ラトビアの警察関係部隊
・初期の郷土防衛隊と陸軍訓練大隊
・シューマ大隊/ラトビア警察大隊
・ラトビア義勇警察連隊
・ラトビア国境防衛連隊
・陸軍の東部大隊と建設大隊
・武装SS
1941年7月、ラトビア警察の2,500名は再編成され、A・B・Cの3グループに分類されました。Aグループは予備兵力として使用可能な一般警察、Bグループは限定的任務に使用可能な防衛大隊や警察大隊、Cグループは民兵組織の「郷土防衛隊」(Aizsargi)とされ、1941年9月にはBグループの防衛大隊3個が編成されました。また10月には陸軍の管轄化で1個訓練大隊が編成されました。
独立大隊「リガ」 1941年9月4日編成
「リガ」第1大隊 1941年9月4日編成
「リガ」第2大隊 1941年9月4日編成
(陸軍)訓練大隊 1941年10月編成
独立大隊「リガ」
1941年9月4日リガにて編成。 1941年10月〜1943年1月第16軍の後方地域での鉄道警備や対パルチザン戦に従事。 1941年11月6日第16シューマ大隊と改称。
「リガ」第1大隊
1941年9月4日リガにて編成。 1942年1月13日第18シューマ大隊と改称。
「リガ」第2大隊
1941年9月4日リガにて編成。 1942年4月第20シューマ大隊と改称。
(陸軍)訓練大隊
1941年10月編成。兵力500名。 ロシアでの後方警備任務に投入されたらしいが詳細は不明。
シューマ大隊/ラトビア警察大隊
1941年11月6日付の命令により東部地域のすべての警察管轄下の部隊は「シューマ大隊」として再編成されることとなり、1941年11月から1942年3月までの第1次編成期の間に3個防衛大隊からの再編を含めて第16〜第28シューマ大隊の13個大隊が編成されました。その際には志願者が計画よりも多く集まったため、1942年3月に訓練部隊として第16〜第20シューマ(予備)大隊が追加編成されました。
第16シューマ大隊 1941年11月6日独立大隊「リガ」より改編
第17シューマ大隊 1941年12月21日編成
第18シューマ大隊 1942年1月13日「リガ」第1大隊より改編
第19シューマ大隊 1941年12月16日編成
第20シューマ大隊 1942年4月「リガ」第2大隊より改編
第21シューマ大隊 1942年2月25日編成
第22シューマ大隊 1942年2月25日編成
第23シューマ大隊 1942年2月25日編成
第24シューマ大隊 1942年3月1日編成
第25シューマ大隊 1942年3月6日編成
第26シューマ大隊 1942年3月6日編成
第27シューマ大隊 1942年3月14日編成
第28シューマ大隊 1942年3月9日編成
第16シューマ(予備)大隊 1942年3月21日編成
第17シューマ(予備)大隊 1942年3月18日編成
第18シューマ(予備)大隊 1942年3月18日編成
第19シューマ(予備)大隊 1942年3月18日編成
第20シューマ(予備)大隊 1942年5月9日編成
第16シューマ大隊
1941年11月6日独立大隊「リガ」より改編。 1941年10月〜1943年1月第16軍の後方地域での鉄道警備や対パルチザン戦に従事。 1942年1月21日〜5月5日ホルムでソ連軍に包囲され防衛戦に参加。 1943年2月8日ラトビア兵団第3大隊(後の第1義勇連隊第3大隊)として編入。
第17シューマ大隊
1941年12月21日リガにて編成。 1941年12月〜1942年5月白ロシアで後方地区の保安任務に従事。 1942年5月〜1943年5月ドニエプルペトロフスク(ウクライナ)で捕虜収容所警備任務に従事。 1943年5月大隊は解散し兵員は「第25シューマ大隊」に編入。
第18シューマ大隊
1942年1月13日「リガ」第1大隊より改編。 1942年5月〜1943年3月ミンスク地区(白ロシア)で後方地区の保安任務に従事。 1943年2月対パルチザン作戦「Hornung」に参加。 1943年5月ラトビアSS義勇兵団の第2義勇連隊第2大隊として編入。
第19シューマ大隊
1941年12月16日リガにて編成。 1941年12月〜1942年3月ラトビア領内で活動。 1942年3月〜1943年1月クラスノヤセロに送られ後方警備任務に従事したが、緊急時には前線での防衛戦にも投入。 1943年1月30日ラトビア兵団第1大隊(後の第1義勇連隊第1大隊)として編入。
第20シューマ大隊
1942年4月「リガ」第2大隊より改編。 1944年10月時点で大隊はダンチヒに在ったが11月に解散。兵員はSS第15武装擲弾兵師団に編入。
第21シューマ大隊
1942年2月25日リエパヤにて編成。しかし実際には1942年4月まで編成作業は進まなかった模様。 1942年7月〜1943年1月戦闘団「イェッケルン」に配属され、クラスノヤセロ地区での防衛戦に投入。 1943年初めラトビア兵団第2大隊(後の第1義勇連隊第2大隊)として編入。
第22シューマ大隊
1942年2月25日リガおよびボルデラヤにて編成。 1942年7月〜10月ワルシャワで警備任務に従事。 1942年10月スターリノ(ウクライナ)に移動。 1943年3月マエフスクに移動。 1943年6月サポロジューに移動後、対パルチザン作戦のためジトミール移動。 1943年8月ラック周辺での作戦に参加。 1943年12月ラトビアに帰還。 1944年2月第2ラトビア義勇警察連隊に編入。
