泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

自由インド兵団/第950インド歩兵連隊
Freies Indien Legion /Indisches Infanterie Rgt. 950

 ドイツ軍にはさまざまな目的や思惑をもった義勇兵が参加しておりの、多くの部隊が編成されましたが、その中でもターバンを巻いたインド人部隊はひときわ異彩(違和感かな?)を放っていました。インドは大英帝国の最重要植民地であり、ドイツ軍は開戦直後から対英戦略の一環としてインドの反英民族運動に対する親独化工作を進め、1940年頃からはインド人留学生をドイツの大学に転入させるなど、工作要員の確保に努めていましたが、実際にインド人部隊の編成が具体的に動き出すのはチャンドラ・ボースがドイツに現れたあとのことです。

1.創設
 1941年、スパース・チャンドラ・ボースはイギリス当局の手から逃れて陸路アフガニスタン経由でモスクワへ、そして空路ベルリン入りして、「インド仮政府」樹立のための活動を始めました。国防軍は早速ボースの活動を全面的に支援し、インド仮政府を承認するとともに活動のための場所と人員を提供することになり、1941年9月にはインド人留学生のブランデンブルグ隊員がボースのもとに配属され、総勢わずか10名ながら「自由インド兵団(Freies Indien Legion) 」が創設されました。
 その後、北アフリカで捕虜となったインド兵5名が加わり、12月にはボースはアンナベネグ近郊の捕虜収容所を視察して義勇兵の募集を開始しました。民族運動家として有名なボースの呼びかけにより数日後には数百名のインド兵が呼びかけに応じ、さらにフランケンベルク近郊の捕虜収容所でも約600名の志願者が現れました。こうして集められた志願者たちはドレスデン近郊のケーニヒスブリュック(Königsbrück)演習場に送られて訓練が開始されました。


自由インド兵団(1942年夏)
Freies Indien Legion

兵団本部
  通信小隊
第1中隊:軽機関銃×18挺、81mm迫撃砲×3門、28mmゲルリヒ砲×3門
第2中隊:第1中隊と同じ
第3中隊:第1中隊と同じ
第4中隊:軽機関銃×12挺、81mm迫撃砲×3門、28mmゲルリヒ砲×3門
対戦車砲小隊:50mm対戦車砲×2門(クルップ牽引車付属)
軽歩兵砲小隊:75mm軽歩兵砲×2門(クルップ牽引車付属)
工兵小隊:軽機関銃×3挺


 1942年9月、自由インド兵団は「第950インド歩兵連隊」と呼称もきまり、ドイツ陸軍に正式に編入されました。この時点で連隊はヒンドウー教徒1,503名、シク教徒516名、イスラム教徒497名、その他少数民族77名の合計2,593名で構成されていましたが、さらに志願兵とドイツ人基幹スタッフ300名が加わって総兵力は3,500名となり、車輌81両、軍馬700頭を装備していました。


2.スバシュ・チャンドラ・ボース
Subhas Chandra Bose (1897~1945)

 1897年にボースはベンガル州の裕福な弁護士の九番目の子として生まれました。カルカッタ大学・ケンブリッジ大学で学び公務員になりましたが、ガンジーが対英独立運動に立ち上がると1921年に公務員を辞職して国民会議派に入り急進左派の運動家として活躍し、カルカッタ市長や国民会議派議長(1938年~1939年)などを歴任しました。
 しかし1939年には「早期独立のためには武力闘争が必要」という急進的な運動からガンジーを中心とする主流派と対立して国民会議派から除名され、ベンガル州で「前衛ブロック」なる組織を作り独自の活動を開始します。1941年、イギリス当局によって逮捕され軟禁されていた自宅を密かに脱出し、陸路インドからアフガニスタン経由でモスクワに向かい、まずソ連共産党に援助を打診しますが、その意思がないとわかるとドイツ大使館を訪れ空路ベルリン入りします。
 ドイツでインド人義勇兵を募集するなどの活動後、1943年にはインド洋上で潜水艦(U180と伊29)を乗り継いで日本に渡り、1943年10月には日本の支援によりシンガホールに設立された自由インド仮政府の首班に就任しました。しかしインド独立の目標を達成できないまま日本は敗れ、1945年8月18日に台湾で飛行機事故により死亡しました。
 ボースの理論は「敵の敵は味方」というもので、とにかくインドの独立を早期に達成するためにイギリスと敵対するドイツや日本を利用しようとしました。しかしドイツはあまりに遠く、日本はインドに対する戦略方針を何ら持ち合わせていませんでした。台湾で飛行事故により死亡したときには、戦後イギリスと敵対するであろうソ連と交渉するため、満州経由でソ連へ脱出する途中であったと言われています。

