小旅行記<上高地と白馬村>
平成
13年5月中旬、昭和36年同期入社仲間のうち7人が長野の白馬村で集まる会があった。全員が退職しそれぞれ第2の人生を過ごしている。関西からは筆者を含む4名が参加したが、そのうちの1人が車を出すというので、あとの
3人が便乗することになった。「せっかく長野まで足を伸ばすのなら、ついでに途中の上高地へ寄ろうよ」ということになり、予定より1日早く出発した。
車で名神高速を走り、一宮の手前で東海北陸道に入った。新しい自動車道で岐阜、郡上八幡を通って終点<飛騨清見>まで車は少なく快適なドライブだった。飛騨清見から
158号線を東にとって昼過ぎにまず高山に到着した。名物の朴葉味噌をそえた定食で昼食を済ませ、趣のある古い町並みを少し散歩して見物し、再び158号線を東に進んだ。最初の目的地<上高地>は、自然保護のために一般車の乗り入れが禁じられている。我々はいったん乗り入れ口を通り越して沢渡(さわんど)までいき安曇村村営の駐車場に車を置き、タクシーで上高地へ入り大正池で降りた。
大正池はむかし焼岳の噴火で谷を埋められで出来た池である。水面に屹立する枯れ木は、年を追って次第に倒れて行くらしく、まえに写真で見た印象とはだいぶん違ったが、ブナや白樺の新緑が鮮やかで、白樺の幹が緑の中にくっきりと立ち並び水面に映っていた。この風景はまるで東山魁夷の絵である。ひんやりと頬をなぜる風、澄んだ空気をふるわせる鳥の声は5月初めのドイツを思い出させた。
山の景色を油絵で描く友人がよく原語で口ずさむという詩がある。
Im wunderschoenen Monat Mai,
Als alle Knospen sprangen,
Da ist in meinem Herzen
Die Liebe aufgegangen.
シューマンの歌曲集「詩人の恋」にあるハイネの詩「美しい五月に」は、このような情景の中で作られたのではないだろうか。
ゆっくりと景色と空気を楽しみながら梓川沿いのみちを、河童橋まで歩き、予約していた村営のホテルに着いた。部屋に入ると窓から穂高連山が手に取るように見えた。4人の中に、学生時代に穂高に登ったのがいて、穂高から上高地へ降りたが、疲れ果てていたので上高地を楽しむ余裕もなかったという思い出話を聞かせてくれた。
ホテルの温泉で足を伸ばして疲れをとり、夕食はイワナや山菜、味噌料理などを味わった。
翌朝、早起きして大正池まで散歩すると、前日は逆光で見えなかった焼岳の山肌の雪が輝いていた。
一旦ホテルに帰り朝食後、河童橋からさらに奥の明神池まで歩くと。池の面に周囲の緑が映り、澄みきった水に斑点のある魚が群れているのが見えた。
10
時過ぎにチェックアウトして、バスで駐車場に戻り、次の目的地、白馬に向かった。入社同期のT君が長野県の白馬村にいる。登山が好きで、入社当時はほとんど毎週のように六甲山に登っていた。その後、休暇をとってカナダのマッキンレー登山隊に加わり登頂したが、六甲山はマッキンレー登山のための鍛錬の場所だったのかもしれない。その彼が白馬村の通称「どんぐり村」に家を建てて、数年前から住んでいる。
今回の同期会の場所を白馬村にしたのは、彼の住まいを訪ねることを計画に入れてのことだった。
上高地を車で出発した関西組4人は158号線から梓村を抜ける道をとり、次いでJR大糸線沿いの147号線を北に登った。豊科・大町などを抜け、木崎湖・青木湖が見えるあたりでは道は148号線になっている。待ち合わせ場所の白馬駅でJRでやってきた仲間2名と落ち合った。
T君が4輪駆動のRV車で迎えに来たとき、にわかに雨が降り出した。T君は慌てるところもなく「すぐにやむだろう。とりあえず濡れても良いところへ行こう」と近くにある野天風呂へ我々を案内した。「なるほどここなら濡れても良いな」と山道の途中に車をとめ、一同が裸になった。新緑を見ながらの温泉は心まで洗ってくれるようだった。
雨はやむどころか、激しくなってきたので、ともかくT君の家へ移動した。
「どんぐり村」は1290mの岩岳<いわだけ>の中腹に造成された住宅地である。T君は在職時に、そこに400坪の土地を買っていて、別荘ではなく、定住の場所としての家を建てたのだった。1階は山の道具置き場になっている。スキーが立てかけてあり、かんじきやピッケルが壁に掛かっていた。
3階に上がると窓からの景色は緑一色である。冬はオリンピックに使われた白馬のジャンプ台が木の枝越しに見えるという。
T君が定年退職になるまでの数年間、夫人が先に「どんぐり村」に来てしばらく一人で住んでいた。
「素晴らしい所ですが、買い物など不便でしょうね」と聞くと「バスが有りますのでそうでもないです。でも帰りはタクシーを使うこともあります」とのこと。さらに「ここに来て、楽しいばっかり」とは、さすがT君が登山グループで知り合った女性ではある。
冬季の積雪は相当なものだが、除雪車が道だけは掻いてくれるらしい。
定年間際に胃の3/4を切除したT君の身体は、そうとは見えないほど回復していて、夫人と山にも登っている。それどころか資格をとり、近くの山々の案内役もしているという。