第23シューマ大隊
1942年2月25日リガおよびボルデラヤにて編成。 1942年3月ウクライナに移動。 1942年7月〜1943年7月ドニエプロペトロフスク(ウクライナ)に駐屯し捕虜移送キャンプの警備任務。 1943年6月ラトビアに帰還。 1944年1月26日〜2月5日戦闘団「プリュッツマン」に配属されて防衛戦に緊急投入。 1944年3月〜8月後退戦で大損害。 1944年8月1日〜9月15日第215歩兵師団(第16軍/第1軍団)に配属。 1944年9月15日以降第215歩兵師団とともに第43軍団の予備部隊。 1944年末からクールラントで終戦まで戦闘を継続後に降伏。
第24シューマ大隊
1942年3月1日リエパヤにて編成。 1942年4月警察司令官「リガ」に配属。 1942年5月〜10月ミンスクに駐屯。 1942年10月レニングラード戦線に送られ第2SS歩兵旅団に配属。 1943年3月リガに帰還。 1943年4月再びレニングラード戦線へ。 1943年4月18日大隊はラトビアSS義勇兵団の第2義勇連隊第1大隊として編入。
第25シューマ大隊
1942年3月6日リエパヤにて編成。 1942年7月ジトミール近郊(ウクライナ)に送られ穀物の収穫作業の補助や警備任務に従事。 1944年始めラトビアに帰還。 1944年2月7日大隊は「第2ラトビア義勇警察連隊」に編入。
第26シューマ大隊
1942年3月6日ツクムスにて編成。 1942年4月警察司令官「リガ」に配属。 1942年7月警察司令官「白ロシア」に配属されて白ロシアに移動。ミンスク近郊に駐屯したとの記録もある。 1943年1月7日〜3月27日第1空軍地上師団(第18軍)に配属されノブゴロド地区での防衛戦に投入。 1943年4月1日〜5月6日第2SS歩兵旅団(第18軍)に配属。 1943年4月23日大隊はラトビアSS義勇兵団の第2義勇連隊第3大隊に編入。
第27シューマ大隊
1942年3月14日リガおよびマンガルサラにて編成。 1942年3月ウクライナに送られ防衛線に投入。 1942年7月クリボイログ(ウクライナ)で捕虜移送キャンプの警備任務に従事したがその後再び前線での防衛戦に投入。 1943年1月クリボイログでの任務に復帰。 1943年2月〜3月第19戦車師団(第1戦車軍の戦闘団「シュミット」)に配属。 1943年3月23日〜3月27日第3戦車師団(第1戦車軍)に配属。 1943年4月始めベレゴラ地区での戦闘で大損害を蒙り解散。
第28シューマ大隊
1942年3月9日リエパヤにて編成。 1942年7月クリボイログ(ウクライナ)で捕虜移送キャンプの警備任務や周辺地区の保安任務・対パルチザン作戦に従事。 1943年7月ラトビアに帰還。 1943年7月13日大隊は解散し兵員は「ラトビアSS義勇旅団」に編入
第16シューマ(予備)大隊
1942年3月21日リガおよびボルデラヤにて編成。 1942年5月18日「第266シューマ大隊」に改編。 1942年3月〜1944年11月ボルデラヤに駐屯。
第17シューマ(予備)大隊
1942年3月18日クラスラバにて編成。 1942年5月18日「第267シューマ大隊」に改編。 1942年3月〜1942年11月クラスラバに駐屯。
第18シューマ(予備)大隊
1942年3月18日リエパヤにて編成。 1942年5月18日「第268シューマ大隊」に改編。 1942年3月〜7月リエパヤに駐屯。
第19シューマ(予備)大隊
1942年3月18日既存のラトビア国境警備部隊の要員からリガにて編成。 1942年5月18日「第269シューマ大隊」に改編。
第20シューマ(予備)大隊
1942年5月9日アブレネにて編成。 1942年5月18日「第270シューマ大隊」に改編。
1942年5月に5個の予備大隊は第266〜第270シューマ大隊として改編され、6月には第2次編成期として第271〜第281シューマ大隊の11個大隊と第24〜第27シューマ(予備)大隊の4個予備大隊が編成され、この4個予備大隊も7月にはさらに第282〜第285シューマ大隊に改編されました。1942年10月の時点でラトビア警察(Aグループ)9,000名と「シューマ大隊」(Bグループ)9,000名の兵力を保有していました。
第266シューマ大隊/第16シューマ(予備)大隊 1942年5月18日改編
第267シューマ大隊/第17シューマ(予備)大隊 1942年5月18日改編
第268シューマ大隊/第18シューマ(予備)大隊 1942年5月18日改編
第269シューマ大隊/第19シューマ(予備)大隊 1942年5月18日改編
第270シューマ大隊/第20シューマ(予備)大隊 1942年5月18日改編
第271シューマ大隊 1942年7月編成
第272シューマ大隊 1942年7月1日編成
第273シューマ大隊 1942年7月1日編成
第274シューマ大隊 1942年10月1日編成
第275シューマ大隊 1942年10月16日編成
第276シューマ大隊 1942年12月7日編成
第277シューマ大隊 1942年12月7日編成
第278シューマ大隊 1942年12月7日編成
