泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

第4軍の警察戦闘団と警察旅団

 ラスト・オブ・カンプフグルッペVIの「千年帝国の落日」には第4軍に配属された警察戦闘団「ハンニバル」がチラリと登場します。1944年夏、ソ連軍のバグラチオ作戦により崩壊したドイツ軍中央軍集団の戦線後方地域では、パルチザン掃討作戦を展開していた警察部隊も戦線の穴埋めに投入されて大きな損害を被っていました。警察戦闘団「ハンニバル」もそのような警察戦闘団の一つなのですが、実は警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」~SS警察旅団「アンハルト」~SS警察旅団/警察戦闘団「ハンニバル」と名を変えながら、1945年3月まで戦い続けて壊滅したしぶとい警察部隊であり、歴代の指揮官3名はいずれも騎士十字章佩用者という、場違いな警察戦闘団/警察旅団でもありました。

1.中央軍集団の崩壊
 1944年6月22日、ソ連軍の「バグラチオン」作戦により中央軍集団の戦線が破られ、ミンスクに危機が訪れました。第3戦車軍戦区では第53軍団は壊滅、第6軍団は粉砕され、第9軍団は西を目指して後退中で戦線は崩壊しており、南翼の第9軍戦区でも手ひどく叩かれ、包囲・突破されて戦線を維持できなくなっていました。 第4軍戦区でも3個軍団がソ連軍の突進により南北から挟撃されようとしていました。ヒトラーはミンスクを「要塞」と宣言し、あらゆる犠牲をはらっても死守するよう第4軍に命じました。このため第4軍による反撃作戦として「魔弾の射手III(Freischütz III)作戦」が立案され、ミンスク戦区になけなしの部隊がかき集められました。


中央軍集団(1944年6月28日現在)

第3戦車軍
第4軍
第9軍
第2軍


第4軍(1944年6月22日現在)

第27軍団
  第78歩兵師団
  第25機甲擲弾兵師団
  第260歩兵師団
第39戦車軍団
  第110歩兵師団
  第337歩兵師団
  第12歩兵師団
  第31歩兵師団
第12軍団
  第18機甲擲弾兵師団
  第267歩兵師団
  第57歩兵師団

戦闘団「フォン・ザウケン」(Kampfgruppe “von Saucken”)
  第5戦車師団
  第505重戦車大隊

戦闘団「フォン・ゴットベルク」(Kampfgruppe “von Gottberg”)
  戦闘団「アンハルト」(Kampfgruppe “Anhalt”)
  戦闘団「フレールケ」(Kampfgruppe “Flörke”)

  戦闘団「Linding」(Kampfgruppe “Linding”)
  第12戦車師団
  第390野戦訓練師団


 1944年6月29日、「魔弾の射手III作戦」が開始され、第4軍北翼のボリソフ(Borisov)近郊のベレジナ川東岸地区では戦闘団「フォン・ザウケン」による反撃が実施されました。戦闘団「フォン・ザウケン」は第5戦車師団と第505重戦車大隊による戦闘団で、この作戦のために南ウクライナ軍集団から輸送され、6月26日にミンスク地区に到着しました。戦闘団「Linding」は第12戦車師団と第390野戦訓練師団による戦闘団で、第4軍戦線南翼の第9軍とのつなぎ目のボブルイスク方面で反撃を実施しました。
 しかし、第4軍中央部の第12軍団、第27軍団、第39戦車軍団の各部隊は大損害を被って7月2日までにはベレジノ地区のベレジナ川防衛線へと後退し、ソ連軍は薄い戦線の隙間をすり抜けて南北からミンスク市街に迫っており、第2親衛戦車軍団が7月3日の早朝にミンスクの防衛を突破し、夜明けには市街中心部に突入しました。翌日にはミンスクからドイツ軍後衛部隊が撤退し、ソ連軍第65軍と第5親衛戦車軍にとって市街地西方で包囲の輪が閉じられ、第4軍の大部分と第9軍の一部がミンスク東方からベレジナ川の間で包囲される事態となりました。
 第27軍団は第39軍団の一部とともに7月5日に北西と西に向かって突破を図り、7月5日深夜には第25機甲擲弾兵師団が突破の先頭に立ち、それに続くいくつかの部隊はミンスクの北側を通過して約100km先のドイツ軍戦線への合流に成功しました。第57歩兵師団と機甲擲弾兵師団「フェルト・ヘルン・ハレ」及び最初の突破に成功した第78歩兵師団の残余は、距離が近いミンスクの南側を迂回しようとしましたが、部隊はバラバラとなりました。その中でも第14歩兵師団の一部は第31歩兵師団及び第12歩兵師団の残余と合流し、第12戦車師団の戦線にたどり着くことができました。第4軍指揮官のミューラー中将は第18機甲擲弾兵師団とともに突破しようとしたものの失敗し、7月8日にソ連軍の捕虜となりました。その後も7月中旬まで数千人のドイツ軍部隊がなお包囲された地域内にあり、小グループに分かれた部隊の脱出が継続しました。
 第4軍はクルト・フォン・ティッペルスキルヒ歩兵大将が7月7日から7月18日まで指揮し、その後はフリードリヒ・ホスバッハ歩兵大将が指揮をとり、オストプロイセン防衛のため再建が図られました。


