のじり俊明 市民ふれあいトーク

「宝塚の歴史と文化財」


■最古の宝塚市民

 宝塚の歴史はどれぐらい古いのでしょうか。人間が確実に宝塚の中に足跡を残したのは、今から1万年前くらい前です。仁川の高丸から出土した石製の槍を見ますと、それを使っていた年代がほぼ1万年くらい前だということがわかります。そのあとも、縄文時代のものである縄目模様のついた土器が一部出たり、その当時使われていた石の矢じりなどが安倉とか、また西谷の一番北の方の香合新田(こうばこしんでん)という所から出ております。
 もう少し時代が下がりますと、弥生時代が来ます。この時代は今我々が食べているお米が最初に日本に入ってきた時代です。西暦紀元前の300年ごろです。その弥生時代、お米を作った時代の土器などが市内でも沢山出ています。例えば仁川の周辺、売布、中山荘園などです。つい数年前、島根県で銅鐸というものが出ました。銅のベルです。それが30いくつか出てきたということで大騒ぎになりましたが、あれと同じぐらいの時代の銅鐸が。宝塚の中山荘園という所で出ています。宝塚にも非常に古くからいろんな文化があったということがわかります。


■「宝塚」の地名のいわれ 古墳の町・宝塚『摂陽群談』

 宝塚という名前がどうしてついたのか、ご存知ですか。宝塚について一番最初に説明された『摂陽群談』の中に、宝塚という古墳が川面村にあると書かれています。そこの塚の根元で物を拾ったら必ず幸せになれると書かれているのです。川面の字宝塚という所、今の御殿山にあたります。今はその古墳の所在はわかりません。江戸時代から300年ほどたっていますから、わからなくなっています。ただそこに宝塚という字名が残っているのです。
 明治になったとき、宝塚に冷泉が出ました。その温泉に宝塚という名前をつけたわけです。それから宝塚という町になりました。それともう一つは、大正時代になって歌劇が出来ました。その歌劇の名前にも宝塚という名前がつけられたのです。その後、歌劇がどんどん有名になってくる、温泉もだんだん有名になってくす。それで宝塚が日本だけでなく全世界に知られるようになったわけです。非常に珍しくて良い名前です。
 宝塚という地名は全国中にいくつかあります。これは古墳の名前ですから、宝物が出た古墳には宝塚という名前がついている所があります。岡山や広島、奈良、この近くでは能勢にも宝塚という地名があります。しかし、有名になったのはこの「宝塚」だけです。それは歌劇のおかげでもあり、お目出度い名前を残そうと温泉の名前を宝塚とつけた人、町の名前に宝塚とつけた人、みなこの名前を出来るだけ広めようとしたことが、これだけ全世界に有名になった理由でしょう。
 この宝塚の中に今も古墳が200ほど残っています。長尾山丘陵、中山から雲雀丘花屋敷あたり約4キロほどの丘陵が横に長く伸びています。そこに8割くらいの古墳があります。それから仁川の五ケ山あたりにもあります。西谷にも二つほど見つかっています。古墳はその当時の地域の一番偉い人を埋めたお墓なのです。宝塚というのは、非常に沢山の古墳があった所なのです。その中でも、例えば中山寺の中にも物凄く大きな白鳥塚という古墳があります。その少し西方に銅鐸が出た中山荘園があります。そこにも八角形の形をした中山荘園古墳が10年以上前に見つかりました。こんな特殊な形をした古墳が見つかったのは日本ではここだけです。考古学の学会でも宝塚というのはかなり有名な場所なのです。この古墳は国指定の史跡になっています。