第279シューマ大隊 1943年1月4日編成
第280シューマ大隊 1942年1月23日編成
第281シューマ大隊 1942年1月23日編成
第282シューマ大隊 1943年3月5日編成
第283シューマ(建設)大隊 不明
第284シューマ大隊/第26シューマ(予備)大隊 未編成
第285シューマ大隊/第27シューマ(予備)大隊 未編成
第24シューマ(予備)大隊 未編成
第25シューマ(予備)大隊 未編成
第266シューマ大隊
1942年5月18日第16シューマ(予備)大隊より改編。 1944年11月までボルデラヤに駐屯。 1944年11月ドイツに移動し「SS第15武装擲弾兵師団(レットラント第1)」に編入。
第267シューマ大隊
1942年5月18日第17シューマ(予備)大隊より改編。 1942年11月までクラスラバに駐屯。 1942年11月ベルリキエ・ルーキ地区で対パルチザン作戦に参加。 1944年7月からクールラントで終戦まで戦闘を継続後降伏。
第268シューマ大隊
1942年5月18日第18シューマ(予備)大隊より改編。 1942年7月までリエパヤに駐屯。 1942年7月ドニエプロペトロフスク(ウクライナ)に移動し警備任務と対パルチザン作戦に従事。 1944年2月3日解散。
第269シューマ大隊
1942年5月18日第19シューマ(予備)大隊より改編。 バルト海沿岸地区での作戦に参加。 1942年7月SS戦闘団「イェッケルン」に配属。 1943年1月7月〜2月3日第18軍の第2SS歩兵旅団に配属。 1943年夏まで前線での防衛戦に投入後、大隊は解散し兵員は「第42SS義勇擲弾兵連隊第2大隊」の編成要員として編入。
第270シューマ大隊
1942年5月18日第20シューマ(予備)大隊より改編。 1942年9月12日〜1943年2月22日「第281保安師団」に配属。この間大隊は工兵大隊として運用。 1943年9月南部ロシアに移動。 1944年8月7日「第672(ラトビア)東部工兵大隊」に改編され陸軍に移管。
第271シューマ大隊
1942年7月リバウにて編成を開始。しかし1943年1月15日まで編成作業は完了しなかった。 1943年の間は白ロシアでの対パルチザン任務に従事。 1944年1月大隊の兵力は将校・兵合わせて304名。 1944年5月ミンスクでの対パルチザン作戦に参加。 1944年6月スルツクに駐屯して対パルチザン作戦「カットブス」に参加。 1944年7月〜11月中央軍集団の崩壊に伴い後退戦を戦いながらラトビアまで後退し、クールラントで「第6SS軍団」に編入。 1944年10月15日まで防衛戦に参加後、大隊は解散し兵員は「SS第43武装擲弾兵連隊」に編入。
第272シューマ大隊
1942年7月1日リガ及びボルデラヤにて編成。 1942年10月1個中隊が抽出され、新編成の「第274シューマ大隊」に編入。 1943年4月末までワルシャワでの警備任務に従事し、ユダヤ人ゲットーの掃討作戦にも参加。 その後ドニエプロペトロフスク(ウクライナ)に移動。 1943年大隊は解散し兵員は「ラトビアSS兵団」に編入。
第273シューマ大隊
1942年7月1日編成。 1943年3月特別行動隊「シュレーダー」(Einsatzstab Schroeder)に配属されLudza地区と周辺での対パルチザン作戦に従事。 1943年7月大隊は解散し「第276シューマ大隊」に編入。
第274シューマ大隊
1942年10月1日「第272シューマ大隊」より抽出された1個中隊によりワルシャワにて編成。この中隊を基幹として大隊規模まで拡大される計画であったが、結局実現はしなかった。 1942年末ボブルイスク(Bobruisk:白ロシア)に移動し、対パルチザン作戦に従事。 1943年10月ポロツク(Polotsk)で防衛戦に投入。 1944年3月リガ(ラトビア)にて警備任務に従事。 1944年9月30日解散。
第275シューマ大隊
1942年10月16日治安警察司令官「リガ」の命令により編成。大隊の実態は「増強狙撃兵1個中隊」にすぎず、10月中旬から12月始めまでリガ(ラトビア)にて警備任務に従事。 1942年12月7日解散し兵員は他のシューマ大隊に編入。編入先は記録により「第276シューマ大隊」または「第277シューマ大隊」に分かれているが、どちらにしても最終的には「第1ラトビア警察連隊」に編入。
第276シューマ大隊
1942年12月7日Kuldigaにて編成。Vilaka(ラトビア)に駐屯して後方地域での警備任務に従事。ラトビア側の記録によると「第275シューマ大隊」の兵員を編入。 1943年2月SS戦闘団「クノッヘ(Knecht)」に編入され、ラトビア・ロシア国境地帯での対パルチザン作戦に従事。 1943年8月11日ラトビア義勇警察連隊「リガ」に第4大隊として編入。
第277シューマ大隊
1942年12月7日リガにて編成。ドイツ側の記録によると「第275シューマ大隊」の兵員を編入。 1943年2月SS戦闘団「クノッヘ(Knecht)」に編入され、ラトビア・ロシア国境地帯での対パルチザン作戦に従事。2月中はPustima、Asune及びPizaniの町に展開。 1943年3月始め戦闘団は解散し大隊はリガに帰還。 1943年7月解散した「第282シューマ大隊」の残余を編入。 1943年8月11日「ラトビアSS兵団」に編入。
