泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

クロアチア独立国空軍の降下猟兵
第1軽歩兵降下中隊/第1軽歩兵降下大隊

 ユーゴスラヴィアでの降下作戦といえばボスニアのドルヴァル(Drvar)で実施されたドイツ軍による「ロッセルスブルンク(Rösselsprung=ナイトの跳躍)作戦」でのSS第500降下猟兵大隊が有名です。それではクロアチア独立国空軍が独自の空挺部隊を保有していたのはご存知でしょうか?手軽な資料としておなじみの「MEN-AT-ARMS SERIES」の「AXIS FORCES IN YUGOSLAVIA 1941-5」には、クロアチア独立国空軍の部隊として降下猟兵中隊が1942年1月に編制されたことが記されています。
 「どーせドイツ降下猟兵のコピーでしょ?」というそこのあなた、甘い!(笑
実はこの部隊はユーゴスラヴィア王国時代に設立された降下猟兵中隊を起源としていました。それでは実際この降下猟兵中隊はどのような部隊だったのでしょうか?

1.降下猟兵部隊の設立
 ユーゴスラヴィア王国空軍時代の1926年9月2日、最初のパラシュート降下訓練が開始され、1939年には空軍降下学校及び訓練部隊がベオグラード近郊のパンチェボ(Pancevo)に開設されました。空軍降下学校は1940年末にはノービサード(Novi Sad)の空軍基地へと移動して訓練が続けられ、1941年3月1日には空軍降下学校から「第1軽歩兵降下中隊」が編成されました。中隊の編成定数は兵員180~190名で、3個小隊と1個支援小隊から編成され、支援火力として軽機関銃及びサブマシンガン×計12丁、重機関銃×2丁、歩兵砲×2門を装備する計画でした。しかし、実際に編成が完了したのは1個小隊のみで、戦時には第2中隊が編成され、2個中隊で335名の兵力まで拡大される計画もありましたが、この計画も実現はしませんでした。

 1941年4月6日、ユーゴスラヴィア王国はドイツ軍を中心とした枢軸国軍の侵攻を受け、4月17日には降伏してしまい降下部隊は出動の機会がないままサラエボで解隊されました。しかしクロアチア独立国が建国されると、クロアチア空軍内に再び降下猟兵部隊を創設する動きが始まり、5月から12月の間に降下部隊の創設が決定され、1942年1月には空軍の志願兵により「第1軽歩兵降下中隊」が編成されました。
 すべての志願兵は訓練開始前に健康診断と体力テストに合格する必要があり、その後志願兵たちはペトロヴァラディン(Petrovaradin)に送られ、ここで基礎訓練が開始されました。最初の志願兵への基礎訓練が行われるのと並行して、コプリブニツァ(Koprivnica)に降下学校が開設されました。
 以前は化学工場だったDanicaの工場跡地が接収され、1942年8月2日にはDolanski少佐とMirko Kudelic軍曹に指揮された22名の陸軍兵士が派遣されて古い工場跡地を降下部隊の訓練場と兵舎に改造する工事が始まりました。240メートルの長さの工場建物を改装するほか、木造兵舎と厩舎が建設され、隣接地には草地の降着地も準備されました。10月6日になると降下猟兵達は自身の降下学校のほかに、近隣の鉄道駅や飛行場の警備も担当することとなり、自転車化された1個分遣隊が派遣され、さらに北東約10kmのBotovo近くのドラバ川に架かる橋の警備任務も追加されました。

 1942年8月15日、Dolanski少佐とMirko Kudelic軍曹はドイツのプレンツラウ(Prenzlau)近郊のヴィットシュトック(Wittstock)のにある降下学校に送られ、ここで彼らはドイツ降下猟兵の訓練の教訓と戦術について学び、同年10月20日にはクロアチアへと帰還しました。中隊の最初の降下訓練は1942年11月26日にAvia Fokker 3発機「F7」を使用して行われ、以後この機体は中隊の専属機となり降下訓練は2グループに分かれて行われました。しかし1942年12月19日の降下訓練では2名の訓練生が墜落死する事故が発生し、訓練は一時中止されました。事故は上空の寒気により訓練生が降下中に気絶したことによりパラシュートの操作ができなかったことが原因と思われ、これにより旧ユーゴスラビア王国軍時代から使用されている降下服の性能不足が明らかとなり、装備の改良が急務となりました。
 1943年4月7日、「Knebl und Ditrih社」製の新型降下服やドイツ製重装備用コンテナを使用した訓練が再開されました。1943年7月6日には第1軽歩兵降下中隊によりザグレブのBorongaj飛行場で降下演習が行われました。今回は3機のAvia Fokker 3発機「F7」、「F9」、「F18」が使用され、合計45名の降下猟兵により実戦的な降下演習が行われ無事成功しました。この演習には国家指導者のアンテ・パヴェリチや枢軸同盟軍であるスロバキア空軍の代表団も出席し盛大なものとなりました。第1軽歩兵降下中隊では以後も新兵の募集と訓練が継続され、定員の充足が図られました。

