「SS最貧師団列伝」連載INDEX

「SS最貧師団列伝」の連載に大幅に加筆、修正してスタートした「カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS」シリーズですが、第1巻の販売不振という「おとなの事情」によりビジュアル重視の「ドイツ武装SS師団写真史」として再スタートしました。連載に登場した最貧師団はもちろんのこと、誰でも知っているあの超メジャー師団も堂々登場して期待されたのですが、販売不振は改善されず企画続行は不可能な状態のようです(汗

●「SS最貧師団列伝」の連載一覧表です。興味のある方はバックナンバー購入の参考にでもしてください。

●「SS最貧師団列伝」は「アーマーモデリング」誌に1997年12月号から連載され、武装SS師団の中でもいわゆるエリート師団以外のめぐまれない師団をとりあげるという画期的(?)な企画としてスタートしました。連載は第1回の第4SS警察機甲擲弾兵師団から始まり、2002年9月号からは「アーマーモデリング」誌の月刊化にともないペースアップして、2003年1月号第34回の第38SS擲弾兵師団「ニーベルンゲン」でめでたく終了しました。

●各師団へのコメントについて:この一覧表で紹介している各師団に対するコメントは連載内容の抜粋であり、基本的に高橋氏により書かれた内容を文体のみ変更して掲載しています。

●師団名称の表記について:この一覧表の作成にあたっては、ドイツ人及びゲルマン系民族によるSS師団とSS義勇師団は7. SS Freiwilligen Gebirgs Division “Prinz Eugen”=第7SS義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」のような表記に、非ゲルマン民族によるSS所属師団は13. Waffen Gebirgs Division der SS “Handschar”=SS第13武装山岳師団「ハントシャール」のような表記に統一しましたので、連載時の部隊名の表記と一致しない場合があります。

書名 隔月刊・月刊アーマーモデリング 単行本化
出版社 大日本絵画
連載名 SS最貧師団列伝(高橋慶史)
http://www3.plala.or.jp/Last-Kampf/index.html
No. 掲載号 表 題
第1SS戦車師団「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」 カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS〈1〉
1. SS-Panzer-Division“Leibstandarte SS Adolf Hitler”
師団の起源は1933年3月17日に編成されたSS本部警護隊「ベルリン」に端を発し、その後SS特殊部隊「ツォッセン」、「アドルフ・ヒトラー・シュタンダルテ」、「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー」へと拡大・改称されました。部隊は1938年までに自動車化連隊に拡大され、ポーランド戦で初陣を飾ると、その後自動車化歩兵旅団に拡大されて西部戦線〜バルカン戦線に従軍し、バルバロッサ作戦直前には実質的に自動車化歩兵師団へと拡大されました。1942年7月15日、フランスのカーン地区でSS師団(自動車化)「LSSAH」として公式に師団へと拡大されると、10月22日にはSS機甲擲弾兵師団「LSSAH」に、1943年10月22日に第1SS戦車師団「LAH」へと改称されました。
師団は武装SS部隊の基幹であり、経験豊富な多数の将校、下士官を輩出して他のSS師団の母体となりました。1944年後期以降になると弱体化した並の戦車師団に成り下がり、ヒトラーに忠誠を誓ったその名前とは裏腹に、最後のベルリン攻防戦に参加することもなく、主戦場とは遠く離れたオーストリアの片田舎で最後を迎えたのは全く不本意な結末であったに違いありません。
第2SS戦車師団「ダス・ライヒ」 カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS〈1〉
2. SS-Panzer-Division“Das Reich”
各SS管区に存在した100名規模の「本部護衛隊」は中隊規模の軍事組織「政治予備隊」へと発展し、1934年12月14日にはSS大隊へと拡大・改編され、1935年3月16日にはこれらを母体としてSS特務部隊(SS・VT)が創設されました。1938年までに4個SS連隊が編成され、ポーランド戦後にはSS特務師団が編成されました。1940年4月1日、師団はSS師団「ドイッチェラント」と改称され、12月21日にはさらにSS師団「ライヒ」(自動車化)と改称されてバルバロッサ作戦に参加し、1942年11月9日にはSS機甲擲弾兵師団「ダス・ライヒ」に、1943年10月22日には第2SS戦車師団「ダス・ライヒ」へと改称されました。
師団は他のSS部隊の基幹要員を数多く輩出し、師団の戦意は最後まで衰えませんでした。しかし度重なる激戦でベテラン兵を数多く失い、不十分な補充と相まってノルマンディー戦以降はその実力を十分に発揮することができないまま師団本隊はオーストリアで、一部はチェコでアメリカ軍に降伏しました。
第3SS戦車師団「トーテンコップフ」 ドイツ武装SS師団写真史〈1〉