第278シューマ大隊
1942年12月7日リガ及びボルデラヤで募集された兵員より編成され、Ludza地区(ラトビア)での保安任務に従事。 1943年2月SS戦闘団「クノッヘ(Knecht)」に編入され、ラトビア・ロシア国境地帯での対パルチザン作戦に従事。 1943年3月始め戦闘団は解散し大隊はLudza(ラトビア)地区での保安任務に復帰。 1943年7月中旬解散した「第279シューマ大隊」の兵員を編入。 1943年8月大隊はラトビア義勇警察連隊「リガ」に第2大隊として編入。
第279シューマ大隊
1943年1月4日リガ及びボルデラヤにて編成。 1943年1月〜7月Zilupe地区(ラトビア)での保安任務に従事。 1943年2月SS戦闘団「クノッヘ(Knecht)」に編入され、ラトビア・ロシア国境地帯での対パルチザン作戦に従事。 1943年7月中旬大隊は解散し兵員は「第278シューマ大隊」に編入。
第280シューマ大隊
1942年1月23日リガ及びボルデラヤにて編成。 1943年3月SS戦闘団「シュレーダー(Schroeder)」に編入され、ラトビア・ロシア国境地帯での対パルチザン作戦に従事。 1943年4月9日解散
第281シューマ大隊
1942年1月23日リガ及びボルデラヤにて編成され、Zilupe地区(ラトビア)での保安任務に従事。 1943年3月SS戦闘団「シュレーダー(Schroeder)」に編入され、ラトビア・ロシア国境地帯での対パルチザン作戦に従事。 1943年4月9日解散。 ※この大隊はドイツ側の記録にしか登場せず存在は疑わしい。
第282シューマ大隊
1943年3月5日編成リガ及びボルデラヤにて編成され、Zilupe地区(ラトビア)での保安任務に従事。 1943年7月15日解散し兵員は「第277シューマ大隊」に編入。 ※この大隊はドイツ側の記録にしか登場せず存在は疑わしい。
第283シューマ(建設)大隊
ラトビア領内に住むロシア系少数民族により編成されたと言われるが詳細は不明。 ※この大隊はドイツ側の記録にしか登場せず存在は疑わしい。
第24シューマ(予備)大隊
未編成
第25シューマ(予備)大隊
未編成
第26シューマ(予備)大隊/第284シューマ大隊
未編成
第27シューマ(予備)大隊/第285シューマ大隊
未編成
1943年5月以降、第3次編成期として第311〜第328シューマ大隊の18個大隊が編成されました。また1943年5月24日付けでラトビアの各シューマ大隊は「ラトビア警察大隊(Lettische Polizei-Bataillon)」へと一斉に改称されました。
第311ラトビア警察大隊 1943年5月12日編成
第312ラトビア警察大隊 1943年5月15日編成
第313ラトビア警察大隊 1943年8月2日編成
第314ラトビア警察大隊 1944年7月編成
第315ラトビア警察大隊 1944年編成
第316ラトビア警察大隊 1943年8月2日編成
第317ラトビア警察大隊 1943年10月18日編成
第318ラトビア警察大隊 1943年10月25日編成
第319ラトビア警察大隊 1943年10月25日編成
第320ラトビア警察大隊 1943年10月21日編成
第321ラトビア警察大隊 1943年10月22日編成
第322ラトビア警察大隊 1944年7月23日編成
第323ラトビア警察大隊 未編成
第324ラトビア警察大隊 未編成
第325ラトビア−ロシア建設大隊/ラトビア警察(野戦)大隊 1944年3月編成
第326ラトビア−ロシア建設大隊/ラトガリ建設大隊 1944年3月編成
第327ラトビア警察(建設)大隊/ラトガリ建設大隊 1944年3月編成
第328ラトビア警察(建設)大隊/ラトガリ建設大隊 1944年3月編成
第311ラトビア警察大隊
1943年5月12日Vulmeniraにて編成され、Meitene〜Valka間の鉄道警備任務に従事。1943年7月解散。 ※この大隊はドイツ側の記録には登場しないが存在した。
第312ラトビア警察大隊
1943年5月15日Daugavpilsにて編成。混乱の中でドイツ側の任務に従事する事なく訓練と装備の充実に努力。 1943年9月11日大隊はラトビア義勇警察連隊「リガ」に第3大隊として編入。 ※この大隊はドイツ側の記録には登場しないが存在した。
第313ラトビア警察大隊
1943年8月2日リガにて編成され、10月までヴィリニュス(Vilnius)及びMolodechno地区での対パルチザン作戦に従事。 1943年10月〜1944年1月30日SS戦闘団「イェッケルン」に編入され対パルチザン作戦とともにSebezha及びNevel地区での数度の防衛戦にも投入。 1944年2月7日第2ラトビア義勇警察連隊「リエパヤ」に編入。
第314ラトビア警察大隊/ラトビア建設大隊
1944年5月よりラトビア在住のロシア系少数民族により編成を開始したが、大隊に必要な武器や装備の調達は困難となり「建設大隊」に計画変更。 1944年7月建設大隊として編成を完了。クールラントにて陣地構築作業に従事。 1944年12月解散し兵員は他のラトビア人部隊に編入。
