泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

降下突撃砲旅団
Fallschirm-Sturmgeschütz-Brigade

 マイナー部隊史ご愛読の皆様にも「ドイツ空挺部隊戦場写真集」を購入された方は多いと思いますが、巻末の「ドイツ空挺部隊編成表」に掲載された「第11降下突撃旅団」にお気づきだったでしょうか?・・・
 この部隊を見たとき、オオ!これは謎の最貧旅団か???・・・と喜んだのですが、どうやら第11降下突撃砲旅団の誤植の模様(笑)それでも空軍の突撃砲部隊は珍しく第11、第12、第21の3個降下突撃砲旅団が編成されたものの、末期戦のどさくさのなかで消えていったようです。

1.空軍突撃砲部隊の誕生
 1941年5月のクレタ島攻略作戦では作戦に参加した降下猟兵は大きな損害を被り、あまりの損害の大きさに恐れをなしたドイツ軍では以後は大規模な降下作戦は行われなくなりました。しかし兵力に余裕のないドイツ軍にはせっかくの精鋭部隊を温存しておく余裕もなく、1941年の冬に東部戦線での防衛戦に第7空挺師団が投入されたのを始め、降下猟兵部隊は精鋭部隊としてもっぱら地上戦闘に投入されるようになりました。しかしその任務の性格上、降下猟兵部隊は軽装備であり支援火力の不足が戦闘力の限界や思いがけない損害の原因となっていました。このため、降下軍団の設立にあたっては降下猟兵への火力支援部隊として突撃砲旅団の配備が計画されました。
 1944年1月、降下猟兵部隊への志願者と既存の降下猟兵部隊からの集められた将校、下士官、兵士を対象に突撃砲兵訓練が開始されました。将校と突撃砲操縦手はブルク(Burg)の突撃砲学校へ、砲手はアルテングラボウ(Antengrabow)へ、その他の要員はナイセ(Neisse)の第300突撃砲補充大隊(Sturmgeschütz-Ersatz-Abteilung 300)へと送られ訓練が実施されました。志願兵たちは1944年3月24日まで突撃砲兵としての訓練を受け、その後3月末に2個降下突撃砲旅団の編成が行われました。


2.第11降下突撃砲旅団
Fallschirm-Sturmgeschütz-Brigade XI

 1943年9月29日、南方軍集団では捕獲したイタリア製戦闘車両の中から25両のM42突撃砲(75/18)を野戦部隊に配備し、11月の時点にはM42突撃砲(75/18)×18両とM42突撃砲(75/34)×24両の合計42両に加え、偵察部隊にはL40軽戦車×5両も配備されていました。1943年12月31日までに配備されたイタリア製突撃砲は37両とされており、この突撃砲により1944年1月には第1降下軍団(I. Fallschirm-Korps)直轄の突撃砲部隊として空軍第1突撃砲大隊(Sturmgeschutz-Abteilung 1 der Luftwaffe)が編成されました。その後新造車両も追加配備され、M42突撃砲(75/18)×19両、M42突撃砲(75/34)×5両、M43突撃砲(105/25)×30両、指揮戦車×4両により4個中隊(1個中隊は突撃砲×14両と指揮戦車×1両)の編成となりました。

 1944年1月22日の時点で大隊は48両のイタリア製装甲戦闘車両を装備しており、アンツィオ・ネットゥーノへの連合軍上陸に対抗するため、ローマへと通じる街道防衛のため急遽前線に投入されました。第14軍の戦闘日誌によると第1降下軍団所属のこの突撃砲大隊は1944年2月9日に戦闘準備を完了し、1944年3月1日現在で22両の突撃砲が戦闘可能と報告されています。

 空軍第1突撃砲大隊は降下猟兵の志願兵により1944年4月に第1降下突撃砲旅団(Fallschirm- Sturmgeschütz-Brigade 1 )へと拡大され、さらに1944年6月には軍団直轄部隊の名称に統一されて第11降下突撃砲旅団へと再び改称されました。旅団はシェーバー大尉(Hauptmann Schäber)の指揮のもとフランスに移動し、パリ近郊のムラン(Melun)でⅢ号突撃砲×22両と突撃榴弾砲×9両を受領すると、ドンマリー(Donmarie)及びドンティイ(Dontilly)へと移動して訓練を継続しました。連合軍部隊がナンシー(Nancy)付近で戦線を突破しようとしたとき旅団は防衛戦に投入され、連続する戦闘により事実上壊滅しました。
 その後第11降下突撃砲旅団の残余はホルンダー中尉(Oberleutnant Hollunder)の指揮下で1944年10月から11月にかけてドイツ本国へと後退し再建されました。この時旅団はⅢ号突撃砲×19両と突撃榴弾砲×12両の補充を受けた模様ですが、正確な配備数は不明です。

