泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

シェルブール要塞のドイツ軍守備隊

 『コタンタン半島/シェルブールのドイツ軍部隊』ではコタンタン半島に展開していた、または増援としてコタンタン半島に急派された部隊を紹介しました。コタンタン半島での最大の戦略目標は半島先端にあるシェルブール港であり、それを守るシェルブール要塞ではドイツ軍守備隊とアメリカ軍の間で激戦が展開されました。それではシェルブール港とシェルブール要塞内ではどのようなドイツ軍部隊が戦ったのでしょうか?

<海軍>
 フランスにおけるドイツ海軍部隊はパリに置かれた海軍西方集団司令部(Marine-Gruppen-kommando West)が管轄しており、シェルブール港を含む英仏海峡海域はルーアン(Rouen)に置かれた海軍海峡沿岸司令官(Admiral Knalküste)が管轄しました。シェルブール港は英仏海峡に面したフランス最大の港湾であり、イギリス沿岸航路を攻撃する絶好の位置にありましたが、一方でイギリス空軍の行動範囲内であり、常に空襲の脅威の晒されていたことから小型艦艇が常駐していたのみでした。


海上防衛司令部「ノルマンディー」
Kommandant der Seeverteidigung der Normandie
Seekommandant Normandie

 ノルマンディー沿岸海域を管轄する海軍司令部で、シェルブールに司令部を置きました。司令部の管轄下にはシェルブール港の他にグランビル港とサン・マロ港の港湾司令部も含まれました。
・シェルブール港湾司令部(Hafenkommandant Cherbourg)
・シェルブール港湾警備戦隊 (Hafenshutz- Cherbourg)
  港湾警備を任務とした小戦隊で小艇とはしけを装備
・シェルブール海軍通信司令官 (Marine Nachrchten Officier Cherbourg)
・シェルブール海軍気象台 (Marine Wetterearte Cherbourg)

・グランビル港湾司令部(Hafenkommandant Granville)
・サン・マロ港湾司令部(Hafenkommandant St. Malo)


高速艇司令官支所
Nebenstelle des Führers der Schnellboote

 高速艇司令官は1942年4月20日、水雷艇司令官(Führers der Torpedoboote)が解散したのに伴い新設され、高速艇戦隊を指揮しました。高速艇は高速艇司令官の指揮下にありましたが、実戦では地元の海軍司令官の指揮下に置かれました。高速艇司令官は艦隊司令官(Flottenkommando)の指揮下にありましたが、戦術上は海軍西方集団司令部に属しました。
 高速艇司令部はオランダのスヘフェニンゲン(Scheveningen)に置かれ、支所はシェルブール(Cherbourg)の他、ブーローニュ(Boulogne)、ル・アーブル(Le Havre)、オステンデ(Ostende)、デン・ヘルダー(Den Helder)に置かれました。


第5高速艇戦隊
5. Schnellbootsflottille
第9高速艇戦隊
9. Schnellbootsflottille

 シェルブール港には第5高速艇戦隊と第9高速艇戦隊の2個高速艇隊で合計16隻の高速艇(Sボート)が配備されており、Sボート用ブンカーが建設されていました。D-Day以降、シェルブール港の高速艇隊は連合軍の上陸艦隊に対して攻撃を繰り返しましたが、さしたる戦果をあげられないまま消耗し、残存艇はル・アーブル港に脱出しました。
 高速艇(Sボート)を使ったシェルブールへの補給は、6月23日~24日の夜に最後の残存船艇が脱出して港湾が閉鎖されるまで、連合軍艦隊の警戒の目を盗んで継続されました。

6月6日-7日夜 シェルブール港を出撃した14隻の高速艇がイギリス海軍のLST×1隻を撃沈しましたが、S-139とS-140の2隻が触雷、沈没。
6月8日-9日夜 11隻の高速艇が出撃し、LST×2隻を撃沈。
6月11日夜 引き続き出撃を継続。
6月12日夜 残存の6隻の高速艇はル・アーブル港に脱出したが、補給は継続。
6月23日夜 最後の残存船艇が脱出して港湾を閉鎖。Sボートによる補給も終了。