第315ラトビア警察大隊/ラトビア建設大隊
1944年1月よりラトビア在住のロシア系少数民族により編成を開始したが、大隊に必要な武器や装備の調達は困難となりすぐに「建設大隊」に計画変更。 クールラントにて陣地構築作業に従事。 1945年4月解散。
第316ラトビア警察大隊
1943年8月2日リガ及びボルデラヤにて編成。 1943年8月〜10月ビリヌス地区(リトアニア)で対パルチザン作戦に従事。 1943年12月17日〜31日戦闘団「イェッケルン」に編入されNevel及びSebezha地区での防衛戦に投入。 1944年1月5日〜11日引き続き戦闘団「イェッケルン」で防衛戦に投入。 1944年2月7日第2ラトビア義勇警察連隊に編入され、対パルチザン作戦や防衛戦に投入。 1944年8月連隊は解散し兵員は第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」に編入。
第317ラトビア警察大隊
1943年10月18日リガ及びボルデラヤにて編成。 1943年10月〜1944年2月Zilape及びOlaine地区(ラトビア)での対パルチザン作戦に従事。 1944年2月14日第3ラトビア義勇警察連隊に第1大隊として編入。 1944年8月連隊は解散し兵員は第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」に編入。
第318ラトビア警察大隊
1943年10月25日「郷土防衛隊」の兵員からリガ及びボルデラヤにて編成。 1943年10月〜1944年2月Vecslabada地区(ラトビア)での保安任務に従事。 1944年2月14日第3ラトビア義勇警察連隊に第2大隊として編入。 1944年8月連隊は解散し兵員は第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」に編入。
第319ラトビア警察大隊
1943年10月25日「郷土防衛隊」の兵員からリガにて編成。 1943年10月〜11月中旬リガにて保安任務に従事。 1943年11月〜1944年3月Sebezha及びIndra地区(ラトビア)での保安任務に従事。 1944年3月〜4月Olaine(ラトビア)に駐屯。 1944年4月〜7月Aluska及びGulbeme地区での保安任務に従事。 1944年9月17日第215歩兵師団(第43軍団/第16軍)に配属。 1944年10月27日〜29日戦闘団「Kleffel」(第16軍)に配属。 1944年10月30日〜11月4日戦闘団「フォン・メレンティン」に配属。その後クールラントで戦闘を継続し1945年5月8日降伏。
第320ラトビア警察大隊
1943年10月21日リガにて編成されJelgava、Kegums、Liepaja及びSalaspilsでの保安任務に従事。 1944年9月20日解散。
第321ラトビア警察大隊
1943年10月22日『郷土防衛隊』の兵員からDaugavpils(ラトビア)にて編成。 1943年10月〜1944年2月Abrece地区での保安任務に従事。 1944年2月14日第3ラトビア義勇警察連隊に第3大隊として編入。 1944年8月連隊は解散し兵員は第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」に編入。
第322ラトビア警察大隊
1944年7月23日リガ及びBauskaにて編成を開始。 8月1日〜9月15日第215歩兵師団(第1軍団/第16軍)に配属。 9月17日第215歩兵師団に配属のまま第43軍団に配属換え。 10月27日〜29日戦闘団「クレッフェル(Kleffel)」に配属。 10月30日〜11月4日戦闘団「フォン・メレンティン」に配属。 1945年3月30日クールラントで第19SSラトビア歩兵師団に編入。
第323ラトビア警察大隊
未編成
第324ラトビア警察大隊
未編成
第325ラトビア−ロシア建設大隊/ラトビア警察(野戦)大隊
1944年3月ラトビア在住のロシア系少数民族によりラトビア警察(野戦)大隊として編成。 1944年12月壊滅。
第326ラトビア−ロシア建設大隊/ラトガリ建設大隊
1944年3月ラトビア在住のロシア系少数民族によりラトビア警察(野戦)大隊として編成。 1944年5月第326ラトガリ建設大隊に改編。 1945年5月9日クールラントで降伏。
第327ラトビア警察(建設)大隊/ラトガリ建設大隊
1944年3月ラトビア在住のロシア系少数民族によりラトビア警察(建設)大隊として編成。 1944年4月第327ラトガリ建設大隊に改編。 1945年4月陸軍の第IVラトビア建設大隊に編入。
第328ラトビア警察(建設)大隊/ラトガリ建設大隊
1944年3月ラトビア警察(建設)大隊として編成。 1944年7月第328ラトガリ建設大隊に改編。 1945年5月9日クールラントで降伏。
一連の番号付きシューマ大隊、警察大隊の他にも警察の管轄下でいくつかの大隊が編成されましたが、編成や活動状況の詳細はわかっていません。
(第1特別編成)ラトビア警察大隊 1944年10月編成
(第2特別編成)ラトビア警察大隊「Meiers」 1944年10月編成
