泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

フォン・ブローホ師団/フォン・マントイフェル師団
Division "von Broich"
Division "von Manteuffel"

1.設立

 1942年11月8日、連合軍が北西アフリカへ上陸しエジプトから撤退中のアフリカ機甲軍はその背後を脅かされる状況となっていました。西から迫る連合軍を阻止するため、ドイツ軍はチュニジアに防衛線を構築すべく11月14日にネーリング将軍の第90軍団を設立して、第5降下猟兵連隊の第1大隊と第3大隊、南方軍総司令官護衛第3中隊など、ともかく手持ちの兵力を次々と投入しました。
 北部のビゼルタでは橋頭堡に送られた様々な独立部隊を統括する上級司令部として1942年11月11日に「レーデラー司令部」(Stab Lederer)が設立されました。レーデラー大佐は橋頭堡確保のため最初にチュニジアに飛んだ陸軍の先任将校でしたが、到着当初は部隊はおろか本部組織も備品もない状態で多くの任務を背負わされました。


ビゼルタ橋頭堡部隊(1942年11月13日)

レーデラー司令部
チュニジア野戦大隊の1個中隊
第190戦車大隊第4中隊(兵員のみ)
第190砲兵連隊第5中隊
第2砲兵連隊第4中隊(第22砲兵連隊?)
イタリア軍「インペリアーリ」師団 第557自走砲兵大隊
イタリア軍「青年ファシスト」師団 第136戦車駆逐大隊


 11月13日〜16日の間に、ビゼルタには降下猟兵連隊「バレンティン」や第11航空軍団直轄の降下工兵大隊が到着し、司令部は11月16日からは「シュトルツ司令部」と改称した後、11月18日からは新たに着任したフォン・ブローホ大佐を指揮官として「フォン・ブローホ狙撃兵旅団本部」となりました。
 その前日の11月17日14時30分には独伊混成の偵察部隊がジェベル・アビオドで始めてイギリス軍と遭遇し、ここにチュニジアで始めての地上戦が始まりました。ドイツ軍は降下工兵大隊のヴィツィッヒ少佐が率いる戦闘団が駆けつけ、イギリス軍との間で砲撃戦が展開されました。


ヴィツィッヒ集団(1942年11月17日)
Gruppe Witzig

降下工兵大隊の第1中隊と第4中隊
第190戦車大隊第4中隊(13日以降W号戦車が到着)
第190砲兵連隊第5中隊
イタリア軍(?)対戦車自走砲中隊
対空砲(2cm)中隊


 「フォン・ブローホ狙撃兵旅団本部」はチュニジアに送られた様々な独立部隊のうち、北部のビゼルタ橋頭堡の部隊を統括する上級司令部として開設され、指揮官のフォン・ブローホ大佐(43年1月1日付で少将に昇進)の名前から師団に拡大された際には「フォン・ブローホ師団」と命名されましたが、その実態は空軍の降下猟兵連隊「バレンティン」と第11航空軍団直轄の降下工兵大隊を中心とした寄せ集めにすぎませんでした。


フォン・ブローホ師団(1943年1月30日)【補足−1】
Division "von Broich"

師団司令部
降下猟兵連隊「バレンティン」(第11降下猟兵軍団から抽出)
  第1歩兵大隊(4個中隊)
  第2歩兵大隊(4個中隊)
  第3戦車猟兵大隊
歩兵大隊T3(アラブ人義勇兵で編成)
第2自動車化砲兵連隊の第2、第4および第12中隊
第190自動車化砲兵連隊の第4中隊
自動車化偵察中隊
第11降下工兵大隊
第190機甲通信大隊
第10ベルサリエリ連隊(イタリア軍)
  戦車猟兵小隊
  第16歩兵大隊
  第34歩兵大隊
  第63歩兵大隊
  火炎放射中隊(資料の原文ではFla-Kompaie)
  迫撃砲中隊
  機関銃中隊
  空軍対空砲小隊
  オートバイ伝令小隊
  通信小隊
  修理工場小隊
第215修理工場小隊
師団補給隊