中央軍集団(1944年7月15日現在)

第3戦車軍
第4軍
第2軍
第9軍(再建中)


第4軍(1944年7月15日現在)

第39軍団
  第131歩兵師団
  第170歩兵師団

ヴァイトリング集団(Gruppe Weidling、その後第6軍団と改称)
  第5戦車師団
  警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」


2.警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」
Kampfgruppe “von Gottberg”

 警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」は1942年11月16日、SS及び警察指導者「ベラルーシ」であったクルト・フォン・ゴットベルクSS少将兼警察少将を指揮官として編成され、以後作戦ごとに配属される部隊を変えながらパルチザン掃討作戦に従事していました。
 1944年6月29日、「魔弾の射手III作戦」が開始されると戦闘団「フォン・ゴットベルク」の指揮下には戦闘団「アンハルト」と戦闘団「フレールケ」の2個戦闘団が編入され、第5戦車師団の戦闘団「フォン・ザウケン」ともにボリソフ近郊のベレジナ川の防衛線に布陣しました。ボリソフ近郊のベレジナ川東岸橋頭堡では戦闘団「フォン・ザウケン」の第15戦車師団と第505重戦車大隊が奮戦していました。しかしソ連軍は薄いドイツ軍戦線をすり抜けてミンスクに迫っており、7月1日にはボリソフからの後退が決まり、7月2日にはミンスク北西のマラジェチナ(Molodechno)地区の新たな防衛線へと後退しました。


警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」
Kampfgruppe “von Gottberg”

戦闘団「アンハルト」(Kampfgruppe “Anhalt”)
戦闘団「フレールケ」(Kampfgruppe “Flörke”)

〇戦闘団「フレールケ」は第14歩兵師団の戦闘団で、師団長の名を冠しているところを見ると師団主力であると思われますが編成の詳細はわかりません。師団残余の別動隊はミンスク東方で他の第4軍部隊とともに包囲されましたが、脱出に成功して第12戦車師団の戦線に合流できたようで、戦闘団「フレールケ」はその後警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」から分離されて合流してものと思われます。


 警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」は付近の警察部隊を参集しながらミンスク西方のナリボキ(Nalibokci)森林地帯を経由して後退し、7月8日までにはリダ(Lida)へと達しました。その後、グロドノ(Grodno)まで後退した戦闘団はグロドノ(Grodno)の防衛戦に投入され、市街北側の防衛線で7月12日まで戦いましたが、グロドノが放棄されて陥落すると、7月14日にはグロドノ(Grodno)の西方約20kmのリプスク地区へと後退していました。


警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」(1944年7月8日現在)
Kampfgruppe “von Gottberg”

第17SS警察連隊
第31警察狙撃兵連隊
第36警察狙撃兵連隊


警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」(1944年7月14日現在)
Kampfgruppe “von Gottberg”