SSラトビア建設大隊「Zvaigzne」 1944年10月編成
(第1特別編成)ラトビア警察大隊
1944年10月ダンチヒにて編成。資料によってはDepotの表記があり、兵員補充大隊と思われるが詳細は不明。
(第2特別編成)ラトビア警察大隊「Meiers」
1944年10月ダンチヒにて編成。資料によってはDepotの表記があり、兵員補充大隊と思われるが詳細は不明。
SSラトビア建設大隊「Zvaigzne」
1944年10月第5ラトビア国境防衛連隊の解散時に戦闘に不適とされた兵員によりクールラントにて編成。
ラトビア義勇警察連隊
1943年以降、シューマ大隊3個〜4個を統合して「ラトビア義勇警察連隊」が編成され前線での防衛戦に投入されました。しかし各連隊とも中年警察官の寄せ集めで対パルチザン作戦以外の実戦経験も乏しく、装備・訓練ともに貧弱で前線での戦闘で大きな損害をだした後、解散し兵員は武装SSの「SS第15武装擲弾兵師団(レットラント第1)」に補充要員として編入されました。
ラトビア義勇警察連隊「リガ」/第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」 1943年7月27日編成
第2ラトビア義勇警察連隊 1944年2月編成
第3ラトビア義勇警察連隊 1944年3月編成
ラトビア義勇警察連隊「リガ」/第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」
1943年7月27日第277、第278、第312、第276シューマ大隊の4個大隊によりリガにて編成。 1943年9月第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」と改称。9月20日から他の部隊とともにOspa及びBraslav地区での対パルチザン作戦に従事。 1943年10月末Idricaへと移動し11月1日からNevel西方約45KmのNecherdo川及びヤスノ(Yasno)湖沿岸の10Kmの警戒線を担当。 11月7日から開始されたソ連軍の強力な攻撃に対して防衛線を維持。この後2ヶ月間に渡り連隊は第313及び第316シューマ大隊と共に防衛線を維持しNevel西方でのソ連軍の突破を許さなかった。 1944年1月Gusino湖(ヤスノ湖の南側)中部の前線から北部の新防衛線へ移動。1月12日ソ連軍の新たな攻撃が開始され、連隊の片翼の警察大隊が後退したが攻撃は新防衛線で阻止。 1月中旬〜3月中旬まで連隊は新たな防衛戦に移動しながら戦闘を継続。 1944年3月始め連隊は前線より引き上げ休養と再編成のためラトビアへ帰還。1月の戦闘での戦功により連隊はカフバンド「Lett.Freiw.Pol.Rgt.Riga」の着用を許可される。 1944年4月ヴィルナ地区での対パルチザン作戦に従事。 1944年5月ヴィルヌス(Vilinius:リトアニア)に送られパルチザン2個旅団に対抗。 1944年7月連隊の第4大隊は休養のため分離されるが、事実上壊滅状態。7月中旬中央軍集団戦区のヴィテブスク(Vitebsk)地区でソ連軍が前線を突破したため、連隊はラトビアに緊急輸送される。7月末連隊はBrovka(Daugavpilsの南西約20Km)の近郊に布陣。 1944年8月連隊はBulduri地区へ移動し「第2ラトビア義勇警察連隊」と「第3ラトビア義勇警察連隊」からの兵員により再建したが、連隊の兵力は定数の70%に留まる。 1944年9月ドゥンダガ(Dundaga)近郊のゼーラーガー(Seelager)へ移動。 1944年10月9日連隊の兵器・装備はすべてVentspilsでドイツ軍部隊に引き渡し、兵員のみがダンチヒへと海上輸送。 1944年11月19日兵員は「SS第15武装擲弾兵師団(レットラント第1)」に編入されることとなり、12月までに連隊は解散。
第2ラトビア義勇警察連隊「リエパヤ」
1944年2月第22、第25、第313、第316シューマ大隊の4個大隊により編成され、ダウガヴァ川地区での対パルチザン作戦に従事。 1944年7月戦闘団「イェッケルン」に配属されるが7月6日には戦闘団を離れ、ラトビア〜ポーランド国境のZengaleに移動し一時的に第22歩兵師団に配属。 1944年8月Bulduri地区へ移動し補充を受ける予定であったが、8月18日に連隊は解散し兵員は第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」に編入。
1944年9月16日リガにて第2ラトビア義勇警察連隊「クールゼメ」として再編成。兵員はラトビア警察と郷土防衛隊からの兵員により再建されたが、実態は老兵の寄せ集めであり装備・訓練ともに貧弱。 9月21日ゼーラーガーに移動。 10月9日Ventspilsからダンチヒへと海上輸送され、その後Thurn(ポーランド)へと鉄道輸送。 10月26日連隊は解散し兵員は「SS第15武装擲弾兵師団(レットラント第1)」に編入。Ventspils出発後連隊は兵力の40%を失う。
第3ラトビア義勇警察連隊