海軍 第260砲兵大隊
Marine-Artillerie-Abteilung 260

第1中隊「外堤防中央要塞」(Fort Central):9.4cmVickersM39(e)×4門
第2中隊「ブランケネセ」(Blankenese):9.4cmVickersM39(e)×4門
第3中隊「港湾鉄道駅」(Harbour Station):10.5cmSKC/32×2門
第4中隊「シェルブール砦」(Bastion Cherbourg):10.5cmSKC/32u×4門
第5中隊「ルル要塞」(Fort du Roule):10.5cmSKC/32u×4門
第6中隊「ランドメール」(Landemer):15cmSKL/28×4門
第7中隊「ブロミー」(Brommy):15cmSKC/28×4門
第8中隊「ヨーク」(Yorck):17cmSKL/40×4門
第9中隊「ハンブルク」(Hunburg):24cmSKL/40×4門

 第260砲兵大隊本部はシェルブールに置かれ、各海軍沿岸砲兵中隊(Marine-Küsten-Batterie=M.K.B)はシェルブール要塞地区の砲台に配置されていました。


海軍 第10艦載高射砲大隊第3中隊 及びオルダニー島分遣隊
3./10. Marine-Bordflak-Abteilung mit Stützpunkt Alderney

1943年10月3日、ボルドーの海軍艦載高射砲大隊「ボルドー」から5個中隊により編制されました。装備した高射砲は8.8cmFlak、10.5cmFlak、20mmFlak等であると考えられますが、詳細は不明です。どうやら輸送船等に搭載された高射砲(艦載高射砲)により防空任務を行うための部隊のようで、オルダニー島に分遣隊が置かれたことから考えると、シェルブール港とオルダニー島の間には定期航路が設定されており、第3中隊はこの航路の輸送船の防空を担当したものと思われます。また、あり合わせの高射砲をあり合わせの舟艇や船舶に積むこともあったようで、これらは港湾の防空任務にも従事したものと思われます。

第10艦載高射砲大隊
大隊本部(ビスカロッス)
第1中隊(ル・アーブル)
第2中隊(ボルドー)
第3中隊(シェルブール、及びオルダニー島分遣隊)
第4中隊(サン=マロ、及びグランビル、ジャージー島、ガーンジー島分遣隊)
第5中隊(カレー、及びブーローニュ分遣隊)


警戒部隊

 在シェルブールの海軍部隊から兵力約4,100名の警戒部隊が編制されており、戦闘団「ロールバッハ」には中隊規模の警戒部隊が配属されていました。この警戒部隊の詳細は不明ですが、下記のような雑多な後方部隊や管理部隊から兵員を抽出したものと思われます。さらに1個港湾中隊がありましたが、詳細は不明です。


その他の後方部隊・管理部隊

海軍 第2レーダー大隊第4中隊(4./2. Marine-Funkmeß-Abteilung)
海軍 第22自動車大隊(22. Marine-Kraftfahr-Abteilung)
シェルブール機雷司令部(Sperrwaffenkommando Cherbourg)
海軍駐屯地管理部(Marinestandortverwaltung)
シェルブール魚雷管理部隊(Torpedokommando Cherbourg)
海軍建設隊(Marinebauamt)
海軍砲兵兵站部(Marineartilleriezeugamt)
海軍病院(Marinelazarett)
海軍食糧兵站部(Marineverpflegungsamt)
海軍シェルブール無線通信所(Marine-Funk-Station Cherbourg)
海軍シェルブール信号所(Marine-Signal-Station Cherbourg)


<空軍>
 シェルブール要塞地区にはテヴィル(Théville)の主要飛行場の他にケルクヴィル(Querqueville)の海側にフランス軍の古い飛行場があり、さらにシェルブール港内には水上機基地があり、空軍部隊が駐屯していました。また、要塞地区と飛行場の防空を担う高射砲部隊と空軍訓練部隊も駐屯していました。


第30増強高射砲連隊
Flak-Regiment 30(v)

連隊本部/本部中隊
第653重高射砲大隊
第835軽高射砲大隊
第931軽高射砲大隊
第996軽高射砲大隊
第152混成高射砲大隊
第153混成高射砲大隊
第266混成高射砲大隊
第298サーチライト大隊