■古代の寺院 中山寺と清荒神清澄寺、平林寺

 古墳がだんだん作られなくなってくると、仏教が入ってきます。インドから中国を経て、朝鮮半島から日本へ入って来ました。それで日本の中にお寺がどんどん建てられるようになりました。奈良時代の初め、聖徳太子が仏教を広めました。宝塚市内には一番古いお寺はないのですが、伊丹とか芦屋、尼崎などには伊丹廃寺とか芦屋廃寺とか猪名寺とかいうお寺があります。
 ところが奈良時代の終わりから平安時代になりますと、9世紀から10世紀のころですが、宝塚にもお寺が出来ました。例えば中山寺、清荒神清澄寺です。中山寺は真言宗の中山寺派という宗派の本山です、清荒神は真言三宝宗です。三つの宝とは、仏、法、僧です。これは仏さまと神さまが合体しているお寺です。だから名前が長いのです。
 中山寺は安産の神さまで有名です。ここのご本尊は十一面観音菩薩です。頭の上に11の仏さまの顔がのっているのです。その一番メインになる顔がインドのシュリーマーラという仏さまで、女の人の苦しみを救う神さまです。女の人の一番の苦しみはお産です。それを救うので安産の神様が中山寺だという伝承があるのです。そのほかに中山寺は聖徳太子が建てたという説もあります。それはまだはっきりとわかっていませんが、そういう可能性もお寺の伝承の中にあります。ただ、今の歴史の色んな証拠を調べていくと、中山寺は平安時代、10世紀頃に出来た可能性が最も強いのです。今度の地震で沢山のお寺がつぶれました。今の中山寺はその前にもつぶれているのです。今から400年ほど前に荒木村重という人が、伊丹の殿様で、織田信長と戦争をするはめになり、お寺やほこら等、城として使えそうなものはみな焼かれてしまいました。そのときに中山寺、清荒神、平林寺などはみな焼かれてしまったのです。
 そのあと有名なお寺は豊臣秀吉の息子の秀頼が建て直したのです。京都でも奈良でも。ところが秀頼が建てたのは徳川家康の陰謀だったのです。あちこちにお寺を建てさせお金を沢山使わせ、豊臣家の財産をなくさせようとしたのです。自分の父親、秀吉の菩提を弔うためにお寺を沢山作りなさいと言われてどんどんお寺を作ったのですが、秀頼の財力はなくなりました。豊臣家はこのあとで徳川方と戦争をして滅ぼされるわけです。そういうふうな、日本史と直接関係があることも、この宝塚で起こっています。
 中山寺もこの秀頼の命を受けた片桐旦元によって再建されました。


■摂津多田源氏と多田銀山 中世石造美術の発展

 鎌倉時代から室町時代になりますと、有名な義経とか頼朝の先祖にあたる源満仲が、川西の多田院で初めて源氏のもとになる場所を開きました。彼は摂津守として宝塚一帯も治めました。源というのはもともとは清和天皇から臣に下ってきた人たちです。桓武天皇から臣に下ったのが平家です。武家が源氏と平家にわかれ、それぞれが大きな力を持ちました。このあたりは源氏が治めた場所でした。平家がどんどん力を持ってきて、平安時代の終わり頃を力を持つわけですが、そのあとに勢力を持ってくるのが、また源氏なのです。この時代を鎌倉時代といいます。このころになると、武士は仏教をどんどんとりいれるようになり、色んな石造美術が生まれました。これが宝塚市内の西谷に沢山残っています。
 西谷には三
山城というお城があり、これは戦国時代に荒木村重に加担した佐曽利筑前守が建てたものです。宝塚にも戦国大名がいたのです。


■小浜豪摂寺と街道の発達 西宮街道、有馬街道、京伏見街道、巡礼街道

 もう一つ、小浜には毫摂寺という浄土真宗の大きなお寺があります。このお寺が中心になって出来たのが小浜という町です。これは明応年間(14921500)に建てられたという記録があります。これを中心にして町が出来ました。こういう町を寺内町といいます。この近くでは大阪の八尾、久宝寺、奈良県の今井町など「浄土真宗」のお寺で有名な場所です。別名「一向宗」とも言います。これは戦国大名に対抗した大集団でした。軍事力、政治力、財力もあり、戦国大名と戦争しました。こういう集団のことを「一向宗門徒集団」と言います。その一つが毫摂寺です。小浜をみるとまわりを大堀川にかこまれています。城の名前のような天守、黒鉾などの地名も残っています。これらのことから小浜がお城のような地形だったことがわかります。小浜の毫摂寺も門徒集団が結束して作った自治組織でした。
 江戸時代になると大勢の人が小浜に住むようになりました。これは、交通の便が非常によかったからで、西宮街道、有馬街道、京伏見街道が集まる中心でした。江戸幕府が宿駅として認め、これらの街道を歩く人は必ず小浜を通らなければならない、という決まりでした。それと、参勤交代という制度があり、江戸へ向かう西国大名がみな小浜を通りました。だから小浜には本陣や脇本陣、普通の宿屋、店等が沢山あり、江戸時代に大変栄えました。