2.フリッツ・フライヘア・フォン・ブローホ大佐
Friedrich(Fritz) Freiherr von Broich

 フリードリッヒ(フリッツ)・フライヘア・フォン・ブローホ大佐は1986年1月1日シュトラースブルク(つまりフランス・アルザス地方のストラスブール)で生まれました。「von Broich」の姓はこの地方に由来した姓とのことで、「フォン・ブロイヒ」ではなくてフランス風に「フォン・ブローホ」と読むそうです。【補足−2】
 フォン・ブローホは第1次世界大戦中の1914年1月に士官学校(Fahnenjunker)に入学し、1914年7月2日付けで士官候補生として第9騎兵連隊に配属され、1914年12月24日付けで少尉に任官しました。この年には第1級鉄十字章と第2級鉄十字章を受賞していますが詳細はわかりません。1918年10月13日の戦闘で負傷した後10月18日付けで中尉に昇進しました。戦後も騎兵連隊にとどまり1928年2月1日付けで騎兵大尉へと昇進しました。
 その後は1935年1月1日付けで少佐、1937年10月1日付けで中佐、1939年8月1日付けで大佐へと昇進しました。1938年11月12日から1939年8月26日まで第6騎兵連隊の第2大隊長を務め、大隊の改編により第34偵察大隊(第34歩兵師団)となった後も引き続き大隊長を務めました。その後第1騎兵師団に戻り、師団の改編により第24戦車師団の第24装甲擲弾兵旅団長としてスターリングラードを目指し、1942年8月29日付けで騎士十字章を授与し1942年10月31日付けで予備指揮官となりました。
 それもつかの間、北アフリカの危機に際してチュニジアに派遣されることとなり、1942年11月10日に旅団長を拝命し、11月18日にはチュニジアで臨時編成部隊である「フォン・ブローホ狙撃兵旅団本部」に着任しました。その後1943年1月1日付で少将に昇進し、2月1日に第10戦車師団のフィッシャー中将が戦死したため、その後任として1943年2月3日から第10戦車師団の師団長を務めましたが師団は5月9日に降伏し、フォン・ブローホ少将は5月12日にイギリス軍の捕虜となりました。


3.フォン・マントイフェル師団

 1943年2月3日、フォン・ブローホ少将(1943年1月1日付で昇進)は第10戦車師団の師団長として転出したため、2月7日付けで新師団長としてフォン・マントイフェル大佐が就任し、これに伴い師団の名称も「フォン・マントイフェル師団」と改称されました。
 1943年2月26日から3月15日にかけての攻撃作戦「牡牛の頭」には師団の一部、第10ベルサリエーリ連隊と降下猟兵部隊が参加していますが、寄せ集めの師団の中にあって結局頼りになるのは、この2つの部隊だけというのが実情だったようです。


フォン・マントイフェル師団(1943年3月18日)【補足−3】
Division "von Manterffel"

師団司令部
降下猟兵連隊「バレンティン」
  第1歩兵大隊
  第2歩兵大隊
  第3歩兵大隊
第160機甲擲弾兵連隊
  A20機甲擲弾兵大隊(アラブ人義勇兵で編成)
  T3機甲擲弾兵大隊(アラブ人義勇兵で編成)
  T4機甲擲弾兵大隊(アラブ人義勇兵で編成)
第2砲兵連隊「アフリカ」第4大隊
空軍対空砲中隊
第11降下工兵大隊
第190機甲通信大隊
第10ベルサリエリ連隊(イタリア軍)
  第16歩兵大隊
  第34歩兵大隊
  第63歩兵大隊
  オートバイ伝令小隊
  通信小隊
  修理工場小隊
  行軍大隊(資料の原文ではMarsch Bataillon 要員補充部隊らしい)
輸送段列「ウェーバー」
第215修理工場中隊
衛生中隊「ブルガス」
師団補給隊
野戦郵便局


