泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

総統擲弾兵旅団「FGB」/総統擲弾兵師団「FGD」
Panzer Brigade “Fuhrer Grenadier Brigade”
Panzer Division “Fuhrer Grenadier Division”

1.創設
 1943年4月、最初に「総統擲弾兵大隊」が編成され、その後1944年7月10日には大隊はコトビュス(Cottbus)で機甲擲弾兵補充旅団「グロースドィッチェラント」から兵員の補充を受けて「総統擲弾兵連隊」に拡大されました。さらに9月1日には「総統擲弾兵旅団」(Fuhrer Grenadier Brigade)へと拡大され、パンター戦車を装備した第3戦車大隊が追加されるなどにより下記のような編成となりました。


総統擲弾兵旅団「FGB」の編成(1944年9月現在)

旅団司令部/司令部中隊
第1擲弾兵大隊:装甲兵車装備
第2擲弾兵大隊
第3戦車大隊
  大隊本部/対空小隊:W号対空戦車(3.7cm)
  第1中隊〜第3中隊:パンター−36両装備
  第4中隊:W号戦車/70(V)−11両装備
第14重歩兵砲中隊
第15対空中隊
第16機甲工兵中隊
第17偵察中隊
第18通信中隊
第19修理工場中隊
第20輸送中隊
第21衛生中隊


2.総統擲弾兵旅団
 総統擲弾兵旅団は1944年10月中旬から第4軍の下で東プロシアのグムビネン近くを突破したソ連軍に対する防衛戦闘に参加した後、11月末には休養と再装備のためコトビュスに後退しました。旅団はここでさらに拡大され、12月11日から17日かけて「ラインの守り作戦」に備えて西部戦線に移動した際には、2個擲弾兵大隊からなる1個機甲擲弾兵連隊と1個自転車大隊(第929擲弾兵大隊)を中心に、1個砲兵大隊と1個高射砲大隊からなる砲兵連隊、戦車連隊などにより下記のような編成となりました。【補足−1】


総統擲弾兵旅団「FGB」の編成(1944年12月現在)

旅団司令部/司令部中隊
機甲擲弾兵連隊「FGB」
  第1機甲擲弾兵大隊:装甲兵車装備
  第2機甲擲弾兵大隊
第929擲弾兵大隊
  第1中隊/第2中隊/第3中隊:自転車装備
  第4重装備中隊
戦車連隊「FGB」【補足−2】
  第1大隊:W号戦車×11両、パンター×37両、ヤークトパンター×若干
  第2大隊(第911突撃砲旅団で代用):突撃砲×34両【補足−3】
    第1中隊/第2中隊/第3中隊/随伴歩兵中隊
機甲砲兵連隊「FGB」
  第1砲兵大隊
    第1中隊/第2中隊:牽引10.5cm野砲装備
    第3中隊:牽引15cm野砲装備
  第2高射砲大隊
    第1中隊/第2中隊:自走軽高射砲装備
    第3中隊:8.8cmFlak装備
訓練大隊「FGB」(3個中隊)
衛生隊「FGB」/補給隊「FGB」/管理隊「FGB」
野戦憲兵隊「FGB」


 総統擲弾兵旅団は「ラインの守り作戦」では総司令部予備部隊となっており、旅団が戦線に投入されたのはすでにドイツ軍が守勢になってからでしたが、バストーユの救援を目指すアメリカ第3軍の第26歩兵師団を阻止するため、ハンダーシャイダーグルントのスール川にかかる橋を巡って12月26日まで激戦を展開し大損害を被りました。

3.総統擲弾兵師団
 1945年1月22日、旅団は東部戦線への移動命令を受け、総統護衛旅団、第21戦車師団などとともに東部戦線に移動し再編成に入りましたが、1月25日の時点で旅団の保有する戦力はW号戦車−2両とパンター8両、それに突撃砲−5両に過ぎませんでした。1945年1月30日、総統擲弾兵旅団は総統擲弾兵師団(Fuhrer Grenadier Division)に昇格しましたが、実質的な戦力の増強はなく師団になった時点で下記のような編成でした。【補足−4】


総統擲弾兵師団「FGD」の編成(1945年1月現在)

師団司令部/司令部中隊
機甲擲弾兵連隊「FGD」
  第1大隊:装甲兵車装備
  第2大隊
  第3大隊:自転車装備(第929擲弾兵大隊を編入)
第101戦車連隊(戦車連隊「FGB」を改称)【補足−5】
  第1大隊
    第1中隊/第2中隊/第3中隊:W号戦車とパンター装備
    第4中隊:W号戦車/70装備
第124機甲砲兵連隊
  第1大隊
  第2大隊
高射砲大隊
  第1中隊/第2中隊/第3中隊:8.8cmFlak装備
  第4中隊:自走軽高射砲装備
突撃砲兵旅団「FGD」(第911突撃砲旅団を改称):突撃砲装備

