泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

最後の降下猟兵師団

 降下猟兵師団といえばドイツ軍の中でもエリート部隊として知られますが、最終的に10個師団が編成されるとともに終戦の時点でなおも3個師団が編成途中でした。最初の降下猟兵師団として「第7空挺師団」から改編され、イタリアのモンテ・カッシノで激戦を展開した第1降下猟兵師団、ノルマンディーやアルディンヌの戦いに参加した第3降下猟兵師団や第5降下猟兵師団、ベルリンでの最終戦に参加した第9降下猟兵師団などは有名ですが、降下猟兵の名声の割には資料が少ないのが実情です。1943年以降は降下訓練も行われなくなり、降下猟兵といえどももっぱら地上戦に投入され続けました。それでは終戦直前、最後に編成された第10降下猟兵師団と編成途中の3個師団はどんな部隊だったのでしょうか?

1.第10降下猟兵師団
10. Fallschirmjäger Division

 師団の編成は1944年9月24日に発令されたものの1944年10月15日に一旦中止されました。師団のために新編成された降下通信大隊(Fallschirm-Luftnachrichten-Abteilung)は1945年1月2日付けで陸軍に移管されました。
 1945年3月1日、新たな降下猟兵師団の編成が北部イタリアに在った第1降下猟兵師団と、第4降下猟兵師団から抽出された大隊を基幹として開始されました。

第1降下猟兵師団
 第1降下猟兵連隊第2大隊・・・第30降下猟兵連隊へ
 第3降下猟兵連隊第3大隊・・・第30降下猟兵連隊へ
 第4降下猟兵連隊第2大隊・・・第28降下猟兵連隊へ
 第1降下砲兵連隊第3大隊・・・第28降下猟兵連隊へ

第4降下猟兵師団
 第10降下猟兵連隊第2大隊・・・第29降下猟兵連隊へ
 第11降下猟兵連隊第2大隊・・・第29降下猟兵連隊へ
 第12降下猟兵連隊第3大隊・・・第28降下猟兵連隊へ

 これらの大隊からの基幹要員のほか、第10降下猟兵師団とその後に新編成される第11降下猟兵師団のために必要な要員は空軍の訓練部隊や地上要員から集められ、第4(Fürstenfeldbruck)、第7(Tulln an der Donau)、第10(Fürstenwalde (Spree))及び第11(Straubing)の各空軍士官学校(Luftkriegsschulen)から合計4、000名が、A5、A14、A23、A25及びA115の各飛行学校(Flugzeugführerschulen)から合計1、200名が、第101戦闘航空団(JG101)から2、400名が集められました。このほか師団に必要な重装備は第715歩兵師団から供給され、更にSS第14武装擲弾兵師団(ウクライナ 第1)からも4,000名を補充する計画もありましたが、これは中止されました。
 また1945年3月23日の作戦会議で初めてウクライナ人SS師団「SS第14武装擲弾兵師団(ウクライナ第1)」の名を報告されたヒトラーは、師団を武装解除して編成中の「第10降下猟兵師団」に装備を引き渡すよう命令しましたが、皮肉なことに師団は3月31日にオーストリアのシュトラーデン(Straden)方面に緊急輸送されて第2軍の第1騎兵軍団に配属され、翌4月1日にはソ連軍の占領したシュトラーデン周辺の高地を奪回し、さらに要衝のグライヒェンベルク(Gleichenberg=現バート・グライヒェンベルク Bad Gleichenberg)を見事奪回することに成功してしまい、武装解除の話は立ち消えになったようです。

 第10降下猟兵師団の集結地は当初オランダとなる予定で、師団に必要は重火器もオランダで交付される予定でした。しかしソ連軍第3ウクライナ方面軍がオーストリアに迫ったため、南方軍集団はオランダに向かっていた師団の輸送列車を急遽呼び戻し、目的地はオーストリアのブルック・アンデア・ムール(Bruck an der Mur)及びグラーツ(Graz)周辺に変更され、輸送列車は1945年4月3日から8日にかけて現地に到着しました。 1945年4月17日の時点で第10降下猟兵師団の兵力は10、700名となり下記のような編成となりました。【補足-1】


