ウクライナの警察関係部隊

90番台までの(ウクライナ)シューマ大隊
100番台の(ウクライナ)シューマ大隊
200番台の(ウクライナ)シューマ大隊
警察狙撃兵連隊
ガリツィアSS義勇連隊(警察)
陸軍のウクライナ人部隊

シューマ大隊の概要

 1941年11月6日、SS全国指導者兼警察長官であるヒムラーは、ソ連各地で親独的な住民からなる治安維持部隊の設立を命じ、これらの部隊はシューマ(補助警察部隊)と呼ばれ、大隊を基本単位として編成されました。シューマ大隊の標準的な編成は大隊本部(指揮官、副官、兵10名合計12名)と4個中隊(1個中隊:3個小銃小隊、1個機関銃小隊、合計124名)からなり、1個大隊の兵力は合計508名となっていました。このうち、大隊本部の12名と各中隊の将校2名と下士官18名はドイツ国籍を持つ事が規定されていました。
 高級SS及び警察指導者「中央ロシア」の管轄地区であるウクライナとベラルーシでは1941年8月24日、第51(ウクライナ)シューマ大隊の編成を皮切りに編成が開始されました。


90番台までの(ウクライナ)シューマ大隊
 第1~第15はリトアニア、第16~第28はラトビア、第29~第45はエストニアに割当てられました。第75~第100は飛番となっており大隊の存在は未確認です。

第47(白ロシア)/(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第51(ウクライナ)シューマ大隊 1941年8月編成
第52(ウクライナ)シューマ大隊 編成時期不明
第53(ウクライナ)シューマ大隊 編成時期不明
第54(ウクライナ)シューマ大隊 編成時期不明
第55(ウクライナ)シューマ大隊 編成時期不明

第57(ウクライナ)シューマ大隊 編成時期不明
第58(ウクライナ)シューマ大隊 編成時期不明
第59(ウクライナ)シューマ大隊 編成時期不明

第61(ウクライナ)シューマ大隊 編成時期不明
第62(ウクライナ)シューマ大隊 編成時期不明
第63(ウクライナ)シューマ大隊 編成時期不明

第68(ウクライナ)シューマ乗馬大隊 編成時期不明


第47(白ロシア)シューマ大隊/(ウクライナ)シューマ大隊 
1942年7月ミンスク(ベラルーシ)にて編成。 1943年4月~6月ミンスク(ベラルーシ)に駐屯。 1943年11月SS及び警察指導者「白ロシア」の下でパルチザン掃討作戦に参加。 1944年1月ウクライナ人義勇兵により改編。 1944年4月19日SS及び警察指導者「白ロシア」の下でパルチザン掃討作戦に参加。 1944年7月SS旅団「ジークリング」に編入。 1944年8月18日旅団を母体として「SS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)」に拡大。

第51(ウクライナ)シューマ大隊 
1941年8月編成。 1943年4月「第31SS警察狙撃兵連隊」に第2大隊として編入。 1943年6月パルチザン掃討作戦「Cuttbus」に参加。

第52(ウクライナ)シューマ大隊 
編成時期、活動内容ともに不明。

第53(ウクライナ)シューマ大隊 
1942年8月編成 1944年1月の時点でモギレフに駐屯。

第54(ウクライナ)シューマ大隊 
編成時期不明。 1943年4月「第31SS警察狙撃兵連隊」に第3大隊として編入。 1943年6月パルチザン掃討作戦「Cuttbus」に参加。

第55(ウクライナ)シューマ大隊 
1942年8月編成 活動内容不明。

第57(ウクライナ)シューマ大隊
1943年1月第3警察大隊第1中隊のドイツ人警察官を基幹要員としてリガ(ラトビア)にて編成。 1943年2月パルチザン掃討作戦「Hornung」に参加。 1943年6月パルチザン掃討作戦「Cuttbus」に参加。 1943年6月「第36警察狙撃兵連隊」に編入。 1944年1月時点で中央軍集団戦区(ベラルーシ)で活動。 1944年8月30日「第36警察狙撃兵連隊」は壊滅したが、大隊は1944年7月SS旅団「ジークリング」に編入。 1944年8月18日旅団を母体としてSS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)に拡大時に選別?。

