クロアチアのドイツ-クロアチア警察部隊

 ロシアワールドカップはクロアチア代表のまさかの大活躍で盛り上がりましたが、第2次世界大戦中に建国されたもののドイツの敗戦によりあえなく消滅した「クロアチア独立国」をご存知でしょうか? ドイツを始めとする枢軸国軍の侵攻によりあえなく分割・占領されたユーゴスラヴィア王国のうち、クロアチア人を味方にするためにドイツ主導で建国された「クロアチア独立国」にも「警察」はもちろん存在しました。

1.ユーゴスラヴィア王国の成立と分割
 第1次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国領であったバルカン半島ではセルビア王国を拡大する形で1918年にセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人による連合王国である「セルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国」が建国されました。1929年には国王アレクサンダーI世により憲法が停止されて国王独裁制へと移行し、国名も「ユーゴスラヴィア王国」へと改称されました。
 王国はセルビア人中心の国家体制となり、当然クロアチア人とスロヴェニア人にとっては不満の原因となりました。クロアチアでは特に独立意識と反セルビア感情が強く、不満を抑えるため1939年には自治権が大幅に拡大されてクロアチア自治州が設立されました。
 第2次世界大戦の勃発時、ユーゴスラヴィア王国政府は親ドイツ路線をとり、1941年3月25日には同盟まで締結されましたが、これに反対する国軍のクーデターにより政権は転覆しました。新政権もドイツとの同盟堅持を宣言したものの、1941年4月6日にドイツ軍を中心とした枢軸国軍の侵攻を受け、4月17日には降伏しユーゴスラヴィア王国の領土は分割占領されました。
 スロヴェニアの北部3/2はオーバークライン(Oberkrain)とウンターステイヤーマルク(Untersteiermark)としてドイツ本土に併合され、最北端のプレクムリェ(Prekmurje)地方はハンガリーに占領され、南部1/3とダルマチアの一部はイタリアに占領されました。セルビアにはセルビア救国政府が樹立され、ユーゴスラヴィアの継承国家と主張しましたが、実質的にはドイツの傀儡政権でありドイツ占領下と同様でした。またセルビア北部、ヴォイヴォディナ地方の北西部(バチュカ地方)はハンガリーに併合され、バナト地方はドイツ占領下となりました。モンテネグロはモンテネグロ独立国としてイタリアの傀儡政権が樹立されましたが、これも実質的にはイタリアに併合されました。さらにコソボはアルバニアに併合され、マケドニアはブルガリアに占領されました。そして大クロアチア地域(クロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナ)はクロアチア独立国として独立しました、南部はイタリア軍の占領地域になっていました。

2.クロアチア独立国
 クロアチア独立国は首都をザグレブ(Zagreb)と定め、4月10日に建国が宣言されました。5月18日にはトミスラヴ二世(サヴォイア家のアオスタ公アイモーネ)が国家元首である国王に即位しましましたが、国王の地位はあくまで象徴的なものであり、国王自身も身の危険を感じてイタリアに留まりました。実際に権力を掌握したのはクロアチア民族主義組織「ウスタシャ」のアンテ・パヴェリチで、首相と外相を兼任する国家指導者に就任しました。クロアチアの領土はスロヴェニアのドレンスカ地方、クロアチア(イタリアの占領したダルマチア地方を除く)、ボスニア・ヘルツェゴビナ及びヴォイヴォディナを含み「大クロアチア地域」と呼ばれました。
 しかし、もともとテロ組織でしかない「ウスタシャ」に国土の統治などできるはずもなく、本来の「お仕事」である敵対勢力の排除、つまりセルビア人やユダヤ人の抹殺に精を出して後世に悪名を馳せることとなり、実際はドイツによる傀儡国家と変わりませんでした。

 クロアチア独立国の主な兵力にはクロアチア軍、ウスタシャ、武装親衛隊、ドイツ国防軍のクロアチア人部隊がありました。このうちクロアチア軍は1941年4月16日に設立され、陸・海・空の三軍を保有し、最大の兵力は「郷土防衛隊」とも呼ばれた陸軍で10個~15個の歩兵及び山岳師団を中心に編成されていました。しかし1個師団は約5,000名で、ドイツ軍の連隊~旅団規模であり主要任務は治安維持任務でした。また海軍は5,000トン以下の艦艇しか持たない沿岸部隊で、空軍も装備機材は旧式機が中心でした。クロアチア軍の指揮下にはこのほか国境警備隊、憲兵隊、労働隊があり、総兵力は55,000名で、旧ユーゴスラビア王国軍の軍管区を踏襲していました。
 ウスタシャはパヴェリチの私兵であり、20個旅団程度の兵力を保有していましたが、ドイツ人でさえ顔をしかめるような残虐行為のみで名をはせる存在で、クロアチア軍以上に使い物になりませんでした。ウスタシャはクロアチア軍のことを「パルチザン補給部隊」と呼んでいましたが、目くそ鼻くそのレベルで・・・(笑
 武装親衛隊では1943年春にボスニアのイスラム教徒とクロアチア人志願兵により第13SS山岳師団「ハンジャール」と、1944年春に第23SS山岳師団「カマ」の2個師団をはじめとする義勇兵部隊が編制されましたが、政治宣伝用の意味合いが強く戦力としてはあてになりませんでした。