髑髏の系譜
3. SS Panze Division“Totenkopf”
師団の前身は収容所警備部隊でしたが、武装SS有数のエリート部隊へと昇華しました。1939年10月SS師団「トーテンコップフ」として編成され、1940年5月16日にベルギーにおいて初めて実戦に投入されました。1942年11月9日SS機甲擲弾兵師団「トーテンコップフ」と改称され、この時点で実質的に戦車師団並みの戦力となり、1943年10月22日には正式に第3SS戦車師団「トーテンコップフ」となりました。師団は1942年のフランスでの再編成時以外は終始東部戦線にあり、最後はオーストリアでアメリカ軍に降伏しましたが、捕虜となった兵士の大部分は協定によりソ連軍に引き渡されました。
1 1997年12月号
Vol.6
第4SS警察機甲擲弾兵師団 -
4. SS Polizei Panzergrenadier Division
師団の前身は1939年10月に編成された警察師団であり、師団の編成に必要な要員は、SSの管轄下である警察から1万6千人の警察官が編入されていました。1942年2月には武装SSに編入されてSS警察師団となり、1943年6月にはSS警察機甲擲弾兵師団として再編成され、10月には第4SS警察機甲擲弾兵師団と改称されました。師団の残余はベルリン北方で最後の防衛線を行いアメリカ軍に降伏しました。師団は最も古いSS師団の一つでありながらエリート部隊として扱われることはなく、地味な封鎖戦やパルチザン掃討戦に従事し、最後は本土防衛戦の最前線に投入されましたが、警察官特有の勤勉さを発揮して最後まで戦い抜きました。
第5SS戦車師団「ヴィーキング」 -
5th SS Panzergrenadier Division“Wiking”
師団は1940年11月20日、SS擲弾兵連隊「ゲルマニア」とワルーン人、オランダ人、ノルウェー人義勇兵を基幹としてSS師団「ゲルマニア」として編成が開始され、途中からSS師団「ヴィーキング」と改称されました。1943年10月22日には第5SS戦車師団「ヴィーキング」と改称され、一貫して東部戦線にあってその勇猛果敢な戦闘ぶりはずばぬけており、ソ連軍部隊から恐れられました。師団はオーストリアのラートシュタットでアメリカ軍に降伏しました。
2 1998年2月号
Vol.7
第6SS山岳師団「ノルト」 ドイツ武装SS師団写真史〈1〉
髑髏の系譜
6. SS Gebirgs Division“Nord”
師団の前身は第6及び第7SS髑髏連隊(収容所警備部隊)であり、1940年末からノルウェーでの治安維持任務に就き、1941年2月からは戦闘団「ノルト」となりました。バルバロッサ作戦開始直前の1941年6月にはSS師団「ノルト」として師団に昇格し、1942年6月にはSS山岳師団「ノルト」、1943年10月には第6SS山岳師団「ノルト」と改称され、この間は長くフィンランドのラップランドでの塹壕戦に従事しました。1944年12月からは西部戦線に移動したものの、空襲と砲撃と戦車戦の真っ只中に放り出されてたちまち消耗し、終戦は南バイエルンで迎えました。
3 1998年4月号
Vol.8
第7SS義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」 -
7. SS Freiwilligen Gebirgs Division“Prinz Eugen”
師団はユーゴスラヴィアのドイツ系住民の義勇兵により編成される計画でしたが、義勇兵は計画どおり集まらずルーマニアのバナト地方のドイツ系住民を強制徴兵し、さらに旧ユーゴスラヴィア軍将校を編入するなどして1942年4月にやっとSS義勇師団「プリンツ・オイゲン」として編成されました。師団の装備はフランス製、ポーランド製、チェコおよびユーゴ製が多く、また兵の質についても二線級でした。1943年10月、師団は第7SS義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」と改称され、終始ユーゴスラヴィアでの対パルチザン戦に従事しており、終戦により降伏した将兵には過酷な報復が待っていました。
4 1998年6月号
Vol.9
第8SS騎兵師団「フロリアン・ガイアー」 カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS〈1〉
8. SS Kavallerie Division“Florian Geyer”
師団の前身はSS髑髏騎兵隊であり、1941年9月にはSS騎兵旅団、1942年6月にはSS騎兵師団に拡大されました。師団の兵員の8割はバルカン諸国のドイツ系義勇兵であり、東部戦線の後方地域で対パルチザン作戦に従事しました。その後師団は最前線に投入されて大損害を出し、1944年3月ハンガリー、クロアチア等のドイツ系義勇兵により再編成されましたが、1945年2月にブダペストで壊滅しました。第8SS騎兵師団は通常時はパルチザン掃討戦に、戦線が突破されるとその阻止部隊に、最後は最も不向きな市街戦にと便利使いされた不遇な部隊でした。
第9SS戦車師団「ホーエンシュタウフェン」 ドイツ武装SS師団写真史〈2〉
遠すぎた橋
9. SS-Panzer-Division“Hohenstaufen”