第10降下猟兵師団

師団司令部
第28降下猟兵連隊:3個大隊
第29降下猟兵連隊:3個大隊
第30降下猟兵連隊:3個大隊
第10降下砲兵連隊:3個大隊
第10降下工兵大隊
第10降下戦車猟兵大隊:5個中隊
第10降下通信大隊
第10降下衛生大隊


 第10降下猟兵師団は第2SS戦車軍の第1騎兵軍団に配属されてザンクト・ペルテン(St.Pölten)地区へ移動し、第28、第29及び第30降下猟兵連隊はここで激しい防衛戦を展開しました。 このうち第30降下猟兵連隊第1大隊はザンクト・ペルテン南方のローテアウ(Rotheau)地区でソ連軍の攻撃に対して4月18日まで頑強に抵抗を続けました。しかしソ連軍は迂回行動に出たため大隊はローテアウ 南方のブッヒベルグの制高点まで後退を余儀なくされました。ここでも降下猟兵は激しい白兵戦により頑強に抵抗し、大隊の1個中隊が1時間に14両ものソ連軍戦車を撃破した記録からも、いかにソ連軍の攻撃が集中されたかがわかります。その後マルクトルの防衛陣地でも4月27日まで4日間にわたり激しい戦闘を継続した後、降下猟兵は後退することができました。
 その後第10降下猟兵師団は第30降下猟兵連隊をドナウ川の戦線に残し 、第28及び第29降下猟兵連隊を主力とする師団本隊はチェコのブルン(Burunn)地区へと鉄道輸送され、中央軍集団の第1戦車軍第24戦車軍団に配属されました。

 一方、師団に必要な重火器は決定的に不足しており、第10降下砲兵連隊も実際にどのような装備状況であったかははっきりとしません。その中でも第2大隊は装備する砲がないまま、歩兵として戦闘に投入されたことがわかっています。第10降下砲兵連隊第2大隊の各中隊は4月初めにグラーツに到着し、集結地であるグラーツ北部のグラートヴァイン(Gratwein)及びグラートコルン(Gratkorn)の町に移動しました。しかし到着後ものの1時間もしないうちに大隊は歩兵として戦闘に緊急投入されることとなりました。
 ソ連軍の第3ウクライナ方面軍はハンガリーからオーストリアへとなだれ込み、第2戦車軍と第6軍戦区の接続部が攻撃を受けていました。第6軍はこの危機的状況に対して第10降下砲兵連隊第2大隊の投入を決定したのでした。第10降下砲兵連隊第2大隊はトラックでハンガリー国境に近いフェルドバハ (Feldbach) 郊外へと輸送され、街の南側の街道沿いに防衛陣地を構築しました。大隊の降下猟兵は軍直轄砲兵の88ミリ砲と共に防衛戦を展開し、最後にはパンツァーファウストとパンツァーシュレックによってソ連軍戦車と歩兵による波状攻撃を何度となく撃退しました。
 しかし、この戦闘により大隊は壊滅状態となり、わずかな生き残りだけが集結地であるグラーツ近郊にたどり着きましたが、師団本隊はザンクト・ペルテン地区に移動した後でした。

 第10降下猟兵師団の大部分はチェコのビストジツェ(Bystrice)でソ連軍に降伏しました。その他の師団配下部隊のうち、第10降下戦車猟兵大隊は1945年4月に5個中隊により編成されましたが、師団本隊と合流することはありませんでした。
 一方、オーストリアに残留した第30降下猟兵連隊にもチェコの師団本隊に合流するよう移動が命令されましたが、その時には既にオーストリア~チェコ間の鉄道は遮断されており、戦争の終結が間近なことを知った連隊長は徒歩行軍によりアメリカ軍戦線のある西方へ連隊を向かわせることとしました。連隊は首尾よくアメリカ軍に降伏できましたが、ソ連軍との協定により生き残りの降下猟兵はソ連軍に引き渡されました。


2.第11降下猟兵師団
11. Fallschirmjäger Division

 師団の編成は1945年3月1日にリンツ(Linz)地区で開始され、5月1日に完了する予定でしたが、4月8日に計画は中止されました。師団の編成に必要な要員は第10降下猟兵師団と同様に、空軍の学校、訓練部隊から集められ、下記のような編成になる計画でした。師団編成中止後もリンツ地区への部隊の集結は続いていた模様で、1945年4月20日時点でリンツ地区に1、100名が集結しており、さらに Gardelegenには2、700名以上が、ヘルシング(Hörsching)には650名が集結していました。