 ドイツ国防軍のクロアチア人部隊はクロアチア人をドイツ軍が訓練した部隊で、戦力として最も期待されていました。クロアチア人義勇兵は当初は第100猟兵師団の第369(増強)連隊に送られましたが、連隊はスターリングラードの戦いで包囲され降伏しました。このため連隊から後送された負傷兵や新規志願兵により1943年前半に第369歩兵師団、第373歩兵師団が、1943年秋には第392歩兵師団の3個師団が編成されました。これらの部隊の運命については他にお任せして、いよいよ本題の警察部隊についてです。(笑)

3.クロアチア独立国の警察組織
 クロアチア独立国の警察組織は大きく分けて2つの組織から構成されており、内務省管轄で通常の警察組織である治安警察(Redarstvena Straža)とともに、軍管轄の憲兵隊(Hrvatsko Oružništvo)も警察活動を行いました。

 治安警察は1941年4月にユーゴスラヴィア王国時代の警察組織を引き継ぐ形で設立され、約5,000名の制服、私服警察官が配置されていました。設立時には王国時代からのセルビア人警察官はクロアチア人警察官に置き換えられました。設立当初クロアチア治安警察は内務所の管轄でしたが、1942年6月26日から10月15日までの間はウスタシャの管轄下に移管され、1942年10月15日から終戦までの間は治安及び保安部局の管轄下となりました。
 ウスタシャの管轄に吸収される前には治安警察はクロアチア版ゲシュタポ/SDであるUNR(Ustaška nadzorna služba)とは無関係であったため、住民から一定の信頼を得ていました。1942年6月26日以降はこの区分は曖昧になり、治安警察はUNRの残虐行為に関与するようになりました。
 地区(Župa)と郡(Kotar)レベルではUNSの指揮下で反体制勢力の収容所への輸送や処刑を支援するため治安警察も動員されました。クロアチア治安警察の警察官は戦争の期間を通じて約5,000名に留まり、全国で22箇所の地区(Župa)にザグレブ地区を加えた合計23地区(合計142郡)に5,000名の警察官が広く分散配置されて警察業務を行いました。

 クロアチア独立国軍の憲兵隊は1941年4月30日に設立され、当初はMilan Miesler少将が、その後Tartaglia少将が、1942年秋以降はウスタシャのViljko Pecnikar大佐が指揮をとりました。前身は1939年にバノビナ州で設立されたユーゴスラヴィア王国陸軍の憲兵隊であり、1941年4月中旬には崩壊した王国時代の治安組織を再建し、地域の警察活動を代替・継承するため警察業務を行うこととなりました。
 1941年4月30日の時点で約6,000名の兵力により第1~第4連隊の4個憲兵連隊が編成されました。1942年1月には2個連隊が新編成され、1942年春には6個憲兵連隊で兵力は11,600名まで拡大されました。またボスニア=ヘルツェゴビナでは1941年6月初めに憲兵隊の指揮下で武装民兵組織が設立され、チェトニク及びチトー・パルチザン双方から町村を防衛しました。この民兵組織の兵力は最大で約7,500名まで拡大されました。
 1942年6月26日、憲兵隊は国防省からウスタシャの管轄下に移管され、治安警察組織と統合運用が図られました。1942年11月1日にはブイェロバル(Bjelovar)に憲兵学校が設立され、2年コースにより憲兵教育が開始され、1944年の終わりには第1期の卒業生1,200名を送りだしました。1943年初めには第2期のコースが始まり1,600名の訓練生がいました。1943年1月18日、憲兵隊はウスタシャの管轄から新設された軍隊省(MINORS)に移管されましたが、1944年2月には内務省の管轄となりました。
 各憲兵連隊は主に地方での巡回パトロールを任務としており、チェトニクやチトー・パルチザンの宣伝に対抗して住民に国の法と秩序が存在することを宣伝する、まさに「最前線」で活動しました。一個連隊の兵力は約2,000名で連隊の半数が駐屯地の警備を行い、半数は担当地域内のパトロールを行いました。憲兵隊の駐屯地や拠点は襲撃を受ける場合も多く、その際には救援が到着するまで籠城するため強固に防御されていました。
 憲兵隊の損害は比較的大きく、例えば1942年4月17日までの最初の53週間の間に283名の将校と兵が戦死し、245名が行方不明、192名が負傷しており、これは人員の約10%にも達していました。1943年9月時点の最大時の兵力は7個憲兵連隊と憲兵学校を含めて約17,500~18,000名に達しましたが、戦争末期の兵力は5個連隊で約10,000名となっており、2個連隊はダルマチア(Dalmatia)とヘルツェゴビナ(Hercegovina)でパルチザンにより壊滅されていました。

