泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

総統護衛旅団「FBB」/総統護衛師団「FBD」
Panzer Brigade "Fuhrer Begleit Brigade"
Panzer Division "Fuhrer Begleit Division"

1.創設
 戦時における総統大本営の警護を目的とした総統護衛戦隊は歩兵連隊「グロースドイッチェラント」と空軍の連隊「ゲネラルゲーリング」からの分遣隊により1939年8月23日に編成され、9月のポーランド戦役で実戦に出動しました。ポーランドからの帰還後の1939年10月1日に総統護衛戦隊は総統護衛大隊に拡大され、次のような編成となりました。


総統護衛大隊(1939年10月)

総統運営戦隊(本部中隊):1個警備小隊を含む
第1狙撃兵中隊
第2快速中隊:3個オートバイ狙撃兵小隊、第4小隊(装甲車装備)
第3重装備中隊
総統護衛(高射砲)中隊(連隊「ゲネラルゲーリング」第7中隊):自走2cmFlak38装備

鉄道高射砲列車T(連隊「ゲネラルゲーリング」第9中隊)
鉄道高射砲列車U(連隊「ゲネラルゲーリング」第9中隊)


 1940年には総統護衛大隊向けとしてVOMAG社の6輪大型バス(NAG900)のシャーシに8.8cmFLAK36を搭載した自走重高射砲が開発され、1940年初めに21両〜24両が製造されました。当初は総統車列の防空用随伴車両として配属が計画されましたが、1940年6月のフランス降伏により配属は中止され、この車両は第42高射砲連隊に配属されてドレスデンの都市防空任務に従事しました。
 総統護衛大隊は西方戦役後にパリに駐屯し、ソ連侵攻作戦「バルバロッサ作戦」の開始によりオストプロイセンのラステンブルク近郊に総統大本営「ヴォルフスシャンツェ」が開設されたのに伴い、1941年6月に「ヴォルフスシャンツェ」に移動し警備任務に従事しました。
 1941年5月12日には大隊に戦車中隊が第4中隊として新設され、ポーランド戦で捕獲された7TP(p)戦車×21両が配備されました。しかしバルバロッサ作戦開始に伴い6月18日には装備戦車は早くも38(t)戦車に変更され、その後V号戦車へと更新されました。総統護衛大隊は1941年〜42年の冬に戦闘団「ネーリング」として東部戦線のヴォルホフの前線へも投入され、1942年〜43年の冬にもドネツ河戦線のカラチ〜ロストフ〜ハリコフ地域での戦闘に投入されました。【補足−1】
 1942年末には大隊のうち総統大本営の防空を担当していた空軍部隊の再編成に伴い、空軍の総統護衛(高射砲)中隊は「総統高射砲大隊」の第7中隊となり、鉄道高射砲列車部隊は高射砲連隊「ヘルマンゲーリング」第15(鉄道)高射砲中隊と改称され引き続き防空任務に従事しました。
 
 総統護衛大隊は1944年6月1日から「総統護衛連隊」に拡大され、11月にはさらに「総統護衛旅団」(Fuhrer Begleit Brigade)に拡大されることとなりました。11月28日の時点で戦闘団「総統護衛旅団」は第1大隊第5中隊にW号戦車−17両とW号戦車/70(A)−5両を装備していましたが、12月の編成完了時にはグロースドィッチェラント師団の戦車連隊「グロースドィッチェラント」から第2戦車大隊を編入して強化されました。さらに「総統高射砲連隊」も編入して本格的な実戦部隊編成となるとともに、旅団長にはヒトラー総統暗殺未遂事件で一躍名をあげたオットー・エアンスト・レーマー大佐(のちに少将)が就任しました。

