泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

第999アフリカ旅団/第999アフリカ軽師団
999.Afrika Brigade
999.Leichte Afrika-Division

1.創設
 パウル・カレル氏の「砂漠の狐」では「執行猶予部隊」と呼ばれて一躍有名(?)になった第999アフリカ軽師団は、1942年10月6日にフランクフルト近郊のノイベルク(Neuberg)で第999アフリカ旅団として編成されました。
 ドイツ軍では「999」の部隊番号は特別な意味を持っており、つまりこの部隊は軍律違反や犯罪を犯して有罪となった兵から編成された懲罰部隊であることをあらわしています。ただし、集められた兵たちは犯罪の常習者というわけではなく、将校と下士官は特に優秀な人材が選抜されたほか、部隊にはお目付け役として通常よりも多くの野戦憲兵隊が付けられたようです。
 1943年1月の時点で、旅団の編成は下記のようになっていました。


第999アフリカ旅団(1943年1月11日現在)
999.Afrika Brigade

旅団司令部
第961アフリカ狙撃兵連隊(自動車化):2個大隊
第962アフリカ狙撃兵連隊(自動車化):2個大隊
第999野戦憲兵隊
第999補給大隊
第999輸送段列
第999修理工場小隊
第999補給小隊
−衛生隊−
第999衛生中隊
第999病院車小隊
−管理隊−
第999師団兵站部
第999製パン中隊
第999と殺中隊


 1943年2月2日、旅団は第999アフリカ軽師団へと拡大再編成され、下記のような編成になりました。


第999アフリカ軽師団(1943年3月1日現在)
999.Leichte Afrika-Division

師団司令部
第961アフリカ狙撃兵連隊(自動車化):3個大隊
第962アフリカ狙撃兵連隊(自動車化):3個大隊
第963アフリカ狙撃兵連隊(自動車化):3個大隊
第999戦車猟兵大隊
第999砲兵連隊:4個大隊
第999工兵大隊
第999偵察大隊
第999野戦憲兵隊
−補給隊−
第999修理工場中隊
第999補給大隊
第999師団補給段列
−衛生隊−
第999除毒大隊
第999衛生中隊
第999病院車小隊
第999獣医中隊
−管理隊−
第999師団兵站部
第999製パン中隊
第999と殺中隊
第999野戦郵便局


2.第999アフリカ軽師団
 その後、師団の大部分は1943年3月末から4月の初めにかけて敗色濃厚なチュニジア戦線に援軍として派遣されました。 しかし、初代師団長のクルト・トーマス中将はチユニジアへの移動途中の4月1日に乗機が撃墜されて行方不明となり、後任にはエルンスト・ギュンター・バーデ大佐が就任しましたが、 以後師団司令部の要員は完全に充足されることはありませんでした。チュニジアに渡った部隊は下記のような編成でした。


第999アフリカ軽師団
999.Leichte Afrika-Division

師団司令部
第961アフリカ狙撃兵連隊(自動車化):3個大隊
第962アフリカ狙撃兵連隊(自動車化):3個大隊
第999砲兵連隊
第1大隊/第2大隊/第3大隊
第999工兵大隊
第999天文観測隊(Astronomischer Messtrupp)【補足-1】
第999病院車小隊
第999野戦憲兵隊


 4月初めにチュニジアに到着した師団は直ちに戦線に投入され、ワジ・アカリトの防衛陣地から後退するDAKとイタリア第1軍のために退路を確保することになりました。ピションからフォンドークを結ぶ戦線に布陣していたのは第961アフリカ狙撃兵連隊を中心とする2個戦闘団で、連隊長のヴォルフ中佐の指揮する戦闘団「ヴォルフ」は第961アフリカ狙撃兵連隊の連隊本部、第1大隊及び第2大隊を中心に戦車猟兵と砲兵部隊で強化されており、フルリーデ中佐の指揮する戦闘団「フルリーデ」は第961アフリカ狙撃兵連隊の第3大隊に第334快速大隊、第190偵察大隊、アラブ義勇兵大隊それにイタリア軍部隊を加えて編制されていました。

 DAKとイタリア第1軍の退路を遮断するため、4月7日からイギリス第9軍団はフォンドークへの攻撃を開始しましたが、ここを守る師団の「執行猶予」の兵たちはよく戦い、後退中のDAKとイタリア第1軍は4月10日にはカローンに到着しました。心配された脱走兵も少数はあったものの、「執行猶予」の兵たちはその任務を果たし、ナチスの新聞「フェルキッシャー・ベェアバハター」で取り上げられたり、南方軍総司令官ケッセルリンク元帥からの感謝の言葉も送られました。
 無事後退に成功したDAKとイタリア第1軍は、1943年4月12日までにアンファダヴィルから西に伸びる防衛線に布陣し、チュニジアを防衛してきた第5機甲軍の防衛線と連結して「アフリカ軍集団」(Heersgruppe Afrika)の最後の防衛線が完成しました。