・第1憲兵連隊:在ザグレブ(Zagreb)
・第2憲兵連隊:在スプリト(Split)
・第3憲兵連隊:在バニャ・ルカ(Banja Luka)
・第4憲兵連隊:在サラエボ(Sarajevo)
・第5憲兵連隊:在モスタール(Mostar)
・第6憲兵連隊:在クニン(Knin)
・第7憲兵連隊:在ゼムン(Zemun)

 1943年1月以降、クロアチア軍の鉄道保安部隊も警察の所管に編入され、警察部隊が強化されました。
6.クロアチア人義勇兵による警察部隊/鉄道保安大隊参照

4.ドイツ-クロアチア警察部隊
 クロアチア独立国領内には当初ドイツ警察部隊は派遣されませんでしたが、1943年4月10日以降はドイツ-クロアチア警察部隊はすべてドイツ治安警察の指揮下に統合されました。1943年春の時点でドイツ側の「SS全国指導者代理」となる関係機関の司令部として下記の司令部が設置され、付属部隊ともに将校196名と1,960名の治安警察官が派遣され、実質的にドイツ占領下となりました。

〇ドイツ軍政司令官「クロアチア」(Deutsch Militärbefehlshaber Kroatien)
〇警察司令官「エッセ」(Befehlshaber der Polizei Esseg)
〇高級SS及び警察指導者「クロアチア」(Hohere SS und Polozeiührer Kroatien)

 クロアチアにおけるドイツ警察の指揮系統はドイツ本国と同様に通常の警察業務を行う警察司令官「エッセ」と、SS全国指導者ヒムラーの代理人である高級SS及び警察指導者「クロアチア」と二系統が存在しました。しかし、ドイツ本国以外での占領任務はSS(親衛隊)の管轄であり、クロアチアでは高級SS及び警察指導者「クロアチア」であるコンスタンティン・カマーホーファーSS及び警察少将の権限が強く、警察司令官「エッセ」の権限は限定的なものだったようです。

〇警察司令官「エッセ」(Befehlshaber der Polizei Esseg)
 警察司令官「エッセ」はクロアチアに派遣されたドイツ警察部隊を統括し、治安警察司令官(B.d.O.)と保安警察司令官(B.d.S.)を指揮しました。

〇治安警察司令官「クロアチア」(Befehlshaber der Ordnungspolizei Kroatien)
 治安警察司令官「クロアチア」(B.d.O. Kroatien)はクロアチアにおけるドイツ治安警察を統括する司令部として1943年3月にエッセ(Esseg 現Osijek)に設立され、1943年6月28日以降はザグレブ(Zagreb)に移転しました。治安警察司令官は治安警察本部からの指揮・命令を受け、管轄下には5か所の主要都市に駐屯する治安警察指揮官(Kommandeur der Ordnungspolizei=K.d.O.)が配属されました。

・治安警察指揮官「エッセ」(Kommandeur der Ordnungspolizei Esseg)※現オシイェク Osjiek
・治安警察指揮官「アグラム」(Kommandeur der Ordnungspolizei Agram)※現ザグレブZagreb
・治安警察指揮官「サラエブ」(Kommandeur der Ordnungspolizei Sarajevo)
・治安警察指揮官「パニャ・ルカ」(Kommandeur der Ordnungspolizei Banja-Luka)
・治安警察指揮官「クニン」(Kommandeur der Ordnungspolizei Knin)

〇保安警察及びSD司令官「クロアチア」(Befehlshaber der Sicherheitspolizei und des SD Kroatien)
 保安警察及びSD司令官「クロアチア」(B.d.S. Kroatien)は保安警察である「刑事警察」(Kriminalpolozei=クリポ)と「秘密国家警察」(Geheime Staats-polizei=ゲシュタポ)さらにSS保安情報部(SD)を管轄する司令部で、国家保安本部の指揮・命令を受けました。管轄下には10か所の都市に駐屯する保安警察及びSD指揮官(Kommandeur der Sicherheitspolizei und des SD=K.d.S.)が配属されました。

・保安警察及びSD指揮官「アグラム」(Kommandeur der Sicherheitspolizei und des SD Agram)※現ザグレブ Zagreb
・保安警察及びSD指揮官「クニン」(Kommandeur der Sicherheitspolizei und des SD Knin)
・保安警察及びSD指揮官「トゥズラ」(Kommandeur der Sicherheitspolizei und des SD Tuzla)
・保安警察及びSD指揮官「ブイェロバル」(Kommandeur der Sicherheitspolizei und des SD Bjelovar)
・保安警察及びSD指揮官「エッセ」 (Kommandeur der Sicherheitspolizei und des SD Esseg)※現オシエィク Osjiek
・保安警察及びSD指揮官「ビハチ」(Kommandeur der Sicherheitspolizei und des SD Bihać)
・保安警察及びSD指揮官「サラエボ」(Kommandeur der Sicherheitspolizei und des SD Sarajevo)
・保安警察及びSD指揮官「ドボイ」(Kommandeur der Sicherheitspolizei und des SD Doboj)
・保安警察及びSD指揮官「カーロヴァック」(Kommandeur der Sicherheitspolizei und des SD Karlovac)
・保安警察及びSD指揮官「パニャ・ルカ」(Kommandeur der Sicherheitspolizei und des SD Banja-Luka)