1944年3月第317、第318、第321ラトビア警察大隊の3個大隊により編成。 1944年7月戦闘団「イェッケルン」に配属。 1944年8月連隊は前線から引き上げBulduri地区へ移動後解散し、残余の兵員は第1ラトビア義勇警察連隊「リガ」に補充要員として編入。
ラトビア国境防衛連隊
ラトビアの東部国境にソ連軍が迫った1944年2月、ラトビア警察の要員20,000名から6個の「ラトビア国境防衛連隊」の編成が計画されました。各連隊は4個大隊により編成され兵力は3,000名とされましたが、兵器も装備も不足しており輸送用の車両もまったく装備されていませんでした。制服も陸軍、警察、SS、戦前のラトビア陸軍のものが混在していました。第4大隊は兵器の不足により当初から「建設大隊」として運用され、すぐに連隊から分離されたため、結局6個連隊で12,118名の兵力に止まりました。
「ラトビア国境防衛連隊」は1944年5月以降は「SS国境警備連隊(警察)」と改称しました。
第1ラトビア国境防衛連隊 1944年2月編成
第2ラトビア国境防衛連隊 1944年2月編成
第3ラトビア国境防衛連隊 1944年2月編成
第4ラトビア国境防衛連隊 1944年2月編成
第5ラトビア国境防衛連隊 1944年2月編成
第6ラトビア国境防衛連隊 1944年2月編成
第1ラトビア国境防衛連隊
1944年2月リガにて編成。 1944年3月連隊は解散し兵員は「SS第19武装擲弾兵師団(レットラント第2)」に編入。
第2ラトビア国境防衛連隊
1944年2月リガにて編成。 1944年3月連隊は解散し兵員は「SS第19武装擲弾兵師団(レットラント第2)」に編入。
その後新しい兵員により再建。1944年7月SS戦闘団「イェッケルン」に編入され、Daugaroils地区(ラトビア南部)での防衛戦に投入。 1944年8月18日Koknes地区での陣地構築作業に従事。その後「第4ラトビア国境防衛連隊」と「第6ラトビア国境防衛連隊」を解散し兵員を編入。 8月28日「第6SS軍団」に配属され、リガ南方での防衛戦に投入。 1944年9月15日Iecava(リガ南方40km)で4日間に渡り防衛戦を展開し、この間に敵戦車13両を撃破。 1944年10月クールラントで解散し選抜した兵員が「SS第106武装擲弾兵連隊」に編入。
第3ラトビア国境防衛連隊
1944年2月リガにて編成。 1944年4月始め「第6SS軍団」に配属されクラスノヤルスク(Zilupe川東岸)に駐屯。この間4個中隊(808名)が抽出され南部リトアニアに送られドイツ軍歩兵師団に編入されたが二度と戻らなかった。 1944年7月19日「第6SS軍団」を離れKarsava地区へ移動し、7月下旬に連隊は解散し兵員は「SS第19武装擲弾兵師団(レットラント第2)」に編入。
第4ラトビア国境防衛連隊
1944年2月Tukums及びSlokaにて編成。 1944年7月SS戦闘団「イェッケルン」に編入されDaugaroils地区(ラトビア南部)での防衛戦に投入されたが、連隊の士気は最低。 1944年8月18日Koknes地区での陣地構築作業に従事。8月中に連隊は解散し兵員は「第2ラトビア国境防衛連隊」と「第5ラトビア国境防衛連隊」に補充要員として編入。
第5ラトビア国境防衛連隊
1944年2月Aizputaにて編成。 1944年4月16日訓練も装備も不十分なまま戦闘団「フォン・ゴットベルク」に配属され、ポロツク(Polotsk)近郊のウシャチ(Ushachi)地区での対パルチザン作戦「Frühlingsfest」に従事。 1944年5月Borkovichi地区へ移動し引き続き対パルチザン作戦に従事。 1944年6月ダウガヴァ(Daugava)川西部のDisna川及びHemanovicze(Disnano南20km)の前線で約20kmの戦区を担当。ソ連軍の強力な攻撃により連隊は蹴散らされるがKraslava(ダウガヴァ川東岸)で再建。 1944年8月18日Koknes地区での陣地構築作業に従事。その後「第4ラトビア国境防衛連隊」と「第6ラトビア国境防衛連隊」から補充要員を編入。 1944年8月28日「第6SS軍団」に配属されリガ南方での防衛戦に投入。 1944年9月北方軍集団の撤退作戦に備えてLielvorde地区(リガの南東約45km)での陣地構築作業に従事。 1944年10月クールラントで解散し選抜した兵員が「SS第106武装擲弾兵連隊」に編入。戦闘に不適とされた兵員によりSSラトビア建設大隊「Zvaigzne」を編成。
第6ラトビア国境防衛連隊
1944年2月Kuldiga、Kandava及びSabile地区にて4個大隊と1個戦車猟兵中隊により編成。 1944年7月Daugavpils(ラトビア南部)へと送られ他のラトビア国境防衛連隊とともにSS戦闘団「イェッケルン」に編入され防衛戦に投入。 1944年8月18日Koknes地区での陣地構築作業に従事。その後連隊は解散し兵員は「第2ラトビア国境防衛連隊」と「第5ラトビア国境防衛連隊」に補充要員として編入。
陸軍の東部大隊と建設大隊
エストニアの場合と違いラトビアでは陸軍管轄下の東部大隊は編成されませんでした。例外として第652(ラトビア)東部防衛中隊、第672(ラトビア)東部工兵大隊があるのみです。その他に1943年に兵役拒否により投獄されていた者から陸軍の管轄下で4個建設大隊が編成されました。これらの建設大隊は警察管轄下の3個「ラトガリ建設大隊」とは別の部隊であり注意が必要です。
