泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

コタンタン半島/シェルブールのドイツ軍部隊

 1944年6月6日といえば連合軍による大陸反攻、「オーバーロード作戦」がフランスのノルマンディー海岸への上陸作戦として決行された「D-Day」として知られています。連合軍の上陸は西側から「ユタ海岸」、「オマハ海岸」、「ゴールド海岸」、「ジュノー海岸」、「スウォード海岸」の各コードネームで呼ばれた海岸へ行われ、各地でドイツ軍守備隊との激戦が展開されました。
 中でも有名なのは「ブラッディー・オマハ」と呼ばれ、上陸部隊のアメリカ第1師団が大損害を被った第352歩兵師団戦区、あるいはカーン前面にあって「スウォード海岸」のイギリス軍に第21戦車師団による初めての反撃らしい反撃が実施されたた第716歩兵師団戦区で、その後の華々しい戦闘の話題もバイユー、サン・ロー、カーンといった上陸海岸の東側に偏っている気がします。

 何か忘れてませんか?フランス最大の港湾ってどこでしたっけ?

 そうそう、コタンタン半島とシェルブール港をめぐる戦いはとかく忘れられがちですが、連合軍にとってシェルブール港の確保は安定した補給路確保のための最重要目標の一つでした。コタンタン半島には「ユタ海岸」へのアメリカ第4師団の上陸軍のほか、第82空挺師団と第101空挺師団の精鋭2個師団が後背地確保のために投入しており、実は結構力が入っていたことがわかります。
 一方のドイツ軍は第84軍団の指揮下にコタンタン半島東岸の沿岸防衛に第709歩兵師団、西岸防衛に第243歩兵師団、そして半島中央部に第91空輸歩兵師団が配置されており、その他に陸軍と海軍の沿岸砲兵部隊やシェルブール周辺の要塞砲兵部隊が守りを固めていました。


<師団>
第709歩兵師団
第243歩兵師団
第91空輸歩兵師団

第77歩兵師団
第265歩兵師団
SS第17機甲擲弾兵師団「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」

<連隊>
第6降下猟兵連隊
第101要塞ロケット砲連隊
第621砲兵連隊
第1261沿岸砲兵連隊
第1262沿岸砲兵連隊
空軍 第30高射砲連隊
第751特別編成東部連隊本部
第752特別編成擲弾兵連隊

<大隊>
第7軍直轄 突撃大隊(メッサーシュミット突撃大隊)
第17機関銃大隊
第100教育及び補充戦車大隊
第206戦車大隊
第902突撃砲大隊
第561東部大隊
第649東部大隊
第795東部大隊
第549東部大隊
第800東部大隊
第634東部大隊
第635東部大隊
第797東部大隊

<シェルブール要塞>
シェルブール要塞/第84要塞大隊
海軍 第260砲兵大隊


第709歩兵師団
709.Infanterie-Division

師団司令部/司令部中隊
第729擲弾兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第4中隊(機関銃×46挺、迫撃砲×4門、第1中隊のみ自転車化)
  第2大隊(自転車化):第5~第8中隊(機関銃×46挺、迫撃砲×4門)
  第3大隊:第9~第12中隊(機関銃×46挺、迫撃砲×4門、第9中隊のみ自転車化)
  第4大隊(第649東部大隊):第1~第4中隊(機関銃×46挺、迫撃砲×11門)
  戦車猟兵中隊(7.5cmPak×3門)
第739擲弾兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊(第561東部大隊):第1~第4中隊(機関銃×58挺、迫撃砲×9門、4.5cm対戦車砲×数門)
  第2大隊:第5~第8中隊(機関銃×48挺、第5中隊のみ自転車化)
  第3大隊:第9~第12中隊(機関銃×48挺、第9中隊のみ自転車化)
  第4大隊(第795東部大隊):第1~第4中隊(機関銃×44挺、迫撃砲×15門)
  戦車猟兵中隊(5cmPak×3門)
第919擲弾兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第4中隊(機関銃×50挺、8.1cm迫撃砲×8門、第1中隊のみ自転車化)
  第2大隊:第5~第8中隊(機関銃×50挺、8.1cm迫撃砲×8門、第5中隊のみ自転車化)
  第3大隊(自転車化):第9~第12中隊(機関銃×50挺、8.1cm迫撃砲×8門)
  第13歩兵砲中隊(ロシア製7.62cm歩兵砲×6門)
  第14戦車猟兵中隊(7.5cmPak×6門)
  第15戦車猟兵中隊(追加中隊:5cmPak×3門?)
第1709砲兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第4中隊
  第2大隊:第5~第8中隊
  第3大隊:第9~第11中隊
第709戦車猟兵大隊
  大隊本部/本部中隊
  第1中隊(自走対戦車砲装備×3両?)
  第2中隊(トラック牽引7.5cmPak40×9門)
  第3中隊(3.7cmFlak×9門)
第709工兵大隊:第1~第3中隊


 第709歩兵師団は1941年5月に第15編成波の歩兵師団として編制され、夏からブルターニュ(Brittany)地区に駐屯していました。1942年12月からはノルマンディー地区に移動し、第84軍団に配属されコタンタン半島東岸地区に駐屯して沿岸警備の任務に就きました。1944年5月1日現在の師団兵力は12,320名で、4月1日時点の師団兵力から375名が追加されていましたが、6月初めまでには兵力の追加はありませんでした。なお、師団に配属された兵員の平均年齢は36歳であり、とても「一線級」師団とは言えませんでしたが、アメリカ軍の上陸した「ユタ海岸」はまさに師団配下の第919歩兵連隊の担当地区であり、師団は否応なくシェルブール守備隊の中核戦力となりました。

 師団長はカール・フォン・シュリーベン中将(Generalleutnant Karl von Schlieben)であり、師団司令部はヴァローニュ(Valognes)北方約2KmのChâteau de Chiffrevastに置かれました。また、コタンタン半島南東海岸線を担当する第919歩兵連隊の連隊本部はモンテブール(Montebourg)に置かれており、ギュンター・カイル中佐(Oberstleutnant Günther Keil)が連隊の指揮を執りました。連隊の担当地区には海岸線防衛施設としてル・グラン ヴェ(Le Grand Vey)地区の「WN1」からカンエヴィル(Quinéville)地区の「WN20」までの「抵抗巣」(Wiederstandnest=WN)が建設されており、1個連隊でおよそ25kmの海岸線の防衛を担当していました。このうち「WN5」(第5抵抗巣)ではアルトゥル・ヤーンケ少尉指揮の第1大隊第3中隊の1個小隊が配置されており、ヤーンケ少尉は負傷して捕虜となったことから、おかげで陣地構築作業や戦闘の状況を詳しく知ることができるわけです。「WN5」の跡地は博物館となっているほか、「WN10」の跡地にもモニュメントが作られて当時の様子を知ることができます。

「WN5」跡地:https://goo.gl/maps/UbjtwZfzJME2
「WN10」跡地:https://goo.gl/maps/z9EP2Un1phH2

 第729歩兵連隊はカンエヴィル(Quinéville)地区以北の海岸線を担当しており、連隊本部は半島北東部のル・ヴィセル(Le Vicel)に置かれ、ヘルムート・ロールバッハ大佐(Oberst Helmuth Rohrbach)が連隊の指揮を執りました。第739歩兵連隊はシェルブール要塞地区に布陣しており、連隊本部はシェルブール西側のケルクヴィル(Querqueville)に置かれ、ワルサー・ケーン大佐(Oberst Walther Köhn)が指揮を執りました。各歩兵連隊には7.5cmPak又は5cmPak装備の戦車猟兵中隊1個が配属されており、さらに第919擲弾兵連隊には戦車猟兵中隊1個が追加配備されていました。なお、師団には野戦補充大隊は配属されていませんでした。