師団は1943年1月、第9SS装甲擲弾兵師団としてフランスで編成が開始され、10月22日に第9SS戦車師団「ホーエンシュタウフェン」と改称されました。1944年3月に東部戦線に送られましたが、連合軍のノルマンディー上陸を受けてフランスに移動し、8月までの戦闘で大損害を蒙りオランダへと後退しました。アルンヘム地区で再編成中に「マーケット・ガーデン作戦」に遭遇し、アルンヘムの防衛戦で勇名を馳せましたが、ノルマンディーでの損害を完全に補充することはできず、兵員の質の低下とも相まってその後のアルディンヌ戦〜ハンガリー戦では十分な戦果をあげることはできませんでした。しかし、若い兵員で編成された師団は経験不足と圧倒的な制空権下でよく善戦したといえるでしょう。最後は5月8日にオーストリアのリンツ南方のシュタイアー地区でアメリカ軍に降伏しました。
第10SS戦車師団「フルンツベルク」 ドイツ武装SS師団写真史〈2〉
遠すぎた橋
10. SS-Panzer-Division“Frundsberg”
師団は1943年1月、第10SS機甲擲弾兵師団「カール・デア・グロッセ」としてフランスで編成が開始されましたが、10月22日に第10SS戦車師団「フルンツベルク」と改称されました。1944年3月に東部戦線に送られましたが、連合軍のノルマンディー上陸を受けてフランスに移動し、8月までの戦闘で大損害を蒙りオランダへと後退しました。ナイメーヘン地区で再編成中に「マーケット・ガーデン作戦」に遭遇し、同師団の奮戦はドイツ軍勝利の原動力となりました。以降は他のSS師団群とは離れて単独で東部戦線に投入されましたが、アルディンヌ戦やハンガリー戦に投入されなかったため1945年3月時点でも強力な戦車師団としての戦力を維持しました。しかし、最後は燃料の枯渇によりその戦力は雲散霧消し、その最後は悲運で孤独でした。
5 1998年8月号
Vol.10
第11SS義勇機甲擲弾兵師団「ノルトラント」 -
11. SS Freiwilligen Panzergrenadier Division“Nordland”
師団は1943年10月にデンマーク人義勇兵とノルウェー人義勇兵により編成されました。その後は常に東部戦線の最前線に投入され、最後はベルリン防衛戦を戦い抜いたエリート師団の一つであり、武装SS最強師団と評価する戦史研究家もいるほどです。
それではなぜ最貧師団列伝に登場したのでしょうか(?)。師団番号が有名な第10と第12SS戦車師団の間に挟まれており、さらに活躍時期が戦争末期で防衛戦に終始したため、取り上げられることが少なく知名度の低い恵まれない師団といえます。
第12SS戦車師団「ヒトラーユーゲント」 -
12. SS-Panzer-Division“Hitlerjugend”
師団は1943年6月1日、ヒトラー・ユーゲントを基幹要員として第12SS機甲擲弾兵師団「ヒトラー・ユーゲント」として編成が開始され、後に第12SS戦車師団「ヒトラー・ユーゲント」と改称されました。ノルマンディー戦での勇戦は有名ですが、この戦闘で大損害を蒙り優先的に補充を受けたものの、それ以降のアルディンヌ戦やハンガリー戦では将校の不足や補充兵の質の低下により二度と本来の実力を発揮することはありませんでした。最後はオーストリアのエンスでアメリカ軍に降伏しました。
6 1998年10月号
Vol.11
SS第13武装山岳師団「ハントシャール」 -
13. Waffen Gebirgs Division der SS“Handschar”(kroatische Nr.1)
師団は1943年8月、ユーゴスラヴィアのボスニア人(イスラム教徒)義勇兵によりクロアチアSS義勇山岳師団として編成されました。1943年10月にはSS第13武装山岳師団「ハントシャール」と改称され、以後クロアチアで対パルチザン戦に投入されました。その後ハンガリーで防衛戦に投入されましたが師団の士気は地に落ち、後方での防衛線構築任務に回された後、最後はアメリカ軍に降伏しました。師団の装備は充実していたものの兵員の士気は低く、反乱が相次ぎ逃亡兵が後を絶ちませんでした。また、略奪や虐殺事件も数多く引き起こしており、武装SSの恥さらしの烙印が押されています。
7 1998年12月号
Vol.12
SS第14武装擲弾兵師団(ウクライナ第1) ラスト・オブ・カンプフグルッペVI
14. Waffen Grenadier Division der SS(ukrainische Nr.1)
師団は1943年9月、ウクライナのガリツィア地方の義勇兵を中心にSS義勇師団「ガリツィア」として編成され、1944年6月にはSS第14武装擲弾兵師団(ガリツィア第1)と改称されましたが、兵力は充実していたものの車輌と無線機材などが大幅に不足していました。1944年7月、師団はわずか1度の戦闘で壊滅的な損害を出した後に再編成されました。チェコで武装パルチザンと交戦後、1945年1月にはSS第14武装擲弾兵師団(ウクライナ第1)と改称され、以後はスロヴェニアでの対パルチザン戦に投入されるなどしましたが、戦闘能力も低くSS三流師団の感が強くします。しかし、イギリス軍に降伏後は「自分たちは1939年のソ連によるポーランド侵攻以前にガリツィアに住んでいた旧ポーランド国民であり、祖国回復のためソ連軍と戦った」という機知に富んだ言い逃れによりソ連軍への引渡しを逃れており、SS最賢師団とも言えます。
8 1999年2月号
Vol.13
SS第15武装擲弾兵師団(レットラント第1) -
