泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

第90軍団
XC.Korps

 1942年11月8日、連合軍は北アフリカ上陸作戦「トーチ作戦」を発動し、フランス領モロッコのカサブランカにアメリカ軍約34,000名、アルジェリアのオランにはアメリカ軍約40,000名、アルジェにはアメリカ軍とイギリス軍合計約33,000名の兵力が上陸しました。
 エジプトから撤退中のアフリカ機甲軍はその背後を脅かされる状況となりましたが、それに対してドイツ南方軍総司令官のケッセルリング元帥が投入できたのは、わずかに第5降下猟兵連隊の2個大隊と南方軍総司令官護衛第3中隊しかありませんでした。しかし外務省の交渉によってドイツ軍はチュニスに無血進駐することに成功し、翌9日にはチュニスのエル・アウイナ飛行場に最初の空軍航空部隊と対空部隊が着陸しました。

1.チュニジア橋頭堡
 地上部隊で最初にチュニスに到着したのは降下猟兵中隊「ザオアー」でした。この部隊はもともとラムケ旅団の補充要員たちで、アテネで輸送を待っていたところを11月8日に急遽チュニジアへ送られることになり、11月10日にはチュニスに到着しました。
 その後11日から13日にかけて第5降下猟兵連隊の第3大隊の部隊が順次到着し、15日には第1大隊が到着、16日にはコッホ中佐の連隊本部も到着して守りを固めました。チュニスとならぶもう一つの拠点ビゼルタにはチュニス野戦大隊のヴォルフ中隊が到着し、こうしてチュニジア北部の重要拠点は確保されました。

 これらの地上部隊をまとめてチュニジアを確保するため急遽第90軍団が編成され、司令官にはエル・アラメイン戦での傷のためヴュンスドルフの病院で療養中のネーリング大将が就任しました。11月14日、ネーリング大将はチュニスのラ・マルサ飛行場に到着しましたが、第90軍団の実態は軍団とは名ばかりの雑多な部隊の寄せ集め集団であり、司令部要員はネーリング大将の側近のスタッフたちで作戦参謀のモル中佐以下数名のみ、参謀長のポムトー中佐は南ロシアのカフカスから移動中という状態でした。


第90軍団の編成(1942年11月16日現在)

-チュニス橋頭堡-
チュニス第1野戦大隊(もとの第11降下猟兵軍団直轄降下工兵大隊)の第3中隊
第5降下猟兵連隊:コッホ中佐
  連隊本部及び第1大隊、第3大隊(第2大隊はラムケ旅団として抽出)
ザオアー降下猟兵中隊
第104機甲擲弾兵連隊の第14中隊
第20高射砲師団の1個中隊(8.8cmFlak-4門)

-ビゼルタ橋頭堡-
シュトルツ司令部(レーデラー司令部を改称)
チュニス第1野戦大隊の第1中隊
第190戦車大隊の第4中隊(兵員のみ)
第190砲兵連隊の第4中隊
第2砲兵連隊の第4中隊(※第22砲兵連隊?)
第557突撃砲大隊(イタリア軍「インペリアーリ」師団)
第136戦車猟兵大隊(イタリア軍「青年ファシスト」師団)
降下猟兵連隊「バレンティン」
降下工兵大隊(第11航空軍団直轄)

-南部地区-
シュペルガ師団(イタリア軍)
インペリアーリ師団(イタリア軍)


 11月17日にはチュニジア南部の要衝ガベス(Gabès)では第5降下猟兵連隊第10中隊のケムパ少尉の小隊と南方軍護衛大隊第3中隊がフランス軍守備隊にハッタリをかませて街を占領することに成功しました。
しかし、チュニス西方にある内陸部の要衝メジェズ・エル・バブ(Medjez el Bab)では簡単には行きませんでした。11月19日、現地のフランス軍部隊はドイツ側の要求を拒否したため、第5降下猟兵連隊第3大隊のクノッヘ大尉の戦隊がシュートゥーカとメッサーシュミットの支援下に攻撃を開始しました。クノッヘ大尉の指揮下には連隊の第10中隊及び第12中隊の半数と第104狙撃兵連隊第14戦車猟兵中隊の5cmPakの半数が配属されていましたが、メジェズ・エル・バブの駅を拠点にしたフランス軍の抵抗は意外に激しく、第10中隊のブント中尉が戦死するなど大きな損害を出して最初の攻撃は失敗しました。
 夜になると連隊長のコッホ中佐が突破用の機材を持ってイタリア軍部隊とともに到着し、翌20日の深夜1時の夜襲によってフランス軍はパニックに陥って退却し、町はようやくドイツ軍の手に落ちました。