第2SS警察連隊
第17SS警察連隊
第22SS警察連隊
第31警察狙撃兵連隊
第36警察狙撃兵連隊


〇第17SS警察連隊は1942年7月、既存の第42、第74及び第69警察大隊と第12警察通信中隊により編成されました。直後に第3大隊(第69警察大隊)は第252警察大隊と交代し、1943年9月22日には第3大隊(第252警察大隊)が第32警察狙撃兵連隊の第1大隊として抽出されたため、以後連隊は2個大隊のみの編成となりました。1944年1月16日から5月7日まで、戦闘団「フォン・デム・バッハ」に配属されてウクライナのコーベリ(Kovel)地区で活動し、その後一旦ワルシャワに帰還後、6月から7月にかけてミンスク西方のナリボキ(Nalibocki)森林地帯で警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属されました。7月2日から12日までの間、連隊は警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属されグロドノ(Grodno)の防衛戦に投入され、市街北側の防衛線で7月12日まで戦いましたが、その後グロドノは放棄され陥落しました。

〇第22SS警察連隊は1942年7月、既存の第41、第53警察大隊と総督府に駐屯していた警察中隊からの新編成警察大隊により編成されました。連隊はワルシャワとルブリンに駐屯していましたが、1944年7月に中央軍集団戦区に送られて警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属されました。連隊はミンスク西方のナリボキ(Nalibocki)森林地帯での戦闘により壊滅し、連隊の残余は7月12日以降、第2SS警察連隊に編入され、1944年12月21日付けでダンチヒにおいて正式に解散されました。

〇第31警察狙撃兵連隊は第1大隊としてドイツ人警察官による第103警察大隊と第2、第3大隊としてウクライナ人義勇兵による第51及び第54シューマ大隊を、さらに第31警察通信中隊を加えて編成されました。連隊の編成は1943年4月21日に開始されましたが、9月16日までかかって正式に完了し、初代連隊長にはハインリッヒ・ハンニバル警察大佐が就任しました。連隊は国家行政区「ベラルーシ」の管轄区域にあたるベラルーシとポーランド北東部で大隊ごとに各地に分散して活動しました。
1944年7月5日、連隊は第170歩兵師団の一部や第221保安師団の一部とともに戦闘団「メッツ」(Kampfgruppe “Metz”)として後退戦を行ない、7月8日からは第17SS警察連隊や第36警察狙撃兵連隊とともに警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」に編入されリダ(Lida)へと後退し、7月2日から12日までの間グロドノ(Grodno)の防衛戦の後、7月14日にはグロドノ(Grodno)の西方20kmのリプスク地区へと後退していました。

〇第36警察狙撃兵連隊は第1大隊に第1SS警察連隊の第2大隊を編入し、第2大隊と第3大隊はウクライナシューマ大隊が編入され、1943年7月8日に編成が完了しました。1944年7月8日からは第17SS警察連隊や第31警察狙撃兵連隊とともに警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」に編入され、その後リダ(Lida)へと後退し7月14日にはグロドノ(Grodno)の西方20kmのリプスク地区へと後退していました。7月17日から7月26日にかけて、戦闘団「フォン・ゴットベルク」は第6軍団に配属されており、グロドノ西方のリプスク(Lipsk)地区から後退しました。8月4日時点で連隊は第52保安師団に配属されており、連隊の一部はリトアニアのアリートゥス(Alytus/現Olita)付近の第5戦車師団にも送られました。1944年8月30日、後退戦の過程で事実上壊滅状態の連隊は解散され、残余の兵員は第2SS警察連隊に吸収されました。