第101機甲偵察中隊
第124機甲通信大隊
第124野戦補充大隊
衛生隊「FBD」/補給隊「FBD」/管理隊「FBD」


 1945年1月12日からのソ連軍の大攻勢により、東部戦線はまたしても崩壊の危機にありました。早くも2月始めにオーデル河東岸に達したソ連軍に対して、2月15日から18日にかけて戦線の北翼では第11戦車軍による反撃作戦「ゾネンヴェンデ作戦」(Sonnewende)が実施されました。総統擲弾兵師団は総統護衛師団、SS第23義勇機甲擲弾兵師団「ネーデルラント」、SS第11機甲擲弾兵師団「ノルトラント」とともに参加し反撃作戦は限定的ながら一応の成功をおさめました。

 2月20日、師団は戦線から引き上げられてシュレージェン地方に緊急輸送され、オーデル河西岸の中央軍集団の戦区に移動し、第17軍でデッカー将軍の第39戦車軍団に配属されました。3月1日から4日にかけて、ゴルリッツの西のラウバンの鉄道を奪還する反撃作戦に参加しました。師団は第17戦車師団、第6国民擲弾兵師団などとともに第57戦車軍団と連絡して小規模な包囲陣を完成してソ連軍を撃退し、ラウバンの奪回に成功しました。この戦闘の後、師団は3月10日にはアンガーミュンデに移動し、3月13日にはシュテチン〜アルトダム橋頭堡での防衛戦に投入されました。3月15日の時点で師団の戦力は、第101戦車連隊の第1大隊はW号戦車×3両(内可動0両)、W号戦車/70×7両(内可動3両)、パンター×26両(内可動6両)を、対空小隊が対空戦車×3両(内可動2両)を保有し、突撃砲兵旅団「FGD」は突撃砲×34両(内可動16両)を保有していました。

 3月17日に師団はキュストリン西方地区に移動し、包囲されたキュストリン要塞奪回のための「ブーメラング作戦」に参加しました。作戦には第9軍の第20機甲擲弾兵師団、第25機甲擲弾兵師団、戦車師団「ミュンヘベルク」、戦闘団「千夜一夜」、SS第502重戦車大隊などの部隊が集められ、3月23日から3月27日まで2次にわたり奪回作戦が展開されましたが、ドイツ軍は大損害を出して撃退されました。

4.最後の戦い
 4月1日に師団はソ連軍の迫った南方軍集団戦区、オーストリアの首都ウィーンに移動して第6SS戦車軍の第2SS戦車軍団の所属となりました。4月6日にはソ連軍は早くもウィーン郊外に迫りましたが、あれほど強力であった第6SS戦車軍もすでにでがらし状態の編成であり、総統擲弾兵師団は今やウィーン周辺で最大戦力の部隊でした。


総統擲弾兵師団「FGD」の編成(1945年4月現在)

師団司令部/司令部中隊
機甲擲弾兵連隊「FGD」
  第1大隊:装甲兵車装備
  第2大隊
  第3大隊:自転車装備(第929擲弾兵大隊を編入)
第2総統戦車連隊(第101戦車連隊を改称)
  第1大隊:W号戦車とパンター装備
第2総統機甲砲兵連隊(第124機甲砲兵連隊を改称)
  第1大隊
  第2大隊
  高射砲大隊
突撃砲兵旅団「FGD」:突撃砲装備

第101機甲偵察中隊
第124機甲通信大隊
第124野戦補充大隊
衛生隊「FBD」/補給隊「FBD」/管理隊「FBD」


 ウィーンの防衛を指揮した第2SS戦車軍団のビトリヒ将軍は、ウィーンで激しい市街戦を戦うつもりはなく、それよりも北に繋がる中央軍集団との連絡を保ちながらソ連軍の突破による包囲を防止するのが重要で、今や戦線の重点はドナウ河北側で突破を狙うソ連第46軍の攻撃を食い止めることにかかっていました。総統擲弾兵師団は4月8日にはウィーン市街を離れてドナウ河北側に移動し、4月10日にはソ連軍の先鋒部隊を撃退するなどよく戦いました。4月13日にはウィーンからの撤退命令により最後に残っていた橋頭堡部隊もドナウ河北側に撤退して、ついにウィーンは陥落しました。
 その後も師団はソ連軍の攻撃をよく支えつづけ、アメリカ軍戦線への後退戦の後衛部隊をつとめてから、5月12日にはアメリカ軍に降伏しました。