 各保安警察指揮官には民族ドイツ人とクロアチア義勇兵により編成された1個保安中隊が配属されていました。また、SS保安情報部(SD)はドイツ人将校の指揮下にドイツ人とクロアチア人の要員、150~300名も配属されていました。

5.高級SS及び警察指導者「クロアチア」
 高級SS及び警察指導者は「SS全国指導者兼ドイツ警察長官」であるハインリッヒ・ヒムラーの代理人として任命され、高級SS及び警察指導者「クロアチア」にはコンスタンティン・カマーホーファー(Konstantin Kammerhofer)SS及び警察少将が任命されて、ドイツ-クロアチア警察部隊の指揮を執りました。高級SS及び警察指導者「クロアチア」の管轄下には他の地区での「SS及び警察指導者」に相当する「警察地域指導者」が5か所の主要都市に置かれました。

・警察地域指導者「エッセ」(Polizei Gebiestführer Esseg)
・警察地域指導者「アグラム」(Polizei Gebiestführer Agram)
・警察地域指導者「サラエボ」(Polizei Gebiestführer Sarajewo)
・警察地域指導者「パニャ・ルカ」(Polizei Gebiestführer Banja-Luca)
・警察地域指導者「クニン」(Polizei Gebiestführer Knin)

〇警察地域指導者(Polozei Gebiestführer)
 高級SS及び警察指導者「クロアチア」の管轄下に他の地区での「SS及び警察指導者」に相当する「警察地域指導者」が5か所の主要都市に配置され、管轄地域の治安警察及び保安警察を指揮し、管轄下には国家地方警察中隊(Gendermerie Hauptmannschaft)合計16個中隊が配属されていました。

・警察地域指導者「エッセ」(Polozei Gebiestführer Esseg)※現オシイェク Osjiek
  国家地方警察中隊×5個中隊
・警察地域指導者「アグラム」(Polozei Gebiestführer Agram)※現ザグレブ Zagreb
  国家地方警察中隊×3個中隊
・警察地域指導者「サラエボ」(Polozei Gebiestführer Sarajevo)
  国家地方警察中隊×4個中隊
・警察地域指導者「パニャ・ルカ」(Polozei Gebiestführer Banja-Luka)
  国家地方警察中隊×4個中隊
・警察地域指導者「クニン」(Polozei Gebiestführer Knin)
  第3警察地域指揮官(Polizei Gebiets Kommandantur III)

「第3警察地域指揮官」(Polizei Gebiets Kommandantur III)はクロアチア人警察官の募集・訓練を担当しており、1943年夏にはエッセに第1および第2クロアチア警察訓練大隊の2個訓練大隊が設立されました。

 高級SS及び警察指導者「クロアチア」による最初のパルチザン掃討作戦は1943年6月5日からザグレブ近郊で実施され、戦闘団「カマーホーファー」(Kampfgruppe “Kammerhofer”)が編成されました。作戦中の実際の指揮はRichard KaasererSS准尉及び警察大佐が執りました。


戦闘団「カマーホーファー」(1943年6月5日現在)
Kampfgruppe “Kammerhofer”

警察警戒大隊「クロアチア」
第100猟兵師団の1個警戒中隊
特別編成戦車小隊(戦車4両)
第15クロアチア歩兵連隊第2大隊(クニンに駐屯)


 1943年6月5日、戦闘団はナシツェ(Našice)から行動を開始し、1日目には北東8kmの地点へと前進し、ここで大隊規模のパルチザン部隊と遭遇しました。戦闘団はその後さらにナシツェから南西約40kmのポゼガ(Požega)の町へと向かいました。この町にはパルチザン部隊が集結しており、カーゼラーSS准尉兼警察大佐はドイツ空軍部隊にJu-87による空爆支援を要請し、この爆撃に助けられて戦闘団はポゼガへの攻撃に成功しました。
 1943年9月16日時点で戦闘団には第6警察戦車中隊が増強されていました。ベオグラード西方のスレム郡(Syrmia)では北のフルシュカ山地(Fruska Gora)~南のサバ川屈曲部の間の地域に最初のパルチザン解放区が形成されており、兵力約1,000名のパルチザン旅団は対戦車砲2門、重機関銃8挺、軽機関銃約125挺を装備していると見られていました。これによりベオグラード~ザグレブ間を結ぶ鉄道と主要な街道が危険に晒されており、この地域の交通路を確保し、あわせて民族ドイツ人居住地域の安全確保を目的とした掃討作戦のために、警察部隊は3個クロアチア警察大隊、1個警察戦車中隊(第6警察戦車中隊)、1個SS特殊部隊が、陸軍部隊は対戦車砲部隊、砲兵部隊、鉄道警備部隊などが集結しました。この地区ではその後もパルチザン掃討作戦が繰り返されており、戦闘団「カマーホーファー」は構成部隊を変えながらパルチザン掃討作戦を継続しました。