 一方、ビゼルタ西方のジェベル・アビオドでは11月17日14時30分に独伊混成の偵察部隊が始めてイギリス軍と遭遇し、ここにチュニジアで始めての地上戦が始まりました。ドイツ軍は降下工兵大隊のヴィツィッヒ少佐が率いる戦闘団が駆けつけ、イギリス軍との間で砲撃戦が展開されました。


ヴィツィッヒ集団(1942年11月17日)
Gruppe Witzig

降下工兵大隊の第1中隊と第4中隊
第190戦車大隊第4中隊(13日以降Ⅳ号戦車が到着)
第190砲兵連隊第5中隊
イタリア軍(?)対戦車自走砲中隊
対空砲中隊:2cm軽高射砲


 11月25日になるとメジェズ・エル・バブ(Medjez el Bab)に対するイギリス軍の攻撃が始まり、町を守る降下猟兵たちは第190戦車大隊のⅢ号戦車の支援を受けて抵抗しました。しかし、アメリカ軍のグラント戦車の支援もうけたイギリス軍の攻撃にやむなく後退し、11月27日にはさらに北東の要衝デブルバもイギリス軍が占領しました。勢いに乗る連合軍部隊はチュニスの西方12kmの地点まで迫ったものの、8.8cm高射砲2門によって2分間に6両の戦車を撃破されるとついに後退し、さらにマチュル方面から第190戦車大隊が駆けつけて戦線を安定させました。

2.デブルバの戦い
 この様な状況に南方軍総司令官ケッセルリンク元帥は、11月末にわざわざチュニスを訪れて第90軍団を叱咤激励し、ドイツ軍の本格的な反撃作戦が計画されました。この反撃作戦はテブルバの奪還を目指すもので、全体の指揮は主力部隊が順次到着しつつある第10戦車師団のフィッシャー少将が取ることになり、攻撃部隊として次の4個戦闘団が編成されました。


フーデル戦闘団(第7戦車連隊第1大隊:フーデル大尉)
第7戦車連隊第1大隊の第2中隊、第3中隊
第190戦車駆逐大隊の第2中隊(自走砲装備)
第10オートバイ狙撃兵大隊の第4中隊

リューダー戦闘団(第501重戦車大隊:リューダー少佐)
第501重戦車大隊の1個中隊
第190戦車大隊の第1中隊、第3中隊
第10オートバイ狙撃兵大隊の第3中隊
第90砲兵連隊第2大隊の1個中隊(砲×3門)

コッホ戦闘団(第5降下猟兵連隊:コッホ中佐)
第5降下猟兵連隊の第1大隊、第3大隊
第190戦車駆逐大隊の対戦車砲1個中隊
イタリア軍対戦車砲1個中隊と火砲×2門

ギュンシュ戦闘団(ギュンシュ工兵大佐)
工兵部隊
ジュデイダ隊(ティーガーI戦車×2両)


 12月1日から開始されたテブルバをめぐる戦いは4日まで続き、ドイツ軍がテブルバを占領して終わりました。国防軍総司令部の戦闘日誌には『連合軍の捕虜1,076名、戦車59両、装甲車30両、その他車両350両を破壊し、火砲41門、迫撃砲40門、車両約50両と大量の弾薬を捕獲した。』と記録されています。その後12月6日から再開されたフィッシャー少将の攻撃はさすがにアメリカ軍に阻止されたものの、ドイツ軍のチュニジア橋頭堡は確保され急遽設立された第90軍団はその目的を達成しました。

3.第5戦車軍
 1942年12月8日、第90軍団は第5戦車軍へと拡大され、ネーリング大将は12月9日まで2日間だけ司令官を勤めた後、フォン・アルニム上級大将にその職を引き継いで再びドイツの病院での療養生活に戻りました。
 将軍は妻に『チュニジアを持ちこたえることは不可能であろう。』と語り、チュニジアに残してきた運転手と側近のことを心配していたといいます。そしてその予測どおり、チュニジア橋頭堡は1943年5月12日まで多くの兵力を浪費した後、失われることになります。


第5戦車軍(1942年12月17日現在)

第10戦車師団
フォン・ブルーフ師団
第20高射砲師団
インペリアーリ師団(イタリア軍)


参考資料
月刊グランドパワー/1997年7月号(デルタ出版 1997)
月刊グランドパワー/1997年8月号(デルタ出版 1997)
月刊PANZER/1988年12月号(サンデーアート社 1988)
Uniforms,Organization and History of the Afrikakorps(Roger James Bender 1973)


2001.7.20 新規作成
2024.9.4 一部修正

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/