 連隊は1939年8月26日にアイフェル(Eifel)にて要塞高射砲連隊「アイフェル南」(Festungs-Flak-Regiment Eifel süd)から第30高射砲連隊(Flak-Regiment 30)として編制され、11月10日には第30(増強)高射砲連隊へと改編・改称されました。連隊は1940年までアイフェルに駐屯後、フランス戦では高射砲旅団「フランツ」(Flak-Brigade Frantz)に配属され、その後はフランスのルテル(Rethel)に駐屯した後、さらにシェルブールに移動しました。フランス北部に駐屯した高射砲部隊は1943年からは統括部隊である第13高射砲師団にまとめられましたが、連隊は引き続きシェルブールに駐屯して要地防空任務に従事しました。
 1944年6月1日現在の連隊は上記のような高射砲大隊を指揮下に持ちましたが、具体的な高射砲の装備状況は不明です。また、シェルブール防衛戦の末期には5個重警戒中隊と1個軽警戒中隊が配属されており、これは高射砲を失った砲兵や周辺の空軍部隊の兵士を集めて歩兵として防衛戦に投入されたものと思われます。


第90航空連隊第2大隊
II/Flieger-Regiment 90

航空連隊は空軍の訓練部隊であり、新兵の基礎訓練や基礎歩兵訓練、兵士への追加訓練、空軍基地での支援任務等を任務としました。第90航空連隊は1943年の夏に第1~第4飛行候補生大隊及び第63航空連隊の一部から編成され、1943年9月から第2大隊のみがシェルブールに駐屯しました。


第2救難隊の一部
Seenotstaffel 2

 水上機を装備した救難飛行隊で、1939年8月26日、ピルラウ(Pillau)にて編制され、1940年6月に一旦解隊されましたが、シェルブールで第2救難機司令部(Seenotflug-Kommando 2)として再建され、1940年12月には第2救難隊へと改称されました。1942年12月からはオランダのスヘリングワウデ(Schellingwoude)へと移動しましたが、一部の分遣隊がシェルブールに残留しました。救難隊が装備したのはブレゲ(Breguet)521、Do 18、Do 24、He 59及びHe 60等の水上機でしたが、シェルブールにどの程度の機体数が残されていたかは不明です。
1944年7月に本隊はオランダからバルト海側のグローセンブローデ(Großenbrode)へと移動し、1944年8月19日からは第81救難隊に改編されました。


降下猟兵訓練部隊

 戦闘団「カイル」(Kampfgruppe Keil)の予備部隊として降下猟兵訓練部隊の1個中隊が配属されていたほか、戦闘団「ロールバッハ」(Kampfgruppe Rohrbach)の戦区でも「WN425-426」の戦闘でアメリカ軍に蹂躙された中隊規模の部隊と、「WN423-425」の戦闘で援軍に駆け付けたハルマン大尉の1個中隊があり、これらの降下猟兵訓練部隊は第90航空連隊の一部かもしれませんが、詳細は不明です。


<陸軍>

 シェルブール要塞には陸軍のシェルブール要塞司令部が置かれ、シェルブール要塞部隊と様々な小部隊や後方部隊が配備されていました。なお、一部の部隊は前回の「コタンタン半島/シェルブールのドイツ軍部隊」と重複しています。


シェルブール要塞司令部
Kommandant der Festung Cherbourg


シェルブール防衛部隊司令部
Kommandant des Verteidigungs-Bereich Cherbourg


シェルブール要塞部隊(第84軍団直轄)
  Festungs-Stammtruppen LXXXIV.A.K.

 シェルブール要塞部隊の1944年4月1日現在の兵力は4個中隊の1,355名と海軍200名で、戦術上は第84軍団に配属されており、「第84要塞大隊」(Festungs-Stamm-Abteilung LXXXIV)とも呼ばれました。


第729要塞擲弾兵連隊
Festungs-Grenadier-Regiment 729
第739要塞擲弾兵連隊
Festungs-Grenadier-Regiment 739

 コタンタン半島北部に駐屯した第709歩兵師団の第729擲弾兵連隊と第739擲弾兵連隊はシェルブール要塞防衛部隊に編入された時点でそれぞれ第729要塞擲弾兵連隊と第739要塞擲弾兵連隊へと改称されましたが、改称時期は不明です。