第11降下猟兵師団

師団司令部
第37降下猟兵連隊:3個大隊
第38降下猟兵連隊:3個大隊
第39降下猟兵連隊:3個大隊
第11降下砲兵連隊:3個大隊
第11降下戦車猟兵大隊
第11降下工兵大隊
第11降下通信大隊


 第37、第38及び第39降下猟兵連隊は1945年5月初めの時点でも編成は完了していませんでした。第11降下戦車猟兵大隊は第3空軍管区で1945年5月に編成され、3個中隊で兵力484名となっており、独立部隊として運用されました。他の部隊もある程度戦力化された時点で戦闘団として順次防衛戦に投入されたと思われますが、詳細は不明です。


3.第20降下猟兵師団
20. Fallschirmjäger Division

 1943年3月20日、北部オランダのアッセン(Assen)で野戦訓練師団から編成されました。師団の編成に必要な部隊や要員は降下猟兵訓練及び補充師団からも兵員を集めて進められましたが、編成は計画 通りには完了することはなく師団の大部分はドイツのオルデンブルグ(Oldenburg)へと移動しました。第20降下高射砲大隊は1945年4月5日に3個中隊により編成されましたが、そのまま新編成の第21 降下猟兵師団に編入されました。【補足-2】


第20降下猟兵師団

師団司令部
第58降下猟兵連隊:3個大隊
第59降下猟兵連隊:3個大隊
第60降下猟兵連隊:3個大隊
第20降下砲兵大隊:6個砲兵中隊(2個中隊は第21降下猟兵師団へ)
第20降下戦車猟兵大隊:3個中隊(1個中隊は第21降下猟兵師団へ)
第20降下高射砲大隊:3個中隊(全て第21降下猟兵師団へ)
第20降下迫撃砲大隊:4個中隊(1個中隊は第21降下猟兵師団へ)
第20降下工兵連隊:2個大隊
第20降下自動車大隊:4個中隊
第20降下衛生大隊:2個中隊


4.第21降下猟兵師団
21. Fallschirmjäger Division

 1945年5月5日、北部オランダで野戦訓練部隊からの編成が命令され、降下猟兵訓練及び補充師団と突撃旅団「Gerick」から兵員が集められるとともに、第20降下猟兵師団からも部隊が編入されました。 師団の3個降下猟兵連隊は1945年4月5日付で編成されており、第61降下猟兵連隊は降下猟兵連隊「Schaller」から編成され、1945年4月の時点で第8降下猟兵師団と共に戦闘に投入されました。【補足-3】
 第62降下猟兵連隊は降下猟兵基幹連隊「Henner」及び空軍の地上要員から編成され、第63降下猟兵連隊は降下猟兵連隊「Heute」から編成されました。各降下猟兵連隊は通常の3個大隊(各4個中隊で合計12個中隊)ではなく、2個大隊(各5個中隊で合計10個中隊)により編成されており、一回り小さな連隊編成となっていました。


第21降下猟兵師団

師団司令部
第61降下猟兵連隊:2個大隊(各5個中隊)
第62降下猟兵連隊:2個大隊(各5個中隊)
第63降下猟兵連隊:2個大隊(各5個中隊)
第21降下猟兵大隊:2個中隊(第20降下猟兵師団より)
第21降下工兵大隊:3個中隊
第21降下砲兵大隊:2個中隊(第20降下猟兵師団より)
第21降下戦車猟兵中隊(第20降下猟兵師団より)
第21降下迫撃砲中隊(第20降下猟兵師団より)
第21降下通信中隊(第20降下猟兵師団より)
第20降下高射砲大隊:3個中隊(第20降下猟兵師団より)


 第62降下猟兵連隊の一部は第62降下猟兵大隊(4個中隊)として、また第63降下猟兵連隊の一部は第63降下猟兵大隊(4個中隊)として、いずれも第9降下猟兵師団とともに4月にステチン(Stettin) 地区での戦闘に投入されました。