6.クロアチア人義勇兵による警察部隊
 1943年春にクロアチア人義勇兵により最初の治安警察大隊(Polozei Gendermerie Bataillon)が編成されました。1943年3月16日現在の兵力は749名でしたが、2か月後の5月には1,886名まで拡大され、この兵力により警察連隊「クロアチア」(又は警察義勇連隊「クロアチア」)が編成されました。
 1943年7月までに約25,000名の義勇兵が集められ、7個治安警察大隊と10個保安警察中隊が、さらに訓練部隊として警察予備大隊「エッセ」(Polizei Ersatz Bataillon Esseg)が編成されるまでに拡大されました。1943年9月の時点で7個警察大隊(兵力18,000名)と23個警察中隊が編成されており、142の郡に小隊単位で駐屯しました。

〇クロアチア警察大隊
 1943年9月時点でクロアチア人義勇兵により第1~第7クロアチア警察大隊の7個大隊が編成され、その後第8~第10クロアチア警察大隊と第15クロアチア警察大隊も編成されたようです。大隊は1943年末までにクロアチア警察義勇大隊へと改編・改称されました。

・第1クロアチア警察大隊 1943年11月に警察義勇連隊「クロアチア」に編入。
・第2クロアチア警察大隊 1943年11月に警察義勇連隊「クロアチア」に編入。
・第3クロアチア警察大隊 1943年11月に警察義勇連隊「クロアチア」に編入。
・第4クロアチア警察大隊 1943年に第4クロアチア警察義勇大隊へと改編・改称。
・第5クロアチア警察大隊 1943年に第5クロアチア警察義勇大隊へと改編・改称。
・第6クロアチア警察大隊 1943年に第6クロアチア警察義勇大隊へと改編・改称。
・第7クロアチア警察大隊 1944年7月に第4クロアチア警察義勇大隊に編入。
・第8クロアチア警察大隊 1943年に第8クロアチア警察義勇大隊へと改編・改称。
・第9クロアチア警察大隊 1943年に第9クロアチア警察義勇大隊へと改編・改称。
・第10クロアチア警察大隊 1944年7月に第4クロアチア警察義勇大隊に編入。
・第15クロアチア警察大隊 1944年5月に第4クロアチア警察義勇大隊に編入。

〇クロアチア警察義勇大隊
・第1クロアチア警察義勇大隊 1944年5月に新編成され、クロアチア治安警察司令官直轄部隊としザグレブに駐屯。
・第2クロアチア警察義勇大隊 1944年5月に新編成され、治安警察指揮官「ザグレブ」に配属。
・第3クロアチア警察義勇大隊 1944年5月に新編成され、治安警察指揮官「エッセ」に配属。
・第4クロアチア警察義勇大隊 1943年に第4クロアチア警察大隊から改編・改称され、治安警察指揮官「サラエボ」に配属。
・第5クロアチア警察義勇大隊 1943年に第5クロアチア警察大隊から改編・改称され、治安警察指揮官「パニャ・ルカ」に配属。
・第6クロアチア警察義勇大隊 1943年に第6クロアチア警察大隊から改編・改称され、スプリト(Split)に駐屯。
・第8クロアチア警察義勇大隊 1943年に第8クロアチア警察大隊から改編・改称され、第2クロアチア警察義勇大隊とともに治安警察指揮官「ザグレブ」に配属。
・第9クロアチア警察義勇大隊 1943年に第9クロアチア警察大隊から改編・改称され、第3クロアチア警察義勇大隊とともに治安警察指揮官「エッセ」に配属。

〇鉄道保安大隊
 当初はクロアチア軍の管轄下であった鉄道保安大隊は1943年1月以降警察の管轄に移管され、警察部隊が強化されました。ドイツ治安警察への統合後は鉄道保安司令部「クロアチア」(Eisen bahnsicherugeetaf Kroatien)の指揮下に編入されました。当初は第1~第18の18個大隊でしたが、1943年末までにさらに第19~第22の4個大隊が編成されました。

