| もらいもの警察官写真の考察 |
| 時は2004年頃のこと、ネッ友のacjさんから戦中のドイツ警察官の集合写真をいただいたのが事の始まりでした。当時いろいろ調べた結果、時期的にこんな事かな? と考察したもので最近になって新しい発見があったので情報を追加しました。 |
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| 1.警察官の写真その1(画像提供:acjさん) 警察官たちのパーティーでの記念撮影の1枚。盛り上がっているこのグループの警察官たちは主に巡査部長(下士官)クラスのようです。 |
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| 背後の壁面のアップです。 「Wir folgen!」(私たちは続く!)の標語と兵士らしき絵が見えます。この場所がどうやら町の酒場などではなく、兵営内の食堂あたりの可能性を示しているようです。よく見ると袖の折り返しが色違いの警察勤務服が描かれていますので、警察関係の施設内のようです。 |
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| A)左から三人目の警察官のアップです。この写真の年代特定のカギとなりそうな人物です。 1.制服 襟の形状が直角に近いことから、制服は1940年型の官給品の警察勤務服で1941年以降に生産されたもののようです。警察の勤務服は陸軍より緑色の濃いブルーグリーンで、8つボタンである点と、襟と袖口の折り返し部分が濃いダークブラウンの生地となっているのが特徴でした。 2.階級章 肩章は星1つと横棒で、階級はRevieroberwachtmeister(上級巡査部長)です。この形式の階級は1941年4月から導入されており、すくなくともそれ以降の時期であることがわかります。上級巡査部長は陸軍の階級でいうとFeldwebel(曹長)に、武装SSでいうとSS-Oberschafuhrer(上級小隊指揮官)に相当します。 3.SSルーン(ジークルーン) 全国の警察組織は1936年6月からNSDAP(ナチス党)の党内組織である親衛隊の管轄下に取り込まれ、国家組織である警察と党組織である親衛隊は渾然一体となってゆきました。その後、SS全国指導者でありドイツ警察長官でもあるヒムラーは両組織の融合をさらに進めるため、1943年ごろから警察官が親衛隊にも登録することを推奨し、二重登録した警察官は左胸ポケットの下にモール刺繍によるジークルーンを着用しました。 4.ドイツスポーツ技能章(または体力検定章) 不鮮明で今ひとつはっきりわかりませんが、左胸ポケットに着用しているのはドイツスポーツ技能章(または体力検定章)であるように見えます。 |
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| B)左から四人目の警察官のアップです。 1.階級章 肩章が見えにくいのですが、星1つと横棒で、階級はRevieroberwachtmeister(上級巡査部長)です。 2.ドイツスポーツ技能章(または体力検定章) 上記の警察官と同様に不鮮明で今ひとつはっきりわかりませんが、左胸ポケットに着用しているのはドイツスポーツ技能章(または体力検定章)であるように見えます。 |
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| C)左から二人目の警察官のアップです。 1.階級章 階級はUnterwachtmeister(下級巡査)です。 |
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| D)左端の警察官のアップです。 1.階級章 階級はAnwärter(候補生)で、配属されたばかりの一番下っ端のようです。 2.襟章 襟章の色が他の警察官(例えばC)と比較して濃い色に見えますが、この違いを説明できる適当な資料を生憎と持ち合わせていません。 3.ポリツァイ・イーグル 襟章と同様に左腕のポリツァイ・イーグルの色が下の写真のイーグルと比較して濃い色に見えるのに注意。こちらは都市防備警察の下士官・兵用のもので、円形の台座にライトグリーンのポリツァイ・イーグルが刺繍されていました。 |
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| E)手前の人物のアップです。 制帽に注目。なぜか警察ではなくて真新しい「武装SS」の制帽です。制服の方は襟元の感じはどうやら普通の警察勤務服であるように見えます。写真には写っていませんが武装SSから派遣された教官がいるのかもしれません。 |