 第709戦車猟兵大隊は5月1日時点で、第2中隊がトラック牽引の7.5cmPak40×9門を装備していました。第1中隊の自走対戦車砲の種類は不明で、1943年5月からD-Dayまでの間には「マーダー」対戦車自走砲が配備された記録はありません。このため、この車両は1943年5月以前に配備されたか、または捕獲フランス車両を元に現地改造された車両のどちらかと思われます。大隊は全部で7.5cmPak40×12門と3.7cmFlak×9門を装備しており、第1中隊は対戦車自走砲3両、第3中隊は3.7cmFlak×9門を装備したものと思われます。

 第1709砲兵連隊の各砲兵中隊は下記のように各国製の捕獲兵器を装備していました。


第1709砲兵連隊
  第1大隊
    第1中隊(チェコ製10cm榴弾砲×4門)
    第2中隊(チェコ製10cm榴弾砲×4門)自動車化
    第3中隊(フランス製10.5cm砲×4門)
    第4中隊(フランス製10.5cm砲×4門)
  第2大隊
    第5中隊(フランス製10.5cm砲×4門)
    第6中隊(フランス製15.5cm榴弾砲×4門)
    第7中隊(フランス製15.5cm榴弾砲×4門)
    第8中隊(フランス製15.5cm榴弾砲×4門)
  第3大隊
    第9中隊(ロシア製7.62cm砲×4門)
    第10中隊(ロシア製7.62cm砲×4門)
    第11中隊(ロシア製7.62cm砲×4門)

 このうち、第2、第5、第6、第7、第10中隊がシェルブール要塞地区内に、第9中隊がシェルブール東側のヴァルヴィル(Varouville)地区に、第11中隊がコスクヴィル(Cosqueville)に駐屯したようです。シェルブール要塞の砲台は基本的に海上目標への砲撃を前提に設置されており、陸面戦線への砲撃はできませんでした。このため、シェルブール要塞の陸面戦線は第1709砲兵連隊による火力支援が不可欠でした。またヴァローニュ~モンテブール地区防衛のため、連隊の砲兵中隊を中心としてモンテブール砲兵集団が臨時編成されました。【補足-1】


モンテブール砲兵集団

第1709砲兵連隊の5個中隊
  12.2cm砲×4門
  10.5cm砲×2門
  15cm自走砲×1門
  その他×12門 合計19門
空軍第30高射砲連隊の一部
第101ロケット砲連隊の第101ロケット砲大隊
第709戦車猟兵大隊

 6月12日、ヴァローニュ~モンテブール地区防衛のため、第1709砲兵連隊を中心としてモンテブール砲兵集団が臨時編成され、フリードリヒ・ヴィルヘルム・キューバス少佐の指揮により砲兵火力が統一運用されました。「彼らは来た」によると上記のような火砲と部隊が集められたとなっていますが、第1709砲兵連隊の装備内容とは差があり、残念ながら詳細は不明です。6月17日にはアメリカ軍が半島西岸に進出し、手薄となったヴァローニュ西側からシェルブールへと北上する情勢となり、砲兵集団も6月19日にはル・モン地区の中間陣地を経てシェルブールへと後退し、シェルブール要塞守備隊に組み込まれました。
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第243歩兵師団
243.Infanterie-Division

師団司令部/司令部中隊
第920擲弾兵連隊(自転車化)
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第4中隊(軽機関銃×44挺、8cm迫撃砲×8門)
  第2大隊:第5~第8中隊(軽機関銃×44挺、8cm迫撃砲×8門)
  第13歩兵砲中隊(ロシア製7.62cm歩兵砲×6門)
  第14戦車猟兵中隊(7.5cmPak×3門)
第921擲弾兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第4中隊(軽機関銃×44挺、8cm迫撃砲×10門)
  第2大隊:第5~第8中隊(軽機関銃×46挺、8cm迫撃砲×8門)
  第3大隊:第9~第12中隊(軽機関銃×44挺、8cm迫撃砲×8門)
  第13歩兵砲中隊(ロシア製7.62cm歩兵砲×6門)
  第14戦車猟兵中隊(7.5cmPak×3門)
第922擲弾兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第4中隊(軽機関銃×45挺、8cm迫撃砲×8門)
  第2大隊:第5~第8中隊(軽機関銃×44挺、8cm迫撃砲×8門)
  第3大隊:第9~第12中隊(軽機関銃×44挺、8cm迫撃砲×8門)
  第13歩兵砲中隊(ロシア製7.62cm歩兵砲×6門)
  第14戦車猟兵中隊(7.5cmPak×3門)
第243砲兵連隊(自転車化)
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第3中隊(ロシア製7.62cm榴弾砲×12門)
  第2大隊:第4~第6中隊(ロシア製7.62cm榴弾砲×12門)
  第3大隊:第7~第9中隊(ロシア製12.2cm榴弾砲×12門)
       第10中隊(ロシア製12.2cm野砲×4門)
第243戦車猟兵大隊
  大隊本部/本部中隊
  第1中隊(マーダー38×14両)
  第2中隊(III号突撃砲×10両)
  第3中隊(2cmFlak×12門)
第243工兵大隊(自転車化):第1~第2中隊(機関銃×19挺)
第243野戦補充大隊:第1~第4中隊


 第243歩兵師団は1943年7月9日付でデラースハイム (Döllersheim)で編成され、秋からノルマンディーへと移動しました。当初は機動力を持たない「張り付け」師団として編成されましたが、1944年5月までには西部戦線の歩兵師団の中では良好な機動力を持つまでに増強されました。師団の兵力は1944年5月1日時点で、11,529名であり、1か月前の報告では師団定数から226名の不足と報告されていることからほぼ師団定数に近い兵力だったようです。なお、第920擲弾兵連隊第3大隊は1943年10月に師団から分離して南部ロシアの東部戦線に送られており、師団に戻ることはありませんでした。

 D-Dayの時点で師団はコタンタン半島の西岸に駐屯しており、師団司令部はChâteau de Malassisに置かれハインツ・ヘルミッヒ中将(Generalleutnant Heinz Hellmich)が指揮を執りました。師団の各連隊は北から第920擲弾兵連隊、第922擲弾兵連隊、第921擲弾兵連隊の順にコタンタン半島西岸に配備されており、第920擲弾兵連隊の連隊本部はル・プティ・エトゥープヴィル(Le Petit Étoupeville Etoupeville)に、第922擲弾兵連隊の連隊本部はEtoupervillに置かれ、第921擲弾兵連隊の連隊本部はMaugerに置かれました。
 6月17日にアメリカ軍がコタンタン半島の西岸に達したことにより、第922擲弾兵連隊など師団の一部がシェルブール地区に包囲されることとなりました。6月6日から6月24日までの戦闘で師団本隊は歩兵の55%、砲兵は25%、戦車猟兵は30-40%、工兵は90%の兵力を失っていました。6月6日から7月11日までの戦闘により、師団は8,189名の将校と兵を失っており、7月10日時点で戦闘可能な兵員は700名のみとなっていました。

 7月23日時点の師団の戦力判定(Kampfwert)は「V」と最低評価となっており、師団の兵力は弱体化した4個歩兵大隊のほか、重対戦車砲×8門、突撃砲×3両、9個砲兵中隊を持つのみとなっていました。このため、第243歩兵師団は8月10日付で第182予備歩兵師団により再建されることとなりましたが、結局この計画は実現せず9月12日付で解隊されました。
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第91空輸歩兵師団
91.Luftlande-Division