第58(ウクライナ)シューマ大隊 
編成時期不明。 1943年4月「第33SS警察狙撃兵連隊」に第2大隊として編入。 1944年3月25日「第10SS警察連隊」に吸収。

第59(ウクライナ)シューマ大隊 
編成時期不明。 1943年4月「第33SS警察狙撃兵連隊」に第3大隊として編入。 1944年4月14日「第10SS警察連隊」に吸収。

第61(ウクライナ)シューマ大隊 
編成時期不明。 1942年7月第102シューマ大隊と改称後、1944年1月より再び第61シューマ大隊と改称し、ベラルーシの中央軍集団戦区で防衛戦に投入。 1944年7月SS旅団「ジークリング」に編入。 1944年8月18日旅団を母体としてSS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)に拡大時に選別?。

第62(ウクライナ)シューマ大隊 
編成時期不明。 1944年1月スロニム(Slonim)に駐屯。 1944年7月SS旅団「ジークリング」に編入。 1944年8月18日旅団を母体としてSS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)に拡大時に選別?。

第63(ウクライナ)シューマ大隊 
編成時期不明。 1944年1月ベラルーシの中央軍集団戦区で防衛戦に投入。 1944年7月SS旅団「ジークリング」に編入。 1944年8月18日旅団を母体としてSS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)に拡大時に選別?。

第68(ウクライナ)シューマ乗馬大隊/(コサック)シューマ乗馬大隊
編成時期、活動内容ともに不明。 1944年1月(コサック)乗馬大隊に改編されミンスクに駐屯。 1944年7月SS旅団「ジークリング」に編入。


100番台の(ウクライナ)シューマ大隊
 第101~第145シューマ大隊についてはベラルーシおよびウクライナで編成されたと思われますが、パルチザン掃討作戦に参加した記録があるのみで編成時期や他の活動状況は不明です。駐屯地から考えるとウクライナで編成された可能性が高そうです。
 第147~第154シューマ大隊は1942年にクリミア半島のクリミア・タタール人義勇兵により編成されました。これらの大隊は1944年4月始めに「SSタタール山岳猟兵連隊(タタール第1)」に編入されました。
 第181~第186はエストニア保安大隊に割当てられ、飛番となっている大隊は存在が未確認です。

第101(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第102(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第103(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第104(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第105(ウクライナ)シューマ大隊 1942年11月編成※
第106(ウクライナ)シューマ大隊 1942年11月編成※

第108(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第109(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第110(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成※
第111(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成※

第113(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成※
第114(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第115(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第116(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第117(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第118(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第119(ウクライナ)シューマ大隊 1942年11月編成※
第120(ウクライナ)シューマ大隊 1942年11月編成※
第121(ウクライナ)シューマ大隊 1942年11月編成※
第122(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第123(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第124(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第125(ウクライナ)シューマ大隊 1942年11月編成※

第129(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第130(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成
第131(ウクライナ)シューマ大隊 1942年7月編成※

第134(ウクライナ)シューマ大隊 1942年11月編成※

第136(ウクライナ)シューマ大隊 1942年11月編成
第137(ウクライナ)シューマ大隊 1942年11月編成※
第138(ウクライナ)シューマ大隊 1942年11月編成※
第139(ウクライナ)シューマ大隊 1942年11月編成※
第140(ウクライナ)シューマ大隊 1942年11月編成※

第143(ウクライナ)シューマ大隊 1944年8月編成(1942年8月?)
第144(ウクライナ)シューマ大隊 1944年8月編成(1942年8月?)
第145(ウクライナ)シューマ大隊 1944年8月編成(1942年8月?)
第146(ウクライナ)シューマ大隊 1942年8月編成※

第155(ウクライナ)シューマ大隊 1942年11月編成※
第156(ウクライナ)シューマ大隊 1942年11月編成※
第157(ウクライナ)シューマ大隊 1942年11月編成※
第158(ウクライナ)シューマ大隊 1942年11月編成※