チュニジア戦線でのドイツ・イタリア軍の布陣は北から

・フォン・マントイフェル師団
・第334歩兵師団の半数
・第999アフリカ軽師団
・第334歩兵師団の半数
・第15戦車師団
・ヘルマンゲーリング師団
・第10戦車師団
・スペルガ師団(イタリア軍)
・スペツィア師団(イタリア軍)
・第21戦車師団
・トリエステ師団(イタリア軍)
・ピストイア師団(イタリア軍)
・青年ファシスト師団(イタリア軍)
・ツェンタウロ戦車師団(イタリア軍)
・第164軽師団
・第90軽師団

となりました。しかし、チュニジアでの戦いも最終局面を迎えており、連合軍による補給線の封鎖はますます厳しくなって、4月20日以降はチュニジアへの補給物資は何もとどかなくなりました。
 師団はその後もチュニス前面の防衛拠点であるクリスマス山(連合軍の呼称ではロングストップ・ヒル)の付近で最後まで頑強に抵抗しましたが、5月12日には他の枢軸軍部隊とともについに連合軍に降伏しました。


3. ロードス突撃師団
 さて、師団の主力部隊がチュニジアに渡った後、残余部隊は地中海東部のロードス島に送られ「ロードス突撃師団」の一部となりました。このうち第999機甲偵察大隊は装甲車中隊、軽狙撃兵中隊、重装備中隊から成り、装甲車中隊は1943年型装甲偵察大隊の装甲車中隊の編成に準じていたようです。
 装甲車中隊はSd.kfz.233装甲車6両を装備しており、Sd.kfz.222系列も少なくとも9両は装備していたものと思われます。その他、写真では1両のSdkfz247(4×4)やキューベルワーゲンを装備していたのが確認できます。師団の残余部隊はこのころギリシャに駐屯したか、あるいはロードス島への移動途中であったのかもしれません。【補足-2】

 1944年8月23日、ルーマニアのミハイ国王はアントネスク元帥を罷免し、新首相にセナテスク将軍を指名してソ連との休戦条件を受諾し、8月25日には早くもドイツに戦線布告しました。続いて8月26日にはブルガリアが中立を宣言し、9月4日には枢軸同盟からの脱退を宣言しました。しかしソ連軍は中立を認めず、9月5日に一方的にブルガリアに宣戦布告し9月8日にはブルガリア領内に侵攻を開始しました。9月9日にはブルガリア「祖国戦線」がクーデターにより政権を奪取し、新生ブルガリア政府は9月11日にドイツに対して戦線布告する事態となりました。こうして東部戦線南翼は崩壊し、ハンガリー南部〜ルーマニア〜ブルガリアとユーゴスラヴィアとの国境地帯には巨大な戦線の空白地帯が出現しました。このままではギリシャ・アルバニア方面のE軍集団が孤立することは明白であり、ドイツ軍はギリシャ・アルバニア方面からの総撤退を開始しました。

 10月1日、突撃師団「ロードス」の擲弾兵連隊の先遣隊200名はロードス島からアテネへと空輸され、さらにベオグラード近郊のベチュケレクへと空輸され、戦闘団「ベチュケレク」に配属されました。しかしベチュケレク飛行場はすぐに敵の攻撃により使用不能となり、後続部隊はパンゼヴォ、フランツフェルト、ゼムリンへと分散空輸されました。このため、連隊の再集結は不可能となり、空輸先の都市で現地の守備隊に編入されて壊滅しました。【補足-3】
 一方、重装備等を輸送できないためロードス島に残留した部隊は1944年12月14日付けで機甲擲弾兵旅団「ロードス」として再編成されました。旅団には依然として戦車、突撃砲、装甲車、砲兵などの重装備が残りましたが、もはや宝の持ち腐れでした。 ロードス島は連合軍により海上封鎖され、国際赤十字による最低限の食料補給の仲裁が行われたものの1945年5月のドイツ降伏まで飢餓との戦いが続き、栄養失調により33名の兵士が「戦死」しました。