3.クルト・グスタフ・フリードリヒ・ヴァルター・フォン・ゴットベルク
Curt Gustav Friedrich Walther von Gottberg

 クルト・フォン・ゴットベルクは1896年2月11日、オストプロイセンのプロイッユ・ヴィルテン(Preußisch Wilten)で、荘園主の息子として生まれました。第1次世界大戦勃発のため1914年8月に志願兵として胸甲騎兵連隊「グラーフ・ヴランゲル」へと入隊し、1915年には近衛第1歩兵連隊に異動して西部戦線で戦い、1917年に重傷を負うまで奮戦しており最終階級は中尉で、一級及び二級鉄十字章を授与されました。
 第1次世界大戦後は1931年11月15日に突撃隊に入隊し、1932年2月1日にNSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党)に入党すると、7月20日には突撃隊を去って、親衛隊に入隊しました。1933年3月25日にはSS大尉としてSS特務部隊(SS-VT)の大隊長に就任しましたが、1936年1月15日に交通事故のため左足の下退部切断の大けがを負い、その後はリハビリを兼ねてSS本部の要職を歴任しており、SS本部統計局長になった1941年4月にSS及び警察少将へと昇進しました。その後、患部の完治したフォン・ゴットベルクは前線での勤務を希望し、1942年1月からは東部戦線後方でのパルチザン掃討作戦に従事することとなりました。
 1942年7月21日、フォン・ゴットベルクは高級SS及び警察指導者「オストラント及び北部ロシア」の管轄下のSS及び警察指導者「白ロシア」に任命され、1942年11月16日からは警察戦闘団「フォン・ゴットベルク」を指揮してパルチザン掃討作戦に参加しました。1943年7月5日からは高級SS及び警察指導者「中央ロシア」(代理)に就任し、以後該当管区が廃止される1944年8月7日まで勤め、その間の1943年7月11日付けでSS中将に昇進しました。また1943年9月からは爆殺されたヴィルヘルム・クーベ(Richard Paul Wilhelm Kube)の後任として「白ロシア行政区」の民生トップである「白ロシア行政委員」にも就任し、白ロシア郷土防衛軍(BKA)の再建にも手腕を発揮しました。
 フォン・ゴットベルクSS中将は1943年8月7日付で騎士十字章を授与されており、1944年7月1日付けでSS及び警察大将へと昇進し、1944年8月7日からは第3戦車軍の新設SS第12軍団長に就任し、さらに1944年9月末から西部戦線の第1降下猟兵軍の下で野戦部隊を指揮しました。しかし重病により入院し、終戦時はオランダの北西軍集団司令部付きでイギリス軍の捕虜となりました。イギリス軍の捕虜となったフォン・ゴットベルクは1945年5月31日にフレンスブルク収容所で自殺しました。


4.戦闘団「アンハルト」/SS警察旅団「アンハルト」
Kampfgruppe “Anhalt”
SS-Polizei-Brigade “Anhalt”

 戦闘団「アンハルト」は第2SS警察連隊長のギュンター・アンハルトSS大佐を指揮官とする戦闘団で、警察部隊と保安部隊から編制されました。正確な編成時期は不明ですが、1944年5月時点での編成は下記のようになっていました。


SS警察旅団「アンハルト」(1944年5月現在)
SS-Polizei-Brigade Anhalt

第2SS警察連隊
第24SS警察連隊
SS特別大隊「ディルレヴァンガー」
第1警察砲兵大隊/第1砲兵中隊及び第3砲兵中隊
第56シューマ砲兵大隊/第1砲兵中隊
第743工兵大隊/大隊本部及び第1中隊
RF-SS司令部の高射砲大隊戦闘団(3.7cm砲×3門、2cm砲×3門)
軍用犬大隊(2個軍用犬中隊)


〇SS特別大隊「ディルレヴァンガー」は6月30日付で2個大隊のSS特別連隊「ディルレヴァンガー」へと拡大されており兵力は大隊時の460名から971名へと拡大されました。SS特別連隊「ディルレヴァンガー」も防衛戦に投入されましたが7月中旬までにはリダ~グロドノへと後退し、7月16日にはソ連軍がグロドノを占領したため、さらにエウク地区へと後退した後、戦線から引き揚げられました。その後、ワルシャワ蜂起の鎮圧部隊として悪名を馳せることになりますが、その時期の兵力は865名となっており後退戦の間に約100名の損害を被っていた模様です。