・1943年7月6日の展示演習の動画(マーノシュ@Nasikandar_さんのツイッターより)

アンテ・パヴェリッチの訪問を受け、アヴィア社製フォッカーFⅦからパラシュート降下を披露するクロアチア独立国空軍の空挺部隊。独伊の傀儡国家ながら独自の空挺装備を持ち、専ら対パルチザン戦に従事した。 pic.twitter.com/d5LQhUxgDz

— マーノシュ (@Nasikandar_) March 22, 2020

2.クロアチア降下猟兵中隊の戦闘

 降下猟兵部隊の関係先でパルチザンによるの攻撃の最初の標的となったのは1941年7月19日に攻撃を受けたザグレブのS.Trebitsch and Son 工場で、ここではパラシュート用の絹織物を製造していましたが、この攻撃により長さ50km分のパラシュート用絹織物が失われる大きな損害を被りました。「第1軽歩兵降下中隊」への最初の攻撃は1943年9月3日にコプリブニツァ(Koprivnica)の降下学校に対して行われたもので、この攻撃により6名の降下猟兵が捕虜となりました。
 中隊が初めての本格的戦闘を経験したのは1943年11月のパルチザン部隊による攻撃で、10月革命26周年を記念して実施されたコプリブニツァへの攻撃でパルチザン部隊は第21国民解放旅団(3個大隊)、「Braca Radic」国民解放旅団及び第2「Kalnik」国民解放旅団(2個大隊)の3個旅団を集結させ、各旅団は砲兵と重機関銃により支援される大規模な攻撃となりました。第21国民解放旅団が市街攻撃の主力となり、第2「Kalnik」国民解放旅団は飛行場と橋を攻撃し、「Braca Radic」国民解放旅団は救援部隊の足止めを任務としました。


主なコプリブニツァ駐屯部隊

・自転車化歩兵大隊:500名(重機関銃×6丁、軽機関銃×8丁、軽迫撃砲×6門)、大隊本部と1個中隊(約100名)が小学校の校舎に、1個中隊が大学の校舎に、220名がDomoljubビルなど市内の要地に分散配置
・第1ウスタシャ大隊(2個中隊):鉄道駅、製粉所、税関の建物に駐屯
・第1国家指導者護衛旅団(PTS):鉄道駅、製粉所、税関の建物に駐屯
・国土防衛中隊:60名が市内Uljaricaに駐屯
・ドイツ保安警察(ゲシュタポ)部隊:120名が市内のKrizホテルに駐屯
・第1軽歩兵降下中隊:120名がDanica飛行場の警備任務
・ドイツ軍1個中隊の一部:Cardaに駐屯する部隊の一部でDanica飛行場の警備?
・クロアチア軍憲兵隊:20名がStarcevic通りに駐屯
・自転車部隊の分遣隊:60名がドラバ川に架かる橋の警備任務


 11月6日の夜、パルチザンによる攻撃はコプリブニツァ東方のMiklinovec村から発起されました。第21国民解放旅団の攻撃は砲兵の支援射撃のもと午後8時に開始され、Carda付近に駐屯していたドイツ軍守備隊のうち少数がDanica飛行場に向かい、降下猟兵達と合流し、降下猟兵とドイツ軍部隊は11月8日までの間、第2「Kalnik」国民解放旅団の攻撃から飛行場を守ることに成功しました。クロアチア独立国空軍は補給物資の空中投下や爆撃により飛行場の降下猟兵を支援し、パルチザンの攻撃から飛行場を守りました。しかし、中隊本部では重要書類と最重要装備の破棄が行われ、飛行場に備蓄されていたすべてのパラシュートが破棄されてしまったほか、降下訓練に使用されていたAvia Fokker「F'7」は攻撃により地上で破壊されました。この戦闘で約20名の降下猟兵が戦死又は捕虜となり、Kudelic軍曹までもが捕虜となりました。多くの英雄的な行為の中でも、Dusan Dragojlovic医師は自身の危険を顧みず、クロアチア軍とドイツ軍両方の負傷者の治療に奔走しました。