※印の大隊は2022年5月追記


第101(ウクライナ)シューマ大隊 
1942年7月に編成されスタロコンスタンチノフ(ウクライナ)に駐屯。 1944年7月SS旅団「ジークリング」に編入。 1944年8月18日旅団を母体として「SS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)」に拡大時に選別?。

第102(ウクライナ)シューマ大隊 
1942年7月に第61(ウクライナ)シューマ大隊より改称されクレミアネフ(ウクライナ)に駐屯。 1943年6月パルチザン掃討作戦「Cuttbus」に参加。 1944年1月再び第61シューマ大隊と改称。

第103(ウクライナ)シューマ大隊 
1942年7月に編成されルツク(ウクライナ)に駐屯。 1943年2月パルチザン掃討作戦「Hornung」に参加。

第104(ウクライナ)シューマ大隊 
1942年7月に編成されコブリン(ベラルーシ)に駐屯。

第105(ウクライナ)シューマ大隊 
1942年11月編成。詳細不明。※

第106(ウクライナ)シューマ大隊
  1942年11月編成。詳細不明。※

第108シューマ大隊 
編成時期不明。1942年7月ジトミール(ウクライナ)に駐屯。

第109シューマ大隊 
編成時期不明。1942年7月ベルディチェフ(ウクライナ)に駐屯。

第110(ウクライナ)シューマ大隊
  1942年7月編成。詳細不明。※

第111(ウクライナ)シューマ大隊
  1942年7月編成。詳細不明。※

第113(ウクライナ)シューマ大隊
  1942年7月編成。詳細不明。※

第114(ウクライナ)シューマ大隊 
編成時期不明。1942年7月ロブノ(ウクライナ)に駐屯。

第115(ウクライナ)シューマ大隊 
編成時期不明。1942年7月キエフ(ウクライナ)に駐屯。 1943年6月パルチザン掃討作戦「Cuttbus」に参加。

第116(ウクライナ)シューマ大隊 
編成時期不明。1942年7月ブレラヤゼルコフ(ウクライナ)に駐屯。

第117(ウクライナ)シューマ大隊 
編成時期不明。1942年7月キエフ(ウクライナ)に駐屯。

第118(ウクライナ)シューマ大隊
編成時期不明。1942年7月キエフ(ウクライナ)に駐屯。 1943年6月パルチザン掃討作戦「Cuttbus」に参加。

第122シューマ大隊 
編成時期不明。1942年7月ニコライエフ(ウクライナ)に駐屯。

第123シューマ大隊 
編成時期不明。1942年7月ヘリソン(ウクライナ)に駐屯。

第124シューマ大隊 
編成時期不明。1942年7月キロヴォグラード(ウクライナ)に駐屯。

第129シューマ大隊 
編成時期不明。1942年7月ドニエプロペトロフスク(ウクライナ)に駐屯。

第130シューマ大隊 
編成時期不明。1942年7月クリボイ・ログ(ウクライナ)に駐屯。

第136シューマ大隊 
編成時期不明。1942年7月チェルニコフ(ウクライナ)に駐屯。

第143シューマ大隊 
1944年8月ハリコフ(ウクライナ)にて編成。

第144シューマ大隊 
1944年8月ハリコフ(ウクライナ)にて編成。

第145シューマ大隊 
1944年8月クルスク(ロシア)にて編成。


200番台の(ウクライナ)シューマ大隊
 第201から第212までは当初ウクライナシューマ大隊に割当てされたようですが第202シューマ大隊と第212シューマ大隊はポーランド警察官により、第207、第209~第211シューマ大隊はコサックにより編成されました。
 第251~第265はリトアニア、第266~第285はラトビア、第286~第296はエストニアに割当てられました。

第201(ウクライナ)シューマ大隊 1941年10月21日編成
第203(ウクライナ)シューマ大隊 1944年夏編成
第204(ウクライナ)シューマ大隊 1944年夏編成
第205(ウクライナ)シューマ大隊 編成時期不明
第206(ウクライナ)シューマ大隊 編成時期不明
第208(ウクライナ)シューマ大隊 編成時期不明