師団司令部/司令部中隊
第1057歩兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第4中隊
  第2大隊:第5~第8中隊
  第3大隊:第9~第12中隊
  第13歩兵砲中隊
  第14戦車猟兵中隊
第1058歩兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第4中隊
  第2大隊:第5~第8中隊
  第3大隊:第9~第12中隊
  第13歩兵砲中隊
  第14戦車猟兵中隊
第6降下猟兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第3中隊
  第2大隊:第4~第6中隊
  第3大隊:第7~第9中隊
  第13重迫撃砲中隊
  第14戦車猟兵中隊
  第15工兵中隊
第191砲兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第3中隊(10.5cm山岳榴弾砲40×12門?)
  第2大隊:第4~第6中隊(10.5cm山岳榴弾砲40×12門?)
  第3大隊:第7~第9中隊(8.8cmPak装備)
第621砲兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第456砲兵大隊:
    大隊本部/本部中隊
    第1中隊(ロシア製15.2cm砲×4門)
    第2中隊(ロシア製15.2cm砲×4門)
    第3中隊(ロシア製12.2cm砲×4門)
  第457砲兵大隊
    大隊本部/本部中隊
    第1中隊(ロシア製15.2cm砲×4門)
    第2中隊(ロシア製15.2cm砲×4門)
    第3中隊(ロシア製12.2cm砲×4門)
第191戦車猟兵中隊
第191高射砲中隊(20mmFlak装備)
第191工兵大隊:第1~第2中隊
第91軽歩兵大隊


 師団は1944年1月15日、第25編成波により通常の歩兵師団としてバウムホルダー(Baumholder)で編成され、その後フランスのランス(Reims)に移動しました。1944年5月6日、師団は「空輸師団」に改編されることとなり、砲兵連隊の装備砲は通常の榴弾砲よりも軽量な山岳榴弾砲に更新され、さらに第91軽歩兵大隊が追加編成されました。
 1944年5月、師団はノルマンディー地区に移動することとなり、7,000名~8,000名の兵員の移動には32本の軍用列車が使用され、5月15日には鉄道輸送によりすべての部隊の移動が完了しました。

 第91軽歩兵大隊はTessinによると1944年4月に編成されたとしていますが、6月5日現在の第7軍の配置図には記載されておらず、おそらく戦闘準備が完了していなかったものと思われます。またD-Dayの時点で師団には第6降下猟兵連隊と第621砲兵連隊が臨時に配属されていましたが、一方で野戦補充大隊が配属されていませんでした。

 侵攻初日の6月6日、師団の各部隊はコタンタン半島でアメリカ軍空挺部隊と戦闘に入りましたが、師団長のウィルヘルム・ファライ(Wilhelm Falley)中将は図上演習から師団司令部に戻る途中、第82空挺師団の一中尉に率いられた小部隊に襲撃されて戦死してしまう事態となりました。6月6日、師団の第1057歩兵連隊と第1058歩兵連隊がサント=メール= エグリーズ(Sainte-Mère-Église)を占領したアメリカ軍第82空挺師団第505連隊第3大隊に対して反撃を実施し、その際には第621砲兵連隊も火力支援を行われましたが、攻撃は失敗しました。
 6月12日までの戦闘で第91歩兵師団は戦死、負傷、行方不明合計で2,212名の損害を被り、さらに6月24日までの戦闘で師団は兵力の85%を失っており、砲兵は21%、工兵は76%、戦車猟兵は48%の兵力を失いました。

 第191砲兵連隊の2個砲兵大隊は10.5cm山岳榴弾砲40(10.5cm Gebirgs-Haubitze 40)を装備していましたが、一般的な10.5cm榴弾砲との弾薬の互換性はありませんでした。このため、ノルマンディーでの戦闘の際にはこの2個大隊のみで使用する弾薬は補給問題の原因となり、この砲は順次後方に送られて他の砲と交換されたようです。6月27日の時点で師団の重装備は下記のとおりであり、砲兵の装備はおなじみのロシア製捕獲野砲が砲兵の主力装備であることがわかります。また師団には第902突撃砲大隊のIII号突撃砲を初め、様々な部隊が追加配備されていたようです。


師団の重装備状況(6月27日現在)

・ロシア製7.62cm 39(r)野砲×31門
・7.5cm FK17(t) 野砲×1門
・10.5cm山岳榴弾砲40×2門
・8.8cmPak43×8門
・ロシア製12.2cm軽榴弾砲×12門
・ロシア製12.5cmカノン砲×7門
・ロシア製15.5cm重榴弾砲×9門
・8.8cmFlak×2門
・III号突撃砲×21両(第902突撃砲大隊)
・(自走)7.5cmPak40×10両
・(自動車化)7.5cmPak40×39門


 7月21日の時点になると師団には下記のような砲兵部隊が追加配属されていました。また、この時期になると10.5cm山岳榴弾砲は通常の10.5cm榴弾砲に置き換えられたようです。


第177砲兵連隊
  第2大隊:
    第4中隊(10.5cm榴弾砲×4門)
    第5中隊(10.5cm榴弾砲×3門)
  第3大隊:
    第7中隊(8.8cmPak×3門)
    第8中隊(8.8cmPak×3門)
    第9中隊(2cmFlak×7門、3.7cmFlak×2門)
第355砲兵連隊
  第1大隊:
    第1中隊(10.5cm榴弾砲×4門)
    第2中隊(10.5cm榴弾砲×3門)
    第3中隊(10.5cm榴弾砲×4門)
第265砲兵連隊(第265歩兵師団)
  第1大隊:
    第2中隊(7.62cm野砲×4門)
    第3中隊(7.62cm野砲×4門)
    第9中隊(12.2cm野砲×3門)


 第91空輸歩兵師団の歩兵部隊は7月23日の時点で2個大隊のみとなっており、その他には小部隊を有するのみとなっていました。コタンタン半島に駐屯していた各部隊はこれまでの戦闘で大きな損害を負っており、このため他師団の残余から下記のような部隊が集められておそらく「師団戦闘団」としてまとめられたものと思われます。
・第243歩兵師団の1個大隊
・第77歩兵師団の5個大隊(通常=2個大隊、弱体=1個大隊、戦闘不能=2個大隊)
・第265歩兵師団の1個大隊(戦闘不能=1個大隊)

 逆に師団の第191砲兵連隊は第243歩兵師団に6個中隊が、第2SS機甲擲弾兵師団「ダス・ライヒ」に1個中隊が派遣されていました。その後師団の戦力は完全に枯渇し、師団の残余部隊は補充として他部隊に吸収され、8月10日付で正式に解隊されました。

 師団はその後、アイフェル(Eifel)で戦闘団Castorf(師団番号第172部隊)をもとに再建が開始されましたが、1944年11月5日には結局中止となり、再建中の部隊は第344歩兵師団に吸収されました。兵員は新部隊に吸収されたほか再建中の第191山岳砲兵連隊は第344砲兵連隊に改編・改称されて新師団に編入されました。こうして第91空輸師団はわずか3か月でその戦歴を閉じることとなりました。
【戻る】


第77歩兵師団
77.Infanterie-Division

師団司令部/司令部中隊
第1049擲弾兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第4中隊
  第2大隊:第5~第8中隊
  第3大隊:第9~第12中隊
  第13歩兵砲中隊(ロシア製歩兵砲×6門)
  第14戦車猟兵中隊(重Pak×3門)
第1050擲弾兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第4中隊
  第2大隊:第5~第8中隊
  第3大隊:第9~第12中隊
  第13歩兵砲中隊(ロシア製歩兵砲×2門)
  第14戦車猟兵中隊(重Pak×3門)
第177砲兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第2中隊(各10.5cm榴弾砲×4門)
  第2大隊:第4~第5中隊(各10.5cm榴弾砲×4門)
  第3大隊:第7~第9中隊(各8.8cmPak43/41×4門)
第177戦車猟兵大隊:2個中隊(5cmPak×12門、7.5cmPak×12門)
第177工兵大隊:第1~第2中隊


 第77歩兵師団は1944年1月15日に第25編成波の歩兵師団として編制されました。編成にあたっては第1021擲弾兵連隊、第335歩兵師団の残余、第364歩兵師団の残余が編入されましたが、師団の擲弾兵連隊は2個連隊のみの小型編制となっていました。1944年3月1日現在、師団兵力は8,508名で、1か月後には588名の兵員が追加配備され、5月1日の時点で合計8,686名の兵力となりました。その後6月初めまでに兵力は9,095名まで増加され、さらに1,410名のHiwi(東部義勇補助兵)も配備されました。師団は野戦補充大隊を欠き、第177工兵大隊では1個中隊のみが重装備を保有しました。