第561東部大隊(第709歩兵師団)
Ost-Bataillon 561

 1942年後半に編成されましたが、編制地は不明です。その後フランスへ送られ第7軍戦区で第739歩兵連隊第1大隊として配属されており、シェルブール南西のレ・ピュー地区付近に駐屯していました。大隊は機関銃×58挺、迫撃砲×9門、4.5cm対戦車砲×数門を装備していました。1944年5月1日付で第751東部連隊(Ost-Regiments 751)に改編されたようですが、連隊に他の大隊の配属はなく、実際に編成されたか不明です。


第649東部大隊(第709歩兵師団)
Ost-Bataillon 649

 1942年後半に中央軍集団戦区にて編制され、その後フランスへ送られ第7軍戦区で第729歩兵連隊第4大隊として配属されており、シェルブール西側の地区に駐屯していました。大隊は機関銃×46挺、迫撃砲×11門を装備していました。


第1709砲兵連隊(第709歩兵師団)
Artillerie-Regiment 1709

連隊本部/本部中隊
第1大隊
  第1中隊(チェコ製10cm榴弾砲×4門)
  第2中隊(チェコ製10cm榴弾砲×4門)自動車化
  第3中隊(フランス製10.5cm砲×4門)
 第4中隊(フランス製10.5cm砲×4門)
第2大隊
  第5中隊(フランス製10.5cm砲×4門)
  第6中隊(フランス製15.5cm榴弾砲×4門)
  第7中隊(フランス製15.5cm榴弾砲×4門)
  第8中隊(フランス製15.5cm榴弾砲×4門)
第3大隊
  第9中隊(ロシア製7.62cm砲×4門)
  第10中隊(ロシア製7.62cm砲×4門)
  第11中隊(ロシア製7.62cm砲×4門)

 このうち、第2、第5、第6、第7、第10中隊がシェルブール要塞地区内に、第9中隊がシェルブール東側のヴァルヴィル(Varouville)地区に、第11中隊がコスクヴィル(Cosqueville)に駐屯したようです。シェルブール要塞の砲台は基本的に海上目標への砲撃を前提に設置されており、当然ながら陸面戦線への砲撃はできませんでした。このため、シェルブール要塞の陸面戦線は第1709砲兵連隊による火力支援が不可欠でした。


第751特別編成東部連隊本部
Ost-Regiments-Stab z.b.V. 751

 1944年5月1日、シェルブールにて第561東部大隊から編制されましたが、大隊は第739歩兵連隊第1大隊(第709歩兵師団)として配属されており、連隊に他の大隊の配属はなく、実際に編成されたか不明です。


第549東部大隊
Ost-Bataillon 549

 1942年後半に編成されましたが、編制地等は不明で、大隊はシェルブールの東に駐屯していました。


第17機関銃大隊
Maschinengewerhr-Bataillon 17

大隊本部/本部中隊
3個機関銃中隊(各銃機関銃×12挺)
1個(自動車化)対戦車砲小隊(5cmPak×3門)
1個迫撃砲小隊(8cm迫撃砲×6門)
1個(自動車化)工兵小隊

 大隊は1940年に編成されましたが、連合軍の大陸侵攻を迎えるまで実戦に参加することはなく、一貫して西ヨーロッパに駐屯しました。大隊の兵力は632名で、D-Dayの時点でシェルブールの西方に駐屯しており、第709歩兵師団に配属されて6月11日まではコタンタン半島北西地区で戦った後、6月12日からはシェルブールの防衛陣地へと後退しました。最後は戦闘団「カイル」とともに「通信半島」で抵抗を続け、生き残りの兵員は6月30日に降伏したものと思われます。大隊はその後再建はされませんでした。


第7軍直轄 突撃大隊
Sturm-Bataillon AOK 7

大隊本部/本部中隊(2cmFlak×4門、5cmPak×2門、7.5cmPak×1門、12cm迫撃砲×4門、機関銃×5挺)
3個歩兵中隊(機関銃×12挺、パンツァーシュレック×3門、8cm迫撃砲×2門)
1個重装備中隊(重機関銃×8挺、7.5cm歩兵砲×2門)
1個砲兵中隊(フランス製榴弾砲×4門)
1個工兵小隊(機関銃×3挺、火炎放射器×2器、パンツァーシュレック×1門)