・第1鉄道保安(警察)大隊
・第2鉄道保安(警察)大隊
・第3鉄道保安(警察)大隊
・第4鉄道保安(警察)大隊
・第5鉄道保安(警察)大隊
・第6鉄道保安(警察)大隊
・第7鉄道保安(警察)大隊
・第8鉄道保安(警察)大隊
・第9鉄道保安(警察)大隊
・第10鉄道保安(警察)大隊
・第11鉄道保安(警察)大隊 1943年12月、第3クロアチア警察連隊に編入
・第12鉄道保安(警察)大隊 1943年12月、第3クロアチア警察連隊に編入
・第13鉄道保安(警察)大隊 1943年12月、第3クロアチア警察連隊に編入
・第14鉄道保安(警察)大隊
・第15鉄道保安(警察)大隊
・第16鉄道保安(警察)大隊
・第17鉄道保安(警察)大隊
・第18鉄道保安(警察)大隊
・第19鉄道保安(警察)大隊 1943年末編成
・第20鉄道保安(警察)大隊 1943年末編成
・第21鉄道保安(警察)大隊 1943年末編成
・第22鉄道保安(警察)大隊 1943年末編成

7.クロアチア警察義勇連隊
 クロアチア治安警察大隊の規模拡大に伴い、大隊を統合してクロアチア警察義勇連隊が編成されましたが、連隊の基幹要員にはドイツ人警察官が充てられていました。

・警察義勇連隊「クロアチア」
 1943年7月、治安警察大隊を拡大して編成されました。11月に第1~第3クロアチア警察大隊が編入され、第1クロアチア警察義勇連隊へと改編・改称されました。

・第1クロアチア警察義勇連隊
 1943年11月、警察義勇連隊「クロアチア」を改編・改称して編成されました。1943年12月初めには第11警察戦車中隊も配属されてパルチザン掃討作戦に投入されました。

・第2クロアチア警察義勇連隊
 1944年4月、まず第1大隊のみが編成され、5月には第2大隊が、8月には第3大隊が編成されました。1945年1月~2月の時点で連隊はヴァルポヴォ(Valpovo)地区にあり、第18SS警察山岳猟兵連隊とともに防衛線に投入されました。

・第3クロアチア警察義勇連隊
 1944年5月、第11、第12、第13クロアチア鉄道保安(警察)大隊を編入して編成されました。連隊は7月15日に編成を完了しており、8月の時点でRumaに駐屯して主として鉄道警備任務に従事しました。

・第4クロアチア警察義勇連隊
 1944年7月、第7、第10クロアチア警察大隊と新編成の第15クロアチア警察大隊により編成されました。

・第5クロアチア警察義勇連隊
 連隊本部のみは1944年8月に編成されましたが、連隊の編成開始は1カ月後の9月となり、まずは新編成のクロアチア警察大隊が第1大隊として編入されました。連隊の編成作業は遅々として進まず、1945年1月まで連隊はこの1個大隊のみでしたが、その後第2大隊が編成されたのに続き2月には第3大隊も編成されましたが、連隊の編成作業に3~4カ月かかったことになります。

8.その他のクロアチア警察部隊
・第1クロアチア警察砲兵中隊 1944年1月に編成され、エッセに駐屯。
・第2クロアチア警察砲兵中隊 1944年2月に編成され、ザグレブに駐屯。
・警察下士官学校 1944年4月から12月まで、ブロド(Brod)に開設。
・警察騎馬中隊 1944年1月から4月の間に編成されたと思われますが、詳細は不明。
・警察予備大隊「エッセ」(Polizei Ersatz Bataillon “Esseg”) 1943年夏に訓練部隊として編成され、1944年9月、クロアチア警察義勇訓練大隊へと改編・改称されました。
・クロアチア警察義勇訓練大隊 1944年9月、警察予備大隊「エッセ」から改編・改称。
・クロアチア警察警戒大隊 1944年4月に編成されましたが、8月には壊滅。しばらく後に新しい大隊が旧大隊の残余と新規義勇兵によりZavidovićiで編成。

 クロアチア人義勇兵のほか多くのクロアチア在住の民族ドイツ人も各組織に召集されており、1943年末に時点で約26,750名の民族ドイツ人が軍人、警察官及び労働者としてドイツ軍側で参戦していました。
・武装SS 13,500名
・ドイツ警察部隊 3,500名
・ドイツ国防軍 1,050名
・クロアチア軍 2,000名
・軍務以外の労働者 6,700名

9.クロアチアのドイツ警察部隊
 クロアチア独立国領内には当初ドイツ警察部隊は派遣されませんでしたが、1943年4月10日以降は順次警察部隊が派遣され、パルチザン掃討作戦等に投入されました。警察司令官「エッセ」(Befehlshaber der Polizei Esseg)には1943年6月から第6警察戦車中隊が配属され、11月30日からは第11警察戦車中隊もクロアチア治安警察司令官(BdO. Kuroatien)の指揮下に配属され、1943年12月初めには第1クロアチア警察義勇連隊に配属されました。さらに1944年6月28日からはクロアチア治安警察司令官の管轄下で第16警察戦車中隊の新編成が開始されました。
 また1944年11月~12月にはセルビアから撤退した第5SS警察連隊とギリシャから撤退してきた第18SS警察山岳猟兵連隊もクロアチアへと入りました。