 日本ではボースの活動や自由インド仮政府はタダの傀儡政府と見られがちですが、インドでは独立の功労者として評価が高く、国会議事堂の正面にはガンジー、初代首相のジャワハラル・ネールの肖像がとともに正面にボースの肖像画が掲げられています。


3.第950インド歩兵連隊
 1943年4月、第950(インド)歩兵連隊はオランダのビバーロー演習場に移動し、第16空軍地上師団に配属されました。連隊は各4個中隊からなる3個大隊と第13~第15の各中隊から編成されましたが、連隊本部の替わりに訓練管理本部がおかれて訓練部隊の扱いとなっていました。しかし、ここで早くも『自分たちはインド本国か「インドへの道」(イギリスのインド支配のための重要ルート)の他では、戦闘を行う義務を持たない』と考えるインド兵47名がオランダ行きを拒否する事件が発生し、47名はドイツ軍の軍法会議により捕虜収容所へ送還されることになりまた。これは他のインド人志願兵への影響を考慮したもので、ドイツ軍としては大変に寛大な処置となりました。

 1943年7月7日、連隊は正式に戦闘部隊と認められると同時に北海沿岸を離れて気候温暖なフランスへ順次移動を開始し、8月31日までにはフランス南西部の都市ボルドー近郊へ移動を完了して、第344歩兵師団に配属されてボルドーの西側のラカナウ(Lacanau)でビスケー湾の海岸線の防衛任務に当たることになりました。


第950(インド)歩兵連隊(1943年夏)
Indisches Infanterie Rgt. 950

連隊本部
  本部中隊
  通信小隊
第1大隊
  大隊本部
  第1中隊~第3中隊
  第4機関銃中隊
  第5重装備中隊:75mm軽歩兵砲×6門、50mm対戦車砲×6門
第2大隊(第1大隊と同じ)
第3大隊(第1大隊と同じ)
インド砲兵小隊:75mm軽野砲×4門(陣地に固定)


 ボルドーには第1軍が司令部を置き、ビスケー湾の北部を第80軍団の第158予備歩兵師団と第708歩兵師団が、南部を第86軍団の第344歩兵師団と第276歩兵師団が担当して防衛任務についていました。1944年1月、第344歩兵師団はパ・ド・カレー地区へ転出しますが、第950(インド)歩兵連隊はそのままボルドー地区に残り、第159予備歩兵師団に配属されて引き続き海岸線の防衛任務を行いました。
 1944年2月10日にはロンメル元帥が連隊の視察に訪れ、同じく2月にはドイツ流の教育を受けたインド人士官が始めて連隊に着任するなど、連合軍のノルマンディ上陸前のしばしの平和を謳歌していました。この頃にはインド人志願兵たちはパリまで出かけることも許されており、空軍の女性補助員をナンパ(?)している写真があります。オイオイ・・・(笑)


第950(インド)歩兵連隊(1944年2月)
Indisches Infanterie Rgt. 950

連隊本部:(連隊長Kurt Krappe中佐)
  本部中隊
  通信小隊
  救急車小隊
  自転車小隊
第1大隊
  第1中隊~第3中隊、第4機関銃中隊
第2大隊
  第5中隊~第7中隊、第8機関銃中隊
第3大隊
  第9中隊~第11中隊、第12機関銃中隊
第13軽歩兵砲中隊:75mm歩兵砲×6門、120mm重迫撃砲×4門?
第14戦車猟兵中隊:50mm対戦車砲×4門、75mm対戦車砲×2門
第15工兵中隊
第950(インド)砲兵中隊:155mm榴弾砲418(f)×4門
野戦補充中隊


 1944年5月末、このうち最精鋭の第9中隊の約200名はイタリア戦線の連合軍インド植民地部隊へのプロパガンダの一環としてイタリアに送られ、第278歩兵師団の軽歩兵大隊に配属されて最前線に投入され、その後はパルチザン掃討戦に投入されて終戦まで戦い続けました。【補足-1】