15. Waffen Grenadier Division der SS(lettische Nr.1)
師団は1943年5月、ラトビア人義勇兵によりSSレットラント義勇師団として編成されましたが人員装備とも不足しており、将校は定員の70%下士官が90%車輌は定数の15%しかありませんでした。1943年10月にはSS第15レットラント義勇師団と改称され、兵力もようやく15,192名となりましたが、車輌と無線機材等が大幅に不足していました。1944年4月、師団はSS第15武装擲弾兵師団(レットラント第1)と改称されましたが1度の戦闘で壊滅し、1944年9月には再編成されたものの再建後も再三に渡りパニックに陥るなど三流部隊の感は免れませんでした。最後には陣地構築の労働部隊としてのみ運用され、4,500名がアメリカ軍に降伏しました。その他に師団の一部から小規模な2個戦闘団が編成され、ベルリン防衛戦で最後まで奮戦し最後は西方に脱出してアメリカ軍に降伏しました。
9 1999年4月号
Vol.14
第16SS機甲擲弾兵師団「ライヒスフューラーSS」 ラスト・オブ・カンプフグルッペV
16. SS Panzergrenadier Division“Reichsfuhrer SS”
師団の前身は1941年4月に編成されたSS護衛大隊「ライヒスフューラーSS」であり、その後SS突撃旅団「ライヒスフューラーSS」を経て1943年9月には師団に拡大されました。「SS全国指導者」の名称にもかかわらず、実際にはヒムラーSS全国指導者から特別待遇を受けたことは一度もありません。それどころか将校・下士官の絶対数が足りず訓練不足により戦闘能力は低く任務の内容も二流三流どころであり、旅団長と師団長以外で騎士十字章拝領者が一人もいないという体たらくでした。
10 1999年6月号
Vol.15
第17SS機甲擲弾兵師団「ゲッツ・フォン・ベアリッヒンゲン」 -
17. SS Panzergrenadier Division“Gotz von Berlihingen”
1943年9月23日、ヒトラーの命令により10個歩兵師団、2個降下猟兵師団、2個SS師団が編成されることとなり、その内の1個SS機甲擲弾兵師団として編成されました。兵員は1926年次生まれの新兵(17歳)を徴兵し、基幹要員は第10SS戦車師団「フルンツベアク」より受け入れました。1944年6月の時点で師団は兵員、重火器ともに定数を充足する強力なものでしたが、トラックなどの不足により機動力は大幅に制限されており、なんと言っても兵員の大部分は実戦経験がありませんでした。師団の戦いはすべて負け戦でしたが西部戦線で最後まで善戦し、その昔貧しい民衆のために皇帝に反逆した騎士の名に恥じない師団でした。
11 1999年8月号
Vol.16
第18SS義勇機甲擲弾兵師団「ホルスト・ヴィッセル」 ドイツ武装SS師団写真史〈1〉
髑髏の系譜
18. SS Freiwilligen Panzergrenadier Division“Hort Wessel”
師団の前身は純然たるゲルマン系ドイツ人により編成された第1SS歩兵旅団(自動車化)であり、当初の計画ではゲルマン系エリート師団として拡大・再編成されるはずでした。しかし1944年1月の時点で一万名もの補充をゲルマン系兵員でまかなうのは不可能であり、ドイツ系ハンガリー人を強制徴兵して補充したため、師団名には「義勇」の文字が追加されました。兵員の戦意は乏しく当初のエリート師団とはかけ離れた存在となり、国民突撃隊、空軍、海軍などの補充兵により戦闘能力が逆に向上するという体たらくで、まさに最低・最貧な部隊の一つであるといえます。
12 1999年10月号
Vol.17
SS第19武装擲弾兵師団(レットラント第2) -
19. Waffen Grenadier Division der SS(lettische Nr.2)
師団の前身は第4SS髑髏連隊「オストマルク」であり、その後第4SS歩兵連隊と改称され第14SS歩兵連隊とともに第2SS歩兵旅団(自動車化)を編成して対パルチザン作戦に従事しました。その後レットラント(ラトビア)警察大隊の補充をうけたためラトビア人義勇兵の比率が増加し、1943年5月にSSレットラント義勇旅団(後にSSレットラント義勇擲弾兵旅団)として再編成され、さらに1944年1月には師団に拡大されました。師団はその貧弱な装備にもかかわらず不屈の闘志でクーアラント戦を最後まで戦い抜きましたが、生き残ったラトビア兵は過酷な運命が待つ収容所送りとなりました。
13 1999年12月号
Vol.18
SS第20武装擲弾兵師団(エストニア第1) ラスト・オブ・カンプフグルッペV
20. Waffen Grenadier Division der SS(estnische Nr.1)
師団の前身は1943年5月にエストニア人義勇兵により編成されたSSエストニア義勇旅団であり、1944年1月には第20エストニアSS義勇師団に拡大され、6月までにはエストニア警察部隊からの補充もあり、師団名もSS第20武装擲弾兵師団となりました。師団はナルヴァ戦線とシュレージェン地方で驚くべき勇気と祖国愛を持って奮戦し、その貧弱な装備を補って余りある敢闘を示したのち、チェコでアメリカ軍に降伏しました。エストニア義勇兵の不屈の闘志と規律の正しさはドイツ軍からもチェコパルチザンからも一目置かれていました。