 一方、クロアチア軍はパルチザン部隊に対して反撃を実施しており、Krunoslav Devcic大佐を指揮官とする戦闘団「Gajger-Devcic」が約40km西方のヴァズディン(Varazdin)から進発しました。しかし、途中の橋はパルチザンによりすべて落とされており、さらに部隊の装甲車は「Braca Radic」国民解放旅団の重火器の攻撃で前進を阻まれ、途中のČičkovina村及びMartijanec村付近で進撃を中止してヴァズディンに引き返しました。
 11月9日、もはや飛行場の確保は不可能となり、Dragutin Dolanski少佐に率いられた降下猟兵中隊はCardaのドイツ軍守備隊陣地へと後退し、合流した両部隊はこの陣地をさらに2日間防衛しました。しかし、ドイツ軍から中隊への食糧供給は拒否され、このため中隊はやむなく後退することとなり、Peteranac村を経由してドラヴァ川を渡りハンガリーとの国境沿いのGolaへと向かい、この際にも空軍機は爆撃や補給物資の空中投下により中隊の後退を援護しました。

 その後もコプリブニツァ奪還の努力はヴァズディン方面から継続されており、11月12日には兵力約1,800名、戦車22両、オートバイ22台、トラック10両、装甲車両6両による攻撃が再興されました。部隊は中間地点のルドブレグ(Ludbreg)へと進軍してこの街を奪還しましたが、その後の戦闘で空軍のDornier Do-17爆撃機がパルチザン部隊に撃墜されるなどの損害もあり、攻勢はまたしても行き詰まりました。一方、コプリブニツァ市内の鉄道駅、飛行場、その他の重要な建物への爆撃はその後数日間継続されました。
 コプリブニツァは1944年10月11日~15日にもパルチザン部隊の攻撃目標となり大規模な包囲攻撃を受けましたが、ウスタシャの守備隊が攻撃を撃退しました。

 1943年11月29日、中隊はハンガリーのGyékényesで補充を受けとりましたが、その間にDanica飛行場上空でBücker Bü 131 "Jungmann"が撃墜されました。この機のパイロットはJosip Ferenc准尉で、降下訓練用のAvia Fokker 「F7」のパイロットの一人でもあり中隊の一員でした。

 第1軽歩兵降下中隊はハンガリーで再編成され、スロベニアのジダニ・モスト(Zidani Most)経由でザグレブ(Zagreb)へと鉄道輸送されました。1944年初め、コプリブニツァの降下学校損失により中隊の拠点はザグレブに移転されることとなりました。中隊はここで一時的に解散され、1943年8月までの有資格者でパルチザン支配地域以外に家族のいる者には長期間の休暇が与えられました。しかしこの措置は却って士気の低下と混乱を招き、この時期にパルチザン側に走るものもあらわれました。

 その後部隊はすぐに再建され、ザグレブのCankarjeva通りのビルの1階に新しい拠点が開設され、1944年7月まではここに中隊本部が設けられていました。1944年7月末、市内のMaksimirに新しい兵舎が建設され、第1軽歩兵降下中隊の本部もここに移転しました。中隊はザグレブの第1空軍基地の所属となり、Borongaj飛行場の警備が任務となりました。また、降下猟兵達は葬儀やパレード、その他の式典の際の儀仗兵も務めることが多くなり、Borongajの士官学校生徒の入学式典では降下猟兵の1個小隊30名が参加するなど、勇敢な戦闘により中隊の降下猟兵達はこうした式典の常連となりました。

3.第1軽歩兵降下大隊への拡大・改称
 このころ軍上層部の決定により降下猟兵中隊は大隊へと拡大されることとなりました。この時コプリブニツァでの戦闘でパルチザンの捕虜となっていたMirko Kudelic軍曹も捕虜収容所から帰還しており、軍曹は早速第1軽歩兵降下中隊に復帰して中隊の指揮を執ることとなり、新編成の第2軽歩兵降下中隊はCafuk Ivan中尉が指揮をとりました。中隊は「第1軽歩兵降下大隊」へと改称され、1944年7月15日から大隊への拡大に伴い新たな志願兵の募集が行われ、新兵の補充が開始されました。また1944年末には第3及び第4中隊がセルビアのペトロヴァラディン(Petrovaradin)の空軍訓練部隊から編成され、大隊は4個中隊編成へと拡大されました。