第201(ウクライナ)シューマ大隊
1941年10月21日、ブランデンブルク部隊内のウクライナ人義勇兵部隊「ローランド大隊」と「ナハチゲル大隊」の兵員650名により再編成。 兵士は1年間の傭兵契約となり1942年3月16日からベラルーシに派遣され、Mahiliou-Vitsebsk-Lepel地区に分散配置され警備任務に従事。 勤務契約満了後の1942年12月1日の時点で兵士全員が再契約を希望しなかったため、大隊は1943年3月6日に前線から引き揚げられ3月8日にリヴォフに到着後に解隊。

第203(ウクライナ)シューマ大隊 
1944年夏編成されポーランドで活動。 

第204(ウクライナ)シューマ大隊 
1944年夏編成。 1944年9月解散し兵員はSS第14武装擲弾兵師団(ガリツィア第1)に編入。

第205(ウクライナ)シューマ大隊 
編成時期不明。レンベルグ(ルヴォフ)にて編成。

第206(ウクライナ)シューマ大隊 
編成時期不明。 1943年9月「第32警察狙撃兵連隊」に編入。 1943年10月19日~28日連隊の一部としてパルチザン掃討作戦「Brull」に参加。

第208(ウクライナ)シューマ大隊 
ウクライナシューマ大隊に割当てられたが詳細は不明。


警察狙撃兵連隊

 警察狙撃兵連隊はロシア地域で編成された混成警察連隊で、第31SS警察狙撃兵連隊を初めとして8個連隊が編成されました。警察狙撃兵連隊は3個大隊からなり、第1大隊はドイツ人警察官により編成され、第2大隊及び第3大隊はウクライナ人により編成されることになっていました。

第31SS警察狙撃兵連隊 1943年4月21日編成
第32SS警察狙撃兵連隊 1943年4月21日編成
第33SS警察狙撃兵連隊 1943年4月21日編成
第34SS警察狙撃兵連隊 1943年4月21日編成
第35SS警察狙撃兵連隊 1943年4月21日編成
第36SS警察狙撃兵連隊 1943年6月24日編成
第37SS警察狙撃兵連隊 1943年11月23日編成
第38SS警察狙撃兵連隊 1944年8月編成


第31SS警察狙撃兵連隊
SS Polizei Schützen Regiment 31

 1943年4月21日、連隊は第1大隊として第12SS警察連隊の第1大隊(第103警察大隊)を編入し、第2大隊及び第3大隊には第51シューマ大隊及び第54シューマ大隊を編入して編成されることになりました。
 しかし4月中に編成が完了したのは連隊本部と第1大隊のみであり、第2大隊及び第3大隊となる予定の第51シューマ大隊及び第54シューマ大隊の配属は5月にずれ込み、その後9月16日付けで正式に連隊の第2大隊及び第3大隊として編入されたようです。このほか連隊には第31警察通信中隊が配属されました。
 初代連隊長にはハインリッヒ・ハンニバル警察大佐が就任し、連隊は国家行政区「白ルテニエン」の管轄区域にあたるベラルーシとポーランド北東部で大隊ごとに各地に分散して活動しており、例えば第54シューマ大隊はリダ(Lida)に駐屯していました。1943年5月24日から6月30日にかけて、連隊はPalik湖地区で「Cottbus作戦」に参加し、7月7日から8月5日かけてはNalibocki地区の森林地帯で「Hermann作戦」に参加しました。
 1944年1月の時点で連隊の第1大隊と第3大隊はMolodechnoの東、Brorisov北東にあるPleshchenitsyの町に駐屯しており、第2大隊はBorisovの西、ミンスク(Minsk)の北東にあるLogoyskの町に駐屯してSS及び警察指導者「白ルテニエン」の管轄下にありました。1944年4月16日から5月21日にかけて、連隊はUshatshi地区で「春の祭(Frühlingsfest)」作戦に参加し、5月22日から6月27日にかけては、引き続きミンスク~ボリソフ間の鉄道北側での「春の祭(Frühlingsfest)」作戦で撃ち漏らしたパルチザンに対して掃討作戦「コルモラーン(Kormoran)」作戦を継続しました。