 1944年5月22日から開始された「コルモラン作戦」では、ミンスク北方のミンスク~ボリソフ間の鉄道線路沿いの地域でパルチザン掃討作戦が実施されましたが、ソ連軍の攻勢により作戦は中止され、旅団は戦闘団「アンハルト」として戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属されてベレジナ川の防衛線に投入されました。
 1944年7月15日、戦闘団「アンハルト」は戦闘団「フォン・ゴットベルク」の部隊を編入し、SS警察旅団「アンハルト」と改称されましたが、旅団の実態はパルチザン掃討作戦のために集められた警察戦闘団と変わりはなく苦しい後退戦が続きました。7月17日から7月26日にかけて、SS警察旅団「アンハルト」は第6軍団に配属され、グロドノ西方のリプスク地区から後退しました。1944年8月8日から9月21日にかけて、旅団は第4軍/第6軍団に配属され、オストプロイセンの旧国境付近のグロドノ(Grodno)~ビャウィストク(Bialystok)地区で防衛戦に投入されました。
 SS警察旅団「アンハルト」は、9月22日から10月6日の間は一時的に警察戦闘団「Danz」(Polizei-Kampfgruppe "Danz")と改称されましたが、10月7日からは警察戦闘団「ハンニバル」へと再び改称されました。


SS警察旅団「アンハルト」(1944年8月現在)
SS-Polizei-Brigade “Anhalt”

第2SS警察連隊
第4SS警察連隊第1大隊、第3大隊
第17SS警察連隊
  第1大隊
  第34警察狙撃兵連隊第1大隊
第56シューマ砲兵大隊
第15リトアニア警察大隊
警察砲兵中隊「ガリチア第2」
輸送中隊


〇第2SS警察連隊は1942年7月、既存の第11、第13及び第22警察大隊から編成され、さらに第1警察砲兵大隊、警察装甲車大隊(後の第1(増強)警察戦車中隊)も配属されました。連隊は1944年2月から戦闘団「フォン・ゴットベルク」に、4月からはSS警察旅団「アンハルト」編入され、前線での防衛戦やパルチザン掃討作戦に投入されていましたが、ソ連軍の夏季攻勢「バグラチオン」作戦により大損害を被りました。

〇第4SS警察連隊は1942年7月、既存の第316、第323及び62警察大隊により編成されました。連隊はフランスに駐屯したのち、1943年6月から総督府のルブリン(Lubulin)へと移動し、1944年6月までポーランド北東部からベラルーシ各地でパルチザン掃討作戦に従事しました。
 第4SS警察連隊には第2警察戦車中隊も配属されており、1944年8月10日から16日にかけて、SS警察旅団「アンハルト」や第6軍団の第14歩兵師団とともにグラエボ(Grayevo)の南、及び南東地域で最前線での防衛戦に投入されました。この時点での第2警察戦車中隊の兵力は、オートバイ狙撃兵小隊の残余も含めて将校3名、下士官・兵116名であり、このうち歩兵戦力は将校2名、下士官・兵57名でした。また装甲車両としては、装甲車3両と戦車2両を保有していましたが、8月末までには装甲車1両を除きその他の装甲車両のすべてを失いました。その後中隊は部隊刷新のためウィーンに帰還しました。


第2警察戦車中隊(1943年5月再編成時)
2.Polizei-Panzer-Kompanie

中隊本部
指揮班
通信小隊
第11修理工場小隊
補給段列
第1装甲車小隊:スタイヤー装甲車-3両
第2装甲車小隊:スタイヤー装甲車-3両
第3装軌式装甲車小隊:1号装軌式装甲車(VK1801)-5両


5.ギュンター・オットー・フリードリヒ・アンハルト
Günther Otto Friedrich Anhalt

 ギュンター・オットー・フリードリヒ・アンハルトは1906年1月23日、ブレスラウ(Breslau /現ブロツワフ(Wroclaw))で誕生しました。学校教育終了後、1924年4月1日にワイマール共和国軍の士官候補生となり、1932年7月1日にはNSDAPに入党し、同時に親衛隊に入隊しました。1933年3月、アンハルトは後の親衛旗SS「アドルフ・ヒトラー」の起源であるSS本部警護隊「ベルリン」の最初の隊員に選抜されたのを振り出しに、親衛旗SS「アドルフ・ヒトラー」(LSSAH)でのキャリアを積んで昇進しており、1936年11月9日にはSS中尉に昇進し、イタリアのチアーノ外相訪独の際にはベルリンで第7中隊を指揮して儀仗兵を務めました。
 1939年8月28日、アンハルトSS中尉はLSSAHの小隊長としてポーランド戦に従軍し、1939年9月7日の戦闘で負傷しました。その後は1940年1月30日付けでSS大尉に昇進して中隊長と大隊長を歴任した後、1942年7月5日には自動車化師団へと拡大されたLSSAHの第2歩兵連隊(自動車化)第3大隊の大隊長となり、野戦部隊での経歴で順調に昇進してきました。