 1945年1月5日、降下猟兵大隊はMaksimirの兵舎を離れてパルチザン掃討作戦に出動しました。この作戦はザグレブ東郊外のResnik地区のパルチザン掃討を目的としており、ここで大隊は2~3日の間、パルチザンとの絶え間ない戦闘を展開しました。大隊はさらに東進してIvanja Reka(Ivanja Rijeka)へ移動し、ここでも3日間に渡り戦闘を継続しました。その後も大隊はさらに東のHrušćica村に移動し、パルチザンやクロアチア軍からの脱走兵の部隊と戦い、さらに東のObrovoへと前進しましたが、ここではパルチザン部隊の反撃によりIvanja Rekaへと後退せざるを得ませんでした。大隊は数日間の休養と補充の後、2回目の攻撃を行い、Obrovoへの攻撃に成功しました。この攻撃には大隊から分遣された兵力120名~150名からなる中隊規模の部隊が送られており、降下猟兵達はこの戦闘では冬季用の白色迷彩戦闘服を使用していました。

 Obrovoの戦闘後、大隊はザグレブの基地に帰還しましたが、すぐに快速旅団(Brzi Zdrug)に編入され、Miroslav Schlacher騎兵中佐指揮の戦闘団「Schlacher」としてパルチザンに攻撃されたザグレブ南東のシサク(Sisak)及びペトリニャ(Petrinja)地区へ送られることとなりました。3月5日、戦闘団の指揮官はViktor Kramaric中佐に交代しましたが、引き続き戦闘団「Schlacher」と呼ばれました。
 大隊からは分遣された2個中隊の戦闘団は夜間にBožjakovinaまで達すると、Klaoster Ivanjic(vanić-Grad)でのパルチザンの攻撃を撃退し、夜明けまでにシサク(Sisak)及びペトリニャ(Popovaca)地区へと前進しました。翌日、降下猟兵はCaprak村を経由して進み、シサク西側のPračno地区のパルチザンを攻撃して鉄道駅を含む地区を占領し、第10パルチザン軍団は大損害を被り4日目にはパルチザン部隊は大損害を出して撤退しました。これはクロアチア軍、ドイツ軍、ウスタシャ、快速旅団(Brzi Zdrug)の参加した4日間のパルチザン掃討作戦のなかでもクロアチア軍の挙げた大勝利でした。
 この勝利の後、大隊はウスタシャの守備隊が持ちこたえていたペトリニャ(Petrinja)へと移動しました。降下猟兵達はNovaki村とMadjarevo村からパルチザン部隊を撃退し、その後14日間はPračno地区に留まりました。

 1945年3月、クロアチア軍は「Zvonimir Line」と呼ばれる防衛線を設定しており、これはIlova川からドラバ川の間のチャズマ(Čazma)~ブイェロバル(Bjelovar)~Kloštar Podravskiを結ぶ線に設定されていました。降下猟兵はPračno地区から一旦ザグレブに帰還しましたが、Dugo Seloで命令を受け取り、ヴルボヴェツ(Vrbovec)を経由してチャズマ(Čazma)へと移動しました。この町は「Zvonimir Line」の重要拠点の一つでしたが、パルチザン部隊に占領されていました。Ivan Karajkovic空軍中尉に指揮された1個中隊規模の分遣隊はヴルボヴェツ(Vrbovec)を経由してチャズマ(Čazma)を攻撃し、パルチザン部隊を撃退しました。到着した大隊本隊は3月中旬までの7日間はチャズマを防衛し、その後ウスタシャ部隊と交代して北東約18kmのStefanje村に移動しました。