 1944年6月、ロシア軍のバグラチオ作戦により中央軍集団の戦線は崩壊し、中央軍集団の戦線後方地域でパルチザン掃討作戦に従事していた第31SS警察狙撃兵連隊も最前線での防衛戦闘に投入されました。1944年7月5日、連隊は第170歩兵師団の一部や第221保安師団の一部とともに戦闘団「メッツ」(Kampfgruppe “Metz”)として後退戦を行ない、7月8日からは第17SS警察連隊や第36SS警察狙撃兵連隊とともに警察戦闘団「フォン・ゴットベルグ」に編入されリダ(Lida)へと後退し、7月14日にはグロドノ(Grodno)の東方20kmの地区へと後退していました。
 1944年7月17日、連隊は警察旅団「アンハルト」(Porizei-Brigade “Anhalt”)に編入され、10月12日までには第6軍団とともにオストプロイセン国境に近いBobr河(Grodno西方40Km)地区へと後退しました。連隊長のハインリッヒ・ハンニバル警察大佐はこれまでの後退戦での功績により8月23日付けで騎士十字章を受章しており、1944年10月13日から1945年1月25日にかけて、旅団の指揮はハンニバル警察大佐が引き継ぎ旅団はSS警察旅団「ハンニバル」(SS-Polizei-Brigade Hannibal)と呼ばれることとなり、11月の時点で第4軍第27軍団に配属されていました。

 第31SS警察狙撃兵連隊はこれまでの防衛戦闘で大損害を被っており、10月30日の時点では第1大隊長であったフォイト警察少佐の指揮する約1個大隊の兵力を残すのみになっていましたが、12月には第4SS警察連隊を中心に編成された戦闘団「ハンニバル」に編入され、オストプロイセンでの防衛戦に投入されました。
 1945年1月26日、連隊はレッツェン(Lötzen)南東のリュック(Lyck)、Arys、Milkenを通り撤退を続けており、2月21日にはランズベルグ(Landsberg an der Warthe)の南6kmのGrünwalde近郊~Dixen~Neukrug地区まで後退しました。3月18日、連隊は第4SS警察連隊の残余を吸収した後、オストプロイセンのハイリゲンバイル(Heiligenbeil)地区で第349国民擲弾兵師団に配属され、最後はハイリゲンバイル包囲陣内で壊滅しました。

第32SS警察狙撃兵連隊
SS Polizei Schützen Regiment 32

 連隊は1943年4月21日、第1大隊として第17SS警察連隊の第3大隊を、第2大隊として第206(ウクライナ)シューマ大隊を編入して編成されました。第3大隊については計画どおりに進まなかったようです。 
 1943年4月22日から24日にかけてそのころ唯一作戦可能であった第1大隊はポーランドのParczew、Ostrov及びLubelski地区で実施された「Ostersegen作戦」に参加しました。第1大隊はその後、6月23日から7月4日にかけてParczew地区で実施された「Nachpfingsten作戦」と、ほぼ同時期の6月27日から7月11日にかけてZamosc及びBilgoraj地区で実施された「Werwolf I&II作戦」にも参加しています。
 連隊は1943年10月16日に解散し、兵員は新編成の「第5ガリツィアSS義勇連隊(警察)」に編入されました。その後編入されなかった残余の兵員により「第206(ウクライナ)シューマ大隊」が再編成されました。

 連隊はその後は1943年11月6日から7日にかけて、Dabrovka~Yaroslav地区での「Ulanen」作戦、12月19日から21日にかけてはDabrovka~Bilgoraj地区での「Sonnenschein」作戦、1944年4月9日から4月27日にかけてはChelmno~Krasnytav地区での「Immergrün」作戦、6月8日から6月23日にかけてはルブリン(Lublin)北東地区での「Vagabund」作戦等の諸作戦に参加しました。1944年7月、連隊はロシア軍の夏季大攻勢に巻き込まれ壊滅しました。