 D-Dayの時点で師団はサン=マロ(St. Malo)に駐屯していましたが、直ちにコタンタン半島に急派されました。師団の自動車化部隊は6月8日にはグランビル(Granville)の東方に到着し、2日後の6月10日には師団の先遣隊がヴァローニュ(Valognes)地区に達してメルドレ川(Merderdt)の両岸に展開しており、そのころ師団本隊はクータンス(outances)の北側に達していました。ヴァローニュ地区に到着した師団は第243歩兵師団を増強して戦闘団「ヘルミッヒ」に配属され、ヴァローニュ~ブリケベック(Bricquebec)地区に展開し、2個大隊がユタビーチから北進してくるアメリカ軍に備え、1個大隊はシェルブール地区に送られました。また師団の補給部隊はブリケベック地区に展開したものと思われます。
 
 ユタビーチに上陸したアメリカ軍第9歩兵師団と第82空挺師団の一部は、サント=メール=エグリーズ~サン=ソヴァール(St. Sauveur)を経由して半島西岸のバルヌヴィル(Barneville-Carteret)~ポールバイユ(Portbail)に進出し、半島北部のドイツ軍は分断されることとなりました。この危機的状況に対して師団の2個大隊はサン=ソヴァールへと移動しましたが、第84軍団司令部は南方戦線を強化する方針であり、6月18日には師団は南方への突破が命令されました。この命令が届いた6月18日、師団長のシュテクマン将軍がブリケベック(Bricquebec)で空襲により戦死する事態が発生しましたが、師団の指揮を引き継いだ第1049歩兵連隊長のベヘラー大佐は夜陰に乗じてサン= ソヴァール付近でアメリカ軍の戦線をすり抜け、約1,200名が突破に成功しました。
 突破した部隊の詳細は不明ですが、ベヘラー大佐の直卒した第1049歩兵連隊のほかに第1050歩兵連隊もバルヌヴィル= カルトゥレ(Barneville-Carteret)付近で突破したものと思われます。2個大隊規模の部隊が第243歩兵師団の戦線に合流に成功し、約70名はシェルブール地区に取り残されることとなったようです。なお、第1050擲弾兵連隊第1大隊はサン=マロに残置されており、6月17日の時点でアブランシュ(Avranches)地区まで移動した後、師団本体に合流しました。
 
 6月24日時点で師団は歩兵の34%、砲兵の20%、工兵の22%、戦車猟兵の23%を失っており、6月6日から24日までの戦闘で1,800名から2,000名の損害を被っていました。7月10日現在の師団の戦闘可能な兵員(Kampfstärke)は1,840名と報告されており、砲兵は10.5cm榴弾砲×2個大隊、8.8cm砲×1個大隊(6門)のみとなっていました。
 8月初め、師団はサン=マロへと後退し、9月15日付で解隊されていますが、なぜか10月16日付のOKHの記録では師団兵力は3,000名と報告されています。
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第265歩兵師団
265.Infanterie-Division

師団司令部/司令部中隊
第894擲弾兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊(第800東部大隊):第1~第4中隊
  第2大隊:第5~第8中隊
  第3大隊:第9~第12中隊
  第13重装備中隊(ロシア製7.62cm290(r)歩兵砲×6門)
  第14戦車猟兵中隊(7.5cmPak×3門)
  第15軽高射砲中隊(2cmFlak×4門)
第895擲弾兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第4中隊
  第2大隊:第5~第8中隊
  第3大隊(第634東部大隊):第9~第12中隊
  第13重装備中隊(ロシア製7.62cm290(r)歩兵砲×6門)
  第14戦車猟兵中隊(7.5cmPak×3門)
  第15軽高射砲中隊(2cmFlak×4門)
第896擲弾兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第4中隊
  第2大隊:第5~第8中隊
  第13重装備中隊(ロシア製7.62cm290(r)歩兵砲×6門)
  第14戦車猟兵中隊(7.5cmPak×3門)
  第15軽高射砲中隊(2cmFlak×4門)
第265砲兵連隊
  連隊本部/本部中隊
  第1大隊:第1~第3中隊(ロシア製7.62cmFK39(r)野砲×12門)
  第2大隊:第4~第6中隊(ロシア製7.62cmFK39(r)野砲×12門)
  第3大隊:第7~第9中隊(ロシア製12.2cm39(r)榴弾砲×12門)
       第10中隊(ロシア製12.2cm39(r)野砲×4門)
第265工兵大隊:第1~第2中隊
野戦補充大隊:第1~第2中隊


 第265歩兵師団は1943年5月20日に機動力を持たない「張り付け」師団として編成されました。師団司令部は第403保安師団司令部が転用され、戦車猟兵大隊と軽歩兵大隊は配属されませんでした。各歩兵連隊には第13重装備中隊、第14戦車猟兵中隊、第15軽高射砲中隊が配属されましたが、独自の輸送手段は持ちませんでした。また戦車猟兵大隊を持たないため、各連隊の戦車猟兵中隊の対戦車砲が唯一の対戦車戦力でした。
 師団はロリエン(Lorient)地区に駐屯して沿岸警備任務に就いており、師団の兵力は1944年6月1日までほとんど変化がなく、兵力は9,726名で341名のHiwi(東部義勇補助兵)も含まれ、将校4名が不足していました。師団の輸送手段としては自動車188両とオートバイ177両を装備しており、その他に2,380頭の馬が配備されていました。

 師団ではすべての自動車を集めて「自動車化戦闘団」が編制されており、下記の部隊により兵力は3,500名で、軽機関銃×123挺、重機関銃×19挺、8cm迫撃砲×16門、7.62cm歩兵砲×6門、7.5cmPak×8門、火炎放射器×6台、7.62cm野砲×8門、12.2cm榴弾砲×4門を装備していました。

・第896擲弾兵連隊本部
・第894擲弾兵連隊第3大隊
・第895擲弾兵連隊第2大隊
・第896擲弾兵連隊第13重装備中隊
・第896擲弾兵連隊第14戦車猟兵中隊
・第895擲弾兵連隊第14戦車猟兵中隊
・第265砲兵連隊第1大隊本部/第2/第3/第9中隊
・第265工兵大隊第2中隊

 戦闘団は連合軍のノルマンディー上陸に対して直ちに出動し、6月11日の時点でサン=ローの西側に在り、その後は連合軍による「コブラ作戦」開始時点まで第91空輸歩兵師団の戦区に展開しました。戦闘団はその後の戦闘で大損害を受け、残存兵力は他の師団に吸収されたようです。師団本隊は最後までロリエン(Lorient)~サン・ナゼール(St. Nazaire)地区に留まりましたが、師団の自動車はすべて自動車化戦闘団に供出しており、機動力のない師団には選択肢はありませんでした。
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SS第17機甲擲弾兵師団「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」
17.SS-Panzer-Grenadier-Division “Götz von Berlichingen”

師団司令部/司令部中隊
第17SS戦車大隊:第1~第3中隊(III号突撃砲×42両)
第37SS機甲擲弾兵連隊
  第1大隊
  第2大隊
  第3大隊
  第13歩兵砲中隊
  第14高射砲中隊
  第15偵察中隊
  第16工兵中隊
第38SS機甲擲弾兵連隊
  第1大隊
  第2大隊
  第3大隊
  第13歩兵砲中隊
  第14高射砲中隊
  第15偵察中隊
  第16工兵中隊
第17SS砲兵連隊
  第1大隊
  第2大隊
  第3大隊
第17SS機甲偵察大隊:第1~第5中隊
第17SS戦車猟兵大隊:第1~第3中隊
第17SS機甲高射砲大隊:第1~第4中隊
第17SS機甲工兵大隊:第1~第3中隊