 1944年6月6日、連合軍がノルマンディに上陸すると、上陸作戦に呼応したフランスパルチザンによる破壊活動がボルドー地区でも激しくなり、7月下旬には連隊の第2大隊がパルチザン掃討作戦のためにカステルジャルー(Casteljaloux)に派遣され、さらに第6中隊がモン=ド=マルサン(Mont-de-Marsan)に分遣されましたが、武装レジスタンス「マキ」の部隊は撤退したあとで空振りに終わりました。
 1944年8月6日、ノルマンディー戦線で「リュティヒ作戦」が失敗に終わると、南フランスを占領するG軍集団の第1軍と第19軍にも全面撤退が発令され、第1軍/第64軍団でも撤退作戦「ヘルプストツァイトローゼ」(秋のクロッカス)が発令され、ビスケー湾からスペイン国境まで広く散在する部隊も撤退を開始しました。第950(インド)歩兵連隊は第64軍団の北、中央、南の行軍グループのうち中央行軍グループに属しており下記のような部隊が含まれました。


第64軍団中央行軍グループ

第16歩兵師団/第602及び第608自転車大隊
第651地域軍政司令部(Feldkommandantur 651)
第950(インド)歩兵連隊
第837ヴォルガ歩兵大隊
第197保安連隊
2個軽高射砲中隊
海軍部隊(5,000名)
スペイン国境税関職員(7,500名)
その他非戦闘員


 グループのうち野戦部隊は第16歩兵師団/第602及び第608自転車大隊、第837ヴォルガ歩兵大隊、第197保安連隊のみで頼りない相方でした。(お前が言うな・笑)

4.敵中突破
 第950(インド)歩兵連隊/第1大隊は8月14日にはポアティエ(Poitiers)南方60kmのリュフェック(Ruffec)付近まで移動し、翌日には連隊本部と本部中隊も合流しました。第2大隊の大部分はパルチザン掃討作戦のためモン=ド=マルサン(Mont-de-Marsan)地区にあり、緊急行軍によりアングレーム(Angoulême)に向けて移動を開始しました。
 リュフェック地区では移動中の部隊に「マキ」による待ち伏せ攻撃が繰り返されて連隊の部隊も損害を被っており、リュフェック近郊には約4,000名の「マキ」部隊が展開していると見られる一方、ドイツ軍部隊の兵力は連隊の第1大隊と第2大隊を含む約3,000名弱と劣勢でした。その中でも第1大隊/第5中隊は逆に「マキ」に対して待ち伏せ攻撃を敢行して大損害を与え、この戦功によりジャアン・シン軍曹、バルヴァント・シン軍曹、パール・シン軍曹に対してインド暫定政府の「スター勲章」とドイツ軍の「二級鉄十字章」が授与されました。その後「マキ」はリュフェック地区への総攻撃を行いましたが連隊の第1大隊と第2大隊が奮戦し、なにより第13歩兵砲中隊の活躍により撃退に成功しました。
 一方、第3大隊は8月15日~16日にラカノー(Lacanau)に移動し、さらにボルドー東方約20kmのリブルヌ(Libourne)へ移動しました。大隊はここから鉄道輸送でポアティエ(Poitiers)を目指しましたが、連合軍の空襲により鉄道網は寸断されておりポアティエに到着したのは8月21日でした。
 8月末になると連隊本部、第1大隊、第2大隊がポアティエに到着して第3大隊と合流し、これから先は鉄道が不通のため大隊ごとに自転車、荷馬車、車両を調達してとりあえず360km東方のディジョン(Dijon)を目指すこととなりましたが、この頃には「マキ」が支配地域を広げており、敵中を横断突破することを意味しました。
 9月初め、連隊はディジョンへの中間地点であるデュン=シュロロン(Dun-sur-Auron)に達しましたが運河の橋梁付近には「マキ」の部隊が布陣しており、連隊は市街戦によりこれを奪取して街を通過すると、30km東方のサンコアン(Sancoins)へと進み、ここからは大隊ごとに分かれてリュジー(Luzy)経由でディジョンを目指しました。