第33SS警察狙撃兵連隊
SS-Polizei Schützen Regiment 33

 連隊は1943年4月21日、第1大隊として第20SS警察連隊の第1大隊を編入し、第2大隊及び第3大隊として第58シューマ大隊及び第59シューマ大隊を編入して編成され、第52警察通信中隊も配属されました。連隊はウクライナ警察司令官(BdO Ukraine)の管轄下に配属され、ウクライナ地域で活動しました。
 1944年1月、連隊は警察戦闘団「プリュッツマン」(Polizei Kampfgruppe “Pruetmann”)に配属され、ブロディ(Brody)地区での防衛戦に投入されました。連隊の第1大隊及び第2大隊は1944年3月25日に解体され、続いて4月14日には第3大隊も解体され、連隊の兵員は第10SS警察連隊に吸収されました。

第34SS警察狙撃兵連隊
SS-Polizei Schützen Regiment 34

 連隊は1943年4月21日、第1大隊として第21SS警察連隊の第1大隊を編入し、第2大隊及び第3大隊はポーランド在住の親独的なウクライナ人をかき集めて編成されました。1943年から1944年にかけて、連隊は「オストラント国家行政区」として併合されたポーランド北東部の都市ビアリストク(Bialystok)に駐屯し、1943年8月にはBialystokのユダヤ人ゲットーでのレジスタンス鎮圧作戦にも出動しました。
 1944年2月、連隊は警察戦闘団「プリュッツマン」の第454保安師団に配属されてブロディ(Brody)東方地域で活動し、3月には引き続き警察戦闘団「プリュッツマン」の第36歩兵師団に配属されてブロディ(Brody)東方地域にありましたが、この間は陸軍の第13軍団に配属されており、前線での防衛戦にも投入されたのではないかと思われます。1944年7月から8月にかけて、ソ連軍の大攻勢「バグラチオ作戦」により中央軍集団の戦線が崩壊すると、連隊は警察旅団「アンハルト」の第17SS警察連隊に配属され、防衛戦に投入されました。

 1944年8月8日から9月21日にかけて、SS警察旅団「アンハルト」は第4軍団に配属され、オストプロイセンの旧国境付近のGrodno~Bialystok地区で防衛戦に投入されました。1944年8月から9月にかけて、戦線が一旦安定した時期に連隊は後方に移動した模様で、9月21日から10月6日にかけて、キエルツェ(Kielce)~コンスキエ(Konskie)地区で第532軍後方地域司令部(Korück532)の指揮下で実施された「秋の攻撃(Herbstoffensive) 作戦」に参加し、9月26日から9月30日にかけてはワルシャワ北西のカンピノス(Campinos)森林地帯での「流れ星(Sternschnuppe)作戦」に参加しました。連隊は1945年2月5日付で解散しましたが、この時点で連隊は第1大隊のみとなっていた模様です。

第35SS警察狙撃兵連隊
SS Polizei Schützen Regiment 35

 連隊は1943年4月21日、第1大隊として第24SS警察連隊の第3大隊を編入し、第2大隊及び第3大隊は1943年5月リッツマンシュタット(Litzmannstadt/Lodz=現ポーランドのウッジ)で編成され、ヴァルテラント帝国大管区で活動しました。第2大隊及び第3大隊は当初はポーランド在住のウクライナ人によるウクライナシューマ大隊により編成される予定でしたが、結局はポーランド在住の民族ドイツ人を招集して編成されたようです。

 1943年夏、連隊はウクライナに送られてウクライナ警察司令官の下に配属され、キエフ地区でのパルチザン掃討作戦に投入されました。1943年10月、キエフにソ連軍が迫ると連隊は第213保安師団に配属されて、10月26日から11月6日までキエフ南方のドニエプル河のでの防衛戦に投入されました。
 その後1943年11月から1944年1月にかけて、連隊は第13軍の戦闘団「メッシンガー」(Kampfgruppe “Messinger”)に配属されましたが、1月30日にはCumanとドゥブノ(Dubno)の戦線がソ連軍の攻撃に突破され、連隊にも危機が訪れました。この突破により戦闘団「C」、第454保安師団、SS警察戦闘団「プリュッツマン」などの部隊がリブネ(Rovno)からドゥブノの東及び北東にかけての地域で包囲され孤立してしまいました。
 連隊は2月8日までドゥブノの街を防衛した後に他のドイツ軍部隊とともに包囲を脱出しましたが大損害を被っており、残余の兵員を警察戦闘団「プリュッツマン」(Polizei Kampfgruppe “Pruetmann”)に編入したのち4月30日付で正式に解散しました。

