泡沫戦史研究所/枢軸軍マイナー部隊史

第211戦車大隊
Panzer Ausbildung 211

1.フィンランドのドイツ軍
 1941年6月22日、ドイツ軍はバルバロッサ作戦を発動して「東部戦線」となった独ソ国境地帯を突破し、怒涛のようにソ連領内を進撃しました。一方、北のフィンランド−ソ連国境地帯では1週間後の6月29日、ムルマンスク攻略とムルマンスク鉄道の遮断を目指すドイツ軍と、冬戦争で奪われた領土回復を目指すフィンランド軍の進撃が開始されました。
 フィンランド軍は南のフィンランド湾からラドガ湖の北までのカレリア地峡には第4軍団(3個師団基幹)と第2軍団(3個師団基幹)が展開し、ラドガカレリアにはカレリア軍としてフィンランド軍主力の第7軍団(2個師団基幹)と第6軍団(2個師団と1個旅団基幹)およびオイノネン戦闘団(2個旅団基幹)が展開し、その北のリエクサには第14師団が布陣しました。
 レントゥアから北極海までのラップランドにはドイツ軍が布陣しており、「ノルウェー軍最高司令部フィンランド野戦司令部」としてロバニエミに司令部が開設されました。通称「ラップランド軍」と呼ばれるフィンランド派遣ドイツ軍は次のような編成となっていました。


ノルウェー山岳軍団
  第2山岳師団
  第3山岳師団
  第40特別編成戦車大隊の第1中隊
第36軍団
  第169歩兵師団
  SS山岳戦闘団「ノルト」
  第40特別編成戦車大隊の大隊本部及び第2中隊
  第211戦車大隊
フィンランド第3軍団
  フィンランド第6歩兵師団
  フィンランド第3歩兵師団
  第40特別編成戦車大隊の第3中隊


 最も北ではノルウェー山岳軍団(2個山岳師団基幹)がペッツァモから進撃してリツァ、ポルセルノエを経由してムルマンスク攻略を目指していました。中央部では第36軍団(1個歩兵師団と1個戦闘団基幹)が冬戦争でソ連に奪われたサッラ、カイララ、アルクレッティのフィンランド領を回復し、さらにカンタラハティを攻略してムルマンスク鉄道を遮断することを目指していました。そして第36軍団の南となりではフィンランド第3軍団(2個歩兵師団基幹)がロウヒ〜ケミを攻略しようとしました。
 ラップランド軍には2個の戦車大隊が配属されており、まず「第40特別編成戦車大隊」は1940年3月に独立大隊として編成され、1940年4月のデンマークとノルウェー占領作戦に参加しその後オスロ近郊に駐屯しており、北欧の地形や気候について経験がありました。この大隊はT号、U号、V号戦車を装備していましたが、中隊単位で各軍団に分散配置されていました。さて、今回の主役である「第211戦車大隊」は中央部の第36軍団に配属されてカンタラハティ攻略を目指して進撃を開始しましたが、この大隊はなんとフランス製戦車(!)を装備した戦車大隊でした。

2.捕獲戦車部隊
 1940年の対フランス戦の勝利のよりドイツ軍は大量のフランス製装甲車両を入手しました。そして捕獲フランス戦車を装備した最初の部隊として第201捕獲戦車連隊が1940年12月10日に設立されました。連隊は2個大隊により編成されており、各大隊は3個戦車中隊により構成されていました。続いて2番目の部隊として第202捕獲戦車連隊が1941年2月10日付けで設立され、1941年3月1日には2個戦車連隊の統括司令部として第8戦車旅団司令部を改称して第100戦車旅団司令部が設立されました。1941年3月7日、第201戦車連隊の第2大隊から大隊本部と2個中隊が抽出されて戦車大隊「ヴォルフ」(大隊長ヴォルフ少佐)が編成され、この大隊は3月24日には第211戦車大隊と改称されました。その後大隊はフィンランドへの輸送作戦「ブラウフクス(青ギツネ)1」の一部として、第169歩兵師団、SS山岳戦闘団「ノルト」とともにシュテチンから船積みされてはるばるフィンランドへ送られました。
 第211戦車大隊は戦力指示書「KStN1107c」(軽戦車大隊の大隊本部)による大隊本部と「KStN1171c」(軽戦車中隊)に基づく戦車中隊2個中隊により編成されており、戦車はソミュアS35×10両とホチキスH39×24両の合計34両を装備するほか、次のような装備となっていました。【補足−1】