 大隊は1943年5月、第7軍直轄部隊として編制され、1944年5月5日時点でシェルブール東側に駐屯していました。大隊の指揮官はメッサーシュミット少佐であり、このため「メッサーシュミット突撃大隊」とも呼ばれました。
 大隊のうち、工兵小隊は兵力58名でアンジェ(Angers)に駐屯しており、シェルブールをめぐる戦いには参加しませんでした。また砲兵中隊はD-Dayの時点で第6降下猟兵連隊の支援部隊としてサント=メール=エグリーズ(Sainte-Mère-Église)の東に駐屯しており、大隊の本隊とは別行動となったと思われます。
大隊はD-Day初日には第1058擲弾兵連隊とともにサント=メール=エグリーズでアメリカ軍に対する反撃を実施し、その後コタンタン半島北部での防衛戦闘後にシェルブールに撤退しました。最後は戦闘団「カイル」とともに「通信半島」で抵抗を続け、生き残りの兵員は6月30日に降伏したものと思われます。大隊はその後再建はされませんでした。


第101要塞ロケット砲連隊
Stellungs-Werfer-Regiment 101

連隊本部/本部中隊
第101ロケット砲大隊(コタンタン半島東岸、ヴァローニュ東側)
第102ロケット砲大隊(シェルブール西南西)
第103ロケット砲大隊(シェルブール西南西)

 連隊は1944年1月にすでに1943年10月に編成されていた3個大隊を集めて編制されました。各大隊は3個中隊からなり、各中隊はロケットランチャー6基を装備しており、合計で54基のロケットランチャーを装備しました。連隊はシェルブール陥落とともに壊滅し、再建はされませんでした。


第206戦車大隊
Panzer-Abteilung 206

大隊本部/本部中隊(シャールB1bis×5両、ソミュア×2両、オチキス訓練戦車×2両)
第1中隊(オチキス×14両、ソミュア×4両)
第2中隊(オチキス×14両、ソミュア×4両)
対戦車砲小隊(対戦車砲(7.5cmPak?)×3門
整備中隊

 大隊は1943年12月に第7軍の直轄部隊として編制され、6月5日の時点でシェルブール西方のカプ・ド・ラ・アーグ、通称「通信半島」に駐屯しており、大隊本部はボーモン(Beaumont-Hague)に置かれました。1944年4月1日時点での大隊兵力は385名であり、オチキス×28両、ソミュア×10両、シャールB1bis×5両、ルノーR35×2両、対戦車砲(7.5cmPak?)×3門を装備していました。装備していたフランス製旧式戦車には第21戦車師団から譲渡されたものも含まれましたが、実質的に戦力となったのは3門の対戦車砲のみではなかったかと思われます。大隊はシェルブールをめぐる戦闘で壊滅し、再建はされませんでした。


第195保安連隊第2大隊
II/Sicherungs Regiment 195

 シェルブール市内の警備部隊であったようですが、他の資料では1944年5月にカーンに駐屯していたとなっており、大隊の一部が分遣されていた可能性もありますが詳細は不明です。


第77歩兵師団の一部
77.Infanterie-Division

 アメリカ軍第9歩兵師団と第82空挺師団の一部が、半島西岸のバルヌヴィル(Barneville-Carteret)~ポールバイユ(Portbail)で半島北部のドイツ軍を分断した際、南部への突破に参加せず、第77歩兵師団の一部である1個大隊約70名がシェルブール地区に取り残された模様ですが詳細は不明です。


第91空輸歩兵師団の一部
91.Luftlande-Division

 アメリカ軍第9歩兵師団と第82空挺師団の一部が、半島西岸のバルヌヴィル(Barneville-Carteret)~ポールバイユ(Portbail)で半島北部のドイツ軍を分断した際、南部にあった師団本隊から分かれた一部の部隊がシェルブール地区に取り残された模様ですが詳細は不明です。


戦闘団「ミューラー」
Kampfgruppe Müller

戦闘団本部
第922擲弾兵連隊
第243砲兵連隊の2個中隊

 第243歩兵師団第922擲弾兵連隊の連隊長であるミューラー中佐の名を冠した戦闘団で、第922擲弾兵連隊を中心として構成されており、シェルブール要塞地帯の最西部の「ヴェストエック」(西隅陣地)を中心とした防衛陣地に布陣しました。最後は通信半島へと後退し、戦闘団「カイル」とともに最後の抵抗をおこないました。