 降下猟兵達はStefanje村周辺で14日間にわたり残敵掃討作戦を実施しました。3月26日に実施された作戦では71名の降下猟兵がStefanje村近くでパルチザン部隊の拠点を攻撃した際には、拠点には360名分の食事が残されており、なんと5倍の敵を撃退した!?しかし多くのパルチザンが殺害されたものの、大半は脱出に成功してしまったようです。この作戦の後、パルチザンはチャズマへの再攻撃を計画していると見られたため、降下猟兵は再びチャズマへと移動し、ウスタシャ部隊と合流しました。
 3月27日から28日かけての夜、パルチザンによるチャズマへの攻撃が発起され、この戦闘ではIvan Karajkovic空軍中尉が負傷するなど激戦となりました。パルチザンによる攻撃は4日間続き、所属不明のドイツ軍部隊、国土防衛隊の砲兵部隊および降下猟兵達は、チャズマから南東4kmのMiklouš村へと移動しましたが、ここでも降下猟兵達はパルチザン部隊からの絶え間ない攻撃を受けました。

 3日間の絶え間ない戦闘の後、降下猟兵達は一予備軍曹の命令によりチャズマ川をボートで渡り撤退しようとしましたが、ドイツ人指揮官は撤退すれば全員を処罰すると恫喝しました。しかし降下猟兵達はそれを無視してチャズマを離れ、Ivanić-Gradへと撤退しました。途中Ante Moskov大佐指揮のウスタシャ部隊によって停止され、大佐は誰が撤退命令を出したのかを問い詰めましたが、降下猟兵達は名前を明かしませんでした。Moskov大佐は怒り、10名を処刑すると言い出し、降下猟兵達は同じクロアチア人のウスタシャから非難されたことで激しく反発しました。結局、降下猟兵達の戦歴が評価されたことで、部隊はチャズマに戻り8日間戦線に復帰しましたが、責任者の調査が進むと命令を下した幹部は姿を消し、おそらくパルチザン側に亡命したのではと考えられました。

4.崩壊
 4月10日、Maksimirの基地では式典が行われ、多くの降下猟兵の叙勲が行われました。しかし降下猟兵大隊の主力は戦闘中でありこの時叙勲を受けたのは基地に残っていた回復兵や補充兵、後方要員達でした。大隊はチャズマからIvanić-Gradへと後退を命じられ、1945年5月4日にはザグレブのMaksimir基地に帰還しました。ここで大隊は他の枢軸軍部隊とともにスロベニアのドラボグラード(Dravograd)へと移動するよう命令されました。5月6日午前9時、Maksimirの基地では軍旗が収納され、第1軽歩兵降下大隊は大隊の歌を歌いながらザグレブの通りを行進し、見送る市民は目に涙を浮かべ花束の輪で別れを惜しみました。

 降下猟兵達はオーストリアへ向かう枢軸軍部隊と、同行するクロアチア民間人の隊列の殿に配置され、大隊は「青い悪魔」(Plavi Djavoli)のニックネームで呼ばれるようになりました。第1軽歩兵降下大隊は空襲下のザグレブを離れ、約65km西方のセヴニツァ(Sevnica)で野営しました。5月7日にも再び空襲を受け、この日はジダニ・モスト(Zidani Most)近くで野営しましたが、さらに7km北上したRimske Topliceで悲惨な現場に遭遇しました。後退するドイツ軍とクロアチア軍はパルチザン部隊の襲撃を受けており、死体と荷物の残骸が散乱していました。パルチザン部隊はツェリエ(Celje)近郊で道路を封鎖しており、枢軸軍部隊がオーストリアへと逃れるのを妨害していました。大隊はツェリエを突破し、北上してŠkofja Vas、Nova Cerkevを経由してヴィタニェ(Vitanje)まで達しました。しかし大隊はすでに崩壊しており、小グループに分かれた降下猟兵達が森林地帯をさまよっていました。

 ドイツ国防軍総司令部は1945年5月8日から9日にかけての夜に全ドイツ軍が無条件降伏せよとの命令を発しました。この時点でユーゴスラヴィアのE軍集団の下には20万の兵力があり、ザグレブ地区からオーストリア国境に向けて撤退途中でした。この命令によりE軍集団司令部はチトーパルチザンと交渉を始めましたが、時間を得たパルチザン側はドイツ軍の退路を遮断し、17万5千名がチトーパルチザンの捕虜となりました。
 大隊の一部は5月9日にドラボグラード(Dravograd)に達しましたが、5月14日までにはすべての降下猟兵がイギリス軍により武装解除され、大隊は事実上存在しなくなりました。降下猟兵達の大部分はイギリス軍からパルチザン側に引き渡され、Blaighbergとその他の場所で処刑され、少数のみが赦免されたほか、ごく一部の幸運な人のみが西側への脱出に成功しました。

