイタリアのベロナ(Verora)近郊のロギノ(Logino)で陸軍の戦車訓練大隊「ジュート」(Panzer-Ersatz-Abteilung-Sud)からイタリア製戦車を受領することになりました。ベロナ警察司令官(Bdo. Verona)の記録によると、1944年11月9日現在で中隊の兵力は74名と記録されています。再編成後の中隊は「増強」が外れて「第12警察戦車中隊」となり、陸軍戦力定数指標(K.St.N)1149号B項(14両編成の突撃砲大隊)にもとづいて編成されましたが、師団修理工場中隊の回収班の配属は除外されていました。また、装備車輌は突撃砲だけではなくて、イタリア製M15戦車を装備したことは写真により判明しています。その後、第12警察戦車中隊は第15警察戦車中隊向けとして準備された装備をそっくり引き継いで、急速に編成を完了したものと思われ、将校4名、下士官・兵111名で下記のような編成になりました。

第12警察戦車中隊(1944年9月)

中隊本部
  指揮班:M15装軌式装甲車×1両、M42突撃砲×1両
  補給段列
  整備班(第20修理工場小隊)
  予備班
第1小隊:M15装軌式装甲車×4両
第2小隊:M42突撃砲×4両
第3小隊:M42突撃砲×4両

 再編成の完了した中隊は、1944年9月27日付け治安警察長官命令によりウイーン警察自動車学校(警察予備戦車大隊)からベルグラード警察司令官の指揮下で第5SS警察連隊に配属されることになりましたが、10月21日付けの治安警察長官命令では高級SS及び警察指導者「ハンガリー」の指揮下に入るよう変更されています。
 1944年10月20日現在の治安警察部隊の戦力概要によると、第12警察戦車中隊は高級SS及び警察指導者「ハンガリー」のブダペスト警察司令官の指揮下にあり、第1SS警察連隊に配属されていました。第12警察戦車中隊はその後のブダペストをめぐる戦闘により1944年末から1945年の始めにはブダペストで壊滅しました。
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参考資料
Panzer Units in the Operationszone Adriatischs Küstenland(OZAK) 1943-1945(Edizioni della Laguna 2002年)


2004.10.31 新規作成
2005.4.2 一部修正
2009.8.23 地名のカタカナ表記を修正
2016.11.8 補足と参考資料を追加

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