 SS第17機甲擲弾兵師団「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」は1943年11月15日からフランス、ソミュール(Saumur)地区において編成が開始されました。師団の基幹要員はSS第10戦車師団「フルンズベルグ」から供給され、各地の補充・訓練部隊から新兵たちが師団の編制地に集められました。新兵の大半はドイツ本国で半ば強制的に志願させられた少年たちで、ルーマニアで集められた民族ドイツ人の兵も少なからず含まれていました。師団の編成作業は順調に進み、1944年4月10日に師団司令部の置かれたトゥール(Tours)において「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」の袖章授与式が行われましたが、6月1日の時点でも師団の戦闘準備は完全には完了しておらず、兵士の3分の1は22週間の訓練を受け、残りの兵士も25週間の訓練を受けたのみと報告されています。6月1日現在の師団兵力は17,321名で、定数からは将校が233名、下士官・兵は1,541名不足しており、二等兵については741名の余剰がありましたが、経験ある将校や下士官は慢性的に不足しており、新兵たちの実戦経験がないことは大きな不安材料でした。

 武装SS師団は装備の良い精鋭部隊という印象がありますが、この時期になると武装SSの兵員も装備も質・量ともに不足が目立ち始めており、師団もけっして恵まれた装備を保有しているわけではありませんでした。第17SS戦車大隊は本来はIV号戦車を装備する計画でしたが、III号突撃砲で代用されていました。第37SS機甲擲弾兵連隊と第38SS機甲擲弾兵連隊の第1大隊と第2大隊は装甲兵車ではなくトラックを装備しており、第3大隊は自転車で機動力を確保していました。また、第17SS戦車猟兵大隊第3中隊に配備予定のIV号駆逐戦車は配備が遅れており、代わりにマーダー対戦車自走砲(7.62cmPak×3両と自走7.5cmPak×9両)が装備されていました。

 連合軍の侵攻開始の報に師団は国防軍総司令部予備から第7軍に配属され、6月7日にはサン・ロー方面への緊急出動が命令されました。最初に移動を開始したのは第17SS機甲偵察大隊で、大隊は機動力を生かして8日にはサン=ロー(Saint-Lô)北東のバルロワ(Balleroy)に到着しました。続いて第37SS機甲擲弾兵連隊と第38SS機甲擲弾兵連隊の第1大隊と第2大隊はトラック輸送によりそれに続き、両連隊の第3大隊は自転車で追随しました。6月7日夕方には砲兵部隊と第17SS機甲高射砲大隊第2中隊もノルマンディーへの移動を開始しました。
 部隊の鉄道輸送も行われ、第17SS戦車大隊の突撃砲と第17SS戦車猟兵大隊のマーダー対戦車自走砲×12両、その他の重装備がミレボーから積載されました。輸送列車は空襲によりIII号突撃砲×1両が破壊され、3名が戦死しましたが、師団では戦闘爆撃機2機を撃墜したと言われます。6月9日、突撃砲とマーダー対戦車自走砲はモントルイユ(Montreuil)とラ・フレーシュ(La Flèche)で下車し、約90km離れたマイエンヌ(Mayenne)までは道路により移動しました。

 6月10日、第17機甲偵察大隊は第352歩兵師団戦区でイギリス軍第7戦車師団と交戦し、数日後には第37SS機甲擲弾兵連隊の一部がサン=ロー南東のラ・シャペル(La Chapelle)地区に到着しました。翌日、師団の一部がコタンタンの南西地区に到着し、北側と西側で攻撃準備が進められました。6月14日の時点で師団のほとんどの部隊が集結を完了しましたが、第17SS工兵大隊の1個中隊は6月中には到着しませんでした。この中隊はソミュール地区に残留してロアール(Roire)川での架橋工事に従事しており、7月10日にソミュールから移動を開始して2日後にノルマンディーで大隊に合流しました。またこの架橋工事の関係からか師団の架橋段列も同様にソミュール地区に残留していました。
 第17SS高射砲大隊もソミュール近郊に残留し、6月末までノルマンディーの師団本隊には合流しませんでした。大隊の兵力は657名でしたが、第1中隊のうち牽引車両の不足した8.8cmFlak×2門がソミュール地区の橋の防空任務のため残留しました。第17SS高射砲大隊、第17SS工兵大隊および第17SS戦車猟兵大隊の大部分についてはいつノルマンディーの師団本隊に合流したか不明ですが、師団の兵力はおそらく15,500名以下であったと思われます。

 6月13日5時45分、第37SS機甲擲弾兵連隊と第6降下猟兵連隊は突撃砲と砲兵の支援のもと、カランタン南西からアメリカ軍第101空挺師団にたいして反撃を開始しました。この攻撃により第101空挺師団の防衛戦を突破し、9時にはカランタン市街地外縁まで進出に成功し、このまま市街地の奪還に成功するかと思われました。しかし、アメリカ軍第2戦車師団が援軍として到着し、戦車を前面に押し立てた激しい反撃により前進は停止しました。戦況は刻々と悪化したため市街地奪還をあきらめ、昼過ぎには全部隊に撤退が命令され、夕刻までには市街地南方へと後退して防衛線を構築しました。
 6月15日までの戦闘で師団は戦死79名、負傷316名、行方不明61名の損害を被っており、III号突撃砲については24両が戦闘可能で、他に13両が短期修理中でした。6月18日、師団はカランタンの南東、ヴィル・エ・トート運河付近で防衛戦を展開しましたが、師団の右翼に展開した第275歩兵師団の戦線が突破され、師団はサン・ロー方面へと後退を余儀なくされました。
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第6降下猟兵連隊
FallschirmJäger-Regiment 6

連隊本部/本部中隊
第1大隊:第1~第3中隊
第2大隊:第4~第6中隊
第3大隊:第7~第9中隊
第13重迫撃砲中隊(12cm迫撃砲×9門、機関銃×8挺)
第14戦車猟兵中隊(7.5cmPak×4門、パンツァーシュレック×34挺、機関銃×6挺)
第15工兵中隊(8cm迫撃砲×2門、機関銃×6挺)

 第6降下猟兵連隊は1943年2月に編成され、第2降下猟兵師団に配属されてイタリアとロシアを転戦後、再建のためドイツ本国へ帰還しました。第6降下猟兵連隊は1944年1月にケルン-ヴァーン(Köln-Wahn)で再建され、1944年5月1日にフランス・ノルマンディーに移動しました。連隊長はフリードリヒ・フォン・デア・ハイテ中佐(Obstlt Dr. Friedrich August Frhr von der Heydte)で、第2降下猟兵師団の本隊はブルターニュ半島に駐屯していたため、連隊は一時的に第91空輸歩兵師団に配属されました。
 1944年5月19日現在、連隊は各3個中隊からなる3個大隊と3個支援中隊により構成されており、5月19日現在の兵力3,457名となっていました。また、連隊には不足している砲兵支援部隊として第7軍直轄の突撃大隊からフランス製榴弾砲×4門を装備した1個砲兵中隊が配属されていました。

 1944年6月6日、連合軍の上陸に対して連隊本部はサン=コーム= デュ=モン(Saint-Côme-du-Mont)へと前進し、第1大隊はサント=マリー= デュ=モン(Sainte-Marie-du-Mont)からラ・マドレーヌ(La Madeleine)の海岸地区へと攻撃。第2大隊は第795東部大隊の拠点があるテュルクヴィル(Turqueville)地区へ、第3大隊はカランタンを確保して側面援護を務めました。しかし、サント=メール= エグリーズ(Sainte-Mère-Église)を占領したアメリカ軍第82空挺師団第505連隊第3大隊によりそれ以上前進することはできませんでした。第1大隊はサント=マリー= デュ=モンで包囲されて全滅し、6月9日から10日にかけての夜に25名の生き残りが連隊本部まで血路をひらきました。
 またカランタンを防衛する連隊の2個大隊に届いた補給は微々たるもので、口径の違うフランス製迫撃砲弾と6月10日の深夜に1機のJu52輸送機が弾薬コンテナを投下したのみでした。6月11日夕方、連隊はカランタンから後退し、その後はSS第17機甲擲弾兵師団「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」に配属されて防衛戦を継続しました。しかし、サン・ローで再び包囲され、ファーレーズでの包囲を辛くも脱出したものの、8月末の時点で連隊の兵力は60名のみとなっており、戦線から引き上げられてリジウー(Lisieux)へと後退しました。ここで回復中の傷病兵が合流しましたが、それでも合計で1,007名しか集まりませんでした。その後連隊は本格的な再建のためオランダへと後退しました。
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第101要塞ロケット砲連隊
Stellungs-Werfer-Regiment 101

