白ロシア(ベラルーシ)の警察関係部隊

(白ロシア)シューマ大隊
ベラルーシ郷土防衛軍
警察旅団
武装SS

シューマ大隊の概要

 1941年11月6日、SS全国指導者兼警察長官であるヒムラーは、ソ連各地で親独的な住民からなる治安維持部隊の設立を命じ、これらの部隊はシューマ(補助警察部隊)と呼ばれ、大隊を基本単位として編成されました。シューマ大隊の標準的な編成は大隊本部(指揮官、副官、兵10名合計12名)と4個中隊(1個中隊:3個小銃小隊、1個機関銃小隊、合計124名)からなり、1個大隊の兵力は合計508名となっていました。このうち、大隊本部の12名と各中隊の将校2名と下士官18名はドイツ国籍を持つ事が規定されていました。
 高級SS及び警察指導者「中央ロシア」の管轄地区である「白ロシア行政区」と中央軍集団後方地域司令部のベラルーシでは次のような12個大隊の編成が確認されていますが、編成時期不明の部隊も多く、いつごろから編成が開始されたかははっきりしていません。またこの他にもモギリョフには「モギリョフ外国人シューマ警察下士官学校」も開設されていました。


(白ロシア)シューマ大隊

第45(白ロシア)シューマ大隊 1943年9月編成
第46(白ロシア)シューマ大隊 1942年7月編成
第47(白ロシア)シューマ大隊 1942年7月編成
第48(白ロシア)シューマ大隊 1942年7月編成
第49(白ロシア)シューマ大隊 1942年9月編成
第56(白ロシア)シューマ砲兵大隊/シューマ砲兵(予備)大隊 編成時期不明
第60(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
第64(白ロシア)シューマ大隊 1944年2月編成
第65(白ロシア)シューマ大隊 1944年2月編成
第66(白ロシア)シューマ大隊 1944年2月編成
第67(白ロシア)シューマ大隊 編成時期不明
第69(白ロシア)シューマ大隊 1944年3月編成


第45(白ロシア)シューマ大隊
1943年9月バラノヴィッチ(ベラルーシ)にて編成。1944年1月時点でバラノヴィッチ地区に駐屯してパルチザン掃討作戦に従事。 ※「第45」はエストニアでもシューマ大隊が編成されたが、ドイツ側の記録の混乱により重複して割り当てられた模様。

第46(白ロシア)シューマ大隊 
1942年7月ミンスク(ベラルーシ)にて編成。 1943年3月ミンスク(ベラルーシ)に駐屯。 1943年4月ノヴォグロデク(ベラルーシ)に駐屯。 1944年2月ミンスク(ベラルーシ)に駐屯。

第47(白ロシア)シューマ大隊/(ウクライナ)シューマ大隊
1942年7月ミンスク(ベラルーシ)にて編成。 1943年4月~6月ミンスク(ベラルーシ)に駐屯。 1943年11月SS及び警察指導者「白ロシア」の下でパルチザン掃討作戦に参加。 1944年1月ミンスクでウクライナ人義勇兵により改編。 1944年4月19日SS及び警察指導者「白ロシア」の下でパルチザン掃討作戦に参加。 1944年7月「SS旅団ジークリング」に編入。 1944年8月18日旅団を母体として「SS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)」に拡大。

第48(白ロシア)シューマ大隊 
1942年7月ミンスク(ベラルーシ)にて編成。 1943年11月SS及び警察指導者「白ロシア」の下でパルチザン掃討作戦に参加。 1944年1月~2月治安警察指揮官「白ロシア」の下でスロニム(Slonim)に駐屯。 1944年4月19日SS及び警察指導者「白ロシア」の下でパルチザン掃討作戦に参加。

第49(白ロシア)シューマ大隊 
1942年9月ミンスク(ベラルーシ)にて編成。 1943年4月ミンスク(ベラルーシ)に駐屯。 1943年11月SS及び警察指導者「白ロシア」の下でパルチザン掃討作戦に参加。 1944年1月~3月ミンスク(ベラルーシ)に駐屯。 1944年4月19日SS及び警察指導者「白ロシア」の下でパルチザン掃討作戦に参加。