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| 2.警察官の写真その2(画像提供:acjさん) 上の写真のやや右よりの位置での撮影。こちらの5人グループは先ほどのグループよりも偉いサンの様子。左から二人目の警察官の階級はRevierleutnant der Schutzpolizei(都市防備警察の警察少尉)、右から二人目はRevieroberleutnant der Schutzpolizei(都市防備警察の警察中尉)です。なぜ都市防備警察かは後ほど出てきます。 下士官たちの制服に比べて皺が少なく、制服の仕立てが良いことがわかります。士官になると各自テーラーメイドで制服をオーダーすることができました。 そして右から二人目の警察官の左袖にある見慣れない袖章に注目!。一見外国人義勇兵の国籍シールドにも見えるこの袖章の正体は「植民地警察」の「Kreus des Sudens」(南十字星)と呼ばれる袖章です。資料のイラストでは見ていましたが、実際の着用写真は今回始めて拝ませてもらいました。 |
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| F)右から二人目の警察中尉殿のアップです。 1.植民地警察章 ドイツは第1次世界大戦の敗戦によりアフリカ東海岸と西海岸、中国大陸(青島)および太平洋の島々にあった海外植民地のすべてを失いました。 これらの「失われたドイツ領土」の回復はヒトラー・ナチス党の重要政策の一部であり、国民に人気のある「公約」でもありました。1935年、ナチス党のプロバガンダ政策の一環として、伝統ある「植民地警察」の名称が「名誉称号」として都市防備警察に与えられることとなり、次の3つの都市防備警察と国家警察集団「ゲネラル・ゲーリング」に対して与えられました。 ・ハンブルグ都市防備警察=青島(Kiautschau)警察 ・ブレーメン都市防備警察=南西アフリカ警察(現在のナミビア) ・キール都市防備警察=カメルーン警察 ・ベルリンの国家警察集団「ゲネラル・ゲーリング」の第1中隊=東アフリカ警察(現在のタンザニア)→1938年11月からベルリン都市防備警察の騎馬中隊に引き継ぎ これらの警察署員は左袖の袖口に「Kreus des Sudens」(南十字星)の袖章を着用しました。1938年になると「植民地警察」の名誉称号の付与範囲は縮小され、各都市防備警察の中の儀丈中隊の名称として引き継がれ、これに伴い袖章の着用も儀丈中隊の警察官のみに縮小されました。国家警察集団「ゲネラル・ゲーリング」については部隊が警察から空軍に移管され連隊「ゲネラル・ゲーリング」となってからも騎馬小隊が着用しましたが、1938年11月、制式にベルリン都市防備警察の騎馬中隊に称号が引き継がれました。 2.略綬 2個の略綬を佩用していますが、残念ながら種類についてははっきりとしません。左胸ポケットに見えるピンの痕のように見える影は勲章を取り付けるためのループの影です。 3.ポリツァイ・イーグル 左腕のポリツァイ・イーグルは士官用のシルバーグレイで、フラッシュ(?)のせいもあって明るい色に写っています。 |
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| G)左から二人目の警察少尉殿のアップです。 先ほどの巡査部長たちの表情に比べて、こちらの士官クラスの表情がこころなしかさえないように見えますが、気のせいでしょうか。1943年以降という年代推定が正しいならば、あるいは彼らにも外地出動の順番が回ってきた・・・というわけかもしれません。妄想が膨らみます(笑) |
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| ここにも登場しました。B)の警察官と同一人物と思われます。あるいはこの写真の持ち主か? 前の写真でははっきりしなかった階級章が星1つと横棒で、階級はRevieroberwachtmeister(上級巡査部長)だとわかります。 |
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| 3.警察官の写真その1の裏面(画像提供:acjさん) 最初に紹介した巡査部長(下士官)クラスの警察官写真の裏面には下のようなスタンプが押されていました。 この写真の撮影時期や場所を推定するのに、この裏面のスタンプは今のところ唯一の手がかりです。当時の写真事情については詳しい知識があるわけではありませんが、一般的な工業表記の法則に沿って一応下記のように推定してみました。 「L.E.HARTWIG:S-KA」=印画紙の製造者または製造会社名 「000696」=製造ロット番号 「LUBLIN,KAPUCYNSKA2」=製造者または製造会社の所在地 この写真の印画紙がポーランドの「ルブリン」で製造されたらしいことが推定できます。そこで、「地元で製造された印画紙を使用」して「警察署内部で焼付けが行われた」との前提により以下の推定を進めてゆきます。 |