第211戦車大隊の編成定数(1941年6月22日現在)
大隊本部
  指揮班:オートバイ×2両、オートバイ(サイドカー付)×2両
      小型兵員車×1両、中型兵員車×3両
  管理及び通信班:オートバイ×1両、中型兵員車×2両、小型乗用車×1両
  輸送班:小型トラック×1両
  (将校7名、軍属2名、下士官9名、兵15名、合計33名)
第1中隊
  中隊本部:オートバイ×2両、オートバイ(サイドカー付)×1両
      中型兵員車×1両、ソミュアS35×2両
  第1小隊:ソミュアS35×1両、ホチキスH39×4両
  第2小隊:ソミュアS35×1両、ホチキスH39×4両
  第3小隊:ソミュアS35×1両、ホチキスH39×4両
  中隊段列:オートバイ×1両、オートバイ(サイドカー付)×4両
      中型兵員車×1両、小型乗用車×1両、小型トラック×2両、
      中型トラック×12両、1t牽引車×2両、Kfz2/40工作車×1両
  (将校4名、下士官37名、兵73名、合計114名)
第2中隊:第1中隊と同じ

大隊計:将校15名、軍属2名、下士官83名、兵161名 合計261名


3.第211戦車大隊出動!
 1941年6月中旬、フィンランドに輸送された第211戦車大隊は、まずサヴコスキ南東の宿営地に入りました。ここで大隊は第36軍団の第169歩兵師団に配属され、師団のサッラ、カイララ隘路、その後のカンタラハティへの攻撃を支援し、突破口が開き次第敵の追撃に使用されることとなっていました。しかし、フィンランドのような森林、湖、川、沼地、荒地が複雑に絡み合った地形では戦車の行動は道路以外では不可能であり、視界もせいぜい200mと戦車の行動にはまったく不向きな地形であることがわかりました。この地形では戦車は細い未舗装道路上を行動する以外なく、このため攻撃に投入できる戦車はせいぜい1個小隊でしかありませんでした。
 6月27日からは大隊の1個小隊が第169歩兵師団に派遣され、攻撃準備が行われました。7月1日の16時、第36軍団によるサッラへの攻撃が開始され、第36軍団の第169歩兵師団はサッラの北側から、SS山岳戦闘団「ノルト」はサッラへの主要街道と鉄道線路に沿って西側から、そしてフィンランド第6歩兵師団は南から森林地帯を迂回して進撃が開始されました。このうち第169歩兵師団では3つの戦闘団が編成されており、北には戦闘団「ブロイアー」(第379歩兵連隊を第165湿地大隊で増強)、中央には戦闘団「シャック」(第392歩兵連隊を第211戦車大隊の1個小隊で増強)、南には戦闘団「リューベル」(第378歩兵連隊を増強)が配置されました。

 サッラ周辺のソ連軍は約1個師団の兵力でしたが堅固な防衛陣地に陣取っており、攻撃はたちまち行き詰まりました。特にSS山岳戦闘団「ノルト」の攻撃正面ではソ連軍は森林地帯の外縁に沿ってコンクリート製のトーチカなどの強力な防衛陣地を用意しており、SS山岳戦闘団「ノルト」は開けた土地からの正面攻撃を強いられ、戦闘訓練の不足もあって大損害を被りました。特に7月4日の戦闘ではソ連軍の戦車を伴った反撃によりSS隊員たちはパニックとなり、『ソ連軍の戦車がきた』と叫び後方のドイツ軍砲兵陣地まで敗走する始末でした。7月4日までの最初の戦闘におけるSS戦闘団「ノルト」の損害は、戦死73名(内将校13名)、負傷232名(内将校13名)、行方不明147名であり、さらに行方不明者の大半は実際にはソ連軍の捕虜となっていたことが後に判明しました。

 一方、第211戦車大隊の1個小隊が配属された戦闘団「シャック」の攻撃は比較的順調で、初日には新国境線を越えて進撃しサッラから北へ伸びるサッラ〜コルヤ道に達してサッラの守備隊の背後に脅威を与えるこたに成功しました。戦闘団「シャック」に分遣されたわずか1個小隊の戦車は、初日にはソ連軍守備隊の1個中隊の守備隊を退却させ、7月4日には始めてソ連戦車1両を撃破しました。
 しかし、問題も発生していました。ドイツ軍お得意のはずの戦車と歩兵の連携も最初はまったくうまくゆかず、初日にはせっかく開いた戦線の穴を拡大できなかったばかりか、7月2日にサッラ〜コルヤ道の橋を攻撃した際には歩兵の支援が十分でないばかりに撃破されて脱出した乗員がソ連軍の銃撃で倒れてしました。このときはナアア曹長の指揮する小隊が攻撃に参加しており、指揮官であるナアア曹長のソミュアS35とそれに続いたホチキスH35戦車が撃破されたものと思われます。また、ソ連軍が対戦車兵器を集めている箇所に対して戦車を先頭に攻撃させたり、歩兵から攻撃目標の指示がなかったりと、歩兵側の戦車との共同作戦への不慣れが目立ちました。