 次は意外なことに野戦部隊から対パルチザン部隊への異動で、対パルチザン戦司令部への異動とともに1943年11月22日付けでSS中佐へと昇進しました。1944年には戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属された第2SS警察連隊を指揮し、戦功により1944年6月16日付けでドイツ十字章(金章)を、そして年8月12日付けで騎士十字章を授与されました。そして1944年7月1日付けでSS大佐へと昇進し、1944年7月15日からはSS警察旅団「アンハルト」を指揮しました。
 アンハルトSS大佐は1944年8月まで旅団を指揮し、その後は1944年11月13日付けで武装SSに新編成された「SS武装擲弾兵連隊(ブルガリア第1)」(Waffen-Grenadier-Regiments der Waffen-SS (bulgarische Nr. 1))の連隊長に就任し、新編成間もない連隊を12月13日まで指揮しました。
 1945年1月26日からはSS連隊「クルマルク」(SS-Regiments "Kurmark")の指揮官となり、連隊はその後第87SS義勇擲弾兵連隊「クルマルク」(SS-Freiwilligen-Grenadier-Regiment 87 “Kurmark“)として第32SS義勇擲弾兵師団「1月30日」(32. SS-Freiwilligen-Grenadier-Division “30. Januar“)に編入されました。
 1945年3月からは第35SS警察擲弾兵師団(35. SS- und Polizei-Grenadier-Division)の第90SS警察擲弾兵連隊(SS-Polizei-Grenadier-Regiment 90)を指揮し、1945年4月27日にベルリン南方での脱出戦中に戦死しました。
 当時彼の運転手であったPhilipp Masbenderの証言によると、当時どこを走行していたかは不明ですが、アンハルトは車を降りて敵の銃火の中へ進み、足元で爆発した手りゅう弾で吹き飛ばされて戦死しました。Philipp Masbenderは司令部に戻って報告しましたが、このためアンハルトの軍隊手帳や認識票は残っていません。


6.SS警察旅団「ハンニバル」/SS戦闘団「ハンニバル」
SS-Polizei-Brigade “Hannibal”
SS Kampfgruppe “Hannibal”

 SS警察旅団「アンハルト」は、9月22日から10月6日の間は一時的に警察戦闘団「Danz 」(Polizei-Kampfgruppe "Danz")と改称されましたが、10月7日からは第31警察狙撃兵連隊の連隊長であったハインリッヒ・ハンニバル警察大佐が指揮を引き継ぎ、警察戦闘団「ハンニバル」(Polizei Kampfgruppa “Hannibal”)へと再び改称され、10月13日から戦闘団はSS警察旅団「ハンニバル」と改称されました。
 しかし、例によって旅団の実態は後退戦の間に大損害を被った警察部隊の寄せ集めでしたが、11月の時点で第4軍/第27軍団に配属されて引き続き防衛戦に投入されました。


SS警察旅団「ハンニバル」(1944年10月現在)
SS-Polizei-Brigade Hannibal

第2SS警察連隊
第4SS警察連隊第1大隊、第3大隊
第17SS警察連隊の第1大隊
第31警察狙撃兵連隊


〇第2SS警察連隊は1944年10月に再編のためブランデンブルクへと移動し、その後補充を受けて12月には西部戦線に復帰しオーバーラインで第14SS軍団に配属されました。1945年1月、連隊はラウジッツ(Lausitz)へと移動し、2月からはSS戦闘団「ベルガー」として第9軍/第40軍団に配属されてオーデル河での防衛戦に投入されました。
 SS戦闘団「ベルガー」はその後第100特別編成旅団本部を経て第608特別編成師団に編入されました。第2SS警察連隊は1945年3月12日付けで正式に解散され、兵員はSS警察旅団「ヴィアート」の第30SS警察連隊へと編入されました。SS警察旅団「ヴィアート」(SS Polizei Brigade “Wirth”)が第35SS警察擲弾兵師団へと拡大された際には、さらに第90SS警察擲弾兵連隊と改称されました。