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| 4.ルブリン(ポーランド) 1939年9月のポーランド占領以後、ルブリンは「総督府」の地域内となり、クラクフに置かれた高級SS及び警察指導者「オスト」の下に、SS及び警察指導者「ワルシャワ」、SS及び警察指導者「クラクフ」、SS及び警察指導者「ラドム」、SS及び警察指導者「レンベルグ」、SS及び警察指導者「ルブリン」の各司令部が設置され警察部隊が駐屯しました。 1943年から1944年にかけてポーランドのルブリンに駐屯していた警察部隊は第25警察連隊の3個大隊(第65、第67、第101警察大隊)と警察騎馬中隊「ルブリン」(1944年9月にルブリンにて編成)及び警察砲兵大隊「ルブリン」(1944年8月にルブリンにて新編成)がありました。 このうち第25警察連隊の3個大隊はドイツ国内の警察管区で編成された大隊であり、第65警察大隊とは第67警察大隊は共に第6警察管区(各警察管区は国防軍の軍管区とほぼ対応)のレークリンクスハウセン(Recklingshausen)とエッセン(Essen)で編成され、第101警察大隊は第10警察管区のハンブルクで編成されました。そして、前項のようにハンブルク警察は青島の植民地警察に指定されており、第101警察大隊の可能性が一番高そうです。 |
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| 5.第101警察(予備)大隊 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻を開始し戦端が開かれました。開戦に伴い警察部隊が動員されて戦線後方での捕虜の駆り集めや武器の収拾、捕虜収容所の警備任務に従事しました。第101警察大隊は第10警察管区のハンブルクの警察官により編成され、第10軍に配属されてシレジアのオペルンからポーランド国境を越えチェンストホヴァ経由キェルツェまで進出して現地に駐屯しました。 1939年12月17日、大隊はハンブルクに帰還し警察大隊拡大のための編成替えが行われました。大隊から約100人の職業警察官が新設部隊の要員として転任となり、代わりに1939年の秋に予備役から召集された中年の予備警察官が配属され、大隊は第101警察予備大隊となりました。 1940年5月、大隊はハンブルクからポーランドのヴァルテガウ地区へ派遣され、6月下旬までポーゼン(ポズナニ)、リッツマンチュタット(ウッチ)に駐屯しました。 1941年5月、大隊はハンブルクに帰還し、ここで古参の下士官以下の警察官はすべて他の部隊に転出となり、補充はすべて予備役から応召した予備警察官で行われました。1942年6月まで本国で訓練を行った大隊は1942年6月20日にポーランドへの出動命令を受け、6月25日にルブリン近郊のザモシチに到着しました。 1942年から43年の冬の間に比較的年齢の高い者(1898年以前の生まれ、44歳以上)はドイツ本国へ帰還し、替わりに補充要員を受け入れましたが、このときにはハンブルク地区からの要員が不足したためベルリン地区からの補充要員が第2中隊に編入されました。 1943年11月以降大隊の任務は対パルチザン作戦が主任務となり大隊の戦死者も急増しました。大隊は1944年6月8日から23日までのパルチザン掃討作戦に参加した以降は大きな作戦には参加しておらず、ソ連軍の接近に伴いドイツ本国へ撤退したようですが詳細は不明です。 それでは写真をもう一度見てみましょう。 この警察官たちは比較的若いようですから、1942年から43年の冬の間に補充要員として大隊に到着した補充要員たちかもしれません。一番可能性のありそうな状況としては「ハンブルク警察の警察学校などの訓練施設内での交代要員たちの壮行会で撮影され、ルブリン到着後に写真に焼付け配布された。」というところですが、実際はどうだったんでしょうか。 |
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| 6.写真の裏面スタンプの再考察(追加) ・LUBLIN,KAPUCYNSKA2=製造者または製造会社の所在地 この住所をググってみると、あっさり出てきました(笑)便利になったもんですね~ ルブリン・カプチンスカ通り2番地 |
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| そして下記ページには1939年9月の空襲でのカプチンスカ通りの被災写真が掲載されています。 |
![]() カプチンスカ通りの集合住宅の被災状況 |
![]() 「ホテルビクトリア」の1939年9月の被災状況 |