第36SS警察狙撃兵連隊
SS Polizei Schützen Regiment 36

 連隊は1943年6月24日、第1大隊として第1SS警察連隊の第2大隊を編入し、第2大隊及び第3大隊についてはシューマ(補助警察)部隊から要員を編入して編成する計画でした。しかし、7月8日には一部計画が変更され、第1大隊は第8SS警察連隊からドイツ人警察官を編入して編成されることとなりました。
 連隊はポーランド北東部の「ウクライナ国家行政区」と東プロイセンに併合されて「オストラント国家行政区」となったリトアニアの一部に跨る地域で活動しており、1943年11月の時点では高級SS及び警察指導者「白ルテニエン」の管轄地域で活動していました。1944年1月の時点で連隊の第1大隊と第3大隊はヴァウォジン(Volozhin)に駐屯しており、第2大隊はヴァウォジン西方のVishnevoに駐屯してました。
 1944年6月、ロシア軍のバグラチオ作戦により中央軍集団の戦線は崩壊し、中央軍集団の戦線後方地域でパルチザン掃討作戦に従事していた第31SS警察狙撃兵連隊も最前線での防衛戦闘に投入されました。7月8日からは第17SS警察連隊や第36SS警察狙撃兵連隊とともに警察戦闘団「フォン・ゴットベルグ」に編入されリダ(Lida)へと後退し、7月14日にはグロドノ(Grodno)の東方20kmの地区へと後退していました。

 1944年7月17日から7月26日にかけて、戦闘団「フォン・ゴットベルグ」は第6軍団に配属され、Lipstsk西方のグロドノ(Grodno)地区を通過して後退しました。8月4日、連隊は第52保安師団に配属されており、連隊の一部はリトアニアのアリートゥス(Alytus/Olita)付近の第5戦車師団にも送られました。1944年8月30日、後退戦の過程で事実上壊滅状態の連隊は解散され、残余の兵員は第2SS警察連隊に吸収されました。

第37SS警察狙撃兵連隊
SS-Polizei Schützen Regiment 37

 連隊の第1大隊は1943年11月23日、警察保安大隊「南ロシア」(Polizei Sicherungs Abteilung Russland Sued)に第4捕虜移送中隊を加えて編成され、第2大隊と第3大隊はウクライナシューマ大隊を編入して編成されました。他の警察狙撃兵連隊では第1大隊はドイツ人の警察大隊が編入されていましたが、第37SS警察狙撃兵連隊の第1大隊でドイツ人警察官から編成されたのは第1中隊のみで、後の第2中隊から第4中隊まではなんとコサックの義勇兵により編成されていました。
 連隊はロブノ警察司令官(BdO Rovno)の管轄下に配属されましたが、1944年の初めには第454保安師団に配属されてロブノ周辺での防衛戦に投入されました。この防衛戦により連隊は1944年3月には壊滅してしまい、その後4月には正式に解散しました。

第38SS警察狙撃兵連隊
SS-Polizei Schützen Regiment 38
 連隊は1944年8月に高級SS及び警察指導者「黒海」(Höhere SS und Polizeiführer Schwarzes-Meer)の管轄地域であるGalatzで編成されました。連隊の3個大隊の要員のうちドイツ人は連隊本部及び大隊本部要員のみであり、その他の要員はロシア人義勇兵により編成されました。この連隊についての情報はほとんどなく、1944年8月からのソ連軍の大攻勢による南ウクライナ軍集団の戦線崩壊に巻き込まれ、11月には壊滅してしまったようです。


ガリツィアSS義勇連隊(警察)
 1943年4月28日、SS義勇師団「ガリツィエン」の編成が下令され、リヴィウ(レンベルク)を中心に行われた募兵の結果、6月3日までに81,999名のウクライナ人が応募しました。この中の29,124名が採用され約13,000名は新生SS師団に送られ、残りの約16,000名により5個のガリツィアSS義勇連隊(警察)が編成されました。
 1943年末から1944年1月の間に連隊は解散し兵員はSS義勇師団「ガリツィア」に編入されました。