4.ハッソー・フォン・マントイフェル大佐
Hasso von Manteuffel

 ハッソー・フォン・マントイフェルは1897年1月14日、古都ポツダムで700年の歴史を誇り騎兵将軍を何名も輩出した名家、マントイフェル家でエッカルト・フォン・マントイフェル騎兵大尉を父として生まれました。1908年にニュールンベルグの陸軍幼年学校に入学し、1911年にはベルリンのリヒターフェルデ中央幼年学校に進学しました。
 第1次世界大戦が勃発した1914年の時点ではフォン・マントイフェルはまだ同校に在学中でしたが、1916年2月22日に卒業後、ブランデンブルク第3軽騎兵連隊に騎兵少尉として任官しました。ヴェルダンやソンムの戦いに参加しましたが1916年10月に前線で負傷し、翌1917年2月に快方後は第6歩兵師団の参謀として勤務し終戦を迎えました。
 大戦後は第18騎兵連隊、次に第3騎兵連隊に勤務し、1924年の終わりには連隊副官に任命されましたが、陸軍の機械化に適応することを選んだ騎兵将校でもありました。1932年10月1日に第17騎兵連隊「バンベルグ」の中隊長となり、この時期に連隊の2個中隊はオートバイ狙撃兵部隊に改編され、マントイフェルは初めて機械化部隊の指揮を体験すると同時に、1930年代には馬術競技の騎手としても名をあげました。

 第2次大戦前の数年間は少佐に昇進し、ウィーン第2戦車師団の下士官候補生課程で教鞭を取る傍ら、機甲兵総監部でも勤務していました。第2次大戦の勃発後、ソ連侵攻前に第7戦車師団の大隊長を拝命し、ソ連侵攻後の8月には第6狙撃兵連隊長を拝命し、10月1日付けで大佐に昇進しました。フォン・マントイフェルの連隊は11月末にモスクワの−ボルガ運河の橋を占領し、この戦功により12月31日付けで騎士十字章を授与されました。
 1942年7月からは第7戦車師団の指揮を執り、1942年/42年の冬の間はチュニジアに派遣されて「フォン・マントイフェル師団」の指揮を執りましたが、病気のため1943年4月末にドイツに帰国し、5月1日付けで少将に昇進後は8月に東部戦線の第7戦車師団の指揮官に復帰し「ツィタデレ作戦」、11月のジトミールの戦いの戦功により1943年11月19日付けで騎士十字章に柏葉章が追授与されました。
 1944年2月に中将に昇進し、2月1日付けで「グロスドイッチェラント戦車師団」の指揮官に任命され、キエフ〜ルーマニア〜オストプロイセンを転戦しました。1944年9月1日、装甲兵大将に昇進し西部戦線の第5戦車軍司令官を拝命し、「ラインの守り作戦」失敗後は部隊を首尾よく撤退させることに成功しました。1945年3月からは第3戦車軍司令官に任命され、ポメラニアでオーデル川を防衛しその後はエルベ川へと撤退し、終戦時にはイギリス軍に降伏しその後イギリスとアメリカで捕虜収容所生活を送り、1947年に釈放されました。


 1943年3月31日、フォン・マントイフェル少将は病気療養のためドイツ本国に帰国し、その後任としてブロウィウス(Bulowius)中将が師団長に就任しましたが、前任者たちのように「フォン」の付くドイツ貴族出身者ではなかったためか(?)今度は師団名の変更は行われませんでした。
 この時期に師団には北アフリカ戦線において数々の特殊作戦を展開し、特殊部隊として名高い熱帯大隊「ブランデンブルク」(第5中隊を除く)が配属されましたが、もはや特殊作戦を行う余裕はなく通常の歩兵部隊として戦闘に投入されました。なお、大隊の第5中隊はクールマン中尉指揮の水陸両用部隊で、ビゼルト西方での沿岸警備任務やタバルカ海峡での機雷施設任務に従事しており、5月8日には連合軍の海上封鎖を突破してシシリー島への脱出に成功しました。
 その後師団は戦線の北部で防衛戦を展開し、アフリカ軍集団が降伏する5月12日まで戦い続けました。3代目師団長のブロウィウス中将は師団に名前がつかないばかりか、またまた貧乏くじを引き当てて連合軍の捕虜になってしまいました。