【補足−1】
 この編成表は「Panzer Grenadier Division Grossdeutschland」(Squadron/Signal 1987)をもとにしています。ただし、この資料では「第929擲弾兵大隊」が「第829擲弾兵大隊」となつていますが、「バルジの戦い・上巻」(大日本絵画1993)や、「GD軍団史」の内容(櫻井隆志さんの情報)では第929擲弾兵大隊となっており、こちらの方を採用しました。
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【補足−2】
 戦車連隊「FGB」の第1戦車大隊は第1中隊から第3中隊までがパンター37両を装備し、第4中隊がW号戦車/70(V)−12両を装備していました。さらに突撃砲11両とW号戦車7両を装備するもう1個中隊があり、その他にW号対空戦車(3.7cm)4両を装備する対空小隊が含まれていました。この数字はあくまでも装備数と思われ、実際の可動数はもっと少なかったと考えられます。また、編成表との内容の差は研究の余地ありです。
出典:「Panzer Truppen-2」(Schiffer 1996)
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【補足−3】
第911突撃砲旅団

 1943年2月、第911突撃砲大隊が突撃砲補充大隊「ナイセ」により編成され、その基幹要員は第202突撃砲大隊の第1中隊から抽出されました。大隊は第11戦車師団に配属されてツィタデル作戦に参加し、その後のドニェプル河への撤退戦で目覚しい活躍をしましたがその代償は大きく、大隊は大損害を被りました。短い休養と再編成の後、大隊は引き続きドニェプル河の防衛戦に投入され、戦線の火消し役として各地を転戦し続けた後、1944年2月25日には第911突撃砲旅団と改称されました。
 その後もドニェプル河からルーマニアまでの苦しい後退戦を闘いましたが、1944年8月にはルーマニアの戦線離脱による戦線崩壊に巻き込まれる形で壊滅しました。
 旅団はその後メッケルン、ローブルクおよびアルテングラボウで再建されました。再建された第911突撃砲旅団は3個突撃砲中隊と3個歩兵中隊及び1個工兵小隊からなる1個随伴歩兵中隊により編成されており、12月17日の時点で突撃砲34両を装備していました。
 1944年12月、旅団は総統擲弾兵旅団に配属され、戦車連隊「FGB」の第2大隊として編入されて「ラインの守り作戦」に参加しました。1945年1月22日、再び東部戦線への移動命令が出るまでの戦いにより、旅団の戦力は突撃砲−5両にまで減少していました。
 1945年1月30日、総統擲弾兵旅団が総統擲弾兵師団に昇格した時点で、第911突撃砲旅団は突撃砲兵旅団「FGD」と改称され、師団固有の突撃砲部隊として編入されました。突撃砲兵旅団「FGD」はその後は最後まで総統擲弾兵師団と行動を共にしました。
出典:「突撃砲兵・下巻」(大日本絵画 2002)
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【補足−4】
 この編成表は主として「Die Gepanzerten und Motorisierten Deutschen Grossverbande」(Podzun 1986)をもとにしています。戦車連隊についてはこの資料では「第102戦車連隊」となっていますが、「Panzer Truppen」等の資料により「第101戦車連隊」としました。
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【補足−5】
 「Panzer Truppen」によると1月27日現在の戦車大隊の装備状況は、第1中隊から第3中隊までがW号戦車−5両とパンター−18両、第4中隊がW号戦車/70−13両を装備していました。その他に対空小隊が対空戦車(3.7cm砲)−4両を装備していました。
 その後2月16日の時点で第1中隊と第2中隊がパンター各14両、第3中隊と第4中隊がW号戦車各14両を装備しており、2月15日にヤークトパンター10両、2月17日にはパンター16両の補充車輌を受領しました。
出典:Panzer Truppen-2(Schiffer 1996)
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参考資料(2007.5.4)
突撃砲兵・下巻(大日本絵画 2002)
PANZER1998年11月号 グロスドイッチュラント(アルゴノート社 1993)
モデルアート臨時増刊・パンターモデルフーベル(モデルアート社 1995)
グランドパワー1994年8月号 豹の分布図(デルタ出版 1994)
バルジの戦い・上巻(大日本絵画 1993)
PANZER1993年6月号 グロスドイッチュラント機甲擲弾兵師団(サンデーアント社 1993)
戦車マガジン別冊・シュトルム&ドランクシリーズ-5 パンター(デルタ出版 1992)
最終戦(フジ出版社 1980)
Panzer Truppen-2(Schiffer 1996)
Panzer Grenadier Division Grossdeutschland(Squadron/Signal 1987)
Die Gepanzerten und Motorisierten Deutschen Grossverbande(Podzun 1986)
Battle of the Bulge Then and Now(After the Battle 1984)


1999.12.19 新規作成
2000.4.20 参考資料を追加。捕捉を追加。
2007.5.4 参考資料を追加。
2009.7.8 補足を別頁に分離。改訂第3版公開。

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