14 2000年2月号
Vol.19
SS第21武装山岳師団「スカンダーベク」 -
21. Waffen Gebirgs Division der SS“Skanderbeg”(albanische Nr.1)
師団は1944年4月、アルバニア人義勇兵により編成されることとなり、SS第13武装山岳師団「ハントシャール」の第28SS山岳猟兵連隊第1大隊を母体として編成が開始されました。しかし、兵士は強制徴兵された者や元ユーゴ軍のアルバニア兵捕虜であり、したがって兵士の士気は極めて低く脱走が相次ぎ、1944年10月には連隊規模の戦闘団「スカンダーベク」に縮小されました。1945年3月には最後まで残ったアルバニア兵を解放し、ドイツ兵は他のSS部隊に吸収されてアルバニアSS部隊は消滅しました。この部隊はSS第13武装山岳師団「ハントシャール」の兵士が頼もしく見えるほどであり、最悪のSS師団と言えます。
15 2000年4月号
Vol.20
第22SS義勇騎兵師団「マリア・テレジア」 カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS〈1〉
22. SS Freiwilligen Kavallerie Division“Maria Theresia”
師団は1944年5月に強制徴兵されたドイツ系ハンガリー人により編成が開始されました。1944年10月、編成を完了した師団はさっそくブタペストの防衛戦に投入され、そのままブタペスト包囲陣内に包囲されて1945年2月のブタペスト陥落とともに壊滅しました。わずか3ヶ月余りの戦歴ではありましたが絶望的な状況の中で最後まで敢闘し、同じハンガリー系義勇兵の第18SS義勇機甲擲弾兵師団「ホルスト・ヴィッセル」よりも数段優秀でした。
16 2000年6月号
Vol.21
SS第23武装山岳師団「カマ」(クロアチア第2) -
23. Waffen Gebirgs Division der SS“Kama”(kroatische Nr.2)
師団は1944年6月に2番目のクロアチアSS師団としてのボスニア地方のイスラム教徒により編成されることとなりましたが、兵員は計画どおりに集まらず、師団の兵力は3,793名にすぎない有様でした。1944年9月には師団の解散が決定され、イスラム教徒兵はSS第13武装山岳師団「ハントシャール」に編入され、ドイツ人及びドイツ系外国人将兵と残った装備は第31SS義勇擲弾兵師団の編成にあてられました。
17 2000年8月号
Vol.22
第23SS義勇機甲擲弾兵師団「ネーダーラント」 -
23. SS Freiwilligen Panzergrenadier Division“Nederland”
1943年12月末、オランダ人義勇兵とドイツ人兵士の混成により第4SS義勇機甲擲弾兵旅団「ネーダーラント」が編成され東部戦線に投入されました。旅団は1945年2月までに完全に消耗し、再建時には第23SS義勇機甲擲弾兵師団「ネーダーラント」となり師団に昇格しましたが、実際の兵力は旅団規模から拡大されることはありませんでした。師団本隊は第9軍とともに包囲され、ごく一握りの兵士が脱出に成功してアメリカ軍に降伏したほか、分遣された1個大隊はデンマークとの国境付近で終戦を迎えました。旅団は常に戦闘の焦点に投入されたためオランダ人義勇兵の消耗は激しく、1945年になってからは海軍や空軍からの補充兵が加わりオランダ人義勇兵はほとんどいなくなっていました。
18 2000年10月号
Vol.23
SS第24武装山岳猟兵師団 ラスト・オブ・カンプフグルッペV
24. Waffen Karstjager Division der SS
師団の前身は1942年10月に編成されたSSカルスト防衛中隊であり優秀な山岳戦部隊でしたが、その後は部隊の拡大のため東欧各国の義勇兵により水増しされてゆきました。中隊はSSカルスト防衛大隊を経て、1944年7月には師団に拡大されたものの実際の兵力は3,000名程度と師団定数には程遠く、12月にはSS武装山岳旅団と改称されました。1945年2月には兵力欺瞞のために再びSS第24武装山岳猟兵師団と改称されましたが、実質はあいかわらず1個山岳連隊程度の兵力であり、他の3流SS山岳部隊と同じ役割しか演じることはできませんでした。もし中隊規模のまま特殊戦部隊として運用されていればと悔やまれます。
19 2000年12月号
Vol.24
SS第25武装擲弾兵師団「フンヤディ」 ドイツ武装SS師団写真史〈1〉
髑髏の系譜
25. Waffen Grenadier Division der SS“Hunyadi”(ungarische Nr.1)
師団は1944年11月にハンガリー人義勇兵により編成が開始され、義勇兵の募兵活動は順調で定数を上回る20,567名にまで膨れ上がりましたが、師団のための装備、兵器ともに大幅に不足していました。1945年1月、師団の編成地であるノイハマーにソ連軍が迫り、このため阻止部隊としてなけなしの兵器と装備により兵力2,600名の1個戦闘団が編成され、師団主力は丸腰同様の状態で徒歩行軍により南ドイツに向かいました。師団の士気は最後まで高い状態で維持されましたが、兵器がなくては満足に戦うことは出来ず、最後はアメリカ軍に降伏しました。
20 2001年2月号
Vol.25