戦闘団「カイル」
Kampfgruppe Keil

戦闘団本部
  第919擲弾兵連隊の第2大隊、第3大隊
  第17機関銃大隊
  降下猟兵訓練部隊の1個中隊
  グルジア人義勇兵部隊の1個中隊
  第7軍直轄 突撃大隊
  第932軽高射砲大隊


戦闘団本部
戦闘団「ミューラー」(第922擲弾兵連隊)
  戦闘団「ハーデンフェルト」(第919擲弾兵連隊第2大隊)
  第919擲弾兵連隊第3大隊
第7軍直轄 突撃大隊
  第206戦車大隊
  第920擲弾兵連隊第2大隊

 第709歩兵師団第919擲弾兵連隊の連隊長であるカイル中佐の名を冠した戦闘団で、第919擲弾兵連隊を中心として構成されており、シェルブール要塞地帯の中央部西側に布陣しました。最後は通信半島へと後退し、戦闘団「ミューラー」も指揮下に編入しました。戦闘団は「通信半島」で抵抗を続け、生き残りの兵員は6月30日に降伏しました。


戦闘団「カーン」
Kampfgruppe Köhn

戦闘団本部
  第739擲弾兵連隊
  第84要塞大隊

 第709歩兵師団の第739擲弾兵連隊を中心とした戦闘団で、ウォルター・カーン大佐が指揮しました。戦闘団はシェルブール要塞地帯の陸面戦線中央部に布陣しており、当初の兵力は約800名でしたが、最終的には約70~80名に減少していました。


戦闘団「ライバッハ」
Kampfgruppe Rohrbach

戦闘団本部
  第729擲弾兵連隊
  第549東部大隊
  第77歩兵師団の1個大隊
  第91空輸歩兵師団の一部
  海軍の警戒部隊(中隊規模)
  RAD部隊

第709歩兵師団の第729擲弾兵連隊を中心とした戦闘団で、ヘルムート・ライバッハ大佐が指揮してシェルブール要塞地帯の東部に布陣していました。


戦闘団「シュリーベン」
Kampfgruppe Schlieben

戦闘団本部
第709歩兵師団
第243歩兵師団第922擲弾兵連隊

 第709歩兵師団の師団長であるカール・フォン・シュリーベン中将の名前を冠した戦闘団で、第709歩兵師団と第243歩兵師団は第84軍団の指揮下をはなれ、シェルブール要塞防衛部隊としてフォン・シュリーベン中将の指揮下に命令系統が統一されました。
 戦闘団本部はヴァローニュ地区に布陣して陸面戦線防衛戦の指揮をとりましたが、6月19日にはシェルブール要塞内へと後退し、「オクトヴィル」の地下司令部に入りました。


第722列車砲中隊

フランス製捕獲列車砲St Chamond K558【ドイツ軍呼称24cmK(E)558(f)】×4門を装備した第722列車砲中隊がシェルブール港に近い鉄道駅構内に展開していました。この列車砲の射程は35kmあり全周旋回が可能でしたが、陸面戦線の火力支援にどの程度役だったのかはわかりません。中隊は75mmFlak×6門、37mmFLak×4門に支援されていましたが、連合軍の航空攻撃から身を隠すすべはありませんでした。


第583歩兵連隊の連絡兵

 「彼らは来た」にはシェルブール要塞の雑多な小部隊として「第583歩兵連隊の連絡兵」が挙げられています。第583歩兵連隊はチャンネル諸島に駐屯している第319歩兵師団の所属でガンジー島に駐屯しており、シェルブール港を経由して本土と往来する連隊の兵士のために連絡所が開設されていたと想像されます。連合軍によるノルマンディー上陸作戦が開始された時点で休暇や連絡のためにシェルブールに滞在したり、帰休兵や補充兵のうち船待ちや列車待ちでシェルブールに足止めされた者が一定数いたのかもしれません。このような兵をまとめて「第583歩兵連隊の連絡兵」と呼んだのでしょうか?
 ただし、海軍の第10艦載高射砲大隊の配備状況を見ると、シェルブールの第3中隊はオルダニー島に分遣隊が置かれており、シェルブール港とオルダニー島の間には連絡航路が開設されていたようです。一方サン=マロの第4中隊はガンジー島に分遣隊が置かれており、ガンジー島の連絡航路はサン=マロ港との間に開設されていたようです。するとオルダニー島には第583歩兵連隊の小部隊が駐屯していたのでしょうか?現時点ではこれといった資料がなく不明のままです。