■産業の興隆 酒づくり、植木園芸、福箕づくり

 もう一つ、井原西鶴という人がいましたが、彼の著作の中に「小浜流」というお酒の作り方がのっているほど、小浜のお酒作りは有名でした。
 それから少し時代は上りますが、豊臣秀吉がよく有馬の温泉へ湯治に行きましたが、その時は毫摂寺に泊まり、千利休をつれて行き、お茶をたてさせました。お寺の向かいの山中さんは山中鹿之介という戦国大名の末裔ですが、そのお宅にあった玉の井という井戸から水を汲んで、利休がお茶をたてて秀吉に献上したという伝承があります。川面の水飴が有名でそれを秀吉に献上したという記録もあります。
 もう一つ、秀吉に初めは子供がなく、その養子の秀次が毫摂寺に来たときに、寺の二女で亀姫というきれいなお姫様をお妾さんにして連れて帰ったのです。秀吉は自分の実子・秀頼が生まれて、次第に養子の秀次にいろいろと難癖をつけて、秀次を切腹させたのです。秀次の夫人や側室、その子供たちも皆、三条河原で殺されました。その時に亀姫も殺されたのです。それで亀姫の生家の毫摂寺も焼き討ちにあったという悲劇が残っています。
 もう一つ、小浜は大工とか左官業が沢山いる町としても有名で、ここの大工は腕が良いと言われていました。例えば大阪の御堂筋に難波御堂別院という大きなお寺を作るときに小浜の大工さんが行っています。それから京都に天皇がいたころの内裏の蛤御門が江戸から明治になるときに戦争で焼かれましたが、その御門の修理をにし行ったのが小浜の大工さんです。その中には、西村 という小浜大工の棟梁もいました。この人のお墓も小浜にあります。小浜組という大工さんの組合を作り、代官に認められた大きな大工の集団でした。このあたりの大きい寺、神社、いろんな民家には小浜の大工が作ったという記録があちこちに残っています。小浜は宝塚の中心で、一番多いときには千人くらいの人が住んでいました。
 江戸時代にまた、山本の植木が有名になりました。竹に木を継ぐという言葉がありますが、品種改良をした非常に有名な人がおりました。坂上頼泰という人です。この人はもともと豊臣秀吉の家来だったのですが、植木を植え替えるのが非常に上手でした。自分の生まれ故郷の山本に帰り、植木をどんどん品種改良しました。たまたまそのことが秀吉に知られて、 木接太夫という名前をもらいました。大正時代に建てられたこの人の碑が山本駅のすぐ西にあります。東では埼玉県の安行、西では久留米、それと宝塚、これが日本の三大植木の産地と言われます。なぜ宝塚で植木がこんなに盛んなのでしょう。それは六甲山が花崗岩の風化した、水はけのいい土で出来ているのと、気候がよいからです。
 もう一つ、西谷に福箕を作るところがあります。戎・大黒とかおかめの面を箕につけたものを福箕と言い、西宮のえべすさんのときにこれを縁起物として出すのです。江戸時代からずっと現在まで伝統産業として続いています。
 もう一つ、宝塚の真中あたりに中筋という所がありますが、ここでもいいお米がとれ、質の良いお酒を作っています。例えば、小池治右衛門という人はお酒の株を三千株持っていました。これは物凄く沢山お酒を作っていたという証拠です。それからもう一つ中筋の少し北に松尾神社がありますが、京都の松尾大社の末裔です。松尾神社はお酒の神様です。宝塚でもお酒の神様を祭って沢山お酒を作っていたのです。
 宝塚は一揆があまりないところでした。天領(幕府直轄領)が多く平和だったのです。ただ、江戸時代の一番終わりころになると、おかげ参りといって伊勢へお参りするのですが、その時に色んな町に大勢の人が台風のように通ったあとがあり、打ち壊しのあともみられます。
 中山寺は西国三十三カ所の観音霊場の二十四番札所です。二十三番は箕面の勝尾寺です。二十五番は加東郡社町の清水寺です。この寺へ行く途中に中山寺があり、寺からずっと伸びている道を巡礼街道といいます。もともとこの西国三十三番札所というのは那智の青岸渡寺から岐阜の華厳寺まで順番に近畿一帯をまわるルートなのです。それで中山寺にお参りする人が、江戸時代には物凄く多かったのです。寛文8年(1668年)に中山へ行く道筋を書いた道標がありました。これは兵庫県で見つかっている道標で一番古いもので、安倉にあります。全国でも8番目に古いのです。安倉に昔、姥ケ茶屋というのがあり、その角に道標がありました。江戸時代の初めころからだんだん、一般の人がお寺巡りをするようになったということがわかります。宝塚市内に今現在、道標が88残っています。こんなに多いところは珍しいです。この中の6割くらいが中山寺へ行くための道標です。江戸時代からいろんな人が宝塚へ入ってきたということがわかります。