 1944年8月15日、連合軍は「ドラグーン作戦」により南フランスに上陸し、アメリカ第7軍はリヨン(Lyon)を経由して北上し、ドイツ本土を目指すドイツ軍部隊の退路を遮断しようとしていました。第950(インド)歩兵連隊は昼夜兼行で行軍しましたが、「マキ」の妨害もあり1日50km進むのがやっとの状況でした。
 そして連隊がディジョン南方35kmのボーヌ(Beaune)に差し掛かったところで、ついにアメリカ第3歩兵師団の先鋒部隊との不期遭遇戦が発生し、この戦闘でインド人義勇兵40名が戦死・負傷・捕虜となる損害を被りました。しかし、ボーヌ北方15kmのニュイ=サン=ジョルジュ(Nuits-Saint-Georges)では連隊の第13軽歩兵砲中隊と第14戦車猟兵中隊が奮戦してアメリカ軍の前進を阻止し、連隊主力はディジョンを通過しさらに140km東進してルミルモン(Remiremont)まで撤退することに成功しました。
 この撤退期間中の戦闘でインド人義勇兵40名が戦死し、約250名が「マキ」の捕虜となりました。このうちブール=アルシャンボー(Bourg-Archambault)付近で捕虜となった29名は正規の裁判なしで銃殺刑となりました。

 9月初め、さしものアメリカ軍も急進撃により補給の限界点に達しつつあり、悪天候も合わせてドイツ軍の残余はヴォージュ地方で薄い抵抗線を構築することができました。第950(インド)歩兵連隊はルミルモンからエルザス地方を目指して撤退し、9月16日~17日の夜間から朝にかけてコルマール北西のル・ボルムでドイツ国境(併合されたエルザス地方の国境線)を越えて9月23日にはハーゲナウ(アグノー)近郊のオーバホーフェン演習場に到着することができました。

5.武装SSインド義勇兵団
 1944年8月8日、インド自由兵団と第950インド歩兵連隊は陸軍からSSの管轄に移管され、8月15日付けで「武装SSインド義勇兵団(Indische Freiwilligen Legion der Waffen SS)」と改称され、司令官にはハインツ・ベルトリングSS准将が着任しました。
 1944年11月、アメリカ軍はヴォージュ地方へと進撃したため、武装SSインド義勇兵団はライン川東岸のラシュタット(Rastatt)、ビュール(Bühl)へと移動し、12月23日にはホイベルク(Heuberg)演習場へ移動しましたが、ここでの補給は不充分なものでインド人義勇兵たちは飢えと寒さに震えていました。また連隊の経験豊富なドイツ人将校は最前線の部隊に引き抜かれ、インド人義勇兵たちの士気は低下する一方でした。
 ドイツ国内に戻った武装SSインド義勇兵団はその後最前線に出ることもなく、後方で当初の任務である対英プロバガンダ活動を黙々と展開し、その活動は1945年3月24日にヒトラーより中止命令が出るまで続けられました。
 人的資源の確保に悩む武装SSもインド人部隊の戦闘力をまったくあてにしておらず、司令官となったベルトリングSS准将にしてもこの人事を左遷と受け止めており、猛烈な猟官運動を展開して1944年12月4日付けで司令官を退任し、総統予備を経て1945年2月16日付けで第11軍後方地域で「SS武装擲弾兵連隊(ブルガリア第1)」(Waffen-Grenadier Regiment der SS (Bulgarisches Nr. 1))の指揮官となりましたが、編成計画は中止となり、その後は1945年2月27日付けで要塞都市「コルベルク」の地方軍政司令部(Kreiskommandanten)指揮官として赴任し、包囲下のコルベルクで非軍事部門を指揮して奮戦しましたが、コルベルク要塞が陥落した3月18日にソ連軍の捕虜となりました。
 後任の連隊長には1944年12月4日付けで元連隊長のクラッペ中佐がSS大佐として再び指揮を執ることとなりました。

 1945年3月の時点で武装SSインド義勇兵団は、2,300名の兵員と小銃1,648丁、拳銃550丁、短機関銃420丁、自動小銃200丁、重機関銃24丁、中型の迫撃砲×20門、小口径の榴弾砲×4門、歩兵砲×6門、対戦車砲×6門、軍馬×700頭、車輌×87両、乗用車×61両、オートバイ×5両の装備を保有していると報告しています。戦闘に出ていないので装備を失うこともなかったわけです。
 3月23日の会議でその報告を聞いたヒトラーは激怒し、3月24日には活動中止の命令が出され武装SSインド義勇軍団の重火器は第18SS義勇機甲擲弾兵師団「ホルスト・ヴェッセル」の再建(戦闘団「シューマッヒャー」の編成)に転用されたようです。

6.終焉
 1945年4月上旬、ライン川を渡河したアメリカ軍と自由フランス軍は南進を開始し、ホイベルク(Heuberg)演習場の武装SSインド義勇兵団は4月12日の夜に残っていたほとんどの装備と武器を演習場の他の部隊に引き渡して約50km南方でスイス国境に近いジンゲン(Singen)方面に移動を開始しました。ジンゲンからはボーデン湖に沿って南東に進み、4月24日には約100km進んでオーバーロイテ(Oberreute)に達しました。ここで兵団は直線距離で100km以上離れたバート・テルツのSS士官学校の防衛を命じられましたが、末期戦でお馴染みの現実離れした命令でした。