技術中隊「シェルブール」
Technisches Kompanie Cherbourg


<その他の司令部・準軍事組織>

シェルブール駐屯地区司令官
Standort-Kommandantur Cherbourg


第583要塞駐屯軍司令官
Platzkommandantur 583
第583地方軍政司令官
Kreiskommandantur 583
第840地区軍政司令官
Ortskommandantur 840

 ドイツ軍占領地内の実際の民生業務は戦前のフランス行政組織をそのまま利用しており、各行政機関を監督するための司令部が置かれ、管理・監督業務を行いました。シェルブールのあるマンシュ県では県庁所在地のサン=ローに「第722地域軍政司令官」(Feldkommandantur 722)が置かれて県内に駐屯した郡司令官(Kreiskommandantur)及び占領軍の管理・監督をしており、司令部要員はドイツ占領軍及び占領地区内の司法権も行使しました。具体的には停電の管理、敵側宣伝への警戒、新しい宣伝映画の告知、礼拝時間の設定、フランス人労働者の管理、行方不明者の捜索、損害の報告、民間防空、緊急時医療、公衆浴場の管理、ワクチン接種、清掃婦の管理、執務室の移転、軍の演習、射撃場、運動場、狩猟の許可、兵士宿舎の手配、容疑者の追跡、音楽会の開催などなど、地域内での民生関係の管理の他、軍の駐屯地内での外注業務の管理などを行いました。【補足-1】
 シェルブールには地域軍政司令官(Feldkommandantur)の下位司令部として1940年6月から「第583地区軍政司令官」(Ortskommandantur 583)が設置されていました。1940年9月10日からは「第583地方軍政司令官」(Kreiskommandantur 583)へと改称され、1942年からは司令部要員はそのまま「第583要塞駐屯軍司令官」(Platzkommandantur 583)へと転用されました。


トート機関
Organisation Todt (OT)

 1938年7月18日、トート博士の高速道路建設機関から発展・改称した軍事建設組織で、「大西洋防壁」の建設でも中心的な役割を担っておりシェルブールのある占領フランス地区はオランダ、ベルギー地区とともにパリに開設された西方事業部集団(Einsatzgruppe West)が建設工事を監督しました。シェルブールには要塞施設や港湾施設の建設、修復工事のためトート機関職員が駐屯しており、シェルブール要塞の防衛戦では約3,000名のトート機関職員がそのまま防衛部隊に編入されました。


帝国労働奉仕団
Reichsarbeitsdienst(RAD)

 1935年6月26日に制定された労働規定により、17歳から25歳までのアーリア系ドイツ人男子は2年間の徴兵前の6カ月間、RADに配属されての労働が義務付けられていました。これは失業者対策であると同時に、団体行動や集団生活を学ばせ、基礎軍事訓練を行うなど徴兵前の準備期間ともなっていました。「大西洋防壁」の防護施設の建設が始まると、RADは重要な労働力としてトート機関の監督のもと、各地の建設現場に送り込まれました。
 シェルブールでも要塞施設や港湾施設の建設、修復工事のためトート機関とともに送りこまれており、シェルブール防衛戦では戦闘団「ライバッハ」に配属されていたほか、6月27日の時点で港湾司令官ヴット海軍大尉の指揮下にRADの一部隊が配属されており港湾施設の爆破作業や最後の抵抗線に配置されていましたが、実際の兵力は不明です。