〇第17SS警察連隊は1944年11月、前線を離れてワルシャワへと移動し、さらにスロベニアへと移動しました。以後はスロベニアでのパルチザン掃討作戦に従事し、最後はオーストリアのフェルラッハ(Ferlach)の北でイギリス軍に降伏しました。

〇第31警察狙撃兵連隊は1944年7月8日からリダ(Lida)地区で戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属されており、10月12日までには第4軍/第6軍団とともにオストプロイセン国境に近いBobr河(グロドノ西方40Km)地区へと後退しました。第31警察狙撃兵連隊の連隊長であったハインリッヒ・ハンニバル警察大佐はそれまでの後退戦での戦功により8月23日付けで騎士十字章を授与されました。その後警察少将に昇進して第4SS警察連隊の連隊長となり、引き続き旅団を指揮しました。


 1944年末、オストプロイセンでの戦闘は小康状態となりましたが、アウグストゥフからメーメルにかけてのオストプロイセン国境地帯では長さ150km、幅40kmにわたってソ連軍に占領されました。ソ連軍は虎視眈々と次の攻勢の機会を伺っており、対するドイツ軍は相変わらず乏しい戦力で守りを固めるしかありませんでした。
 1944年12月、SS警察旅団「ハンニバル」はSS戦闘団「ハンニバル」(SS Kampfgruppe “Hannibal”)と改称され、第4SS警察連隊のほかハンニバル警察少将が以前に指揮していた第31警察狙撃兵連隊の残余と3個中隊から成る突撃砲大隊「ハンニバル」を持っており、ポーランド北東部のオストプロイセンとの国境線付近に布陣していました。第31警察狙撃兵連隊はこれまでの防衛戦闘で大損害を被っており、10月30日の時点では第1大隊長であったフォイト警察少佐の指揮する約1個大隊の兵力を残すのみになっていました。


戦闘団「ハンニバル」
SS Kampfgruppe “Hannibal”

第4SS警察連隊第1大隊及び第3大隊
第31警察狙撃兵連隊の残余(1個警察大隊)
突撃砲大隊「ハンニバル」(3個中隊)


 1945年1月12日に開始されたロシア軍の冬季攻勢により矢面に立たされた戦闘団は、ロッツェン(Lötzen)南東のリュック(Lyck/現Ełk)~Arys(現 Orzysz)~Milken(現Miłki)地区を経由して北西に向かって撤退を続けた後、1月21日にはロッツエン(Lötzen/現 Giżycko)で他の2個師団とともに包囲されましたが、1月26日には包囲からの脱出に成功しました。


第4軍/第55軍団の編成(1945年1月26日現在)

第102歩兵師団
第203歩兵師団
第541国民擲弾兵師団
警察戦闘団「ハンニバル」
戦闘団「ハウザー」(第605特別編成師団司令部)


 2月21日にはランズベルグ(Landsberg/現Górowo Iławeckie)の南6kmのGrünwalde近郊~Dixen~Neukrug地区まで後退しました。3月10日、第4SS警察連隊は解散され残余の兵員は3月18日付けで第31警察狙撃兵連隊に吸収されました。SS戦闘団「ハンニバル」が解散した時期は不明ですが、第4SS警察連隊の解隊と同時に解散したものと思われます。