| 当時カプチンスカ通りとクラクフスキエ・プシェドミエシチェ通りの角にあった「ホテルビクトリア」は1945年までの戦災で完全に破壊されたため廃業しました。写真の左手側がカプチンスカ通り。 ↓・カプチンスカ通りの被災状況 https://teatrnn.pl/lublin-fotografia/ulica-kapucynska/ へのリンク ↓・ホテルビクトリアの被災状況 https://teatrnn.pl/lublin-fotografia/hotel-victoria-dawny/ へのリンク なんと、1935年当時のカプチンスカ通りにあった店舗が調査されており、地図には廃業した「ホテルビクトリア」も記載されています。 ↓・1935年当時のカプチンスカ通りの地図 https://teatrnn.pl/miejsca/miejsce/lublin-ul-kapucynska-2/ へのリンク |
| ・L.E.HARTWIG:S-KA=印画紙の製造者または製造会社名 これはちょっとした工夫が必要でしたが「L.E.HARTWIG」の部分は二人の人名らしいことがわかりました。 「L.」の部分は「Ludwik」のようで、Ludwik Hartwig氏はポーランドの写真家さんで1928年にルブリン写真家組合の共同設立者となり、1939年9月のドイツ軍による爆撃後は市議会の依頼を受けて市内の被害状況を記録する写真を多数撮影していました。 https://pl.wikipedia.org/wiki/Ludwik_Hartwig へのリンク Ludwik Hartwig氏とEdwardの写真スタジオがホテル・オイロペスキー(Hotelu Europejskim)現ホテル・ヨーロッパのテナントとして出店していましたが、ドイツ軍の爆撃でホテル・オイロペスキーと写真スタジオが被災したため、ホテル近くのカプチンスカ通り2番地の仮店舗で写真館を開き、1942年には占領下のルブリンでの写真家組合の共同設立者となりました。 |
![]() ホテル・オイロペスキーの中庭の破壊状況 |
![]() ホテル・オイロペスキーの中庭にあったハートウィグ氏の写真館 |
| 「E.」の部分は「Edward」のようで、Edward Hartwig氏はLudwikの息子さんで父親同様にポーランドの写真家さんでした。1932年にホテル・オイロペスキーにあった父親の写真スタジオを引き継ぎましたが、ドイツ軍の爆撃でホテル・オイロペスキーと写真スタジオが被災したため戦前の作品と写真機材のほとんどが失われてしまい、ホテル近くのカプチンスカ通り2番地の仮店舗で写真館を経営していました。 https://pl.wikipedia.org/wiki/Edward_Hartwig へのリンク 占領期間中の写真館は『Skład Przyborów Fotograficznych Edward Hartwig i S-ka』エドワード・ハートウィグ写真用品店という名で登録されていました。写真裏面のスタンプ「L.E.HARTWIG:S-KA」とは少し表記が違うのですが、あるいは戦前の表記をそのまま使用していたのかもしれません。 |
![]() カプチンスカ通り2番地の仮店舗 |
| ・カプチンスカ通りの周辺地図 https://teatrnn.pl/leksykon/artykuly/przewodnik-po-lublinie-lublin-hartwigow/#mapa-szlaku へのリンク ・カプチンスカ通り2番地の仮店舗 https://teatrnn.pl/leksykon/artykuly/przewodnik-po-lublinie-lublin-hartwigow/#kapucynska-2 へのリンク ・1939年9月の空襲による被災状況の写真 https://teatrnn.pl/lublin-fotografia/lublin-po-bombardowaniu-9-ix-1939-r/ へのリンク 警察と写真は切っても切れない関係で、Ludwik Hartwig氏は写真家組合の役員をしていたことでもあり、警察の指定業者的な関係もあったかもしれません。というわけで、最初は「警察部内で現地の印画紙で焼き増し」と考えていたのですが、焼き増しの枚数を考えるとルブリンの駐屯地でHartwig氏の写真スタジオに焼き増しを発注した可能性もありますね。 |
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| 以下の2枚は焼付け時の汚れや指紋跡などの特徴が同一とのことで、少なくとも同時に焼付けされた可能性が高いとのこと。 |
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| 7.警察官の写真その3(画像提供:acjさん) パーティーの音楽演奏に狩り出された「音楽隊」の警察官たち? |
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| 8.警察官の写真その4(画像提供:acjさん) 余興の出し物でもあったのでしょうか。状況不明の1枚(笑) |
2006.10.31 新規作成
2020.6.5 構成を変更して再掲
2025.5.14 構成を変更
2026.2.23 写真館の情報を追加、Noteに投稿