4.サッラの戦い
 7月6日早朝から第169歩兵師団によるサッラへの大規模な攻撃が開始され、第211戦車大隊の第1中隊からビュトナー少尉の指揮する小隊のみが戦闘団「シャック」に配属されてコルヤ〜サッラ道に沿って南へ進撃する攻撃に参加しました。戦闘団はサッラの東でサッラ〜カイララ街道への進出に成功し、ビュトナー少尉の小隊はさらにサッラに向けて前進しました。小隊はサッラの手前1キロの街道上でソ連戦車と遭遇して双方1個小隊規模の戦車による戦闘となり、この戦闘で2両の損害と引き換えにソ連戦車8両を撃破しました。小隊はさらに前進するため歩兵の到着を待ちましたが、2時間たっても攻撃を支援するはずの歩兵が現れず、やむなく撤退せざるをえませんでした。
 そのころ、第2中隊の別の1個小隊はカイララをめざして街道をさらに東に進み、カイララからのソ連戦車の反撃も2両を撃破して撃退し、サッラ〜カイララ街道の遮断してサッラのソ連軍を孤立させることに成功しました。夕方にはエンテ少尉指揮の第2中隊第3小隊がカイララに向かって攻撃を続行しましたが、予定されていたSS戦闘団「ノルト」の歩兵が追従せず、攻撃はまたしても中止されました。なんとSS戦闘団「ノルト」の兵は見慣れないフランス戦車をソ連軍の戦車と思い込んでいたのでした!

 7月7日、東西からサッラへの総攻撃が開始され、第211戦車大隊は第2中隊の2個小隊(ドクター・フランツ及びトゥエンテ少尉の小隊)は午後から攻撃に参加しました。歩兵の支援も今度はうまく行き、歩兵の支援を受けた戦車は先頭に立って突進し、サッラの橋を確保した後サッラ丘のふもとで敵砲兵陣地に突入して砲兵1個中隊を撃破し、さらに歩兵と共に村そのものへも突入して制圧に成功し、サッラの戦闘はソ連軍の撤退により21時には終了しました。
 サッラの戦闘には第211戦車大隊の稼動戦車すべてが投入され、戦闘により6両の戦車が撃破され(うち4両は修理不能の全損)、10両が機械的故障で脱落しました。兵員の損害では意外と少なく、下士官2名と兵2名が戦死し下士官2名と兵2名が負傷したのみでした。この戦闘により第211戦車大隊は敵戦車24両を撃破し、対戦車砲5門を破壊する戦果をあげており、サッラの戦闘で撃破されたソ連戦車50両(!)のうちの約半数が大隊の戦車による戦果でした。この戦果が示すように、大隊の戦車の大活躍はサッラの占領に大きな役割をはたしました。

5.カイララ〜アラクルッティの戦い
 7月8日、第36軍団に配属されている第40特別編成戦車大隊(大隊本部と第2中/指揮官:フォン・ハイメンダール中佐)と第211戦車大隊の戦車は一括して運用されることとなり、1個対戦車小隊を加えて戦車戦闘団「ハイメンダール」が編成され、第169歩兵師団に配属となりました。戦闘団の主力はサッラに師団予備として待機し、2個戦車小隊のみが第169歩兵師団に分遣されることとなりました。しかし、第36軍団によるカイララ〜アラクルッティへの攻撃は準備に時間がかかり、第36軍団による新たな攻勢は3週間の間行われませんでした。
 7月26日、第36軍団のカイララ〜アラクルッティへの攻撃が開始されたものの、攻撃はほとんど瞬時に停止させられ、実際には戦車部隊の出る幕はありませんでした。7月28日には第40特別編成戦車大隊は第36軍団を離れて、南部のフィンランド第3軍団戦区に移動することとなり、戦車戦闘団「ハイメンダール」は解散され、戦闘団の任務は第211戦車大隊を中心とした戦闘団「ヴォルフ」に引き継がれました。戦闘団「ヴォルフ」は第211戦車大隊に1個歩兵大隊、1個工兵大隊、1個対戦車中隊を加えて編成され、第169歩兵師団の戦闘団「ブロイアー」に配属されて防衛任務の支援にあたることとなりました。しかし、8月3日には戦闘団「ヴォルフ」も解散し第211戦車大隊はサッラに集結後、カイララのソ連軍陣地を南側から突破する新たな攻撃に参加するためフィンランド第6歩兵師団の戦区へ移動しました。