【補足−1】
 この編成表は「Uniforms,Organization and History of the Afrikakorps」(R.James Bender Publishing 1973)をもとにしています。この本は古典的な資料本ですがその内容は現在でも十分に価値があり、「ロンメル戦車軍団DAK」(文林堂 1992)を初めとして多くの資料本がこの本の内容を下敷きとしているようです。
 「ベルサリエリ」はイタリア軍の中では精鋭部隊とされており、つまり「普通に使える」くらいのレベルの部隊でありました。(笑)また、第10ベルサリエリ連隊については「コマンドマガジン日本版26号」(国際通信社)によると第34、第56、第63の3個大隊による編成となっていますが、出典などは不明です。
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【補足−2】(1999.10.20)(2008.6.9)
 「グランドパワー1997年7月号」で北村裕司氏は、師団史によると「von Broich」の読み方は従来の「フォン・ブロイヒ」ではなくて「フォン・ブルーフ」であるとしていますので、それに従うことにします。その他師団には12月末の時点でビゼルタでフランス軍より捕獲した火砲を装備した砲兵部隊があったようですが詳細は不明です。また、2月5日とされていた第10戦車師団のフィッシャー中将の戦死した日付けは、2月1日が正しいと同じグランドパワー誌で指摘されています。
 「アーマーモデリング」連載中の「Panzerblatt」第97回(2007年12月号)において北村氏は「フォン・ブルーフ」を「フォン・ブローホ」と再訂正しています。大佐の生まれはシュトラースブルク(つまりフランス・アルザス地方のストラスブール)であり、ブローホの姓もその地方に由来するもので、フランス風の読み方となるそうです。

 アルザス・ロレーヌ地方(ドイツ語ではエルザス・ロートリンゲン地方)は1736年にそれまでの神聖ローマ帝国からフランス王国の領土となりました。この地方ではフランス語よりもドイツ語のフランク方言やスイス・ドイツ語に近いアレマン語が話されていました。1871年に普仏戦争でプロイセン王国が勝利しドイツ帝国の成立を宣言すると「帝国直轄領」となりましたので、フリッツ・フライヘア・フォン・ブローホが生まれた1896年時点ではドイツ領でした。1919年第1次世界大戦でフランスが勝利すると再度フランス領となりましたが、1940年にフランスが敗れたため再びドイツ領に編入され、1944年連合軍の進攻によりフランスが奪還し、第2時世界大戦後から現在まではフランス領となっています。
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【補足−3】(2000.9.9)
 Nafziger氏の「The German Order of Battle Infantry in World War U」(Greenhill Books 2000)を見ても「フォン・ブルーフ師団」と「フォン・マントイフェル師団」の編成については以前の資料と比較しても大きな違いはありませんが、細部に変化が見られるので一応新資料に合わせて一部訂正しました。
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参考資料(2001.9.9)
The German Order of Battle Infantry in World War U(Greenhill Books 2000)
コマンドマガジン日本版26号(国際通信社 1999)
グランドパワー1997年7月号(デルタ出版 1997)
グランドパワー1997年8月号(デルタ出版 1997)
航空ファンイラストレイテッド・ロンメル戦車軍団DAK(文林堂 1992)
Uniforms,Organization and History of the Afrikakorps(R.James Bender Publishing 1973)


1999.10.16 新規作成
1999.10.20 補足と一部訂正:北アフリカに上陸した連合軍は東ではなく「西」から迫っていたので訂正。「補足」を追加。
1999.11.23 改訂版:「参考資料」を追加。
2000.1.25 改訂2版:「フォン・ブロイヒ」を「フォン・ブルーフ」に「ベルサグリエリ」を「ベルサリエーリ」など一部訂正。
2001.9.9 改訂3版:「フォン・ブルーフ師団」の編成を一部修正、「補足その2」を追加、本文の内容を一部修正、「参考資料」に1冊追加。
2022.6.7 改訂4版:「フォン・ブルーフ師団」を「フォン・ブローホ師団」に訂正。参考資料を追加。補足の項目を整理。

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/