7.ハインリッヒ・ハンニバル
Heinrich Hannibal

 ハインリッヒ・ハンニバルは1889年11月19日ゾーリンゲン(Söllingen)で生まれました。1905年から1907年まで下士官学校に入校し、第1次世界大戦中は第136リートリンゲン歩兵連隊で西部戦線、東部戦線、ルーマニア戦線に従軍し、3度負傷しました。戦後は1919年まで陸軍に在籍した後、1920年7月に退役しオーアドルフ(Ohrdruf)の治安警察に移籍しました。
 警察学校を修了後は南ボヘミア地区警察司令官となり、1935年12月からはアルンスベルグの行政長官を務めました。1937年にハンブルク-ハーブルク警察司令官となり、第2次世界大戦勃発後はブレーメンの第3030警察募集大隊の指揮官となりました。
 ソ連への侵攻開始後は1942年1月からウクライナのヘルソン(Cherson)で地区警察司令官を務め、1943年4月からは第31警察狙撃兵連隊の連隊長を務めました。1944年7月、ハンニバルはリダ地区東方での戦闘で負傷し、1944年8月23日付けで騎士十字章を授与されました。
 1944年10月13日から第31警察狙撃兵連隊を含む、SS警察旅団「ハンニバル」を指揮し、その後第4SS警察連隊の連隊長に就任した後も、引き続きSS警察旅団「ハンニバル」を指揮しました。第4SS警察連隊は1945年3月10日付けで解散しており、ハンニバルは脱出に成功して3月20日にはベルリンに到着したようです。1960年代に西ドイツでソ連侵攻時の指揮下部隊による戦犯行為について調査されましたが結局訴追はされず、1971年5月9日にハンブルクで亡くなりました。


 第4軍は1月からハイリゲンバイル地区で包囲されており、残存部隊は3月29日までにフリッシュ砂嘴へと脱出し、最後の後衛部隊のみが降伏しました。

 第31警察狙撃兵連隊の残余は3月20日付けで第349国民擲弾兵師団に配属され、連絡路が遮断されるまでにケーニヒスベルク市街に移動した模様で、4月6日の時点でシューベルト警察少将を指揮官とする戦闘団「シューベルト」に配属されて守備隊に編入されていました。SS連隊「ベーメ」は第69歩兵師団の残存2個大隊を中心に、ハイリゲンバイル包囲陣のランスベルク及びブランスベルク地区での雑多な生き残り部隊(砲兵、対戦車砲、突撃砲)を集めて編成されました。
 ケーニヒスベルクでは要塞の中心部に立てこもった最後の部隊が4月9日まで抵抗をつづけましたが、この日の夕刻にはついに降伏しました。


戦闘団「シューベルト」(4月6日現在)
Kampfgruppe “Schubert”

第31警察狙撃兵連隊の残余(1個警察大隊)
SS連隊「ベーメ」


 今回のSS警察旅団「アンハルト」やSS警察旅団「ハンニバル」は旅団司令部や補給・管理部隊を持たないことから、その実態は従来の警察戦闘団と変わりありませんでした。また、いずれも複数の警察連隊を指揮下に置いており、同じような編成でも戦闘団と呼ばれている場合もあり、どのような基準でSS警察旅団と呼ばれたのかははっきりしません。末期戦ともなると兵力欺瞞のために部隊名を「ワンランクアップ」で呼んだ例はそれこそ枚挙にいとまがありません。ラスカンシリーズで取り上げられた部隊で言えば、「ラスト・オブ・カンプフグルッペ」で登場したSS戦車旅団「ベストファーレン」は最近ではSS戦闘団に分類するのが普通のようですし、「続ラスト・オブ・カンプフグルッペ」で登場したSS戦闘団「千夜一夜」(アラビアンナイト)は最初からSS第1001戦車旅団の二つ名をもっていました。これらの部隊は本格的な野戦部隊であり、対パルチザン戦が主任務の警察部隊と直接比較はできないのですが、命名基準はなんか気になりますね。


参考資料
ラスト・オブ・カンプフグルッペVI(大日本絵画 2018)
ドイツ武装SS師団写真史1(大日本絵画 2010)
死闘 ケーニヒスベルク(大日本絵画 2005)
Combat Operations of the German Ordnungspolizei 1935-1945(Schiffer 2010)
Panzerfahrzeuge und Panzereinheiten der Ordnungspolizei 1936 – 1945(Podzun-Pallas 2002)

https://en.wikipedia.org/wiki/Minsk_Offensive
http://www.axishistory.com/axis-nations/4626-ss-polizei-brigade-anhalt


2018.5.23 新規作成
2018.5.28 第2SS警察連隊を一部修正
2018.6.6 第36警察狙撃兵連隊を修正
2018.6.12 タイトルを「第4軍の警察戦闘団と警察旅団」に改題
2018.6.24 第2SS警察連隊、戦闘団「アンハルト」その他を修正
2019.10.6 フォン・ゴットベルクの項目に追記

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/