 フィンランド第6歩兵師団の戦区は主要街道からはずれた枝道であり、道路の状況はさらに悪く戦車の運用はせいぜい小隊単位の行動に限定される状況が続きました。このため攻撃には2個小隊のみが割り当てられることとなり、大隊本部と残りの小隊は師団予備として後方に留まりました。また別の(多分第1中隊からの)1個小隊が8月16日から8月23日までの間、第169歩兵師団の戦闘団「ブロイアー」に派遣され、第13機関銃大隊を支援しました。
 8月19日、フィンランド第6歩兵師団による攻撃が開始されましたが、大隊の戦車は師団予備のまま留まりました。8月21日からは第1中隊の4両の戦車が第379連隊の攻勢左翼の増援に派遣されました。しかし道路は非常にひどい状態で3両がスタックと故障で脱落し、最後の1両はエンジンルームに命中弾を受けて移動不能となり、戦車による支援はわずか1日のみで終了してしまいました。
 この時期の行動記録地図を見ると、他の部隊は小隊単位まで書いてあるのに、この部隊だけは「第1中隊」としか書かれておらず、あるいは第1中隊の中隊本部と予備車両が使用されたのかもしれません。

 8月23日、グローヘ中尉の指揮する第2中隊の第1小隊がフィンランド第6歩兵師団第54歩兵連隊の第3大隊に派遣されてやっと戦車の出番がきました。第3大隊の歩兵は荒地を通ってソ連軍を迂回攻撃し、ヴオリキュラからアラクルッティへの街道を解放して8月24日にはカンガスランピに到着しました。翌8月25日にはスラハーラ川にかかる橋を守るソ連軍を迂回するため、ドイツ軍工兵が作った5キロの戦車道を利用して迂回攻撃が行われました。この攻撃には12両の戦車が参加しており、これはこの時点の第2中隊の全力ではなかったかと推定されます。(第1小隊&第2小隊の各5両+中隊本部の2両×計12両?)
 この攻撃では参加した12両のうち9両は途中でスタックしてしまい、何とか戦車道を通過できたのは3両のみでしたが、対戦車火器を持たないソ連軍はアラクルッティに向けて退却したため攻撃は成功しました。しかしその後1両の戦車がマキアンクーンでソ連軍の対戦車砲により撃破され、翌日の8月26日には別の戦車が対戦車砲により被弾炎上して戦車長が戦死するという損害もでました。

 この攻撃成功によりカイララ〜アラクルッティの街道は開放され、いまやアラクルッティとトゥンツァ川への攻撃を待つばかりとなりましたが、攻撃は8月30日まで待たなければなりませんでした。主要街道に戻っても道路事情は相変わらず悪く、先頭に立つ戦車は1個小隊に限られました。また、大隊のソミュア戦車はこの時期にはすべて破壊または故障してしまい、ホチキス戦車は無線機を持たないため命令伝達はすべて伝令に頼らなければならなくなりました。【補足−2】
 8月30日、再開された攻撃では戦車の1両が対戦車砲により撃破され、他の戦車も多数の命中弾を受けたものの前進を続け、第211戦車大隊はトゥンツァ川に到着し、9月2日には次のヴォイタ川にも達しました。大隊は8月以降の戦闘に投入した24両の戦車の内9両を失いましたが(その内7両は対戦車砲による損失)、人員の損害は戦死1名、負傷5名にとどまりました。

 9月6日、第36軍団によるヴォイタ川のソ連軍防衛線への攻撃が開始されました。第211戦車大隊は戦闘団「フィッシャー」に配属されましたが、前進は道路が開放される9月13日まで待たなければなりませんでした。ソ連軍はヴェルマン川の防衛線へ後退し、ドイツ軍は9月19日に到達しましたが、ここで第36軍団は防衛体制に入ることとなり第211戦車大隊はこの日、アラクルッティへの移動命令を受け取りました。

6.長い冬ごもり
 アラクルッティでヴォルフ少佐は地区司令官に任命され、軍団による作戦行動に加えて補給ルートの安全確保、宿舎の確保、交通の統制などの後方業務も大隊の任務となりました。フィンランドの冬は迫っており大隊は直ちに冬ごもりの準備に入りましたが、アラクルッティ村は貧弱な建物がいくつかあるだけの寒村であり、くわえて大隊以外にも第36軍団の他の部隊や補給機関が宿舎を求めていたため、村の南東に自ら宿舎を建設しなければなりませんでした。11月には主要街道の南に3箇所の野戦警備所が作られ、ヴォルフ少佐が責任者となり大隊の要員から街道警備部隊が編成されました。また11月には12両の戦車が修理工場小隊の将校1名、下士官・兵38名とともに修理のためオウルへ送られました。
 フランス製戦車の補給デポはパリ南方約150kmのジアンにあり、必要なパーツがはるばるフィンランドに届くまでにはなんと6ヶ月もかかりました。オウルは荷揚げ港でありスペアパーツや修理設備の確保もすこしは容易であったのでしょう。また、大隊のその他の車両も冬の間に修理が行われ、1943年2月までに75%の修理が完了しました。
 1942年1月末にはソミュア戦車×4両とホチキス戦車×15両の使用が可能となり、その後もホチキス戦車に修理が集中された結果、3月の終わりまでにはほとんどすべてのホチキス戦車が修理さましたが、ソミュア戦車の修理は半分にも満たない状態でした。