2.総統高射砲大隊
 総統大本営の防空任務には第604高射砲連隊第1重高射砲大隊が投入されており、この大隊は1942年末に「総統高射砲大隊」と改称されました。このとき総統護衛大隊の総統護衛(高射砲)中隊も総統高射砲大隊の第7中隊として編入され、さらに連隊「ヘルマンゲーリング」の警備大隊から第2中隊が抽出され、総統高射砲大隊の第8(警備)中隊として編入されました。【補足−2】
 一方、高官専用列車の護衛を任務とする連隊「ゲネラルゲーリング」第9中隊所属の2個鉄道高射砲列車は総統高射砲大隊へは編入されず、1942年から高射砲連隊「ヘルマンゲーリング」第15(鉄道)高射砲中隊と改称され、引き続き総統大本営にとどまり高官専用列車の防空任務を担当しました。


総統高射砲大隊(1942年末)

大隊本部/本部中隊
第1中隊(第604高射砲連隊第1中隊):8.8cmFlak装備
第2中隊(第604高射砲連隊第2中隊):8.8cmFlak装備
第3中隊(第604高射砲連隊第3中隊):8.8cmFlak装備
第4中隊(第604高射砲連隊第6中隊):8.8cmFlak装備
第5中隊(第604高射砲連隊第4中隊):8.8cmFlak装備
第6中隊(第604高射砲連隊第5中隊):8.8cmFlak装備
第7中隊(連隊「ゲネラルゲーリング」第7中隊):2cmFlak装備
第8中隊(連隊「ヘルマンゲーリング」警備大隊の第2中隊):警備中隊
第9中隊(第604高射砲連隊第7中隊):2cmFlak装備
第10中隊(第604高射砲連隊第8中隊):2cmFlak装備


 総統高射砲大隊は1943年には師団「ヘルマンゲーリング」の高射砲連隊「ヘルマンゲーリング」第4大隊として編入されましたが、部隊は引き続き総統大本営に配置されて総統大本営の防空任務を担当しました。
 1944年、東部戦線はソ連軍の攻勢により後退を続けており、11月になると総統大本営のあるラステンブルク/オストプロイセン国境にもソ連軍が迫りました。1944年11月20日にはヒトラー総統は特別列車でベルリンへ移動し、「ヴォルフスシャンツェ」の警護を担当していた部隊は野戦部隊に編入されました。総統高射砲大隊(高射砲連隊「ヘルマンゲーリング」第4大隊)は総統高射砲連隊へと拡大、改称された後「総統護衛旅団」に編入されることとなり、この時点で次のような編成となりました。


総統高射砲連隊(1944年秋)

連隊本部/本部中隊
第1大隊
  第1中隊:8.8cmFlak装備
  第2中隊:8.8cmFlak装備
  第3中隊:8.8cmFlak装備
  第4中隊:8.8cmFlak装備
第2大隊
  第5中隊:2cm自走Flak装備
  第6中隊:2cm自走Flak装備(旧連隊「ゲネラルゲーリング」第7中隊)
  第7中隊:3.7cm自走Flak装備


 その後1944年末に連隊は14個中隊までさらに拡大され、従来の第7中隊は第12中隊となりましたがその詳細は不明です。【補足−3】

3.オットー・エアンスト・レーマー
 オットー・エアンスト・レーマーは1912年8月18日、ノイブランデンブルクに生まれ、1932年に陸軍に入隊しました。その後1942年4月、少佐としてグロースドィッチェラント第1擲弾兵連隊の第4大隊の大隊長に就任し、1943年2月半ばからは第1大隊の大隊長に就任しました。ハリコフの戦いではSS戦車軍団がほぼ完全に包囲されたハリコフから脱出するのを援護し、その後のハリコフ奪回戦でも大隊を指揮してみごとな戦いぶりで名をあげ、この功績により1943年5月13日に騎士十字章を受章しました。
 レーマー少佐はツィタデル作戦とその後の後退戦でも大隊を巧みに指揮し、クリヴォイログ付近での戦闘の功績により1943年11月12日には騎士十字章に柏葉章が追加されました。その後、連隊がブーク河に向かって後退中の1944年3月、レーマー少佐はベルリンの警備大隊「グロースドィッチェラント」の大隊長に転属しました。