シェルブール要塞の陥落

 6月19日、ドイツ軍はモントブールの防衛線からシェルブール要塞内へと撤退し、アメリカ軍の主力は西側から第9師団、第79師団、第4師団の布陣でシェルブール要塞への直接攻撃が開始されました。6月21日朝、のべ1,000機による爆撃と砲撃の後、要塞の東側から攻撃が開始されました。ベルリンの司令部では増援としてサン・マロの第15降下猟兵連隊の空輸も計画されましたが、制空権のない白昼の作戦など不可能であり、さすがにこの計画は中止されました。
 6月23日~24日の夜、海軍の残存船艇が脱出しシェルブール港は正式に閉鎖され、港湾施設の破壊作業が開始されました。6月23日~24日にはシェルブールの裏山である「フォール・デュ・ルル」への攻撃が開始され、25日には陥落して「オクトヴィル」の地下司令部がついに最前線になりました。しかし「フォール・デュ・ルル」の下層にある砲台はなお戦闘を継続しており、26日まで戦闘を継続しました。
 6月25日午前10時、連合軍艦隊の砲撃部隊がシェルブールに接近しましたが、これには「ヨーク」、「グロミー」、「ハンブルク」の各砲台がなおも反撃して命中弾与えて存在を誇示しましたが、要塞の最後は着実に迫っていました。6月26日、「オクトヴィル」の地下司令部でシュリーベン将軍と司令部要員の約800名が降伏し、翌27日早朝には市街防衛司令官ザットラー将軍が400名の部下とともに降伏しました。港湾司令官ヴィット海軍大尉はRADの一隊の援護のもと、最後の爆破作業を行い将校8名、兵30名とともにヨット1隻とボート2隻に分乗して港湾入口の「ヴェスト砦」に脱出してなおも抵抗の意思を示しました。
 6月28日、激しく抵抗していた「オストエック」外塁陣地がついに降伏しましたが、半島西側の「通信半島」では「カイル」戦隊と「ミューラー」戦隊がなおも抵抗を継続しており、6月30日まで戦闘が続きました。一方「ヴェスト砦」に潜伏した港湾司令官ヴィット海軍大尉の一団は港湾入口の管制機雷により最後の抵抗を試みましたが、この存在は英雄譚としてラジオ放送で「シェルブール要塞は健在」とアピールされたためアメリカ軍の知るところとなり、砲撃により制御盤が破壊されたためこちらも30日についに抵抗をあきらめました。


【補足-1】
 軍政司令部の訳語については検索しても「これ」というものがなく、結構悩んだ挙句今回はこのような訳語を使ってみました。
・地域軍政司令官(Feldkommandantur):県域程度の範囲を管轄しており、旅団又は連隊本部規模の司令部「FK(V)」が置かれて担当地域内の「地方軍政司令官」、「地区軍政司令官」及び駐屯する占領軍の管理・監督も行い、司令部要員はドイツ占領軍及び占領地区内の司法権も行使しました。
・地方軍政司令官(Kreiskommandantur):郡域程度の範囲を管轄し、担当地域内の「地区軍政司令官」及び駐屯する占領軍の管理・監督を行いました。
・地区軍政司令官(Ortskommandantur):市域程度の範囲を管轄しており、担当地区の規模により大隊本部規模「OKI(V)」又は中隊本部規模「OKII(V)」の司令部が置かれました。

 ただし、「地区軍政司令官」から「地方軍政司令官」に改編されたり、「地方軍政司令官」から「地域軍政司令官」に改編されたりの例もありますので、占領地の情勢によってはかなり流動的な部分もあったようです。

 占領地の民生業務の実務については現地の行政機関をそのまま利用していると思われ、軍政司令部は管理・監督を行うとともに、占領軍が必要とするあらゆる需要の窓口業務を行っていました。占領軍においても現地での食料の調達に始まり、駐屯が長期化するとなれば料理人、清掃婦、洗濯婦、家政婦などなど、現地で外注する業務も多岐にわたり、それらの労働者の募集・採用・運用もまた司令部の重要な業務であったと考えられます。
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参考資料
彼らは来た(フジ出版社 1982)
パンツァーズ・イン・ノルマンディー(大日本絵画 1988)
ノルマンディー上陸作戦(欧州戦史シリーズ8)(学研 1999)
ドイツ兵器名鑑(陸上編)(株式会社コーエー 2003)
第三帝国の要塞(大日本絵画 2006)
太平洋防壁(光人社NF文庫)(潮書房光人社 2013)
Normandy 1944(Fedorowicz (J.J.) 2000) 
The German Order of Battle: Infantry in World War II(Greenhill Books 2000)
The German Order of Battle: Panzers and Artillery in World War II(Greenhill Books 1999)


2018.12.17 新規作成
2019.8.13 軍政司令部について修正、【補足-1】を追加

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/