 クロアチア独立国軍の降下猟兵部隊は「第1軽歩兵降下中隊」から「第1軽歩兵降下大隊」にまで拡大されてはみたものの、コプリブニツァの降下学校損失の影響は大きく、1943年末以降になるとAvia Fokker 3発機の飛行制限もあって降下訓練が行われた様子がありません。ドイツ降下猟兵と同様に精鋭地上部隊として、各地に火消しとして投入され、最後はオーストリア国境地帯で悲惨な最期を迎えました。また、クロアチア軍、ウスタシャ、ドイツ軍は味方とは言いながら決して一枚岩ではなく最後まで同床異夢の寄合所帯であり、様々な理由でパルチザン側に走った降下猟兵も少なくなかったようです。
 パルチザン側でも1944年10月14日に空挺大隊が設立され、これにはユーゴスラヴィア王国軍時代の降下経験者や第1軽歩兵降下大隊からの転向者も含まれていたことは容易に考えられます。この部隊は戦後のユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国軍では第63空挺旅団となり、ユーゴスラヴィア解体後はセルビア軍第63空挺大隊へと歴史が引き継がれています。なお、正史として「第63空挺大隊」の歴史は1944年10月に設立されたパルチザン空挺大隊から始まっており、クロアチア独立国の降下猟兵中隊/大隊には一切触れられていません。

5.降下猟兵の軍装・兵器・装備
パラシュート:ユーゴスラヴィア王国空軍が導入したのは意外にもアメリカ製の「Irvin」型パラシュートで、インジャ(Indjija)のKnebl und Ditrih社においてライセンス生産されました。このパラシュートは降下兵が手動操作で開く形式となっており、訓練中の事故も発生しています。【補足-1】

降下服:1942年の時点でクロアチア降下猟兵は旧ユーゴスラヴィア王国軍時代の降下服を使用していました。これは通常のグレーブルーの空軍制服の上にグレーグリーンの降下用オーバーオールを重ね着する方式でした。しかし、1942年12月に行われた降下訓練では2名の訓練生が墜落死する事故が発生しました。これは上空の寒気により訓練生が降下中に気絶し、パラシュートの操作ができなかったためと考えられました。この事故によりこの降下服は冬季のパラシュート降下には不十分であることが判明し、1942年末には「Knebl und Ditrih社」において新型降下服が設計・製造されました。
新型降下服は迷彩オーバーオールとなり、茶色、緑、黄色で及び灰色による斑点迷彩も採用されていました。この新型降下服は着心地もよく、より多くの装備品を収納できるようになりました。新型降下服には大型の斜めポケットが胸部に2か所、中型の垂直ポケットが腰に2か所、小型の斜めポケットが左腕に2か所、背中に1か所、前腕部に1か所ありました。さらに別の小型の斜めポケットが右前腕部に設けられました。すべてのポケットは丈夫な金属ジッパーで閉めることができました。脚部には4か所のフラップ付きのポケットが設けられ、ボタンで留めることができました。このうち2か所は前面に設けられ、あとの2箇所は横向きに設けられました。また袖口、足首、腰は調整可能となっていました。降下猟兵用の装具は茶色の革製ベルトとショルダーストラップで、左肩から斜めに掛けられました。これに弾薬入れと銃剣、さらに水筒やその他の装備品が取り付けられました。

ヘルメット:旧ユーゴスラヴィア王国軍時代の制服と新しい迷彩降下服は、いずれもクロアチア戦車乗員用の革製ヘルメットと組み合わせて使用されました。戦闘時、降下猟兵はドイツ軍のM35型ヘルネットも使用しました。

空軍の制服:降下用迷彩スモックを着用しない時は通常のグレーブルーのクロアチア空軍の外出用制服が着用されました。制服の左胸に付けられたクロアチアパラシュート資格バッジと左腕上腕部に装着された開いたパラシュートの金属製バッジで、降下猟兵であることがわかりました。