突撃師団「ロードス」の編成(1943年5月31日現在)
Rhodos Sturm Division
師団司令部
突撃連隊「ロードス」:3個大隊
戦車猟兵大隊「ロードス」:突撃砲装備
対空中隊「ロードス」
機甲通信中隊「ロードス」(第657通信中隊を編入)
第999機甲偵察大隊(*)
  装甲車中隊
  軽狙撃兵中隊
  重装備中隊
第999砲兵連隊第4大隊(*):105mm砲装備
第999工兵中隊(第999工兵大隊第3中隊)(*)
第999野戦憲兵隊(*)
−補給隊−
第999補給中隊(*)
第999修理工場中隊(*)
−衛生隊−
第999衛生大隊第1中隊(*)
第999病院車小隊(*)
−管理隊−
第999製パン中隊(*)
第999と殺中隊(*)
第999野戦郵便局(*)

注:(*)印が第999アフリカ軽師団の残余から編入された部隊


【補足−1】天文観測隊(Astronomischer Messtrupp)
 このちょっと聞きなれない部隊は、ヒトラーの好きな星占いにケチをつけた天文学者を招集して・・・なんてわけではなく、天文観測により目標物のない地域での部隊の行軍方向の障害の調査、砲撃時の測量支援、地図の作成などを任務としました。部隊は全員が士官か准士官クラスで天文学のプロフェッショナルで構成されて、通常は軍規模の司令部に置かれていました。しかし、北アフリカの主戦場は砂漠といっても海岸沿いの限られた範囲であり、チュニジアは一転して山岳地帯のため部隊の活躍の場はあまりなかったようです。この部隊が編成に登場するのは第999アフリカ軽師団が優遇されたわけではなく、他の部隊にも配属されたはずですが戦闘部隊ではないため、一般的な書籍では無視されてしまうことが多いためと思われます。
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【補足−2】第999機甲偵察大隊の写真撮影場所
 第999機甲偵察大隊の写真はグランドパワー2000年6月号、P51及び第2次大戦:軍用車両写真集No.1 ドイツ陸軍Vol.1、1993年12月発行、P140に掲載されており、両方の写真集に掲載された写真の撮影場所は、グランドパワー誌では「1943年春にギリシャのアテネ近郊にあるピレウス港」とされていますが、古い方の軍用車両写真集の解説では「1943年9月イタリア南部のアドリア海側の町バレッタ」とされています。それではこの場所はどこなのでしょうか?

 これら一連の写真が撮影された場所は明らかに同じ場所で、背景にはパナギア・ハルケオン(Panagia Halkeon)教会が写っていることから「正解」はギリシャのサロニキ(テッサロニキ)であることがわかります。 グランドパワー2000年6月号P57の写真はリンク先の画像からもう少し右手からの撮影ですが、撮影場所は建物の裏手(北側)で、道路側がすこし高くなっているのがわかります。
 ※第999機甲偵察大隊の編成と写真の撮影場所については、きたむらひろしさんにご教授いただきました。ありがとうございました。
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【補足−3】戦闘団「ロードス」
 旧版では突撃連隊「ロードス」がベオグラードへ輸送され戦闘団「ロードス」となったと書きましたがこれは間違いで、戦闘団「ロードス」は突撃連隊「ロードス」とは関係がありませんでした。なお、ユーゴスラヴィアでは軽歩兵大隊「ロードス」という部隊も登場しますが、この大隊は1944年2月にギリシャ本土で帰休兵を中心に編成された部隊で、基幹要員は第16擲弾兵連隊の第2大隊本部、同第5中隊、第6中隊、第65擲弾兵連隊の第5中隊、第6中隊でした。この部隊は1944年秋には第41軽歩兵大隊へと改編されました。
出典:ラスト・オブ・カンプフグルッペV(大日本絵画 2012)
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参考資料(2014.3.15)
ラスト・オブ・カンプフグルッペV(大日本絵画 2012)
グランドパワー2000年6月号(デルタ出版2000)
グランドパワー1997年7月号(デルタ出版1997)
グランドパワー1997年8月号(デルタ出版1997)
航空ファンイラストレイテッド・ロンメル戦車軍団DAK(文林堂 1992)
Die Gepanzerten und Motorisierten Deutschen Grossverbande(Podzun 1986)
Uniforms,Organization and History of the Afrikakorps(Roger James Bender1973)


2001.8.16 新規作成
2001.10.14 第999機甲偵察大隊についての情報を追加
2010.1.10 改訂版
2013.3.15 改訂3版 【補足−2】戦闘団「ロードス」を追加
2014.3.15 改訂4版 本文と補足を修正

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/