連隊本部/本部中隊
第101ロケット砲大隊(コタンタン半島東岸、ヴァローニュ東側)
第102ロケット砲大隊(シェルブール西南西)
第103ロケット砲大隊(シェルブール西南西)

 連隊は1944年1月にすでに1943年10月に編成されていた3個大隊を集めて編制されました。各大隊は3個中隊からなり、各中隊はロケットランチャー×6基を装備しており、合計で54基のロケットランチャーを装備しました。連隊はシェルブール陥落とともに壊滅し、再建はされませんでした。
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第621砲兵連隊
Artillerie-Regimentsstab 621

連隊本部/本部中隊
第456砲兵大隊
  大隊本部/本部中隊
  第1中隊(ロシア製15.2cm砲×4門)
  第2中隊(ロシア製15.2cm砲×4門)
  第3中隊(ロシア製12.2cm砲×4門)
第457砲兵大隊
  大隊本部/本部中隊
  第1中隊(ロシア製15.2cm砲×4門)
  第2中隊(ロシア製15.2cm砲×4門)
  第3中隊(ロシア製12.2cm砲×4門)

 連隊は1943年1月25日に第1機甲砲兵連隊本部から第621特別編成砲兵連隊本部としてフランスで編成され、西方軍に配属されました。連隊本部には「第456砲兵大隊」と「第457砲兵大隊」の2個独立大隊が配属され、1944年1月から第7軍に配属されてシャルトル(Chartres)に駐屯しましたが、その後シェルブール南方のヴァローニュ(Valognes)南西に移動し、1944年4月11日時点で各砲兵中隊は下記の各地に分散して駐屯していました。

第456砲兵大隊
  第1中隊:マーニュヴィル(Magneville)=ヴァローニュの南西9km
  第2中隊:レタン= ベルトラン(L'Étang-Bertrand)=ヴァローニュの南西7km
  第3中隊:レタン= ベルトラン(L'Étang-Bertrand)=ヴァローニュの南西7km
第457砲兵大隊
  第1中隊:グロスヴィル(Grosville)=ヴァローニュの西19km
  第2中隊:ロヴィル(Rauville)=ヴァローニュの西15km
  第3中隊:クヴィル(Couville)=ヴァローニュの西北西16km

 連隊は戦術的には第91空輸歩兵師団に配属され、6月6日、師団の第1057歩兵連隊と第1058歩兵連隊がサント=メール= エグリーズ(Sainte-Mère-Église)を占領したアメリカ軍第82空挺師団第505連隊第3大隊に対して反撃を実施し、その際には第621砲兵連隊も火力支援を行われましたが、攻撃は失敗しました。連隊は上陸軍との10日間の戦闘の後、連合軍部隊がコタンタン半島西岸に到達した6月17日には南方へ脱出しました。6月22日時点で連隊の各大隊は第353歩兵師団や第17SS機甲擲弾兵師団「ゲッツ・フォン・ベルヒリンゲン」に配属されていました。
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陸軍 第1261沿岸砲兵連隊
Heeres Küstenartillerie-Regiment 1261

連隊本部/本部中隊
第1大隊
  第1中隊(ロシア製12.2cm砲×4門)
  第2中隊(フランス製10.5cm砲×4門)
  第3中隊(フランス製10.5cm砲×4門)
第2大隊
  第4中隊(フランス製10.5cm砲×4門):マルクフ砲台
  第5中隊(フランス製10.5cm砲×4門)
  第6中隊(フランス製15.5cm砲×6門)
第3大隊
  第7中隊(フランス製15.5cm砲×6門)
  第8中隊(フランス製15.5cm砲×6門)
  第9中隊(フランス製10.5cm砲×4門)
  第10中隊(17cm砲×4門)

 第1261沿岸砲兵連隊は陸軍の沿岸砲兵連隊で、コタンタン半島東海岸に展開しており、連隊本部はサン=マルタン=ドードゥヴィル(Saint-Martin-d'Audouville)地区に設置されました。
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陸軍 第1262沿岸砲兵連隊
Heeres Küstenartillerie-Regiment 1262

連隊本部/本部中隊
第1大隊
  第1中隊(フランス製15.5cm砲×6門)
  第2中隊(フランス製10.5cm砲×4門)
  第3中隊(20.3cm砲×2門)
  第4中隊(17cm砲×4門)
第2大隊
  第5中隊(ロシア製12.2cm砲×4門)
  第6中隊(7.62cm/8.8cm砲×4門)
  第7中隊(7.62cm/8.8cm砲×4門)
  第8中隊(7.62cm/8.8cm砲×4門)

 第1262沿岸砲兵連隊は陸軍の沿岸砲兵連隊で、コタンタン半島西海岸に展開していました。
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空軍 第30(増強)高射砲連隊
Flak-Regiment 30(V)

連隊本部/本部中隊
第653重高射砲大隊
第835軽高射砲大隊
第931軽高射砲大隊
第996軽高射砲大隊
第152混成高射砲大隊
第153混成高射砲大隊
第266混成高射砲大隊
第298サーチライト大隊

 連隊は1939年8月26日にアイフェル(Eifel)にて要塞高射砲連隊「アイフェル南」(Festungs-Flak-Regiment Eifel süd)から第30高射砲連隊(Flak-Regiment 30)として編制され、11月10日には第30(増強)高射砲連隊へと改編・改称されました。連隊は1940年までアイフェルに駐屯後、フランス戦では高射砲旅団「フランツ」(Flak-Brigade Frantz)に配属され、その後はフランスのルテル(Rethel)に駐屯した後、さらにシェルブールに移動しました。
 フランス北部に駐屯した高射砲部隊は1943年からは統括部隊である第13高射砲師団にまとめられましたが、連隊は引き続きシェルブールに駐屯して要地防空任務に従事しました。1944年6月1日現在の連隊は上記のような高射砲大隊を指揮下に持ちましたが、具体的な高射砲の装備状況不明です。また、シェルブール防衛戦の末期には5個重警戒中隊と1個軽警戒中隊が配属されており、これは高射砲を失った砲兵や周辺の空軍部隊の兵士を集めて歩兵として防衛戦に投入されたものと思われます。
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第751特別編成東部連隊本部
Ost-Regiments-Stab z.b.V. 751

 1943年10月に編成され、1944年3月の時点でシェルブールにて第561東部大隊が配属されたと言われますが、大隊はすでに第709歩兵師団の第739歩兵連隊第1大隊として配属されており、連隊本部に他の大隊の配属はなく実際に編成されたか不明です。
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第752特別編成擲弾兵連隊
Grenadier-Regiment z.b.V. 752

連隊本部/本部中隊
  第521保安連隊第2大隊
  第635東部大隊:第1~第4中隊
  第797東部大隊:第1、第3~第4中隊
  第319工兵大隊第1中隊(第319歩兵師団)

 連隊の前身は1942年11月20日に中央軍集団で編成された「第700特別編成東部部隊司令部」(Kommandeur der Osttruppen z.b.V. 700)であり、東部部隊がフランスに移送されたのと合わせて1943年11月にフランスの第7軍に異動となり、1944年2月には「第752特別編成東部連隊本部」(Ost-Regiments-Stab z.b.V. 752)へと改称されました。
 連隊本部は第84軍団戦区であるグランビル(Granville)地区で1944年3月11日から兵員の訓練を開始し、5月18日には編成を完了して「第752特別編成擲弾兵連隊」へと改称されました。連隊はコタンタン半島のサン=マロ湾沿岸に広く展開して沿岸警備任務に従事しました。
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第7軍直轄 突撃大隊
Strum-Bataillon AOK 7