装備火器:クロアチア降下猟兵は旧ユーゴスラヴィア王国軍とドイツ軍の兵器を混用していました。主要火器はマウザー(Mauser)系列のボルトアクション式小銃でしたが、旧ユーゴスラヴィア王国軍時代からの7.65mm小銃と、7.92mmのM24小銃がありました。オーストリア=ハンガリー帝国陸軍時代のマインリッヒャー(Mannlicher)製7.65mm小銃もおそらく少数が使用されました。これらの小銃には銃剣の装着も可能でした。1943年になると降下猟兵用装備としてMP41サブマシンガンが配備されました。MP41はMP40サブマシンガンのピストルグリップと折り畳み式銃床を木製銃床に変更した型で、1941年に開発され主に治安維持部隊等で使用されていました。また原型のMP40も少数ながら装備されていました。
 拳銃はマウザー(Mauser)7.62mm/C96自動拳銃やルガー(Luger)拳銃も少数が使用されました。支援火器としては旧ユーゴスラヴィア王国軍から引き継いだチェコスロバキア製ZB30軽機関銃を装備しましたが、1943年になると7.92mmのMG34軽機関銃が装備されました。写真によると中隊にはフランス製1924 M29軽機関銃も装備された模様で、これはフランス軍からの捕獲兵器がドイツ軍経由でクロアチア軍やセルヴィア軍に供給されたものです。1944年には7.92mmのMG15軽機関銃も装備目録に記載されています。
 降下猟兵は軽機関銃の他にポーランド製46mm軽迫撃砲も装備しました。これらの小銃、軽機関銃、軽迫撃砲はドイツ製の武器コンテナに収納して投下されることとなっており、武器コンテナを使った訓練時の写真が残されています。
 ユーゴスラヴィア王国軍時代に約100丁のトンプソン1928 A1サブマシンガンが50個のドラム弾庫とともに降下猟兵中隊用としてアメリカに発注され、1941年4月12日に到着しましたが、4月17日に降伏したため降下猟兵中隊には配備されませんでした。

輸送機:降下猟兵の輸送にはAvia Fokker 3発機が使用されましたが、この機体はドイツ軍から供給されたもので、プラハの捕獲機デポから供給されました。このうちの「F7」と「F18」の2機は戦前はチェコ航空の機体でした。もう1機は「F39」で、この機体は降下猟兵の降下以外に爆撃にも使用されたようです。
 1943年7月6日には第1軽歩兵降下中隊によりザグレブのBorongaj飛行場で降下演習が行われた際には3機のAvia Fokker 3発機「F7」、「F9」、「F18」が使用されました。このうち「F7」は1943年11月にコプリブニツァがパルチザン部隊に攻撃された際に地上で破壊されました。1943年末、全てのAvia Fokker 3発機は400kg以上の貨物積載を制限され、ザグレブ地区に留まったようです。


【補足-1】インジャ(Indjija)のKnebl und Ditrih社
 Knebl und Ditrih社は1923年にインジャ(Indjija)で設立され、1934年からはパラシュートの生産を開始しました。1941年までに約2,500個のパラシュートを生産しましたが、パラシュートや降下服のほか空軍の装備品全般を製造していたようで、様々な装備品にKnebl und Ditrih社のロゴタグを見つけることができます。戦後の1947年には国有化されパルチザン空軍の英雄の名を貰い、「Franjo Kluz」に改名されベオグラードに移転しました。その後は軍用、民生用のパラシュートや各種装備品を製造・販売され、Irvin、Brueggeman、Pioneer、Parachutes-de-Franceなどのパラシュートメーカーと提携し、製品はドイツ、イタリア、インドネシア、インド、エジプト、ブラジル、アルゼンチン、旧東側ブロックのすべての国々で販売されました。その後会社は部門ごとに分割され、ほとんどの会社は破産しましたが、パラシュート部門の「Kluz padobrani a.d.」は2006年に民営化されました。2007/2008年以降はドイツのBrüggemann社と協力して生産が再開されました。
【戻る】

参考画像リンク

https://www.warrelics.eu/forum/collections-display/my-small-colection-20361-25/


参考資料
Hrvatski Orlovi:Paratroopers of the Independent State Croatia(Axis Europa 1998)


Men-at-Arms 282 Axis Forces in Yugoslavia 1941-5(Osprey 1995)

Web
Parachutists of the Kingdam of Yugoslavia/specijalne-jedinice.com(英語)
クロアチア独立国軍(ウィキペディア)
Aircraft industry of Serbia(ウィキペディア英語版)
63rd Parachute Brigade(ウィキペディア英語版)


2018.8.23 新規作成
2021.3.31 資料リンク等修正

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/