第56(白ロシア)シューマ砲兵大隊/シューマ砲兵(予備)大隊
編成時期不明。 1943年2月パルチザン掃討作戦「Hornung」に参加。 1943年4月ミンスク(ベラルーシ)に駐屯。 1943年11月SS及び警察指導者「白ロシア」の下でパルチザン掃討作戦に参加。 1944年1月第56シューマ砲兵(予備)大隊と改称。兵力217名でスミリヴィッチ(ミンスクとボリソフの中間)に駐屯。 1944年4月16日~5月21日ポロツク(Polotsk)近郊のウシャチ(Ushachi)地区でのパルチザン掃討作戦「春祭り(Frühlingsfest)作戦」に参加。 1944年7月SS旅団「ジークリング」に編入。 1944年8月18日旅団を母体として「SS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)」に拡大。

第60(白ロシア)シューマ大隊 
編成時期不明。 1943年11月SS及び警察指導者「白ロシア」の下でパルチザン掃討作戦に参加。 1944年1月スノフ(バラノビッチの東北東)に駐屯。 1944年4月19日SS及び警察指導者「白ロシア」の下でパルチザン掃討作戦に参加。 1944年7月SS旅団「ジークリング」に編入。 1944年8月18日旅団を母体として「SS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)」に拡大。

第64(白ロシア)シューマ大隊 
1944年1月~2月グレボキエ(白ロシア)にて編成。 1944年7月SS旅団「ジークリング」に編入。 1944年8月18日旅団を母体としてSS第30武装擲弾兵師団「ロシア第2」に拡大。

第65(白ロシア)シューマ大隊 
1944年1月~2月ノボグロデク(白ロシア)にて編成。 1944年7月SS旅団「ジークリング」に編入。 1944年8月18日旅団を母体として「SS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)」に拡大。

第66(白ロシア)シューマ大隊 
1944年1月~2月スルツク(白ロシア)にて編成。 1944年3月中央軍集団戦区で防衛戦に投入。

第67(白ロシア)シューマ大隊 
1944年2月に編成されたのと資料と1944年1月ヴィレイカ(Vileika)に駐屯との資料があり詳細不明。1944年7月に「シューマ旅団ジークリンク」に編入され、8月には「SS第30義勇擲弾兵師団(ロシア第2)」に編入。

第69(白ロシア)シューマ大隊 
1944年3月に編成されたとの資料と1944年1月に白ロシアの中央軍集団戦区で防衛戦に投入されたとの資料があり詳細は不明。


ベラルーシ郷土防衛軍
Bielaruskaja Krajovaja Abarona(B.K.A.)
 1942年6月29日、クーベの命令により「郷土防衛軍」の設立が提案され、3個師団から成る軍団規模の部隊編成が開始されました。この軍団の存在は玉虫色で、ドイツ側からすると後方の治安維持部隊であり、「中央会議」側にとっては将来の自治政府樹立後の国軍の中核となる軍団と考えられました。
 こうして「ベラルーシ郷土防衛軍」は約15,000名により20個大隊が編成されましたが、御多分に漏れず制服をはじめ装備・武器の調達は困難であり、旧ポーランド軍の制服やソ連製兵器を装備していればよいほうで、大半は私服に雑多な捕獲兵器を装備するのがやっとというのが現実でした。その後ベラルーシにおける当面の自治政府樹立が否決されると「郷土防衛軍」は1943年4月までに解隊され、ベラルーシ郷土防衛軍の兵員は警察部隊や鉄道警察部隊に再配備されました。
 クーベの後任となった高級SS及び警察指導者「中央ロシア」(代理)のクルト・フォン・ゴットベルクSS中将が任命され、ベラルーシをめぐる状況は転換しました。フォン・ゴットベルクSS中将は1943年12月21日に「ベラルーシ中央評議会」を設立すると自治政府樹立を餌に「国民軍」設立に奔走し、まずは1944年2月23日には「国民軍」の前身となる「ベラルーシ郷土防衛軍」(Bielaruskaja krajovaja abarona=BKA)が再建されました。