SS第26武装擲弾兵師団「ハンガリア」(ハンガリー第2) ドイツ武装SS師団写真史〈1〉
髑髏の系譜
26. Waffen Grenadier Division der SS“Hungaria”(ungarische Nr.2)
師団はSS第25武装擲弾兵師団「フンヤディ」に続くハンガリー人義勇兵部隊として1944年12月に編成が開始され、義勇兵の募兵活動は順調で定数を上回る16,761名に達しましたが、師団のための装備、兵器ともに大幅に不足していました。1945年1月、師団の編成地であるシーラッズにソ連軍が迫り、このため阻止部隊としてなけなしの兵器と装備により兵力324名の小戦闘団が編成され、師団主力は丸腰同様の状態で徒歩行軍によりノイハマーに向かい、さらに南ドイツを目指しました。師団の士気は最後まで高い状態で維持されましたが、兵器がなくては満足に戦うことは出来ず、最後はアメリカ軍に降伏しました。
21 2001年4月号
Vol.26
第26/第27SS戦車師団(第49/第51SS機甲擲弾兵旅団) -
26.SS Panzer Division/27.SS Panzer Division (49. SS Panzergrenadier Brigade/51. SS Panzergrenadier Brigade)
この2個SS戦車師団の前身は1943年11月に西部戦線への機動予備部隊として編成されたSS戦闘団「I」とSS戦闘団「III」であり、兵員は各種学校、教育部隊から集められましたが、兵力はいずれも連隊規模よりやや大きい程度でした。その後SS戦闘団「I」は第49SS機甲擲弾兵旅団に、SS戦闘団「III」は第51SS機甲擲弾兵旅団にそれぞれ改称されました。1944年8月に両旅団は第26SS戦車師団と第27SS戦車師団に改称されましたが、兵力は戦闘団当時のままであり装甲車輌を1両も装備していない兵力3,000〜4,000名程度の部隊が戦車師団と呼称した事例は他に有りません。両師団はパリ南方の防衛線に投入されて大損壊を受け、1944年9月には解散して残余の兵員は第17SS機甲擲弾兵師団「ゲッツ・フォン・ベアリッヒンゲン」への補充要員となりました。
22 2001年6月号
Vol.27
第27SS義勇擲弾兵師団「ランゲマルク」 -
27. SS Freiwilligen Grenadier Division“Langemarck”
師団の前身は1941年5月にベルギーのフラマン人義勇兵により編成されたSS義勇兵団「フランデルン」であり1個大隊程度の兵力でした。1943年5月、兵団はSS義勇突撃旅団「ランゲマルク」となり、その後第6SS義勇突撃旅団「ランゲマルク」と改称されましたが、実際には1個連隊程度の兵力でした。1944年9月には第27SS義勇擲弾兵師団「ランゲマルク」となり師団に昇格しましたが、実際の兵力は2,000名程度で1個連隊規模の兵力のままでした。師団の義勇兵たちは1945年4月26日まで戦闘を継続しましたが、敗戦必至の状況では戦闘を行う目的も意思もなくなり、ついに任務を放棄して四散しました。前身のSS義勇兵団「フランデルン」から数えて部隊は3回全滅しており、過酷な戦闘に常時投入されてきた状況でドイツのために戦闘を継続したこと自体が奇跡でした。
23 2001年8月号
Vol.28
第28SS義勇擲弾兵師団「ワロニエン」 -
28. SS Freiwilligen Grenadier Division“Wallonien”
師団の前身は1943年7月にベルギー南部のワロニエン地方のワルーン人により編成されたSS義勇突撃旅団「ワロニエン」であり、10月末にはSS第5義勇突撃旅団「ワロニエン」と改称され11月上旬からは東部戦線に投入されましたが、実際の兵力は2,000名程度であり1個連隊規模の兵力でした。1944年9月、東部戦線で壊滅した旅団は第28SS義勇擲弾兵師団「ワロニエン」として再編成されましたが、実際の兵力は1,565名と依然として連隊規模のままでした。師団の義勇兵たちは1945年4月26日まで戦闘を継続しましたが、敗戦必至の状況では戦闘を行う目的も意思もなくなり、ついに任務を放棄して四散しました。
24 2001年10月号
Vol.29
SS第29義勇擲弾兵師団「RONA」(ロシア第1) ラスト・オブ・カンプフグルッペVIII
ドイツ武装SS師団写真史(3)
29. Waffen Grenadier Division der SS“RONA”(russische Nr.1)
師団の前身は反共ロシア人によるRONA(ロシア人民解放軍)旅団(通称カミンスキー旅団)であり、1943年10月には武装SSに編入され、その後1944年6月には武装SS突撃旅団「RONA」と改称されました。1944年8月、旅団はSS第29義勇擲弾兵師団「RONA」(ロシア第1)に拡大されることとなりましたが、ワルシャワ蜂起の鎮圧の際の蛮行により指揮官のカミンスキーは秘密裏に処刑され、指揮官を失った部隊の規律や士気は地に落ちたため部隊は解散され、兵士はウラソフ将軍の第600歩兵師団「ロシア」への補充要員となりました。故郷から遠く離れて単なるドイツ軍の傭兵と化したRONAの兵士たちは、最後は自己矛盾と自暴自棄と絶望から一般市民への略奪、殺人、強姦、暴行へ走り消えてゆきました。
25 2001年12月号
Vol.30
SS第29武装擲弾兵師団(イタリア第1) ドイツ武装SS師団写真史〈2〉
遠すぎた橋