 1944年7月20日、ヒトラー総統暗殺未遂事件が発生した時、レーマー少佐は反乱側の主張に確信が持てないまま、警備大隊「グロースドィッチェラント」の分遣隊を率いて宣伝省の制圧に向かいました。しかし、宣伝省ではゲッペルスの説得に応じて総統大本営に直接電話をかけヒトラー総統の生存を確認すると、ヒトラー総統はレーマー少佐をその場で大佐に昇進させるとともに、反乱鎮圧の全権が与えられました。そしてその日の夜には反乱の中心であったベンダーブロックの補充軍本部が制圧され、反乱首謀者は一斉に検挙されて処刑されました。
 この功績により「グロースドィッチェラント」師団の擲弾兵連隊に復帰する予定であったレーマー大佐は新編成の総統護衛旅団の旅団長に任命されました。しかし中隊や大隊の指揮官としては有能なレーマー大佐でしたが、それより大きな部隊の指揮官としては正式な訓練を全くうけておらず、旅団や師団を適切に指揮することは最後まで出来ませんでした。

4.総統護衛旅団
 1944年12月、編成が完了した総統護衛旅団はオストプロイセンから西部戦線に移動し、アイフェル高地のダウン地区で再訓練を行いつつヒトラー総統の大博打「ラインの守り作戦」に備えることとなり、この時点で旅団は下記のような編成となっていました。【補足−4】


総統護衛旅団「FBB」(1944年12月)

旅団司令部/司令部中隊
機甲擲弾兵連隊「FBB」
  第1機甲擲弾兵大隊
  第2機甲擲弾兵大隊
第928擲弾兵大隊
  第1中隊/第2中隊/第3中隊:自転車装備
  第4重装備中隊
戦車連隊「FBB」
連隊本部/対空小隊:対空車輌×8両
  第1大隊(GD第2大隊から転属):W号戦車×23両、突撃砲×20両
    第1中隊/第2中隊/第3中隊/第4中隊【補足−5】
  第2大隊(第200突撃砲旅団で代用):W号突撃砲×28両
    第1中隊/第2中隊/第3中隊/第4中隊【補足−6】
砲兵大隊「FBB」
  第1中隊/第2中隊:10.5cm野砲(牽引)
  第3中隊:10.5cm野砲(ROS牽引)
総統高射砲連隊
  第1中隊:自走2cm四連装Flak
  第2中隊/第3中隊/第4中隊:自走2cmFlak
  第5中隊/第6中隊/第7中隊:8.8cmFlak(牽引)
野戦補充大隊「FBB」
衛生隊「FBB」/補給隊「FBB」/管理隊「FBB」


 「ラインの守り」作戦では総司令部予備兵力としてサン・ビトの攻略戦、続いてバストーニュの攻防戦に参加しましたが、その立派な旅団名とは裏腹に実力が伴っていませんでした。旅団の兵員は野戦訓練も実戦経験も不足しており、旅団長のレーマー大佐の指揮のまずさもあっていたずらに損害ばかりが増加していたのが実情だったようです。

5.総統護衛師団
 1945年1月22日、旅団は東部戦線への移動命令を受け、総統擲弾兵旅団、第21戦車師団などとともに東部戦線に移動し1月30日には旅団から総統護衛師団(Fuhrer Begleit Division)に昇格しました。しかし、師団に拡大されたといっても実質的な戦力の増強はなく、師団になった時点では下記のような編成でした。【補足−7】


総統護衛師団「FBD」(1945年1月)