 1944年3月6日になると「白ロシア行政区」内で1908年~24年生まれの男子への一般動員が始まり、これにより約4万人が7つの都市に設置された求人局に申告しました。このうちから28,000名が選抜されて3月26日にミンスクで宣誓式が行われ、司令官にはイヴァン・ヤーマチェンカが就任しました。1944年3月31日、45個大隊の訓練が開始されましたが、パルチザンの潜入を警戒して武器の使用は訓練時のみに限定されるなどの制限が加えられました。また部隊の編成にあたってもすでにSSから将校を派遣する余裕はなく、ベラルーシ警察から将校と下士官が編入されました。それでも4月までには21,629名により34個大隊が編成され、さらに白ロシア警察大隊5個も追加編成されました。
 1944年2月~3月には第64~67及び第69(白ロシア)シューマ大隊が編成されており、この5個大隊は「ベラルーシ郷土防衛軍」の要員から編成された5個の「白ロシア警察大隊」と同一の可能性もありますが、確定的な資料がなく断定はできません。


・第1ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第2ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第3ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第4ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第5ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第6ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第7ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第8ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第9ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第10ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第11ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第12ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第13ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第14ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第15ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第16ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第17ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第18ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第19ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第20ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第21ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第22ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第23ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第24ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第25ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第26ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第27ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第28ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第29ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第30ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第31ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第32ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第33ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明
・第34ベラルーシ郷土防衛大隊 編成時期不明


 1944年6月中旬、ミンスクに「B.K.A士官学校」が開設され、6月27日には「ベラルーシ中央評議会」に1,039名の地方代表を集めて全体会議が少数され、「自治政府樹立」と「国軍設立」の方向性が承認され、占領地域において画期的な出来事となりました。

 しかし、1944年6月22日にソ連軍の「バグラチオ作戦」が開始されると状況は一気に暗転しました。ソ連軍の攻撃により7月3日に首都ミンスクが陥落し、「ベラルーシ中央評議会」はポーゼン(Posen)へと退避して「(亡命)ベラルーシ中央評議会」となり、その後ベルリンへと移動しました。一方「B.K.A士官学校」はケーニヒスベルクに退避し、1944年11月にはベルリンに移動し「ベラルーシ郷土防衛軍(BKA)国民第1大隊」へと再編されました。
 ベラルーシ郷土防衛大隊はシューマ大隊とともに主としてパルチザン掃討作戦に投入され、その後は防衛戦にも投入されましたが一部のみが西方に撤退してシューマ旅団「ジークリング」に編入されました。


警察旅団

シューマ旅団「ジークリング」

 1944年7月11日、高級SS及び警察指導者「中央ロシア」は6月の中央軍集団戦線の崩壊を生き残ったシューマ大隊を統合して1個シューマ旅団の編成を命じました。
 指揮官にはSS及び警察指導者「プリピャチ」であったジークリングSS中佐兼警察少佐が任命され、この旅団はシューマ旅団「ジークリング」と命名されました。
 高級SS及び警察指導者「中央ロシア」は司令部を当初は白ロシア(現在のベラルーシ)のモギレフに、その後はミンスクに置いていましたが、中央軍集団戦線の崩壊に伴いこの時期にはオストプロイセンまで後退してきており、この後8月には解散する運命にありました。ドイツ軍と共に後退してきた各シューマ大隊は迫害を恐れて同行した家族と共にワルシャワ北方地区に集結し、旅団の編成作業が開始されました。
 旅団の兵力は約1万名で旅団の兵器と装備はそのほとんどがソ連軍からの鹵獲品でしたが、制服だけは従来のシューマの黒色の制服に替えて治安警察部隊のポリツァイグリーンの制服が支給されました。


シューマ旅団「ジークリング」に編入された主な部隊

・第47(ウクライナ)シューマ大隊の残余
・第56(白ロシア)シューマ砲兵大隊
・第57(ウクライナ)シューマ大隊
・第60(白ロシア)シューマ大隊
・第61(ウクライナ)シューマ大隊
・第62(ウクライナ)シューマ大隊
・第63(ウクライナ)シューマ大隊
・第64(白ロシア)シューマ大隊
・第65(白ロシア)シューマ大隊
・第66(白ロシア)シューマ大隊
・第67(白ロシア)シューマ大隊
・第68(コサック)シューマ騎馬大隊
・第101(ウクライナ)シューマ予備大隊
・シューマ教育大隊「Uretschje」