29. Waffen Grenadier Division der SS(italienische Nr.1)
師団の前身は1943年9月にイタリア人義勇兵により編成された大隊規模の治安維持部隊「武装民兵イタリア」であり、部隊は順次拡大されて武装民兵連隊「デ・マリア」、さらに第1突撃旅団「イタリア義勇兵団」となり対パルチザン戦に投入されました。1944年9月、旅団はSS武装擲弾兵旅団「イタリア第1」として再編成され、1945年2月には編成途中のままSS第29義勇擲弾兵師団(イタリア第1)に昇格しましたが、実際の兵力は4,500名ほどであり旅団規模のままでした。師団は対パルチザン戦に終始し、本格的な戦闘には投入されませんでした。
26 2002年2月号
Vol.31
SS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2) ドイツ武装SS師団写真史〈1〉
髑髏の系譜
30. Waffen Grenadier Division der SS(russische Nr.2)
師団の前身は1944年7月にシューマ大隊を統合して編成されたシューマ旅団「ジークリング」であり、1944年8月にはロシア人、ポーランド人、タタール人、ウクライナ人を選別除外した兵員によりSS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)が編成されました。しかし、フランスで対レジスタンス作戦に投入されたとたんに反乱、脱走が相次ぎ、再度兵士を選別して5,500名ほどの兵力で再編成されました。戦局の悪化によりドイツ軍の傭兵と化した兵員は故郷を遠く離れた西部戦線に投入され、将来に希望もなく士気も低下しました。師団はブルゴーニュでの防衛戦の後、11月には反乱の危険性ありとして武装解除され、大部分の兵員はウラソフ将軍の第600歩兵師団「ロシア」の補充要員となりました。
SS第30武装擲弾兵師団(白ルテニア第1) -
30. Waffen Grenadier Division der SS(weissruthenische Nr.1)
1944年12月、残っていたドイツ人部隊と白ルテニア義勇兵によりSS武装擲弾兵旅団「白ルテニア第1」が約1,800名の兵力により編成され、1945年3月には名称のみSS第30武装擲弾兵師団(白ルテニア第1)と改称されましたが4月には解散されました。ソ連からの独立を望む白ルテニア人兵士は、ウラソフ将軍のロシア解放軍への参加も拒絶し、政治的な配慮から最後は名称のみ師団に昇格しましたが、戦局には何ら貢献することなく終わりました。
27 2002年4月号
Vol.32
第31SS義勇擲弾兵師団 -
31. SS Freiwilligen Grenadier Division
1944年10月、ハンガリーで旧SS第23武装山岳師団「カマ」(クロアチア第2)の回教徒以外の兵員に強制徴兵されたドイツ系ハンガリー人やドイツ民族郷土防衛隊からの募兵を加えて編成されました。しかし兵器は極端に不足しており小銃は兵士4名に1挺の割合しかなく、1個連隊規模の戦闘団を編成するのがやっとでした。1944年12月までのドナウ河戦線での戦闘で師団は壊滅的な打撃を受け、1945年2月には再建されてシュレージェンでの防衛戦に投入されました。師団は装備、兵器とも貧弱であり兵力は5,000名を上回ることはありませんでしたが、末期戦で数少ない成功例でした。しかし降伏した兵士にはパルチザンによる虐殺とシベリアの収容所が待っていました。
28 2002年6月号
Vol.33
第32SS義勇擲弾兵師団「1月30日」 続ラスト・オブ・カンプフグルッペ
32. SS Freiwilligen Grenadier Division“30 Januar”
師団は1945年1月、武装SSの最後の人的資源であるSS補充軍の補充教育大隊、SS独立連隊、SSの各種兵学校生徒などからの兵員により機甲擲弾兵師団として計画されました。しかし機材、燃料の不足により装甲兵力は弱体であり、途中から義勇擲弾兵師団に変更はなりましたが、当時としては珍しい3個擲弾兵連隊を有する完全装備の師団として編成されました。師団はオーデル河の戦線に投入され、1945年4月には第9軍とともに包囲されましたが師団の士気は高く、西方への脱出戦では後衛部隊として奮戦しており、突破成功の原動力となりました。
29 2002年8月号
Vol.34
SS第33武装擲弾兵師団「シャルマーニュ」(フランス第1) -
33. Waffen Grenadier Division der SS“Charlemagne”(franzosische Nr.1)
師団の前身は1944年3月にフランス人義勇兵により編成されたフランスSS義勇突撃旅団であり、1944年7月には第7SS義勇突撃旅団と改称されました。旅団の実際の兵力は弱体な連隊規模であり戦闘可能な第1大隊のみが東部戦線に投入されて壊滅しました。1944年8月、旅団はSS武装擲弾兵旅団「シャルマーニュ」として再編成されましたが、装備や補給の状況も悪く兵士の士気は一向に揚がりませんでした。1945年2月には兵力欺瞞のためにSS第33武装擲弾兵師団「シャルマーニュ」(フランス第1)と改称され、ポンメルンでの防衛戦に投入されましたが3月には壊滅し、4月には1,100名の兵員をかき集めて再建されたものの、さすがに戦闘は不可能と判断され2個建設大隊に再編成されました。師団は装備と兵器は貧弱で兵力は5,000名を上回ることはありませんでした。ベルリン戦でのフランス人義勇兵の奮戦により士気は高いと誤解されていますが、ポンメルンではばらばらに敗走して壊滅しており、とても戦力として計算できる部隊ではありませんでした。
