最後のヤークトティーガー
マイナー部隊史の初期に書いた「第512重戦車駆逐大隊」で『第3中隊に届くはずだった2両のヤークトティーガーは、鉄道輸送の途中で空襲に遭い損傷して工場に逆戻りした後、SS第501重戦車大隊がリンツの近郊での戦闘に使用したらしいのですが、これはまた別の機会に・・・』と書いていたのはすっかり忘れており、どうせ誰も気にしないよね~(笑
などと油断していたところ、読者さんから26年ぶりくらいに突っ込みが入る事態となり、更新もかねてあわてていろいろ調べなおしました。
1.最末期の生産状況
ヤークトティーガーの生産はオーストリアのリンツ近郊、ザンクト・ヴァーレンティーン(Sankt Valentin)地区のニーベルンゲン製作所(Nibelungenwerk)で行なわれていました。
新編成にあたり「第512重戦車駆逐大隊」ではハインツ・グリーエン(Heinz Grien)を2月末からニーベルンゲン製作所(Nibelungen Werk)に派遣しており、工場に駐在してヤークトティーガーの生産と修理を監督し、大隊長のヴァルター・シェルフ(Walter Scherf)少佐に報告していました。
それによると1945年3月23日の空襲までは生産は順調でしたが、空襲により150tクレーンの全てが倒壊したためその後14日間は生産も修理も不可能となりました。グリーエンからの最後の報告によると工場ではヤークトティーガー4両が完成していたものの弾薬がありませんでした。
・4月15日:4両のヤークトティーガーが完成済
・4月29日:この車両は第653重戦車駆逐大隊の分遣隊に引き渡し
グリーエンによると『終戦時には工場では9両のヤークトティーガーが完成しており、4月29日に戦車部隊総監の命令で約90km東方のザンクト・ペルテン(Sankt Pölten)地区に配備され、プリンツァースドルフ(Prinzersdorf)地区の最前線に配置されましたが、5月8日にアメリカ軍に鹵獲された』としていますが、どうやら実際には出撃していなかったようです。
4月29日付けのニーベルンゲン製作所からの最後の報告によると、
1) 4月15日以降に納入済:ヤークトティーガー×4両(12.8cm砲)
2) 4月末までに納入予定:ヤークトティーガー×4両(8.8cm砲)
3) 5月末までにヤークトティーガー×17両を納品予定(8.8cm砲)
ヤークトティーガーの生産ネックとなったのが「12.8cmPak44」の不足で、一旦野砲砲架に搭載した「12.8cm K81/1」や「K81/2」を回収して再び車載用に改造する案まであったようです。
結局ヤークトパンターに搭載されていた「8.8cmPak43/3」が採用され、主砲を切り替える命令は1945年2月末の会議で検討されましたが、実際に完成車両ができたのは4月下旬になってからで、「8.8cmPak43/3」の生産工場であるリップシュタットの工場も3月末にはルールポケットでアメリカ軍に包囲されたため生産は終了していました。
写真などは発見されていません。ロシアがあんなことにならなければ希望はあったのですが・・・(泣
この4月末に完成予定のヤークトティーガー(8.8cmPak43/3砲搭載型)受け取りのため第653重戦車駆逐大隊のハンス・クニッペンベルク少尉の分遣隊がニーベルンゲン製作所に派遣されました。
工場の外にはすでにこの「新型」ヤークトティーガー7~8両が保管されていましたが、8.8cmPak43砲用の砲弾がないため試射も行うことができず、部隊は弾薬の確保に奔走しました。また肝心の光学照準装置が取り付けられていませんでした。
5月4日、この「新型」ヤークトティーガーはアメリカ軍の接近により工場が閉鎖された際にハンス・クニッペンベルク少尉の分遣隊によって爆破処分され、結局実戦に出ることはありませんでした。
2.第653重戦車駆逐大隊のヤークトティーガー
4月29日に第653重戦車駆逐大隊の分遣隊に引き渡された4両は、どうやら12.8cmPak44が搭載された最後のヤークトティーガーであったらしいのですが、砲の試射を行なわないまま4月30日にザンクト・ヴァーレンティーン(Sankt Valentin)の鉄道駅から貨車積みされ、ザンクト・ペルテンに向けて移動を開始しました。
このヤークトティーガーには第653重戦車駆逐大隊の分遣隊が乗り込み、小戦闘団はSS第1戦車師団LSSAHのあるSS大尉が指揮しており、列車はヴィーゼルブルクに到着し、ここから支線に入りザンクト・レオンハルト・アム・フォレスト(Sankt Leonhard am Forst)に5月1日の夜明け前に到着しました。
ここで列車を降りた戦闘団はザンクト・ペルテン~リンツ間の国道上を進みましたが、ザンクト・ペルテンがすでにソ連軍に占領されていたことから作戦は中止となり、西に向けて引き返してアムシュテッテン(Amstetten)地区に進みました。
途中のイプス川の橋で故障した1両を放棄したまま戦闘団は西に進み、アムシュテッテンではアメリカ軍とソ連軍に封鎖された市場を迂回してさらに西に進み、シュトレンベルク地区にたどり着いたところで道路閉塞のため前進できなくなり、途中から同行していた避難民とともにソ連軍に降伏しました。
というわけで、この4両は結局本格的な戦闘を行う間もなく右往左往しただけで終わりました。砲の試射も照準器の調整もしないままでは戦闘にならなかったとは思いますが、一緒に移動していた避難民にとっては戦闘に巻き込まれずむしろ幸運だったのかもしれません。ソ連軍の捕虜となった搭乗員は後に前進してきたアメリカ軍に引き渡されました。
3.忘れられた?ヤークトティーガー
さて、肝心の『3月26日に列車でゼンネラーガー練兵場の第512重戦車駆逐大隊第3中隊に送り出されたヤークトティーガー2両』ですが、いったいどこに消えたのでしょうか?