・第6警察戦車中隊
 中隊は1942年10月23日付けのSS全国指導者及びドイツ警察長官通達によりウィーン警察自動車学校で編成されました。装備車両はスタイヤー装甲車×6両とオッチキス装軌式装甲車×5両で、第26修理工場小隊、オートバイ狙撃兵小隊さらに工兵部隊も配属されました。中隊は1943年6月16日付けの命令によりクロアチアに出動し、警察司令官「エッセ」(Befehlshaber der Polizei Esseg)に配属され、パルチザン掃討作戦や地雷除去任務などに従事しました。
 終戦を迎えた時点で中隊は空軍部隊や陸軍部隊とともにザグレブの北部に居り、5月8日には装甲車×2両(不稼動車両?)が処分されました。残存の装甲車×2両と車両群により中隊はスロヴェニアのツェリエ(Celje)を経由してオーストリアを目指し、ラヴァミュント(Lavamünd)地区からオーストリア入りに成功し、フェルカーマルクト(Völkermarkt)でイギリス軍部隊と接触した後、ザンクト・ファイト・アン・デア・グラン(Sankt Veit an der Glan)まで着たところで武装解除され、ここで最後の装甲車×2両が処分されました。
 その後ザンクト・ミヒャエル・イム・ルンガウ(Sankt Michael im Lungau)~タムスヴェーク(Tamsweg)/ マウターンドルフ(Mauterndorf)地区にたどり着いたところでアメリカ軍によって抑留されました。

・第11警察戦車中隊
 中隊は1943年8月23日付けのSS全国指導者兼ドイツ警察長官通達により編成されました。装備車両はパナール装甲車×6両とオッチキス装軌式装甲車×5両で、第29修理工場小隊も配備されました。中隊の編成作業は難航し、中隊がクロアチアに出動したのは1943年11月30日になってからでした。また1944年6月には工兵部隊が追加配備され、6月19日にクロアチアへと出発しました。中隊はクロアチア治安警察司令官(BdO. Kuroatien)の管轄下でパルチザン掃討作戦や地雷除去任務などに従事しました。
 中隊は1945年も南部警察保安地域内(Polizei Sicherungs Bereiches Süd)で活動しており、1945年3月21日までの間に数種類の中隊用呼出符号が通信記録として残されています。その後4月20日まではクロアチア治安警察司令官(B.d.O Kroatien)の通信記録に中隊の記録が残されていますが、その後の状況は不明です。

・第16警察戦車中隊
 中隊は1944年6月28日付の治安警察長官通達によりクロアチアで編成されました。装備車両はシュコダ装甲車×2両、L6装甲車×2両、L35装軌式装甲車×8両で、回収部隊と修理工場中隊が省略された代わりに修理工場小隊が配備され、専門職の兵員不足から通信兵はとうとう配属されませんでした。その他の不足の兵員はドイツ人警察官18~20名とクロアチア義勇兵70名により補充されました。
 中隊は他の警察戦車中隊とともに地雷除去任務に従事したほか、飛行場の警備任務などに従事しました。1944年10月以降の中隊に関する記録は残されていませんが、1945年4月20日現在のクロアチア治安警察司令官(B.d.O. Kroatien)の通信記録の中に中隊の名が残されており、中隊は終戦までクロアチアで活動しました。終戦時には装甲車両の兵器を装輪車両に積み替えてドイツを目指しましたが、その後の運命は不明です。

・第5SS警察連隊
 連隊は1942年7月、既存の第64警察大隊及び第322警察大隊(警察連隊「ミッテ」より)を第1大隊及び第2大隊として編入し、セルビアのベオグラードにおいて編成されました。1944年10月15日のベオグラード陥落後、ドイツ軍はクロアチア国境付近の新防衛線に計画的に後退しました。
 12月中旬、連隊はクロアチアに入り、ヴィンコヴチ(Vinkovci)の北西地区で第34軍団の戦闘団「Kübler」に配属されていました。1945年1月から4月にかけて、連隊本部と第1大隊及び第2大隊からなる連隊の主力はクロアチアのVocin地区にありました。4月から5月にかけて、連隊の主力はザグレブへと後退し、5月初めにはマルボル(Maribor、独名マールブルグMarburg)近郊で第18SS警察山岳猟兵連隊と合流し、以後両連隊は同一行動を取り5月9日にオーストリア国境を越えた後、5月13日に西側連合軍に降伏しました。