30 2002年9月号
Vol.35
第34SS義勇擲弾兵師団「ラントシュトルム・ネーデルラント」 ドイツ武装SS師団写真史〈2〉
遠すぎた橋
34. SS Freiwilligen Grenadier Division“Landstorm Nederland”
師団の前身は1943年4月にオランダ人義勇兵により編成されたSS擲弾兵連隊「ラントヴァハト・ニーダーランデ」であり、1944年4月にはSS擲弾兵連隊「ラントストルム・ネーダーラント」と改称され、1944年11月にはSS義勇擲弾兵旅団「ラントストルム・ネーダーラント」に拡大されました。1945年2月には兵力欺瞞のために第34SS義勇擲弾兵師団「ラントストルム・ネーダーラント」となりましたが、装備と兵器は貧弱で実際の兵力は旅団程度のままでした。前身となった部隊がマーケット・ガーデン作戦前後に戦闘に投入され、貴重な防衛戦闘を行った後は、小規模な防衛戦を行ったにすぎず戦局に寄与することはありませんでした。
31 2002年10月号
Vol.36
第35SS警察擲弾兵師団 続ラスト・オブ・カンプフグルッペ
35. SS Polizei Grenadier Division
師団の前身は1945年1月に警察官により編成されたSS警察連隊「ヴィアート」であり、1945年2月には第35SS警察擲弾兵師団に拡大され、兵力は10,125名となり重火器も比較的充実していましたが、将校と下士官のほとんどは警察署員であり実戦経験がないのが弱点でした。師団のピプコルン戦闘団は第9軍の西方への脱出戦の際には先鋒部隊としてソ連軍を引きつけて壊滅しており、第9軍の突破成功の知られざる功労者と言えます。
32 2002年11月号
Vol.37
SS第36武装擲弾兵師団 ラスト・オブ・カンプフグルッペVII
ドイツ武装SS師団写真史(3)
36. Waffen Grenadier Division der SS
師団の前身は1940年6月に密猟者により編成された「オラニエンブルク密猟者コマンド」であり、指揮官はディルレヴァンガーSS准将でした。その後密猟者、ロシア人志願兵、一般犯罪者、懲罰兵士、政治犯などが補充され、部隊はSS特別コマンド「ディルレヴァンガー」、SS特別大隊「ディルレヴァンガー」、SS特別連隊「ディルレヴァンガー」と順次拡大され、1944年12月にはSS突撃旅団「ディルレヴァンガー」と改称されましたが、部隊には脱走、略奪、暴行、虐殺、武器の横流しなどの犯罪行為が常について回りました。所詮はディルレヴァンガーの私兵であり、パルチザンや武装蜂起の民兵相手ならともかく、戦闘能力は高くありませんでした。1945年2月、ついに師団にまで拡大された際には陸軍懲罰部隊、HG師団の執行猶予中の兵士が編入され、さらにSS士官学校「ブラウンシュヴァイク」の士官候補生や軍直轄第687工兵旅団などからも補充をうけましたが、この補充なしでは第9軍とともに包囲されながら最後まで戦うことは出来なかったでしょう。
33 2002年12月号
Vol.38
第37SS義勇騎兵師団 カンプフ・オブ・ヴァッフェンSS〈1〉
37. SS Freiwilligen Kavallerie Division
師団はブダペストで壊滅した第8SS騎兵師団「フロリアン・ガイアー」と第22SS義勇騎兵師団「マリア・テレジア」の生き残りと包囲外にあった補充・訓練部隊、その他の雑多なSS部隊などから1945年3月に編成され、兵員の90%はハンガリー、ジーベビュルゲン、ユーゴスラヴィアのドイツ系外国人で構成されました。このため兵員の大部分は戦闘未経験で訓練不十分なドイツ系ハンガリー人や年端もいかないハンガリー少年兵であり、兵器や装備、燃料、弾薬、輸送車両などの欠乏により十分な戦闘力を持つことはありませんでした。師団は3個戦闘団に分割投入され、ヴィーンの防衛戦において奮戦しましたが、単一師団として戦闘を行う機会は一度も訪れず、最後はアメリカ軍に降伏しました。
34 2003年1月号
Vol.39
第38SS擲弾兵師団「ニーベルンゲン」 -
38. SS Grenadier Division“Nibelungen”
師団は当初SS戦車師団「士官学校」と仮称され、SSバートテルツ士官学校の生徒及び教官に加えて16歳から17歳の少年兵を動員して編成が開始されました。しかし、戦車師団用の機材は皆無であり途中から通常の擲弾兵師団の編成に切り替えて、1945年4月には兵力約5,000名に達して一応の師団編成を完了しました。師団の各部隊は編成の完了したものから順次西部戦線での防衛戦に投入されましたが、実態は旅団規模の少年兵の集まりであり西部戦線で降伏できただけでも幸運でした。

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2003.8.8 新規作成
2009.6.13 連載以外の師団を追加
2024.2.12 リンクを修正

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/