泡沫戦史研究所/ドイツ治安警察部隊史/警察装甲車/戦車部隊(1936年~1942年)
警察連隊「ノルト」の装甲車小隊
1941年6月現在の治安警察長官の戦闘序列によると、高級SS及び警察指導者「ノルト」、「ミッテ」、「ジュート」の管轄下には警察部隊が配属されることとなっており、それぞれ2個装甲車小隊が配属されていました。
各小隊は機関砲(または戦車砲)×3門、重機関銃×15門、軽機関銃×6挺を装備しており、警察連隊「ミッテ」及び警察連隊「ジュート」に配属されていましたが、警察連隊「ノルト」の装甲車小隊だけはその装備内容がわかっていません。
1941年7月22日現在の北方軍集団後方地域司令部(Corück 101)の戦闘序列によると、警察連隊「ノルト」にはそれぞれ装甲車×3両、重機関銃×6門、軽機関銃×6挺を装備した2個警察装甲車小隊が配属されていました。また1941年12月9日現在の北方軍集団後方地域司令部の戦闘序列によると、警察連隊「ノルト」にはそれぞれ装甲車×3両、機関銃×4挺を装備した2個警察装甲車小隊が配属されていましたが、これだけの情報では小隊の装備内容を特定することはできません。
残された写真によると警察連隊「ノルト」の1個装甲車小隊はスタイヤー装甲車×3両を、他の1個小隊はタトラ装甲車×3両を装備しており、各装甲車には機関銃を装備したサイドカー付オートバイが随伴していました。もしすべての装甲車が機関銃を装備したサイドカー付オートバイを随伴させていたとすると、各小隊は装甲車が機関砲(または戦車砲)×3門と重機関銃×15門を装備しており、サイドカーが機関銃×6挺を装備していた計算になりますが、戦闘序列の内容とは2倍以上の誤差があることになりこれも確実ではありません。
警察連隊「ノルト」は1941年末まで北方軍集団後方地域司令部に配属されていましたが、装甲車小隊の行動や作戦地域はごくまれに記録されているに過ぎません。
1941年10月7日、警察連隊「ノルト」の通信部隊、2個装甲車小隊及び2個対戦車砲小隊を含む連隊本部と第3大隊(第321警察大隊)の第3中隊はプスコフ(Pleskau)からOpuchkaへと移動しました。1942年1月10日、警察連隊「ノルト」は第10軍団の「ケウパー」集団(Gruppe
“Keuper”)に配属され1942年3月まで第81歩兵師団とともに前線での防衛戦に投入されました。
1942年4月から6月にかけて、「ケウパー」集団は第10軍団の第18歩兵師団に配属されており、スタラヤルッサでの防衛戦に投入されました。1942年4月24日の第18歩兵師団から第10軍団への無線による報告の中で「ケウパー」集団の装甲車部隊の重装備の状況について短い報告が記録されており、それによると軽機関銃×5挺、重機関銃×2門、3.7cm対戦車砲×2門が報告されています。
また1942年6月18日、警察連隊「ノルト」の連隊長は高級SS及び警察指導者「ノルト」に対して次のような状況報告を行っています。
『連隊の立て直しの試みは全て失敗したため、私は6月18日付けの第18(自動車化)歩兵師団への報告で次ぐにように報告しなければなりませんでした。
SS及び警察指導者経由の高級SS及び警察指導者による指令により国防軍に提供された警察部隊は訓練と編成に見合った達成可能な任務にのみを引き受けることとなっています。この指令では司令官は適切な時期に適切な報告を行う義務があります。
したがって1942年6月14日付けの私の報告書である「警察連隊「ノルト」の戦闘能力」に関連して、私の任務と同様に警察連隊「ノルト」の任務は現在の戦力では完遂できず、何の救援もなしに絶え間ない作戦行動の結果、戦力が著しく低下してもはや前線任務には適していないと報告しなければなりません。』
1942年7月8日付けの歩兵突撃章銀章の授与目録の表紙に部隊の装甲車が描かれており、授与資料として4月24日付けの第18歩兵師団(自動車化)との無線交信記録が添付されていましたが、この通信記録の中には「装甲車・対戦車砲部隊」が登場しています。この時期には戦闘で消耗した装甲車小隊と対戦車砲小隊は統合されて一つの部隊として運用されていたようです。
1942年7月、警察連隊「ノルト」の連隊本部は第9警察連隊本部へと改編されました。連隊に配備されていた装甲車については記録がありませんが、写真によるとウィーンへと送り返されたようです。装甲車両の搭乗員は1942年11月にウィーン警察司令官及びウィーン警察自動車学校へと帰還しました。
2019.7.7 新規作成