■温泉のまち宝塚 都市交通基盤の整備・観光都市宝塚

 明治になると、宝塚に温泉が見つかりました。宝塚の一番西の方に湯本台という所がありますが、そこが最初に小佐治豊三郎という人が温泉を発見し、大阪衛生試験所で調べてもらった結果、冷泉ですが温泉に間違いないということがわかり、分銅屋という旅館を建てました。明治19年です。それで初めて宝塚に温泉を開き、「宝塚温泉」という名をつけ、有名になりました。     そのあと、日本の歴史の中では、日清とか日露の戦争が起こります。その時代に大阪からずっと北の方の舞鶴まで鉄道を敷こうという動きがあった。これを別名「阪鶴鉄道」と言います。これが今のJRの宝塚線、別名福知山線のもとになったものです。ここに鉄道を敷いたのは舞鶴に軍港があったからで、兵隊さんや物資を積んで中国やシベリアへ運んだのです。
 箕面と有馬を結ぶ線、箕面有馬電気軌道というルートも作ろうとしているのです。これが今の阪急の宝塚線のもとになっています。


■宝塚少女歌劇団の成立 
    大正ロマンティズムの開花・アミューズメントパークとリクエーション都市

 小林一三という人が阪急を開いて、そこに温泉があってプールがあったのですが、プールが不人気だったので、その上に板を敷いて劇をしたのです。大正3年のことです。一番最初の劇の演題が「ドンブラコ」といって桃太郎さんのお話です。これを初めて女性ばかりでやりました。これが宝塚少女歌劇の始まりです。今から80年くらい前のことです。これが評判がよくて宝塚を有名にしました。戦後でも「モンパリ」とか最近では「ベルサイユのバラ」など何度かブームになりました。
 それともう一つ、宝塚は戦争のとき一部だけ空襲に遭っています。仁川に鹿塩という所がありますが、今の阪神競馬場がある所に川西航空機という飛行機を作る会社があったのです。これはあとで新明和重工という会社になりますが、そこに工場があったので、米軍によって爆撃されたのです。その近くの鹿塩の人たちが何人か爆撃で亡くなられました。そんな歴史もあります。
 もう一つ忘れてならないのが、雲雀丘から山本、中洲のあたりにかけて、早くから小林一三さんのやり方で住宅地を作っています。大阪へ働きに行く人のために住宅を作ってそれを結ぶルートを開発して阪急を作りました。
 大正時代から昭和の初めにかけて、このあたりに沢山の住宅が出来ました。勤労者のための良質の住宅です。東京に田園調布という高級住宅地がありますが、この町の建てかたのモデルになったのが、宝塚、箕面、池田の住宅地だと言われています。小林一三さんは現在の住宅政策の一番もとになったものを作った人です。池田の室町というところに住宅を開いたのが最初です。大阪とか阪急のターミナルの駅には大きなデパートを作りました。そこで日曜日に家族が楽しめる機能を持たせた。そういう住宅の開発を初めてしたのが小林一三さんです。最近西宮とか宝塚、芦屋など阪神間、大阪周辺の近郊の文化を見直そうという動きが見られます。これを大正モダニズムと呼んでいます。宝塚の雲雀丘のあたりは大正から昭和にかけてとても質の良い洋館が建てられたことで有名です。現在でも残っていて、宝塚の正司泰一郎市長のお住まいもこの一つです。小塚正冶という当時の一流の建築士とか会社が建てた質の良い住宅が残っています。宝怎zテルもこの人が設計しています。それから、中洲という所には宝塚会館という名前のダンスホールがありました。大正から昭和にかけてです。大正時代にモボ(モダンボーイ)とかモガ(モダンガール)たちが沢山訪れたようです。だから当時のファッションの最先端を行っていたのも宝塚でした。
 それから宝塚歌劇の舞台のすぐ下にオーケストラがいますが、これは日本でも一番最初に出来たオーケストラの一つなのです。それと、日本最初のプロ野球、阪急の前身になるような球団が宝怩ナ出来ました。ほぼ同時期に今の読売巨人軍が東京で出来ています。
 それからもう一つエピソードを言いますと、今の雲雀丘花屋敷の駅から北へ満願寺まで行く道に最初にトロリーバスが走りました。それも有名でした。宝怩ノは有名なものが沢山あります。