 再建された第11降下突撃砲旅団はアルディンヌでの反撃作戦に参加することとなり、1944年12月に第5降下猟兵師団に配属となりました。1944年12月16日、アルディンヌの森でラインの守り作戦が発起された時点における旅団の突撃砲装備数には諸説がありますが、最大でも27両でいずれにしても装備定数を下回っていました。第5降下猟兵師団は第7軍に配属され、攻撃開始の時点で第5戦車軍の南翼を担当していました。旅団の突撃砲は第5降下猟兵師団の降下猟兵とともにクレルフ河(Clerf)を渡りヴィルツ(Wiltz)へと前進し、この時点で最も西方へ進出した部隊となっていました。
 12月22日の時点で第5降下猟兵師団はバストーニュ(Bastogne)の南方15kmのボー・レ・ロジール(Vaux les Rosiéres)へと進出しており、旅団の突撃砲は包囲下のバストーニュ攻撃に投入され、アメリカ軍第4機甲師団との激戦で再び大損害を蒙りました。

 旅団はアルディンヌでの攻勢作戦が中止されるとドイツ本国へと後退して再建され、1945年3月28日には第111降下突撃砲旅団と改称されて東部戦線に投入されましたが、5月8日には旅団の生き残りはソ連軍の捕虜となりました。


3.第12降下突撃砲旅団
Fallschirm-Sturmgeschütz-Brigade XII

 旅団の前身は1944年1月に編成された空軍第2突撃砲大隊(Sturmgeschütz -Abteilung 2 der Luftwaffe)であり、部隊は第2降下軍団向けの直轄部隊として計画されました。1944年3月末に降下猟兵の志願兵からパリ近郊のムラン(Melun)及びフォンテンブロー(Fontainebleau)地区において第2降下突撃砲旅団(Fallschirm- Sturmgeschütz-Brigade 2 )へと拡大され、さらに1944年6月には軍団直轄部隊の名称に統一されて第12降下突撃砲旅団へと改称されました。1944年5月17日の時点で旅団の突撃砲装備定数は31両ですが、実際の装備数は不明です。1944年6月6日に開始された連合軍のノルマンディー侵攻に際して、第12降下突撃砲旅団は6月15日に第2降下軍団配下の第3降下猟兵師団に配属され、サン・ロー南方方面に移動しました。

 ノルマンディー戦開始時における旅団の兵力はⅢ号突撃砲×18両、突撃榴弾砲×9両との説もありますが、実際の装備数は定数を大幅に割り込んでいたのは間違いなさそうです。旅団の突撃砲は第5、第8、第9降下猟兵猟兵連隊の降下猟兵とともにバイユー(Bayeux)、トリグチ(Torigny)、ヴィレ(Vive)、ティンシュブレ(Tinchebrai)及びコンデ(Condè)において防衛戦を展開しました。旅団の稼動車両は6月27日現在で11両、6月29日現在でⅢ号突撃砲×7両、突撃榴弾砲×3両と報告されています。
 旅団はファーレーズポケットでの3回にわたる戦闘により大損害を蒙り、セーヌ川東岸にたどり着くまでに突撃砲の60%と補給段列の90%を失いました。ルーアン付近でセーヌ川東岸に辿り着いた旅団残余は本部中隊とバイアー上等兵率いる第3中隊の補給段列の誘導により48時間以内に次々とセーヌ川を越えて撤退することに成功しました。旅団残余はサン・カンタン(St.Quentin)で2日間の休養をとることができ、この間に旅団の生き残りも追及して合流することができました。
 旅団はナミュール(Namur)及びリュティヒ(Luttich)を経由してケルン(Cologne)近郊のヴァーン(Wahn)方面に移動し、再建が開始されました。旅団に残っていた突撃砲はオトヤ伍長の10.5cm突撃榴弾砲1両のみでしたが、この突撃砲を使ってまずは補充要員の訓練が開始され、まもなく本国で修理された突撃砲×4両が補充として到着しました。

 1944年9月中旬、旅団は連合軍のマーケット・ガーデン作戦に対抗して急遽ネイメーヘン東方のヴィーラー(Wyler)地区へと移動しました。旅団の兵力は激減していましたが、第7降下猟兵師団の支援部隊として戦闘に投入され、連合軍の攻撃が行き詰まると旅団はドイツ本国に帰還しふたたび再建作業が再開されました。1945年1月4日、旅団はオランダのアーメルスフォールト(Amersfoot)で新しい突撃砲により装備定数を回復し、ゲアシュトイアー大尉の指揮下で再び戦闘可能となりました。