4月1日の時点でゼンネラーガー西方のリップシュタット地区にもアメリ軍がせまり、もはや鉄道輸送も不可能になっていました。このため輸送列車は4月の初めにザンクト・ヴァーレンティーン(Sankt Valentin)の鉄道駅に引き返して放置された可能性があります。
第512重戦車駆逐大隊がルール地方でアメリカ軍に包囲されているころ、第623重戦車駆逐大隊もライン川流域の防衛線から小グループでバラバラになりながらオーストリアのザルツブルグ地区を目指して後退しており、とても補充車両を送り出せる状況ではありませんでした。
第653重戦車駆逐大隊では4月20日付けの命令によりハンス・クニッペンベルク少尉の分遣隊がニーベルンゲン製作所に直接派遣されたのを初め、5月初めにはSS第501重戦車大隊の分遣隊40名もニーベルンゲン製作所に到着しました。
SS第501重戦車大隊の分遣隊は到着後2~3日の短期間で2両のヤークトティーガーを戦闘可能な状態で受領しており、この2両が第512重戦車駆逐大隊に発送されたものの引き返した「忘れられた」2両であった可能性があります。工場にはクニッペンベルク少尉の分遣隊の分遣隊もいたわけで、タッチの差でさらわれた形となりました。
5月5日、2両はザンクト・ペルテン地区でSS第1戦車師団LSSAHの防衛線に加わるべくリンツ~ザンクト・ペルテンの国道を進む予定でしたが、道路はすでのソ連軍の支配下にありヴァイトホーフェン(Waidhofen an der Ybbs)方面に南下後、グレステン(Gresten)を経由して約50kmを丸二日間かけて迂回し、5月7日にはシャイプス(Scheibbs)地区のSS第1戦車師団LSSAHの師団司令部に到着しました。
しかしザンクト・ペルテンはすでに陥落しており、ヤークトティーガーは数両のIV号戦車とともに小戦闘団を編成すると来た道を西に引き返してリンツ(Linz)地区防衛のためエンス(Enns)方面に移動することとなり、夜間行軍でヴァイトホーフェンまで引き返しました。
5月8日になるとドイツ軍の防衛線は総崩れとなり、シャイプス地区を制圧したソ連軍に対して部隊の撤退を援護するために戦闘団は再び東に向けて引き返しましたが、ヤークトティーガーの1両は橋を渡る際に履帯が破損したため道路上から排除されました。
残りのヤークトティーガー1両とIV号戦車はヴァイトホーフェンの街はずれに陣取り、南東約15kmのヴァイアー・マルクト(Weyer Markt)方面への撤退路確保を支援しながら進撃してきたソ連軍部隊に待ち伏せを行い、道路上でソ連軍戦車を撃破しましたがIV号戦車も4両が失われてその日の戦闘は終結しました。
日が暮れてから戦闘団は約15km南東のヴァイアー・マルクト地区へと撤退し、翌5月9日には最後のヤークトティーガーとIV号戦車が道路閉塞のため道路の真ん中で爆破され、ソ連軍の進撃を阻止しました。
部隊はローゼンシュタイン(Losenstein)近くでエンス川を渡って撤退し、夕方にはシュタイアー(Steyr)地区でアメリカ軍に降伏しました。
4.妄想と余談
8.8cmPak43/3を搭載したヤークトティーガーについては「2両程度が実戦に投入された」とする説もあるのですが、調べてみると複数の話が混同されて流布されたように思います。
クニッペンベルク少尉の分遣隊が確保に奔走した8.8cmPak43/3用の砲弾についても、同じ砲弾のヤークトパンターは当時主として西部戦線の部隊で運用されており、オーストリア方面にはいなかったようです。
さらに光学照準器については12.8cmPak44が「Sfl. WZF2/1」に対してヤークトパンターの8.8cmPak43/3は「Sfl. ZF5」を使用しており、「光学照準器がない」との記述からすると砲架をそのまま積み替えて「Sfl. ZF5」を使用したと思えます。
それならそれでどうしても車体側との干渉によって照準器取り付け部の調整・改造は必要なわけで、ひょっとすると専用照準器の生産が間に合わなかった?とかも思えられます。
この8.8cm搭載の「新型」ヤークトティーガーは「完成した」とする数と「爆破した」とする数に1~2両の差があるわけで、妄想がはかどります。この際ありものの照準器を職人技で「デッチアップ」した最後のヤークトティーガーがSS第501重戦車大隊に「間違えて」送られてきた数発の砲弾で押し寄せるソ連軍戦車に一泡吹かせるお話などはいかがでしょうか? どなたか書いてクレメンス(笑)
最末期のヤークトティーガーの行動については不明な点が多く、混乱の中で正確な記録や写真も残されていないため多くの研究者を悩ませています。特に最終生産型の8.8cmPak43搭載型は写真が1枚も発見されていません。
ロシアがあんなことにならなければまだ希望はあったのですが・・・(泣)プーチンのバカヤロー(2回目)
参考資料
第653重戦車駆逐大隊(大日本絵画 2000)
Jagdtiger -2 Operational History(Schiffer 1999)
重戦車大隊記録集-2 SS編(大日本絵画 1999)
重駆逐戦車(大日本絵画 1994)
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