 1942年5月、第211戦車大隊の編成は大隊本部から本部中隊と修理工場が独立して規模が拡大・改編されました。このため大隊の定員は500名となり人員は一時的には207名も不足しましたが、夏までには補充兵が到着し人員不足は改善されてゆきました。しかし人員の不足はどの部隊でも慢性化しており、特に経験豊富な士官、下士官や専門技術兵は常に不足していました。


第211戦車大隊の編成及び装備定数(1942年5月)
大隊本部/本部中隊
  中隊本部
  戦車小隊:ソミュアS35×1両、ホチキスH39×4両
  通信小隊:ソミュアS35×2両、ホチキスH39×1両
  オートバイ偵察小隊:
第1中隊
  中隊本部:ソミュアS35×2両
  第1小隊:ソミュアS35×1両、ホチキスH39×4両
  第2小隊:ソミュアS35×1両、ホチキスH39×4両
  第3小隊:ソミュアS35×1両、ホチキスH39×4両
第2中隊:第1中隊と同じ
修理工場小隊

※大隊の拡大・改編後の装備定数の詳細は今回はわかりませんでしたが、1943年11月現在の報告によると主な装備定数と人員定数は次のとおりでした。
戦車 ソミュアS35×13両、ホチキスH39×29両
主な車両 オートバイ(サイドカー付含む)×48両、兵員車×31両、トラック×62両、牽引車×9両、装甲救急車×1両
(士官16名、下士官140名、兵307名、Hiwi37名 合計500名)


 1942年以降1944年夏まで、第211戦車大隊は戦闘らしい戦闘に参加することはありませんでした。共同訓練や演習への出動、時には限定的な攻撃作戦もありましたが、その他はアラクルッティ周辺の警備と戦車の整備が大隊の最大の任務となりました。また1942年11月には第40特別編成戦車大隊はノルウェーに移動したため、これ以降大隊がフィンランドにおける唯一の「戦車大隊」となりました。
 大隊の設立以来大隊長を務めたヴォルフ少佐は1943年春に転出し、後任としてシュティッケル少佐が着任しました。その他にもアラクルッティ駐屯の間に経験豊富な士官や下士官・兵は他の部隊に次々と転属し、その補充は経験不足の士官や下士官・兵で行われました。
 もちろんフランス製戦車の戦闘力不足は第36軍団でも認識されており、再三にわたり突撃砲の配備が要求されましたが、突撃砲は貴重な戦力として各地の戦線で引っ張りだこであり第211戦車大隊にはついに配備されませんでした。

 大隊の実際の戦車装備数は1942年5月以降次のように報告されています。
・ 1942年5月現在 ソミュアS35×16両、ホチキスH39×26両、予備 H39×8両(内稼動2両)
・ 1943年4月現在 ソミュアS35×14両、ホチキスH39×33両
・ 1943年5月現在 ソミュアS35×16両(内稼動15両)、ホチキスH39×33両(内稼動26両)
・ 1943年11月現在 ソミュアS35×15両、ホチキスH39×31両

また、実際の人員は次のように報告されています。
・ 1943年5月現在 士官14名、軍属4名、下士官95名、兵325名 合計438名
・ 1943年11月現在 士官14名、下士官110名、兵305名 合計429名

その他主要な車両装備は1943年11月現在で次のように報告されています。
オートバイ(サイドカー付含む)×41両(定数48両)、兵員車×30両(31両)、トラック×43両(62両)、牽引車×4両(9両)装甲救急車×1両(1両)

※この数字だけでもトラックや牽引車といった支援車両が定数より大幅に不足していることがわかりますが、兵員車やトラックは戦力指示書に定められたオフロード用の全輪駆動車の代わりに2輪駆動車で代用されていたりと、性能の低い装備で我慢しなければなりませんでした。

 1944年4月になると大隊にV号戦車N型×3両が配属され、5月にはさらに追加の3両が配属されてこれでやっとまともな「戦車」が配備されました。また6月にはシュティッケル少佐に代わってデトヴァイター大尉が三代目の大隊長として着任し、以後終戦まで大隊の指揮を執ることとなりました。