 1945年2月8日、旅団は再び第7降下猟兵師団に配属され、ライヒスヴァルト(Reichswald)での防衛戦に投入されました。この日連合軍はヴェリタブル作戦を発起し第1降下軍の戦線はライヒスヴァルトの第84歩兵師団の戦線を中心にイギリス第2軍の激しい攻撃にさらされました。第1降下軍予備であった第7降下猟兵師団の投入はH軍集団司令部との意見の相違により後手にまわり、師団は大隊や連隊ごとにバラバラに戦闘に投入されました。このうち第20降下猟兵連隊はツェンダーハイデからの反撃により、分断されていた第84歩兵師団の生き残りとの合流に成功しました。
 しかし、ライヒスヴァルトの防衛線は英軍の攻撃により後退を余儀なくされ、第7降下猟兵師団はヘネプ(Gennep)からゴッホ(Goch)に至る防衛線へと後退しました。2月12日、英第51師団の猛攻はマース河沿いのヘネプに向けられ、数日間の戦闘によりヘネプもついに陥落しました。
 第12降下突撃砲旅団もライヒスヴァルトで降下猟兵の支援に投入され、2月13日にはハイエン(Heijen)に対する反撃に投入されましたが、タイフーン戦闘爆撃機に支援された英軍歩兵と戦車部隊により攻撃発起点まで押し戻されてしまいました。

 2月16日、今度はマース河沿いのアフェルデン(Afferden)に対する英第52師団の渡河攻撃が始まり、数日間に渡り激戦が展開されました。アフェルデン防衛戦における降下猟兵による反撃はすさまじく、英第52師団の2個大隊は将校と下士官が全員戦死し、兵が生き残りを指揮するほどの大損害を受け、英第52師団の火力支援を行っていた第34機甲旅団は第12降下突撃砲旅団の反撃により壊滅的な大損害を被りました。また、降下訓練大隊と第2降下猟兵連隊はパンツァーファーストを持って英軍戦車に立ち向かい、戦車だけでなく英軍歩兵部隊をも撃退しました。ドイツ軍側の記録では4日間の戦闘で英軍装甲戦闘車両300両を撃破したとされます。
 このような局地的勝利にもかかわらず、2月21には英第52師団によりゴッホが陥落し、ドイツ軍はじりじりとライン河へと追いやられ、ライン河西岸を放棄せざるをえませんでした。

 ライン河東岸へと撤退後も第12降下突撃砲旅団の突撃砲は奮戦を続け、常に防衛戦の焦点にありました。なかでも第3中隊の一小隊を指揮したハインツ・ドイッチェ少尉の挙げた戦果は国防軍広報において大いに喧伝されました。
 曰く『3月24日から4月14日の期間に彼とその搭乗員が単独で撃破した数は戦車×34両と装甲偵察車×2両に上った。4月28日にはハインツ・ドイッチェ少尉はエーデヴィヒトにおいてドレッドノート戦車×1両を撃破している。それは彼の44両目の戦果であり、ラッペ伍長、シュタイガジンガー曹長とベアントル上級曹長はドイツ黄金十字章を授与された。』
 ハインツ・ドイッチェ少尉はこの戦功により4月15日に騎士十字章を授与された旨を無線連絡で受領し、4月28日付けで正式に授与されました。

 1945年3月28日、旅団は第121降下突撃砲旅団と改称しました。戦争末期、旅団はベルリン救出作戦に参加するため第12軍に配属され、クックスハーフェン(Cuxhaven)でエルベ河を渡河することが計画されました。しかし5月8日の朝までにクックスハーフェンから出港できたのは負傷兵を乗せた舟艇×2隻のみであり、この計画は結局実現しませんでした。旅団はヴィルヘルムスハーフェン(willhelmshaven)で連合軍に降伏しましたが、短い作戦期間にもかかわらず敵戦車260両撃破の戦果を報告しています。


4.第21降下突撃砲旅団
Fallschirm-Sturmgeschütz-Brigade 21

 1944年6月、第1降下軍では第2降下猟兵師団の第2降下戦車猟兵大隊(Fallschirm-Panzerjager-Abteilung 2)から第2中隊の要員を基幹として新しい突撃砲旅団の編成が開始され、指揮官のシュミット中佐(Oberstleutnant August Schmitz)の名前から降下突撃砲旅団「シュミット」(Fallschirm-Sturmgeschutz-Brigade Schmitz)と呼ばれました。旅団はその後、連合軍による圧力が強まるイタリア戦線への増援として第1降下軍団へと送られました。