第652(ラトビア)東部防衛中隊
第672(ラトビア)東部工兵大隊 1944年7月8日改編。
第Iラトビア建設大隊 1943年編成
第IIラトビア建設大隊 1943年編成
第IIIラトビア建設大隊 1943年編成
第IVラトビア建設大隊 1943年編成
第652(ラトビア)東部防衛中隊
詳細不明
第672(ラトビア)東部工兵大隊
1944年7月8日第270シューマ大隊を改編。
第Iラトビア建設大隊
1943年編成。 1944年8月解散。 1944年9月「第IIラトビア建設大隊」の要員を編入して再編。その後「クールラント建設大隊」へと改称。 1945年5月9日降伏。
第IIラトビア建設大隊
1943年編成。 1944年9月連隊は解散し要員は「第Iラトビア建設大隊」に編入。
第IIIラトビア建設大隊
1943年編成。 1944年9月解散。
第IVラトビア建設大隊
1943年編成。 1945年4月「第327ラトガリ建設大隊」を編入。 1945年5月9日降伏。
武装SS
1943年1月、ハインリッヒ・ヒムラーSS全国指導者はレニングラード戦線で第2SS歩兵旅団(自動車化)を視察しました。旅団は第4SS髑髏連隊「オストマルク」を前身とする第4SS歩兵連隊と第14SS歩兵連隊により編成されましたが、1942年後半の時点ですでにオランダ人、フラマン人、ノルウェー人義勇兵を含む多国籍編成となっていたほか、第19、第21シューマ大隊が配属されておりラトビア人義勇兵の割合が増加していました。
ラトビアSS義勇兵団 1943年2月8日設立
ラトビアSS義勇旅団 1943年5月18日編成
第2ラトビアSS義勇旅団 1943年10月22日改称
第19ラトビアSS義勇師団 1944年1月7日改称
SS第19武装擲弾兵師団(レットラント第2) 1944年5月16日改称
1943年2月8日、ラトビア人義勇兵による「ラトビアSS義勇兵団」の設立が命令され、1943年4月に第16、第19、第21シューマ大隊を編入して第1ラトビア義勇連隊が編成され、さらに第18、第24、第26シューマ大隊により第2ラトビア義勇連隊が編成され、砲兵大隊と支援部隊も追加されました。1943年5月18日、第2SS歩兵旅団にこれらの部隊が編入されて「ラトビアSS義勇旅団」(後に「ラトビアSS義勇擲弾兵旅団」)へと拡大・改称されました。旅団の将校と下士官の半数は第2SS歩兵旅団から引き継いだドイツ人でしたが、各連隊長はラトビア人将校が務めており、ヴォルコフの戦線を第2SS歩兵旅団から引き継ぎました。1944年1月に旅団は師団へと拡大され「第19ラトビアSS義勇師団」となりましたが、前線にとどまったままでの拡大作業はゆっくりとしたペースでしか進みませんでした。師団はその貧弱な装備にもかかわらず不屈の闘志でクールラント戦を最後まで戦い抜きましたが、生き残ったラトビア兵は過酷な運命が待つ収容所送りとなりました。
ラトビアSS義勇師団 1943年2月25日編成
第15ラトビアSS義勇師団 1943年10月22日改称
SS第15武装擲弾兵師団(レットラント第1) 1944年6月改称
師団は1943年5月、ラトビア人義勇兵により「ラトビアSS義勇師団」として編成されナルバ戦線へと送られましたが人員・装備とも不足しており、将校は定員の70%、下士官は90%、車輌は定数の15%しかありませんでした。1943年10月には「第15ラトビアSS義勇師団」と改称され、兵力もようやく15,192名となりましたが、車輌と無線機材等が大幅に不足していました。1944年4月、師団は「SS第15武装擲弾兵師団(レットラント第1)」と改称されましたがたった1度の戦闘で壊滅し、1944年9月には再編成されたものの再建後も再三に渡りパニックに陥るなど三流部隊の感は免れませんでした。最後には陣地構築の労働部隊としてのみ運用され、4,500名がアメリカ軍に降伏しました。その他に師団の一部から小規模な2個戦闘団が編成されベルリン防衛戦で最後まで奮戦し、最後はごく少数が西方に脱出してアメリカ軍に降伏しました。
SS第106武装擲弾兵連隊
1944年10月「第2ラトビア国境防衛連隊」と「第5ラトビア国境防衛連隊」の兵員を中心に選抜された兵員により編成され、クールラントで防衛戦に従事。
ラトビア人義勇兵データ(1944年1月)
武装SS 31,446名
第15ラトビアSS義勇師団 11,537名
第19ラトビアSS義勇師団 19,909名
国境防衛連隊 12,118名
空軍 628名
その他のSS 927名
ラトビア警察 5,240名
シューマ大隊 14,884名(警察連隊を含む)
郷土防衛隊(民兵) 22,300名
志願労働者(Hiwis) 12,159名
その他(トート組織、RAD等)10,585名
合計 110,200名
1944年以降の新たな募集により参加者の総数は約148,000名(一説では165,000名)にまで達しました。これは徴兵制度実施の場合に近い数字であり、ラトビアでの義勇兵の募集や強制徴募が徹底的に行われた結果でした。
2008.10.16 新規作成
2009.8.9 大隊を追加