7.フィンランドからの撤退
 1944年6月9日、ソ連軍のカレリア地峡への大攻勢が開始されヴィープリを含むほぼ全地域が占領され、ラドガ湖の北側でも6月20日から開始されたソ連軍の攻勢によりフィンランド軍の戦線は後退を強いられていました。1944年9月2日、フィンランド政府はついにソ連と休戦の合意に達し、これを受けて9月3日早朝にはフィンランド駐留の第20山岳軍(ラップランド軍)にはフィンランドから撤退する「ビアケ作戦」が発動されました。


第20山岳軍(1944年9月頃)

第19山岳軍団
  第6山岳師団
  第2山岳師団
  ロッシ師団群
  第210歩兵師団
第36山岳軍団
  第169歩兵師団
  第163歩兵師団
第18山岳軍団
  SS第6山岳師団「ノルト」
  クロイトラー師団群
  第7山岳師団
  戦闘団「ヴェスト」
  戦闘団「オスト」


 アラクルッティ近郊に展開していた第36山岳軍団は9月11日に撤退を開始しましたが、ソ連軍は3日早く9月8日には北からの迂回攻撃を成功させてカイララへの街道を封鎖してしました。この時第211戦車大隊の大隊本部と第2中隊は一足早くアラクルッティからオウルに向けて移動した後であり、第1中隊の2個小隊(第1小隊と第2小隊)のみでソ連軍に対抗しなければなりせんでした。第1中隊は9月10日からソ連軍との戦闘に入りましたがソ連軍の戦車はT34であり、旧式なフランス戦車ではまったく歯が立ちませんでした。中隊は9月10日の戦闘だけで3両のソミュアS35戦車と8両のホチキスH39戦車を失い、1日で2個小隊のほとんど全戦力を失いました。
 一方、第211戦車大隊の大隊本部と第2中隊は9月10日には鉄道輸送によりオウル地域に到着し、直ちに戦闘団「ヴェスト」に配属されました。大隊の指揮所はオウルの補給デポに置かれ、最初に到着した戦車6両はプダス湖方面に前進し、別の戦車3両はイイ川での警戒任務に付きました。翌9月11日には鉄道輸送中であった戦車10両もオウルに到着しました。9月15日に大隊指揮所と主要部隊はイイに移動し、9月18日にはさらにクイヴァニエミの北に移動しました。
 9月20日現在、第211戦車大隊はクロイトラー師団群に編入されており、第655歩兵大隊、第55戦車猟兵大隊の第2中隊、第503対空中隊などとともに戦闘団「クレンツァー」を編成して出動準備をしましたが、その後10日間は待機のまま出動の機会はありませんでした。9月28日、大隊はラップランド軍の予備部隊となりロバニエミに向けて移動を開始しました。【補足−3】

 10月1日、大隊がラヌア〜ロバニエミ道でウリマーの北に達したころ、フィンランド軍が新たな行動を起こしていました。10月1日早朝フィンランド軍の1個連隊がトルニオに上陸し、同時に市内の重要拠点を市民防衛隊が占領したため、ドイツ軍の退却路が遮断される可能性がでてきました。これは状況確認のため小部隊を送り込んだドイツ軍を驚かせ、第211戦車大隊をはじめとする増援部隊の投入が決定されました。10月1日現在の報告によると大隊はソミュアS35×13両とホチキスH39×20両、それに「ホチキス搭載重対戦車砲」×3両を装備しており、他にもV号戦車を装備していたと思われます。【補足−4.1】
 
 このとき第211戦車大隊はロバニエミの南に到着したところでしたが、10時35分には直ちにロバニエミに行軍するよう命じられ、ロバニエミからは鉄道輸送でケミへ向かうこととなりました。クロイトラー師団群に急遽よびもどされることとなった大隊の輸送は最優先扱いで行われ、最初の輸送列車は10月1日の22時にロバニエミを出発して10月2日の早朝にはケミ東北のラウリラに到着し、2番目の列車も数時間後にはロバニエミを出発して10月2日の9時にはラウリラに到着しました。
 クロイトラー師団群ではトルニオの橋を再占領するため戦闘団「トルニオ」を編成して送り出し、フィンランド軍もトルニオからケミへと前進して戦闘となりました。


戦闘団「トルニオ」

第211戦車大隊(大隊本部と第2中隊)
SS第6歩兵大隊
第6猟兵大隊の1個中隊と軽隊空砲(数門)
1個砲兵中隊


 10月3日早朝、第211戦車大隊の1個小隊とSS第6歩兵大隊はライヴァ湖でフィンランド第11歩兵連隊を攻撃しましたが攻撃は失敗し、攻撃に参加した戦車5両のうち2両が撃破される結果となりました。10月3日から6日にかけて数度の戦闘により戦闘団はトルニオまであと一歩に迫りましたが戦力を消耗しており、最終的に攻撃は中止されました。大隊は10月6日の夕刻にはケミの西のカーカモヨキに後退し、ドイツ軍の主要部隊とともに北に向かって撤退しました。10月3日から6日までのケミ〜トルニオ道の戦闘で大隊は少なくとも3両のソミュアS35と1両のホチキスH39を地雷などにより失いました。この4両は写真が残っているもののみであり、フィンランド側の主張している「12両撃破」は過大としても実際の損害はもっと多かったものと思われます。トルニオ奪回の試みはその後も続けられ、今度は戦闘団「シュテート」が北から攻撃しましたがこの攻撃も失敗に終わり、10月8日には大きな損害を出しながらも何とか撤退することができました。