 兵団は第1大隊を前衛として東方のゾントホーフェン(Sonthofen)方面に送り、その他の部隊はオーバーロイテ地区に留まりましたが、4月29日から30日にかけてフランス第5機甲師団に補足され、連隊本部、第2大隊及び第3大隊のほとんどが戦わずに降伏しました。
 一方、第1大隊はスイスへの入国を計画しており、東進してオーストリアに入るとネーベルホルン(Nebelhorn)山塊の東側を時計回りに迂回してヴァイセンバッハ(Weißenbach)~レッヒ(Lech)を経由してランゲン(Langen am Arlberg)に達し、ここで奇跡的に運航していた鉄道により5月2日にスイス国境に近いフェルトキルヒ(Feldkirch)に達することができました。しかし、そこにはすでに自由フランス軍の追及を恐れるヴィシーフランス政府側の国家警察部隊「ミリツ」(Miliz)の約15,000名がたむろしていました。
 このためインド義勇兵たちはスイス入国をあきらめ、鉄道でランゲンに引き返したあとさらに東進を続け、5月3日にランデック(Landeck)に達したところでアメリカ第7軍の第44歩兵師団に降伏しました。


【補足-1】
 第950(インド)歩兵連隊の第9中隊はワルター・トート大尉指揮下に士官3名と兵199名が4月にボルドー(Bordeaux)を出発し、ツールーズ(Tolosa)-マルセイユ(Marsiglia)を経由してイタリアに向いました。中隊は第305歩兵師団に配属の予定でしたが、ジェノヴァ(Genova)まできたところで連合軍機の空襲により鉄道輸送を阻害され、以後はジェノヴァからボローニャ(Boiogna)、リミニ(Rimini)を経由してペスカーラ(Pescara)まで毎日25~40km徒歩で移動して辿り着き、5月26日から第278歩兵師団の軽歩兵大隊に配属され、ペスカーラ内陸のキエーティ(Chieti)で最前線に配置されました。
 中隊は6月末までに引き揚げられ、その後は戦線後方でパルチザン掃討戦に投入されました。その後はドイツ軍とともに後退を開始し、7月にはリミニ(Rimini)南方のペーザロ(Pesaro)まで撤退し、秋からはラヴェンナ(Ravenna)~フェッラーラ(Ferrara)地区に移動して道路と鉄道の治安維持任務を1945年4月まで継続し、4月に戦線が崩壊した際にはコマッキオ(Comacchio)付近で8~10名のインド人義勇兵が負傷しましたが、大きな損害もなくスキオ(Schio)まで後退したところで連合軍に降伏しました。
 スキオ(Schio)は北イタリアのヴェネチア(Venezia)とヴェローナ(Verona)の中間にあるヴィチェンツァ(Vicenza)から北西に20kmほど入ったレッシー山地に位置する山あいの街で、北の山地を越えると南チロル地方に至ります。

 最後に興味深い記録が残されています。ボルツァーノに駐屯していたSS警察連隊「ボーゼン」の連隊本部は終戦後にドイツ軍部隊の復員司令部として転用され、例えばSS第24武装山岳猟兵師団のスペイン人義勇兵もこの司令部経由で復員しています。また、復員の記録には武装SSインド義勇兵団の兵士も含まれており、これはイタリアに派遣されて第278歩兵師団の軽歩兵大隊に配属された第950(インド)歩兵連隊第9中隊のインド人義勇兵ではないかと思われます。これらの兵士はおそらく戦争末期に戦傷病によりボルツァーノ地区の病院に入院し、回復後に同地の復員司令部を経由して復員手続きが行われたものであろうと思われます。(2009.4.12)
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参考資料
ラスト・オブ・カンプフグルッペVI(大日本絵画 2018)
武装SS(講談社 1995)
コマンド・マガジン日本版 No.1 インド国民軍の悲劇(国際通信社 1994)
39-45Magazine No.112(39-45Magazine 1995) 仏語


2000.5.20 新規作成
2001.7.20 Lrgionの表現を「軍団」から「兵団」に変更
2009.4.12 【補足-1】を追加
2024.3.23 改訂版

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