大隊本部/本部中隊(2cmFlak×4門、5cmPak×2門、7.5cmPak×1門、12cm迫撃砲×4門、機関銃×5挺)
3個歩兵中隊(機関銃×12挺、パンツァーシュレック×3門、8cm迫撃砲×2門)
1個重装備中隊(重機関銃×8挺、7.5cm歩兵砲×2門)
1個砲兵中隊(フランス製榴弾砲×4門)
1個工兵小隊(機関銃×3挺、火炎放射器×2器、パンツァーシュレック×1門)

 大隊は1943年5月、第7軍直轄部隊として編制され、1944年5月5日時点でシェルブール東側に駐屯していました。大隊の指揮官はメッサーシュミット少佐であり、このため「メッサーシュミット突撃大隊」とも呼ばれました。
 大隊のうち、工兵小隊は兵力58名でアンジェ(Angers)に駐屯しており、シェルブールをめぐる戦いには参加しませんでした。また砲兵中隊はD-Dayの時点で第6降下猟兵連隊の支援部隊としてサント=メール=エグリーズ(Sainte-Mère-Église)の東に駐屯しており、大隊の本隊とは別行動となったと思われます。
 大隊はD-Day初日には第1058擲弾兵連隊とともにサント=メール=エグリーズでアメリカ軍に対する反撃を実施し、その後コタンタン半島北部での防衛戦闘後にシェルブールに撤退しました。最後は戦闘団「カイル」とともに「通信半島」で抵抗を続け、生き残りの兵員は6月30日に降伏したものと思われます。大隊はその後再建はされませんでした。
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第17機関銃大隊
Maschinengewerhr-Bataillon 17

大隊本部/本部中隊
3個機関銃中隊(各銃機関銃×12挺)
1個(自動車化)対戦車砲小隊(5cmPak×3門)
1個迫撃砲小隊(8cm迫撃砲×6門)
1個(自動車化)工兵小隊

 大隊は1940年に編成されましたが、連合軍の大陸侵攻を迎えるまで実戦に参加することはなく、一貫して西ヨーロッパに駐屯しました。大隊の兵力は632名で、D-Dayの時点でシェルブールの西方に駐屯しており、第709歩兵師団に配属されて6月11日まではコタンタン半島北西地区で戦った後、6月12日からはシェルブールの防衛陣地へと後退しました。最後は戦闘団「カイル」とともに「通信半島」で抵抗を続け、生き残りの兵員は6月30日に降伏したものと思われます。大隊はその後再建はされませんでした。
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第100教育及び補充戦車大隊
Panzer-Ausbildungs und Ersatz-Abteilung 100

大隊本部/本部中隊(ルノーR35×5両)
第1偵察中隊(ルノーR35×5両)
第2中隊
  第1小隊(ソミュア×1両、ルノーR35×4両)
  第2小隊(シャールB1bis×1両、オチキス×4両)
  第3小隊(III号戦車×1両、オチキス×4両)
第3中隊(ルノーR35×3両)
整備中隊

 大隊は1944年5月18日時点でカランタン西方地区に駐屯しており、戦術的には第91空輸歩兵師団の指揮下にあり、大隊本部はシャトー・ド・フランクトー(Château de Francqurtot)に置かれ、各中隊は広い範囲に分散して駐屯しました。大隊は乗員訓練用にルノーR35×14両、オチキス×8両、ソミュア×1両、シャールB1bis×1両、III号戦車×1両を装備していました。大隊長はバルトレンシュラーガー中佐でしたが、大隊は訓練どころではなく、ノルンディーの野原に「ロンメルのアスパラガス」などの防衛施設設置作業に大忙しでした。
 6月6日の侵攻初日、ドイツ軍の連絡・指揮系統は混乱しており、大隊が戦闘準備に入ったのはやっと午前9時になってからでした。この間に第1中隊長のヴェーバー中尉が行方不明(のちに戦死が確認)、大隊長のバルトレンシュラーガー中佐もシャトー・ド・フランクトーの大隊本部からわずか1kmしか離れていないウットゥヴィル(Houtteville)の第91空輸歩兵師団司令部に向かったまま行方不明になるなど、早くも大きな損害を出しました。翌7日、第1中隊の第1小隊はサン・ロー(Saint-Lô)へ、第2小隊はカランタン(Carentan)へと派遣されました。大隊の旧式戦車はすぐに消耗し、最後はパンツァーファウストと自転車が頼りとなりましたが、7月7日付けで解隊されました。

画像提供:高橋慶史さん
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第206戦車大隊
Panzer-Abteilung 206

大隊本部/本部中隊(シャールB1bis×5両、ソミュア×2両、オチキス訓練戦車×2両)
第1中隊(オチキス×14両、ソミュア×4両)
第2中隊(オチキス×14両、ソミュア×4両)
対戦車砲小隊(対戦車砲(7.5cmPak?)×3門
整備中隊

 大隊は1943年12月に第7軍の直轄部隊として編制され、6月5日の時点でシェルブール西方のカプ・ド・ラ・アーグ、通称「通信半島」に駐屯しており、大隊本部はボーモン(Beaumont-Hague)に置かれました。1944年4月1日時点での大隊兵力は385名であり、オチキス×28両、ソミュア×10両、シャールB1bis×5両、ルノーR35×2両、対戦車砲(7.5cmPak?)×3門を装備していました。装備していたフランス製旧式戦車には第21戦車師団から譲渡されたものも含まれましたが、実質的に戦力となったのは3門の対戦車砲のみではなかったかと思われます。大隊はシェルブールをめぐる戦闘で壊滅し、再建はされませんでした。
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第902突撃砲大隊
Sturmgrschütz-Abteilung 902

 大隊はトゥール(Tours)の突撃砲学校から編制されたため、時には第902突撃砲教導大隊(Sturmgrschütz-Lehr-Abteilung 902)とも呼ばれました。6月1日の時点で大隊は31両のIII号突撃砲(内6両は修理中)を装備しており、10.5cm突撃榴弾砲は装備していませんでした。
 大隊はD-Dayの時点でトゥール(Tours)に駐屯しており、2日後の6月8日に戦術上は第17SS機甲擲弾兵師団「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」に配属されましたが、実際には同師団戦区には配属されませんでした。6月11日現在の第7軍の部隊配置によると、第17SS機甲擲弾兵師団「ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン」は第2降下軍団に配属されており、一方第902突撃砲大隊は第84軍団に配属されており、西方軍(OB West)の記録によると、6月13日の時点で大隊はヴァローニュ地区に展開していました。
 6月18日、アメリカ軍はコタンタン半島西岸に達してドイツ軍を南北に分断しました。6月19日時点での第7軍の戦闘序列によると大隊はシェルブール要塞部隊、第17機関銃大隊とともに「フォン・シュリーベン」集団に配属されていることになっていましたが、2日後の21日にはラ・アイユ=デュ=ピュイ(La Haye du Puits)に在り、突撃砲13両が戦闘可能と報告されています。6月24日の第91歩兵師団の報告によると大隊は同師団の戦区にあり、6月27日の報告では21両のIII号突撃砲が戦闘可能と報告されています。この報告からすると、第902突撃砲大隊はアメリカ軍の包囲前に南方戦線に移動していたようです。
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第561東部大隊(第709歩兵師団)
Ost-Bataillon 561

 1942年後半に編成されましたが、編制地は不明です。その後フランスへ送られ第7軍戦区で第709歩兵師団の第739歩兵連隊第1大隊として配属されており、シェルブール南西のレ・ピュー地区付近に駐屯し、機関銃×58挺、迫撃砲×9門、4.5cm対戦車砲×数門を装備していました。
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第649東部大隊(第709歩兵師団)
Ost-Bataillon 649