 第211戦車大隊にとってトルニオの戦いは最後の本格的な戦闘になったようです。大隊はケミからケミ川に沿って北に向かい、10月10日にはロバニエミとペッロの中間のラーヌ湖に達しここで第18軍団に配属されました。一方第36軍団とともに後退した第211戦車大隊の第1中隊もその後なんとか大隊に合流したようですが、中隊の戦車はそれまでの戦闘で失われておりどの程度の戦力を残していたかは不明です。大隊はその後戦闘団「エッシュ」に配属されフィンランド軍との戦闘にも出動したようですが戦闘の詳細は不明です。戦闘団は10月26日には解散しており、大隊はそれまでにさらに北方へ後退して10月28日にはノルウェーのラッレに到着していました。
 大隊はノルウェーではフォッスバーケンとルントの周辺に留まり、ここで他の小戦車部隊の戦車が編入されました。大隊の任務はリンゲンフィヨルドに沿ったドイツ軍防衛陣地の強化でしたが、10月終りには連合軍のナルビク上陸に備えた投入予備部隊にもなりました。大隊はここでなんとか体制を立て直すことができ、11月1日現在で次のような装備車両を報告しています。


第211戦車大隊の装備車両(11月1日現在)
ソミュアS35×6両
ホチキスH39×10両
V号戦車N型×5両
T号戦車B型×5両
7.5cm装軌式自走砲架×2両(内1両修理中)
装甲救急車×1両(sdkfz251?)

※5両のT号戦車B型は、第40特別編成戦車大隊が1942年11月にノルウェーに移動した際にフィンランドに残置し、特別編成戦車保安中隊(後の第40戦車中隊)として引き続き運用されていた15両のうち、1943年6月の中隊解散後も稼動状態であった生き残りであり、1944年10月10日から軽戦車小隊として大隊に配属されました。
※「7.5cm装軌式自走砲架」は「ホチキス搭載重対戦車砲」と同一車両と思われますが、1945年1月の報告からは姿を消しました。【補足−4.2】


 第211戦車大隊は戦争の終結までノルウェー領内のエルヴェゴルトウトローム近郊に留まり、1945年5月にノルウェーの全ドイツ軍と共に降伏しました。大隊はフランス戦車を装備して戦車戦には不向きなフィンランドに送られるという二重のハンデを背負って戦いました。そして1942年から1944年夏まではほとんど戦闘らしい戦闘もなく、主戦線から遠く離れたフィンランドに在ったとはいえ最後まで旧式なフランス戦車を装備し続けた珍しい戦車大隊としてのみ(?)名を残すこととなりました。


【補足−1】
<フランス戦車の主な諸元>
○ソミュアS35
ドイツ軍制式名称:PzKpfw.35S739(f)
重量:19.5t、全長:5.38m、全幅:2.12m、全高:2.624m
乗員:3名
武装:SA35 L/32  47mm砲×1、M31 7.5mm機銃×1

○ホチキスH39
ドイツ軍制式名称:PzKpfw.39H735(f)
重量:12t、全長:4.22m、全幅:1.85m、全高:2.14m
乗員:2名
武装:SA1938  38口径37mm砲×1、M31 7.5mm機銃×1
※「フィンランドのドイツ戦車隊」ではホチキスH38となっていますが、写真を見る限り大隊に配備されていたのは38口径37mm砲を装備したH39でした。
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【補足−2】
 「フィンランドのドイツ戦車隊」P91の写真にもあるように1941年の時点ですでに無線機を装備したホチキス戦車もありました。この車両は車体後部右側にロッドアンテナを装備しており、大隊本部の無線通信小隊に配備された指揮戦車であろうと思われます。一般のホチキス戦車への無線機搭載の時期ははっきりしませんが、1942年以降に車体中央左側にロッドアンテナを装備していることで見分けることができます。
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【補足−3】
クロイトラー師団群
Kräutler Division Group

 1944年4月、在フィンランドの雑多な小部隊を集めて編成されました。1944年9月7日には第140特別編成師団司令部を統括司令部として加えて再編成され、次のような編成となりました。

クロイトラー師団群の編成(1944年9月20日現在)