師団司令部/司令部中隊
第100機甲擲弾兵連隊「FBD」
  第1擲弾兵大隊:装甲兵車装備
  第2擲弾兵大隊:
  第3擲弾兵大隊:自転車装備(第928擲弾兵大隊を編入)
第102戦車連隊「FBD」
  第1大隊
  第1中隊/第2中隊/第3中隊:W号戦車×15両、W号戦車/70(A)×23両(2月からパンター×30両)
第120機甲砲兵連隊(第1036特別編成砲兵司令部、砲兵大隊「FBB」、第423砲兵大隊、第500機甲砲兵連隊第2大隊より)
  第1大隊(第234砲兵連隊第1大隊より)
  第2大隊(第5砲兵連隊第2大隊より)
  第3大隊(第184砲兵連隊第3大隊より)
総統高射砲連隊
  第1中隊:自走2cm四連装Flak
  第2中隊/第3中隊/第4中隊:自走2cmFlak
  第5中隊/第6中隊/第7中隊: 8.8cmFlak(牽引)
第673重戦車駆逐大隊(第200突撃砲旅団を改称):W号戦車/70装備
第1中隊/第2中隊/第3中隊
第102機甲偵察中隊:各種装甲車両装備
第124機甲工兵大隊
第120機甲通信大隊
第120野戦補充大隊(3個訓練中隊)
衛生隊「FBD」/補給隊「FBD」/管理隊「FBD」


 1945年1月12日、ソ連軍の大攻勢が始まり東部戦線はまたしても崩壊の危機にありました。早くも2月始めにオーデル河東岸に達したソ連軍に対して、2月15日から18日にかけて戦線の北翼では第11戦車軍による反撃作戦「ゾンネヴェンデ(Sonnewende)」作戦が実施されました。総統護衛師団は総統擲弾兵師団、SS第23義勇機甲擲弾兵師団「ネーデルラント」、SS第11機甲擲弾兵師団「ノルトラント」などとともに参加し、反撃作戦は限定的ながら一応の成功をおさめました。

6.最後の戦い
 その後師団はオーデル河西岸の中央軍集団の戦区に移動し、第17軍の第57戦車軍団に所属して3月1日から4日にかけてゴルリッツの西のラウバン(Lauban)の鉄道を奪還する反撃作戦に参加しました。第57戦車軍団は総統護衛師団、第8戦車師団、第103戦車旅団、師団番号第408部隊からなり、この戦いでは第8戦車師団が総統擲弾兵師団と連絡して小規模な包囲陣を完成してソ連軍撃退に成功しました。しかし、この時第1戦車軍司令官のヴアルター・ネーリング将軍はレーマー少将(昇進)には「師団を指揮する技術があきらかに欠けている」と痛烈な批判をしています。
 1945年3月15日の時点で、師団には突撃砲×43両(内可動×20両)、W号戦車×10両(内可動×7両)、W号戦車/70(A)×20両(内可動×12両)、対空戦車×5両(内可動×2両)、パンター×20両(内可動×10両)があり、この時期としては割とまとまった戦力を維持していました。


総統護衛師団「FBD」(1945年4月)

師団司令部/司令部中隊
第1総統機甲擲弾兵連隊(第100機甲擲弾兵連隊「FBD」を改称)
  第1擲弾兵大隊:装甲兵車装備
  第2擲弾兵大隊:
  第3擲弾兵大隊:自転車装備
第1総統戦車連隊(第102戦車連隊「FBD」を改称)
  第1大隊
  第1中隊/第2中隊:パンター装備
  第3中隊/第4中隊:W号戦車装備
第1総統機甲砲兵連隊(第120機甲砲兵連隊を改称)
  第1大隊
  第2大隊
  第3大隊
総統高射砲連隊
第1総統戦車猟兵大隊(第673重戦車駆逐大隊を改称)
第102機甲偵察中隊:各種装甲車両装備
第124機甲工兵大隊
第120機甲通信大隊
第120野戦補充大隊(3個訓練中隊)
衛生隊「FBD」/補給隊「FBD」/管理隊「FBD」