【補足-1】
降下猟兵師団の標準編成

師団司令部
司令部中隊

降下猟兵連隊
  第1大隊:第1-第4中隊
  第2大隊:第5-第8中隊
  第3大隊:第9-第12中隊
  第13戦車猟兵中隊
  第14迫撃砲中隊
  第15工兵中隊
降下猟兵連隊
降下猟兵連隊
降下砲兵連隊
  第1大隊:第1-第3中隊(105mm leFH×12門装備)
  第2大隊:第4-第6中隊(105mm leFH×12門装備)
  第3大隊:第7-第9中隊(150mm榴弾砲×12門装備)
降下高射砲大隊
降下迫撃砲大隊
降下戦車猟兵大隊
降下工兵大隊
降下通信大隊
降下猟兵野戦補充大隊
降下補給部隊
降下衛生大隊
【戻る】


【補足-2】
降下猟兵訓練及び補充師団
Fallschirmjäger Ausbildung und Ersatz Division

 師団はオランダに駐屯しており1945年3月13日の時点で下記のような訓練部隊により降下猟兵の訓練を行っていました。1945年4月5日、第21降下猟兵師団の編成要員を供給したあと解散しました。

師団司令部
司令部中隊

第1降下猟兵訓練連隊
第2降下猟兵訓練連隊
第3降下猟兵訓練連隊
第4降下猟兵訓練連隊
第1降下猟兵補充大隊
第2降下猟兵補充大隊
第3降下猟兵補充大隊
第4降下猟兵補充大隊
第1降下工兵訓練及び補充大隊
第2降下工兵訓練及び補充大隊
降下戦車撃滅訓練大隊
降下戦車猟兵訓練及び補充大隊
降下砲兵訓練及び補充大隊
降下迫撃砲教導大隊
降下通信訓練及び補充大隊
【戻る】


【補足-3】
第8降下猟兵師団
8. Fallschirmjäger Division

 師団は1944年9月24日付けで第22、第23及び第24降下猟兵連隊により編成が命令されましたが、1944年10月15日に編成作業は一旦中止されました。このうち師団のために編成された第23 降下猟兵連隊は1944年12月にオランダのアーメルスフォールト(Amersfoort)で編成を完了し、第2降下猟兵師団に編入されることとなりました。また編成済の降下通信大隊は1945年2月1日付けで陸軍 に編入されました。1945年1月になってから師団の編成はケルン=ヴァーン(Köln-Wahn)地区で再開され、1945年2月現在下記のような編成となりました。


第8降下猟兵師団

師団司令部
司令部中隊

第22降下猟兵連隊
第24降下猟兵連隊
第32降下猟兵連隊
第8降下通信大隊:2個中隊
第8降下猟兵野戦補充大隊:5個中隊
第8降下猟兵補給部隊


 第22降下猟兵連隊の前身は降下猟兵連隊「Schellmann」であり、1945年2月に警戒部隊から編成され3月15日付で第22降下猟兵連隊へと改編されました。第24降下猟兵連隊の前身は降下猟兵連隊 「Hübner」であり、1945年8月20日にビッチ(Bitsch)において警戒部隊から編成され、しばらくの間は独立部隊として運用された後、1945年3月15日付で第24降下猟兵連隊へと改編されました。
 第32降下猟兵連隊の前身は降下猟兵連隊「Jungwirth」であり、1945年2月に降下猟兵大隊「Gramse」を第1大隊、降下猟兵大隊「Rahs」を第2大隊として編入し、連隊本部は降下猟兵大隊「Jungwirth」 から編成されました。1945年3月15日付で第32降下猟兵連隊へと改編された際には第3大隊が新編成されました。
 師団に必要な要員は第4降下猟兵補充大隊から供給されたほか、1945年2月20日付けで第27空軍要塞大隊(XXVII Luftwaffe Fortress Battalion)も編入されました。師団は1945年3月15日に西方 軍総司令官の命令によりヴェッセル(Wesel)で再編成されましたが、最後はルール包囲陣内で連合軍に降伏しました。
【戻る】


参考資料
ドイツ空挺部隊戦場写真集(潮書房光人社 2012年)
ストーミング・イーグルス―ドイツ降下猟兵戦史(大日本絵画 1993年)
The German Order of Battle:Waffen SS and Other Units in World War II(Combined Publishing 2001年)
Die Bildchronik der Fallschirmtruppe 1935-1945(Podzun-Pallas 1985年)


2015.4.19 新規作成
2022.3.30 第10降下猟兵師団に追記

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/