第140特別編成師団司令部
<戦闘団「クレンツァー」>
  第211戦車大隊(大隊本部と第2中隊)
  SS第6歩兵大隊
  第520砲兵大隊第1中隊(10.5cm砲×3門装備)
  第55戦車猟兵大隊第2中隊
  第503対空中隊(2cmFlak×4門装備)
  SS第6歩兵大隊第3(工兵)中隊

第6猟兵大隊(9月24日ケミ到着予定)
第14機関銃スキー大隊(機関銃スキー旅団「フィンランド」より)
第139山岳猟兵連隊第1大隊
第139山岳猟兵連隊第16(戦車猟兵)中隊
回復中隊

第931砲兵連隊
  第82山岳砲兵連隊第2大隊
  第520砲兵大隊(第1中隊欠)
  第424軽砲兵大隊

SS第6戦車猟兵大隊第2中隊
SS第6対空大隊第1中隊(8.8cmFlak×4門装備)

クロイトラー師団群工兵大隊(第139山岳猟兵連隊の第17(工兵)中隊を含む)
特別編成封鎖(工兵)大隊(第2中隊欠)

第99山岳通信大隊第1(有線)中隊
山岳通信(無線)中隊

このほか「第11ロケット砲大隊第21(自走)中隊」が1944年10月4日から10月末まで配属されており、Sd.kfz4/1自走ロケットランチャー×8両を装備していました。
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【補足−4】
 「PANZER TRACTS No.19-1」のP32には新情報として1944年10月1日付けの報告として「s.Pak(Hotchkiss)」3両の配備が記載されています。これはホチキスH38/39の車体に7.5cmPak40対戦車砲を搭載した対戦車自走砲であり、フランスのベッカー工場で60両が改造されたものです。これは1944年11月1日付けの報告に登場する「7.5cm装軌式自走砲架」と同一の車両と思われます。
出典:「PANZER TRACTS No.19-1」(Panzer Tracts 2007)
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【写真】
「フィンランドのドイツ戦車隊」以外で見つけた第211戦車大隊の写真あれこれ。
「PANZER TRACTS No.19-1」(Panzer Tracts 2007)
P32 V号戦車N型 「111」ワッフルパターンのコーティングを施した「第1中隊第1小隊長車」。
P32 ホチキスH39 「135」車体左中央にアンテナを装備した「第1中隊第3小隊5号車」。この2両は並んで写っており1944年4月以降の撮影ということになります。V号戦車N型は各小隊に小隊長車用として配備されたのか?
P51 ソミュアS35 「121」1941年6月初めステチン港で船積み作業中の「第1中隊第2小隊1号車」。砲塔後面の「W」のマーキングに注目。
P53 ホチキスH39 「224」1941年7月サッラでの「第2中隊第2小隊4号車」。車体右後部にアンテナを装備しており初期からの無線搭載車両。砲塔後面の「W」のマーキングに注目。
P55 ホチキスH39 「003」1941/1942の冬、車体左中央にアンテナを装備した「大隊本部3号車」。

「Captured French Tanks Under the German Flag」(Schiffer 1997)
P22 ホチキスH39 「003」上記と同じ車両で演習中の別ショット。発炎筒を焚いてやられ役を担当。
P35 ソミュアS35 「101」冬季迷彩の「第1中隊本部1号車」。
P36 ソミュアS35 上記とは別の冬季迷彩車両。番号は判別できません。
P37 ソミュアS35 1943年夏?。番号は判別できませんがダミー砲を装備した指揮戦車型の大隊本部「001」号車との解説があります。

「Panzer Vor! 4 German Armor at War 1939-45」(Concord 2006)
P71 ソミュアS35 「324」車体右後部にアンテナを装備しており初期からの無線搭載車両。「フィンランドのドイツ戦車隊」P91掲載のソミュアS35「335」と比較して見ると、この車両も「第211戦車大隊」の車両ではないかと思われますが確証はありません。

「第2次大戦フランス軍用車両(グランドパワー12月号別冊)」(ガリレオ出版 2003)
P132 ソミュアS35 「フィンランドのドイツ戦車隊」P103と同一写真。


【参考資料】
フィンランド軍入門(イカロス出版 2007)
タンクバトルV(光人社 2005)
詳解・武装SS興亡史(学研 2005)
第2次大戦フランス軍用車両(グランドパワー12月号別冊)(ガリレオ出版 2003)
フィンランドのドイツ戦車隊(大日本絵画 2002)
PANZER TRACTS No.19-1(Panzer Tracts 2007)
Captured French Tanks Under the German Flag(Schiffer 1997)
Panzer Truppen-2(Schiffer 1996)
German World WarU Organizational Series Volume3/U(Dr.Lro Niehorster 1992)


2007.4.1 新規作成
2008.6.20 改訂版参考資料

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/