■人と自然がふれあう、心豊かな美しいまち宝塚
    手塚治虫が愛した自然とまち

 昭和20年代の終わりころになると、初めて宝怩ニいう市が出来ます。これは武庫川の南側の良元村と武庫川の北側の宝恍ャとを合併して市にしたのです。良元村はもともと西宮市と合併する話もあったのです。それで、住民投票をしたら、わずかの差で宝塚との合併が決まりました。それが昭和294月1日です。このときに、初めての市長さんを選ぶ前に、仮に良元村の村長さんが市長をやりました。岡田幾(いく)さんという女性です。この方は選挙で勝った初めての女性の村長で、当時非常に珍しいことでした。別名を岡田指月さんといい、村長をやめてから兵庫県の文化賞という有名な賞をもらっておられる方です。
 当時の宝恷sの人口が約4万人でした。それが人口が増え、昭和40年代から50年代には1年間に学校が三つも四つも建ちました。これは宝怩ェ神戸や大阪のベッドタウンだったからです。それと宝怩ノは歌劇、競馬場などがあり、住宅とレクリエーションが一体となった都市として発達しました。また歌劇だけではなく、ゴルフ場などもあります。それでどんどん発展し人口は21万人を軽く超えました。アメリカのオーガスタ市、最近ではウィーンの第9区という所と姉妹提携をし、国際都市になってきました。
 ところが、皆さんご承知のように平成7年の1月17日に大きな地震がありました。宝怩ヘどんどん人口が増え、収入も多く、経済的にもバブルの前には物凄く沢山税収があって、豊かだったのですが、地震が来て宝怩ヘ今苦難の時期です。皆さんから色んな要望が出ていますが、今はちょっと待って下さいということです。先ず街の復興、これが大事です。今後約10年の間に約600億円以上のお金が足らないのです。みんなで街を元へ戻していきましょう。これは行政・市議会だけではく市民の皆さんと共に一緒に頑張っていかなければという時期です。税収が沢山あったときには、宝怩ノこれから美術館、博物館、といったものも、将来的には建てていく予定だったのです。しかしちょっと待って下さい。先ず最初に必要なもの、家や道路の復興といったことを、ここ10年の間に先ずやりましょうということになっています。
 また、現在、日本の経済もガタガタになっています。1億2000万人の人口の一人一人が550万円の借金を背負っているといわれています。総額では660兆円の国債残高があります。失われた10年といわれるように不良債権の山があります。こんな先進国は歴史上ありませんでした。今後の日本を立て直そうとするためには、これ以上借金をしないことと、勤勉な国民性の再考と、IT技術など先進的工業技術を伸ばす以外にないのではないでしょうか。


宝塚市史
宝塚市教育委員会 生涯学習室社会教育課
宝塚市ふれあいトーク
市史研究紀要「たからづか」

 


私たちのまちの福祉
 
 国のゴールドプランは、平成元年に作られましたから、ちょうど14年目を迎えています。21世紀を目前にした変動のこの時代に、私たちのまちの福祉もずいぶん変わりました。
 今では、介護が必要になった高齢者やその家族が、ホームヘルプサービスやデイサービスを受けることは普通のことになりましたし、コミュニティセンターのボランティア活動も日常のことになっています。14年前をふりかえりますと本当に隔世の感があります。
 私もこの間、市議会の議員として、一市民として、そして介護やボランティアの実行者としての、三つの側面から福祉に強くかかわってきました。それぞれの場面で学び、働きかけを行なって来ましたが、行政の福祉施策が充実し、地域の福祉活動が活発になる過程をふりかえると、それぞれの立場にある人々の役割の大切さを感じます。
 たとえば、宝塚市保健福祉サービス公社では、全国でもまだほとんど例がない、高齢者への資産保全、管理サービスを行っていますが、以前に私が議会で取り上げ、提案したときには、研究してみようということでしたが、介護サービスの専門的機関である保健福祉サービス公社が専門的力を発揮して、実現しました。
 また、市内には超低床バスが走っていますが、市議会での提案を受けた市行政が、福祉のまちづくりへの意欲と、市民のニーズを的確に促える感度を備えていたから早期の実現がかなったと思っています。
 しかし、最も大切なことは、一人の住民としての役割です。どのような福祉サービスも地域活動も、基本的には住民のコンセンサスの上に立っており、一人ひとりの住民の理解が最も重要です。ホームヘルパーの実践の場で学んだことや、さまざまなボランティア活動の経験から多くの住民の皆さんと共通の思いや理解を得ることができたと思っています。
 介護保険も3年目をむかえています。地方分権の指標ともいわれているこの新制度を私たち自身が作っていく責任と役割をもっています。そして、私たちのまちの福祉は、21世紀の担い手である子どもたちに対して大きな責任を負っていることも、心に止めておきたいと思います。