 その後は中央軍集団の戦区を転戦して防衛戦を続け、4月16日からのソ連軍最後の大攻勢の時点には第4戦車軍の予備部隊となっており、コトブスの南約20kmのシュプレンベルクの東に布陣していました。第1ウクライナ正面軍の攻撃によりナイセ河の戦線はたちまち突破され、師団は北東方向に圧迫されて4月19日には後退してきた様々な部隊とともに包囲されてしまいました。
 師団は同時に包囲された第344歩兵師団の一部、SS第10戦車師団「フルンツベルク」とともにヨラッセ中将を指揮官とする「ヨラッセグループ」を編成しましたがもはやソ連軍の進撃を阻止するだけの戦力はなく、4月21日にはグロスドィッチェラント軍団がいるはずのゼンフテンベルクを目標に南西方向への脱出作戦が実施されたときには、燃料の欠乏により多数の戦車と車輌を残していくしかありませんでした。
 師団はこの脱出戦で壊滅状態となり、師団長のレーマー少将はわずかの兵とともに徒歩で後退して5月3日にドレスデンにたどり着きました。


【補足−1】
 1941年5月12日、総統護衛大隊に戦車中隊(K.St.N.1172)が第4中隊として新設され、ポーランド戦で捕獲された7TP(p)戦車×21両が配備されました。しかしバルバロッサ作戦開始に伴い6月18日付けの命令により装備刷新が行われることとなり、早くも翌6月19日には中隊はウェンスドルフの戦車学校へと送られ、教導中隊から38(t)戦車×16両が編入されました。
出典:「PANZER TRACTS No.19-1」(Panzer Tracts 2007)