・第23ベラルーシ郷土防衛大隊
・第24ベラルーシ郷土防衛大隊
・第34ベラルーシ郷土防衛大隊

・ミンスク地区警察部隊
・グレボギー地区警察部隊
・レダ地区警察部隊
・スルツク、バラノヴィーチ、ヴィレイカ警察部隊
・スモレンスク、モギリョフ地区治安警察部隊
・スロニム地区警察部隊
・SS及び警察指導者「プリピャチ」司令部
・SS及び警察指導者「プリピャチ」砲兵大隊
・第23SD警戒大隊
・白ロシア地方防護警察指揮官(K.d.G. Weiβruthenien)司令部の残余約700名


武装SS

シューマ旅団「ジークリング」
SS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)

Schutzmannschafts Brigade “Siegling”
30.Waffen Grenadier Division der SS (russische Nr.2)

 シューマ旅団「ジークリング」は訓練の一環としてパルチザン掃討作戦に投入されたところ、意外な戦闘力を発揮したことから1944年8月1日、旅団は警察から武装SSに移管され、8月18日付けで「SS第30武装擲弾兵師団(ロシア第2)」への拡大・再編成が下令されました。
 師団は編成命令が出された時点でフランスへの移送が決定していましたが、ベラルーシ義勇兵にとっては祖国奪回こそが使命であり、縁もゆかりもないフランスでレジスタンス相手に戦えと言うのは土台無理な注文で、この時点で早くも脱走兵が相次ぐ事態となりました。また、ベルリンの「BKA士官学校」は「ベラルーシ郷土防衛軍(BKA)国民第1大隊」へと再編成されて師団の予備大隊として編入されたと言われますが、実態はよくわかっていません。
 その後脱走、兵士の選別、再編成を繰り返しましたが、自由フランス軍などとの戦闘で大損害を被って戦線から引き上げられ、11月29日に至り「戦闘不能」と判断され師団は解隊されました。兵士のうち約1,000名はウラソフ将軍の第600歩兵師団「ロシア」の補充要員となり、その他はSS第25武装擲弾兵師団「フンニャディ」などに編入されました。

SS武装擲弾兵旅団(白ロシア第1)
Waffen Grenadier Brigade der SS (Weiβruthenische Nr.1)

SS武装擲弾兵旅団(白ロシア第1)はドイツ人部隊とベラルーシ義勇兵により編成されましたが兵力は約1,800名であり、「ベラルーシ中央評議会」から「ベラルーシ共和国政府」に格上げとなった亡命政府への政治的配慮の意味合いが強く、ついに「白ロシア」の名前を冠した戦闘部隊が誕生したものの戦力的には当てになりませんでした。


SS武装擲弾兵旅団(白ロシア第1)
Waffen Grenadier Brigade der SS (Weiβruthenische Nr.1)

旅団本部
SS第75武装擲弾兵連隊(白ロシア第1):3個大隊
SS乗馬中隊
SS戦車猟兵中隊
SS砲兵大隊
SS野戦補充大隊


 ベラルーシ共和国大統領となったオストロフスキーは「ベラルーシ独立」の独自路線を選択しており、旅団がウラソフ将軍の「ロシア解放軍」と合流することはありませんでした。1945年3月9日には旅団は名称だけ「SS第30武装擲弾兵師団(白ロシア第1)」と改称され、唯一の連隊はSS第75武装擲弾兵連隊「白ロシア第1」となりました。しかし、4月になると師団は解隊され、大部分はグラーフェンヴェール演習場でアメリカ軍に降伏しました。
 一部戦闘可能な残存兵力から警察大隊「ジークリング」が編成され、第38SS擲弾兵師団「ニーベルンゲン」とともにドナウ河での防衛戦に投入されましたが、この大隊にベラルーシ義勇兵が含まれたかどうかはわかりません。大隊はケールハイムで4月21日から4月26日まで戦闘を行った後に撤退し、5月にヘレン・キムゼー付近でアメリカ軍に降伏しました。


2008.11.1 新規作成
2022.1.29 白ロシア(ベラルーシ)の警察関係部隊を分離し修正・追記
2023.10.16 ベラルーシ郷土防衛軍を追加

泡沫戦史研究所http://www.eonet.ne.jp/~noricks/