 ムッソリーニ政権が崩壊後、ドイツ軍は「枢軸」作戦によりイタリアを制圧するとともに、イタリア軍の武装解除により多くのイタリア製装甲車両を捕獲して自軍装備として活用しました。降下突撃砲旅団「シュミット」にもイタリア製突撃砲が配備されており、旅団は1944年の時点でM43突撃砲(105/25)×49両及び指揮戦車×6両を装備しており、1945年の時点でもM43突撃砲×56両を装備していました。

 1945年1月1日、降下突撃砲旅団「シュミット」はもとの3個中隊から4個中隊へと拡大され、第21降下突撃砲旅団(Fallschirm-Sturmgeschütz-Brigade 21)へと改称されました。1945年2月2日の時点で旅団は引き続き第1降下軍団に配属されており、3月28日には第210降下突撃砲旅団へと改称されました。1945年3月の時点で旅団はボローニャ(Bologna)の南東地区あり、突撃砲×56両と指揮戦車×6両を装備しており、M43突撃砲(105/25)×20両を保有したとする記録もあるようです。旅団は第4降下猟兵師団に配属されており、旅団の突撃砲は師団の線区に広い範囲に分散配置されていました。

 1945年4月12日から開始された連合軍の攻勢により、旅団の突撃砲は航空攻撃、砲撃、対戦車砲により1両、また1両と失われました。4月16日に旅団はボローニャ(Bologna)東方のメディチーナ(Medicina)の防衛線から西方へと撤退し、4月21にはボローニャも陥落しました。旅団はポー河の防衛線へと後退し、最後はポー河の北でイギリス第8軍部隊に降伏しました。


5.イタリア製突撃砲
 TAMIYAの模型でもおなじみのセモベンテ(Semovente)とは、イタリア語で「自走式の」を意味する形容詞で自走砲車両全般を指します。ドイツ陸軍のⅢ号突撃砲の活躍に刺激されたイタリア陸軍でも装甲化した歩兵支援の自走砲の開発に着手し、当時最新式のM13/40中戦車の車体に18口径75ミリ砲を搭載したセモベンテM40が開発され、1941年から生産が開始されました。その後基本車体となるM13/40中戦車の変化に合わせてM14/41からセモベンテM41、M15/42からセモベンテM42が開発され、指揮・観測用のカルロ・コマンド(指揮戦車)と合わせて1941年に60両、1942年に152両、1943年9月のイタリア休戦までに約60両の合計約272両が完成し、休戦後もRSI側でさらに55両が生産されました。全体的に武装が貧弱なイタリア軍の車両の中で、数少ない有効な車両としてイタリア休戦後はドイツ軍が接収して有効に使用しました。また、34口径75ミリ砲を搭載したセモベンテM42後期型はドイツ軍の管理下で1945年4月まで生産が続けられ、約50両が生産されました。

 セモベンテM43は1942年に開発中のP40重戦車の車体を流用して105mm榴弾砲を搭載する自走砲として計画されました。しかしP40重戦車の開発の遅れからM15/42中戦車の車体を流用するように計画は変更され、車体幅を拡大して105mm榴弾砲が搭載されました。1943年9月のイタリア休戦により26両がドイツ軍に接収され、さらにドイツ軍の管理下で91両が追加生産されました。

 ドイツ軍の各部隊で使用されたセモベンテにはドイツ軍の正式名称も次のように付与されました。
StuG M42 75/18 851(i):18口径75mm砲搭載M40、M41、M42
StuG M42 75/34 852(i):34口径75mm砲搭載M42後期型
StuG M43 105/25 853(i):25口径105mm榴弾砲搭載M43


参考資料
続ラスト・オブ・カンプフグルッペ(大日本絵画 2015年)
Viva! 知られざるイタリア軍(イカロス出版 2012年)
ドイツ空挺部隊戦場写真集(潮書房光人社 2012年)
第2次大戦イタリア軍装備ファイル(ガリレオ出版 2008年)
突撃砲兵〈下〉(大日本絵画 2002年)
ストーミング・イーグルス―ドイツ降下猟兵戦史(大日本絵画 1993年)
Italian Armour in Geramn Service 1943-1945(Mattioli 1885 S.p.A 2005年)
Sturmgeschütze vor!(J.J. Fedorowicz 1999年)


2013.12.30 新規作成
2016.4.22 第21降下突撃砲旅団を修正

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/