 戦車中隊の装備戦車はその後V号戦車へと変更されており、1942年〜43年のドン河戦線での防衛戦において総統護衛大隊(GD)の第5(戦車)中隊はV号戦車を装備していました。中隊は1942年12月20日から第27戦車師団の戦闘団「メンペル」とともにチェルトコヴォにおいて包囲されましたが、包囲下の戦闘団は1月13日夜にベロヴォドスク付近の第19戦車師団の戦区まで突破して味方戦線に合流することに成功しました。
出典:バトル・オブ・カンプフグルッペ第9回:吹雪の中の幻影・後編 アーマーモデリング2003年11月号(大日本絵画)
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【補足−2】 
 連隊「ゲネラルゲーリング」は1942年3月1日より増強連隊「ヘルマンゲーリング」、7月21日より旅団「ヘルマンゲーリング」、10月17日より師団「ヘルマンゲーリング」と順次拡大されました。
出典:ヘルマンゲーリング戦車師団史・上巻(大日本絵画 2007)
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【補足−3】
 総統護衛旅団に配属された連隊は7個中隊で構成されており、14個中隊に拡大された連隊がどのように運用されたのかはわかりません。
 1945年1月〜2月、総統高射砲連隊の主力は作戦軍団「ムンツェル」(総統護衛師団及び総統擲弾兵師団により構成)に配属されてヒンターポンメルンにあり、連隊の第1中隊、第2中隊、第4中隊、第5中隊、第8中隊、第9中隊はシュレージェンでの防衛戦に投入されていました。
出典:ヘルマンゲーリング戦車師団史・上巻(大日本絵画 2007)
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【補足−4】
 この編成表は「Panzer Grenadier Division Grossdeutschland」をもとにしています。ただし、この資料では「第928擲弾兵大隊」が「第828擲弾兵大隊」となっていますが、「バルジの戦い・上巻」(大日本絵画1993)や「GD軍団史」の内容(櫻井隆志さんからの情報)をもとに第928擲弾兵大隊の方を採用しました。
出典:Panzer Grenadier Division Grossdeutschland(Squadron/Signal 1987)
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【補足−5】(2000.4.15)
 1944年11月28日の時点で旅団固有の戦車中隊(第5中隊)がW号戦車(長砲身)−17両、W号戦車/70−5両を装備していました。GD戦車連隊第2大隊から編入されたのは、W号戦車(長砲身)−7両、W号戦車/70−38両からなる3個中隊で、合計でW号戦車(長砲身)−24両、W号戦車/70−43両を装備していたことになります。
 その他に連隊本部の対空小隊がW号対空戦車(2cm4連装)−4両、W号対空戦車(3.7cm)−4両を装備していました。この数字はあくまでも装備数と思われ、実際の可動数はもっと少なかったと考えられます。また編成表との内容の差は研究の余地ありです。
出典:Panzer Truppen-2(Schiffer 1996)
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【補足-6】
第200突撃砲旅団
 旅団は1943年7月に第200突撃砲大隊としてパリで編成され、第21戦車師団に配属されていました。大隊は捕獲したフランス製の各種車輌から改造した自走砲を装備しており、1944年6月1日現在で4個中隊にオチキス38HまたはFCMシャーシ改造の7.5cmPak40搭載自走砲を各4両、オチキス38Hシャーシ改造の10.5cmLeFH18/40搭載またはFCMシャーシ改造の10.5cmLeFH16搭載自走砲を各6両装備していました。大隊はノルマンディーの戦いでほとんどすべての装備を失い、再編成の後「第931突撃砲旅団」と一時的に命名された後、「第200突撃砲旅団」と改称されました。
 1944年12月、旅団は新編成の「総統護衛旅団」に配属され、戦車連隊「FBB」の第2大隊として編入されました。1945年1月25日、「第200突撃砲旅団」は「第673重戦車駆逐大隊」と改称され、引き続き「総統護衛師団」に配属されていました。1945年2月現在、大隊は3個中隊から編成されており、各中隊はW号戦車/70を10両づつ装備していたようです。1945年4月頃、大隊は「第1総統戦車猟兵大隊」と改称され、最終的には「総統護衛師団」とともに壊滅しました。
出典:突撃砲兵・下巻(大日本絵画 2002)
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【補足-7】
 この編成表は「Die Gepanzerten und Motorisierten Deutschen Grossverbande」(Podzun 1986)をもとにして「Panzer Truppen-2」等の資料により補足・修正しました。
 第120機甲砲兵連隊と第673重戦車駆逐大隊については「Verba(e)nde und Truppen der deutschen Wehrmacht und Waffen-SS 1939-1945」(まけらいおんさんからの情報)の内容にもとづいています。
出典:Die Gepanzerten und Motorisierten Deutschen Grossverbande(Podzun 1986)
Panzer Truppen-2(Schiffer 1996)
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参考資料(2007.5.4)
ヘルマンゲーリング戦車師団史・上巻(大日本絵画 2007)
突撃砲兵・下巻(大日本絵画 2002)
グロースドイッチュランド師団写真史(大日本絵画 1999)
PANZER1998年11月号 グロスドイッチュラント(アルゴノート社 1998)
モデルアート臨時増刊・パンターモデルフーベル(モデルアート社 1995)
グランドパワー1994年8月号 豹の分布図(デルタ出版 1994)
バルジの戦い・上巻(大日本絵画 1993)
PANZER1993年6月号 グロスドイッチュラント機甲擲弾兵師団(サンデーアント社 1993)
戦車マガジン別冊・シュトルム&ドランクシリーズ-5 パンター(デルタ出版 1992)
最終戦(フジ出版社 1980)
Sturmgeschutz vor!(J.J.Fedorowicz Publishing 1999)
Panzer Truppen-2(Schiffer 1996)
Panzer Grenadier Division Grossdeutschland(Squadron/Signal 1987)
Die Gepanzerten und Motorisierten Deutschen Grossverbande(Podzun 1986)
Battle of the Bulge Then and Now(After the Battle 1984)
Verba(e)nde und Truppen der deutschen Wehrmacht und Waffen-SS 1939-1945


1999.10.16 新規作成
1999.10.21 一部訂正:総統高射砲連隊の編成を訂正
1999.11.23 参考資料を追加
1999.12.19 改訂版公開
2000.4.15 参考資料を追加、補足を追加のほか一部改訂
2001.1.31 一部改訂
2008.7.27 参考資料を追加、改訂第3版公開
2009.1.11 改訂第4版公開
2021.12.19 一部追記
2022.3.30 一部追記

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