第4ガリツィアSS義勇連隊(警察) 1943年7月編成
第5ガリツィアSS義勇連隊(警察) 1943年7月編成
第6ガリツィアSS義勇連隊(警察) 1943年8月編成
第7ガリツィアSS義勇連隊(警察) 1943年8月編成
第8ガリツィアSS義勇連隊(警察) 1943年11月編成


第4ガリツィアSS義勇連隊(警察)
 1943年7月編成。 1943年末に連隊は解散し兵員はSS義勇師団「ガリツィア」に編入。

第5ガリツィアSS義勇連隊(警察)
 1943年7月編成。 1943年10月「第32SS警察狙撃兵連隊」からウクライナ人の兵員を編入。 1943年末に連隊は解散し兵員はSS義勇師団「ガリツィア」に編入。

第6ガリツィアSS義勇連隊(警察)
 1943年8月編成。 1944年1月に連隊は解散し兵員はデビカ近郊のハイデラーガへ送られSS義勇師団「ガリツィア」に編入。

第7ガリツィアSS義勇連隊(警察) 
 1943年8月編成。 1944年1月に連隊は解散し兵員はデビカ近郊のハイデラーガへ送られSS義勇師団「ガリツィア」に編入。

第8ガリツィアSS義勇連隊(警察)
1943年11月に編成されたが直後に解散し、兵員はSS義勇師団「ガリツィア」に編入。


陸軍

ローランド大隊
ナハチゲル大隊

 1929年国防軍情報部により「ウクライナ民族主義者組織(OUN)」の支持者による特殊部隊が設立されました。ブランデンブルク部隊内に設けられたウクライナ人中隊(ローランド(Roland)部隊)は1940年の時点で兵力150名となり、ポーランド占領後にはポーランド在住のウクライナ人志願者により2番目の中隊(ナハチゲル(Nachtigal)部隊)が編成され、バルバロッサ作戦時には「ローランド(Roland)大隊」及び「ナハチゲル(Nachtigal)大隊」へと拡大されました。この2個大隊は「ウクライナ軍団」と呼ばれ、OUN側としては将来の「独立ウクライナ国家」樹立の暁には国軍の中核になるものと期待されていました。
 1941年6月30日にドイツ軍占領下のリヴォフでOUNが一方的に「独立ウクライナ国家」の樹立を宣言すると、驚いたドイツ側はこれを認めずステパーン・バンデーラを始めとするOUN指導者を拘束し、ドイツ軍占領下のウクライナは西部のガリチア地方は「総統府」に併合され、残りの地域は「ウクライナ国家行政区」として統治されることとなり、9月には総督としてエーリヒ・コッホ(Erich Koch)が派遣されました。
 ドイツ側の独立拒否やOUN内部の派閥抗争の影響もあり、ウクライナ人義勇兵の士気は急激に低下し、2個大隊は1941年8月13日に武装解除されてクラクフ経由でノイハマー練兵場に送られて解隊され、10月21日には兵力650名により「第201シューマ大隊」として再編成されました。
 大隊は4個中隊からなり、正式の大隊長は元ポーランド陸軍のEvhen Pobyhushchy少佐が就任しましたが、実際はSD連絡将校のWilhelm Mocha大尉が指揮したようです。兵士は1年間の「傭兵契約」となり、大隊は1942年3月16日からベラルーシに派遣されてMahiliou-Vitsebsk-Lepelなどの地域に分散配置され、軍需物資の警備任務、村落、橋、政府機関の警備任務、パルチザン掃討作戦などの任務に従事しました。
 1年間の勤務契約満了後の1942年12月1日の時点で兵士全員が再契約を希望しなかったため、大隊は1943年3月6日に前線から引き揚げられ、3月8日にリヴォフに到着後に解隊しました。一部の指導者的な人物は逮捕収監されましたが兵士は実戦経験者として「ウクライナ蜂起軍(UPA)」などに合流したものと思われます。


2008.11.1 新規作成
2008.11.24 一部修正
2009.5.1 ウクライナ人部隊を修正
2022.5.26 ウクライナの警察関係部隊を分離

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/