・第18SS警察山岳猟兵連隊
 連隊は1942年7月にガルミッシュ・パルテンキルヒェン周辺で唯一の山岳猟兵連隊として編成されました。スロベニアで対パルチザン作戦に従事した後、1942年11月末からフィンランドへと移動し、その後1943年8月にはギリシャへと移動しました。1944年9月に他のギリシャ駐屯部隊とともにセルビアに撤退するまで、ギリシャで対パルチザン作戦に従事し、セルビアではソ連軍に対する防衛戦に投入されました。1944年10月15日にベオグラードが陥落すると、ドイツ軍はクロアチア国境付近の新防衛線に計画的に後退しました。
 11月11日以降、連隊はクロアチアのオシイェク(Osijek)地区へと移動し、ダニューブ川沿いの地区で戦闘団「Nitsche」に配属され、ダニューブ川を渡河して攻撃してきたブルガリア軍と始めて遭遇し、この攻撃をみごと撃退しました。連隊はこれまでの戦闘で大きな損害を被っており、11月末の時点で補充としてクロアチア警察大隊などの部隊を編入して戦力を維持していました。12月末までにはオシイェクの前線から引き揚げられ、Valpovoへと移動し、2月14日まで第2クロアチア警察義勇連隊と肩を並べて戦いました。2月15日~3月30日の間はドラヴァ川沿いの地区に移動し、「春の目覚め作戦」の助攻である「ヴァルトトイフェル(Waldteufel)作戦」の間はドラヴァ川での警戒任務に従事しました。
 1945年3月22日、クロアチアの治安警察司令官(B.d.O. Kroatien)であるJilski警察少将が副官のRosenbauer警察大佐と少数の司令部要員とともに連隊に合流し、翌3月23日には連隊に配属されていた第1クロアチア警察義勇大隊とともにオーストリア国境を目指して撤退を開始しました。
 1945年5月初め、第18SS警察山岳猟兵連隊は第5SS警察連隊とマルボル(Maribor、独名マールブルグMarburg)近郊で合流し、以後両連隊は降伏するまで同一行動をとりました。第18SS警察山岳猟兵連隊は第5SS警察連隊とともに5月9日にオーストリア国境を越えることに成功した模様で、5月13日に西側連合軍に降服しました。

10.クロアチア独立国の最期
 1943年10月12日、イタリアが降伏したため形式上の国王であったトミスラヴ二世は王位を放棄してしまい、パヴェリッチが名実ともに国家元首となりました。1945年5月、ドイツの降伏に伴いクロアチア独立国も崩壊し、パヴェリッチはさっさとスペインに亡命しました。ドイツE軍集団とクロアチア軍はクロアチア領の大部分を確保しながらもイギリス軍に降伏する道を選び、オーストリア~イタリア国境方面へと撤退を開始しました。
 ドイツ国防軍総司令部は1945年5月8日から9日にかけての夜に全ドイツ軍が無条件降伏せよとの命令を発しました。この時点でユーゴスラヴィアのE軍集団の下には20万の兵力があり、アグラム(ザグレブ)地区からオーストリア国境に向けて撤退途中でした。この命令によりE軍集団司令部はチトーパルチザンと交渉を始めましたが、時間を得たパルチザン側はドイツ軍の退路を遮断し、17万5千名がチトーパルチザンの捕虜となりました。しかし、降伏条約もジュネーブ条約も一切無視され、「償いの行進」で約1万人が死亡したのを始め、ユーゴスラヴィアの捕虜になってからの期間に合計8万人が死亡しました。

 ドイツ軍に味方したクロアチア軍と民間人にはさらに過酷な運命が待ち構えていました。終戦とともに行き場を失ったクロアチア軍と民間人の一隊もまた、スロヴェニアからオーストリア~イタリアへの脱出を目指しており、5月14日にオーストリアのブライブルク(Bleiburg)付近では約21万人の軍と避難民の一団が国境を越えましたが、ブライブルクに駐屯するイギリス軍によってユーゴスラヴィア側へと追い返されました。その他にクラーゲンフルト(Klagenfurt)付近で3万5千人、St.Paul-Wolfsberg-Judenberg付近で5千人が越境を試みていました。これらのクロアチア人たちは復讐に燃えるパルチザンにより「売国奴」として16万3千人が殺害されたと言われています。


【補足-1】Gendarmerie
 英語の「Gendarmerie」は憲兵と翻訳されますが、ドイツ語の「Gendarmerie」だと話が違ってきます。ドイツ警察での「Gendarmerie」は人口2,000名未満で自前の警察予算が組めない小規模な町、村の治安警察組織「国家地方警察」を指します。ドイツ軍の憲兵は「野戦憲兵」(Feldgendarmerie)となります。
 厄介なのはクロアチアのように現地警察とドイツ警察部隊が混在した地域の英語資料の場合で、「こ、これはいったいどっちだ?!」という事態が発生してしまいます(汗


参考資料
枢軸の絆(イカロス出版 2018)
制服の帝国 ナチスSSの組織と軍装(彩流社 2010)
捕虜(学研 2001)
Hitler’s Green Army The German Order Police and their European Auxiliaries, 1933-1945 :Vol.2(Europa Books 2006)
Panzerfahrzeuge und Panzereinheiten der Ordnungspolizei 1936 – 1945(Podzun Pallas 1999)
Men-at-Arms Series 282 Axis Forces in Yugoskavia 1941-5(Oaprey 1995)

Web
http://www.axishistory.com/
ウィキペディア「クロアチア独立国軍」


2018.9.16 新規作成
2024.3.11 警察地域指導者を修正

泡沫戦史研究所 http://www.eonet.ne.jp/~noricks/