 1942年後半に中央軍集団戦区にて編制され、その後フランスへ送られ第7軍戦区で第709歩兵師団の第729歩兵連隊第4大隊として配属されており、シェルブール西側の地区に駐屯し、機関銃×46挺、迫撃砲×11門を装備していました。
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第795東部大隊(第709歩兵師団)
Ost-Bataillon 795

 1942年秋にグルジア兵団訓練所にて編制され、その後フランスへ送られ第7軍戦区で第709歩兵師団の第739歩兵連隊第4大隊として配属されており、サント=メール=エグリーズ東側のテュルクヴィル(Turqueville)地区に駐屯しており、機関銃×44挺、迫撃砲×15門を装備していました。連合軍の上陸後はカランタン地区へと後退し、残余は第6降下猟兵連隊に配属されましたが、もはや戦闘は不可能と判定されカランタンの南側で陣地構築作業に従事しました。
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第549東部大隊
Ost-Bataillon 549

 1942年後半に編成されましたが編制地は不明で、その後フランスへ送られ第7軍戦区でシェルブール地区に駐屯していた模様ですが詳細は不明です。大隊はヘルムート・ライバッハ大佐指揮の戦闘団「ライバッハ」(Kampfgruppe “Rohrbach”)に編入され、シェルブール要塞地帯の東部に布陣していました。
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第800東部大隊(第265歩兵師団)
Ost-Bataillon 800

 1942年秋に北コーカサス兵団訓練所で編成され、その後フランスへ送られ第7軍戦区で第265歩兵師団の第894擲弾兵連隊第1大隊として配属されました。師団はロリエン(Lorient)~サン・ナゼール(St. Nazaire)地区に駐屯していました。
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第634東部大隊(第265歩兵師団)
Ost-Bataillon 634

 1942年11月、特別戦隊「グラウコップ」の兵員から編成され、第700特別編成連隊に配属されていましたが、1943年11月にフランスへ送られ第7軍戦区で第265歩兵師団の第895擲弾兵連隊第3大隊として配属されました。師団はロリエン(Lorient)~サン・ナゼール(St. Nazaire)地区に駐屯しており、連合軍に包囲されて孤立したまま終戦まで戦いました。
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第635東部大隊
Ost-Bataillon 635

 1942年11月、特別戦隊「グラウコップ」の兵員から編成され、第700特別編成連隊に配属されていましたが、1943年11月にフランスへ送られ第7軍戦区で第752特別編成擲弾兵連隊(Grenadier-Regiment z.b.V. 752)に配属され、連合軍の侵攻の可能性の低いコタンタン半島のサン=マロ湾沿岸に展開して沿岸警備任務に従事しました。大隊は1944年6月には壊滅したようですが正式には10月14日に解隊され、残余は他の東部大隊に編入されました。
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第797東部大隊
Ost-Bataillon 797

 1942年11月21日、総督府のクルジナ(Kruszyna)に開設されたグルジア兵団訓練所において編成され、1943年2月にフランスへ送られ第7軍戦区で第752特別編成擲弾兵連隊に配属され、連合軍の侵攻の可能性の低いコタンタン半島のサン=マロ湾沿岸に展開して沿岸警備任務に従事しました。
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シェルブール要塞/第84要塞大隊
Festungs-Stamm-Truppen Cherbourg
Festungs-Stamm-Abteilung LXXXIV

 1943年5月以降、海岸線の背後5~10kmの地点に第2防衛線を構築することが計画されました。この部隊は大陸侵攻への反撃用予備部隊となる予定でしたが、予備部隊用の兵力は沿岸防衛用の部隊から抽出されることとなっており、その結果肝心の沿岸防衛部隊の戦闘力が大幅に弱体化することとなりました。
 このため「大西洋の壁」の固定陣地には28歳~40歳の中年の兵士による2線級の要塞部隊(Festungs-Stamm-Truppen)を編成して配置し、若い兵士は野戦部隊にまわそうとしました。このようにして編制された要塞部隊は戦術的には陸軍の各軍団に配属されており、各要塞部隊は沿岸防衛管区(Küsten-Verteidigungs-Abschnitte=KVA)ごとにさらに細分化され、200名から350名の中隊単位で各地の陣地に配置されました。
 シェルブール要塞部隊の1944年4月1日現在の兵力は4個中隊の1,355名と海軍200名で、戦術上は第84軍団に配属されており、「第84要塞大隊」(Festungs-Stamm-Abteilung LXXXIV)とも呼ばれました。
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海軍 第260砲兵大隊
Marine-Artillerie-Abteilung 260

第1中隊「外堤防中央要塞」(Fort Central):9.4cmVickersM39(e)×4門
第2中隊「ブランケネセ」(Blankenese):9.4cmVickersM39(e)×4門
第3中隊「港湾鉄道駅」(Harbour Station):10.5cmSKC/32×2門
第4中隊「シェルブール砦」(Bastion Cherbourg):10.5cmSKC/32u×4門
第5中隊「ルル要塞」(Fort du Roule):10.5cmSKC/32u×4門
第6中隊「ランドメール」(Landemer):15cmSKL/28×4門
第7中隊「ブロミー」(Brommy):15cmSKC/28×4門
第8中隊「ヨーク」(Yorck):17cmSKL/40×4門
第9中隊「ハンブルク」(Hunburg):24cmSKL/40×4門

 第260砲兵大隊本部はシェルブールに置かれ、各海軍沿岸砲兵中隊(Marine-Küsten-Batterie=M.K.B)はシェルブール要塞地区の砲台に配置されていました。
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 コタンタン半島とシェルブールのドイツ軍部隊はいかがでしたか?コタンタン半島北側に孤立したドイツ軍守備隊は名前も聞いたことがないマイナー部隊ばかりであり、ここには戦車師団も武装SS師団もいませんでした。シェルブール港は結局ドイツ軍により徹底的に破壊されたため、港湾施設が使用できるようになって最初の連合軍の貨物船が入港したのは7月15日になってからでしたが、それでも1944年9月末には25,000トンの貨物が揚陸されました。またシェルブールは1944年8月12日からは英仏海峡横断パイプライン「プルート・システム」(PLOUTO=Pipe-Lines Under the Ocean)の終点にもなっており、以後は連合軍の補給拠点となり、大陸反攻の補給を支えることとなりました。


【補足-1】第1709砲兵連隊について
 今回参考にした資料のうち「第三帝国の要塞」P308では北海岸の防御として「第1769砲兵連隊」が、「Normandy 1944」のシェルブール要塞の地図には「第1079砲兵連隊」が書かれていましが、これはいずれも「第1709砲兵連隊」のことと思われます。この砲兵連隊は第709歩兵師団所属の砲兵連隊で、連隊の11個中隊の約半数がシェルブール要塞地区布陣しました。さらに第709歩兵師団の第739歩兵連隊もシェルブール要塞地区に布陣していました。
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参考資料
彼らは来た(フジ出版社 1982)
パンツァーズ・イン・ノルマンディー(大日本絵画 1988)
ノルマンディー上陸作戦(欧州戦史シリーズ8)(学研 1999)
ドイツ兵器名鑑(陸上編)(株式会社コーエー 2003)
第三帝国の要塞(大日本絵画 2006)
太平洋防壁(光人社NF文庫)(潮書房光人社 2013)
Normandy 1944(Fedorowicz (J.J.) 2000) 
The German Order of Battle: Infantry in World War II(Greenhill Books 2000)
The German Order of Battle: Panzers and Artillery in World War II(Greenhill Books 1999)

http://www.lexikon-der-wehrmacht.de
http://www.atlantikwall.org.uk
https://www.normandie1944.de


2017.8.12 新規作成
2017.11.7 追記・修正
2020.6.6 東部大隊を追記・修正

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/