ビールをよばれていると、T君は大判に焼いた3枚の写真を持ってきた。いずれも幻想的な蝶の写真である。日本にしか住んでいない「ギフチョウ」というアゲハチョウの仲間だそうだ。岐阜県内で発見されたギフチョウは北陸から山口県にかけて棲息しているが、珍種のために乱獲がすすみ、このまま放置すると絶滅が心配されるとのことである。現在、捕獲は禁じられているが、それを承知で採集してコレクターに高額で売るというけしからぬ<やから>がギフチョウの生息地である岩岳にも、出没するらしい。彼らの中にはギフチョウが卵を産み付けたカンアオイという植物の葉を探して根こそぎ持ち帰り、自宅で卵から幼虫、幼虫から蛹(さなぎ)に育て羽化させる連中がいるという。ギフチョウはカンアオイの葉の裏に20から30個の卵を産み付けるので、連中にとっては格好の金儲け法であるわけだ。
T君はそういった違法採集の監視員にもなっている。実際に我々が訪問した日の前日も羽化期を狙って捕虫網をもった数人のグループを見かけ、注意をしたといっていた。T君の携帯電話で警察と教育委員が駆けつけることになっているというが、禁を犯す者達の監視は危険な仕事である。
一方でT君は、ここ数年、<ギフチョウを増やす活動>を仲間と一緒に始めている。カンアオイをはじめ、ギフチョウが食材として好む数種の花苗を種から育て、岩岳の頂上にあるスキーのゲレンデ一面に植えるという遠大な計画を進めているのだ。
さて、我々訪問者6名と地元のT君の7人は、岩岳の中腹にあるペンション 「白いテラス」に泊まった。T君が採っておいてくれたタラの芽を含め、コゴミ、フキノトウ、それに初めて口にするコシアブラの新芽などの揚げたての天ぷらが、ビールや土地のワインと絶妙の調和をする。
経営者S氏夫妻の心づくしのもてなしに、7人の仲間の会話が弾んで就寝は深夜になってしまった。
翌朝早起きしてペンションの回りを散歩した。前日とは打って変わった晴天のもと、新緑の中に白樺の幹が朝日にまぶしく光っていた。キツツキのドラミングを聞きながら歩くと、薄くガスのかかった湿地に、名残のミズバショウの花を見つけた。
朝食の後、パンフレットと土に差し込むように出来ている小さなプラスチック・プレートがS氏によって配られた。パンフレットはギフチョウに関するものであった。プレートには当日の日付とめいめいの名前を書き込むようにいわれた。
「出かけようか」というT君の声に応じて表に出ると、ホテルの玄関先にS氏が準備した四角い籠が7つ置いてあった。それぞれにカンアオイ、スミレ、ノアザミ、クガイソウ、シモツケソウという5種の苗が1株ずつ小さなプラスチックの鉢に入って園芸用のスコップとセットになっている。いずれも蝶の食材である。S氏はペンションを経営するかたわら、T君とともに<ギフチョウを増やす活動>をやっているのである。我々もボランティアに加わることになった。
S氏の同行でリフトからゴンドラに乗り継ぎ、岩岳山頂に向かう途中、T君の奥さんが籠を下げて山を下っていくのが見えた。奥さんもここ数年ギフチョウの食材を植えに岩岳に徒歩で登り、その回数はもう1000を超えたという。奥さんのことはT君から「姉さん女房」と聞いているが、大した「やまんば」である。
岩岳山頂に着くと、雪を頂いた白馬三山のパノラマが眼前に広がっていた。雪がとけてあらわれた黒い岩が馬の形に見える時分に、田植え前の「代掻き(しろかき)」を始めるので、「代馬(しろうま)」といわれていたのが「白馬」になったとT君が説明してくれた。
雪の消えたゲレンデの一部には、これまで花畑復元運動に参加した人の名前が書かれた沢山のプラスチックのプレートが整然と並び、すでに植えられたカンアオイなどの葉が一面に揺れていた。我々もS氏が用意してくれた花苗を植え、名札を差した。最近やってきた娘さんが、彼女より数年前に植栽した両親の名の書かれたプレートを見つけ感激したという話を、S氏がした。
ゲレンデを離れ、ゴンドラと反対側の斜面に移ろうとしたとき、T君が「あ。ギフチョウだ」と叫んだ。ちょうど羽化したばかりの蝶が短い笹藪の中にみえた。S氏がそっと両手のなかに包み込み「ギフチョウです」と皆に見せた。あまりにもタイミング良く、ギフチョウを見ることが出来たのには感激した。S氏が手を大きく開くと、蝶は女王の貫禄をみせて飛んでいった。
山襞の湿地には、ミズバショウに混じって自生のカンアオイが見られた。我々の植えたカンアオイもこのようにみずみずしく育ってほしいものだと思った。
岩岳を降りて、白馬ジャンプ競技場を見学した。平成10年の長野オリンピックで原田選手等を含む日本チームが活躍した場所である。リフトとエレベーターで上に登り滑降のスタート台から下を眺めると、あまりの高さに驚いた。
昼は名物の手打ち蕎麦を食べた。T君が太鼓判を押すだけあって、文句なしに美味い。「信州信濃の新蕎麦よりも わたしゃお前のそばが良い」という古川柳を思い出した。
JR組の2人の出発までの時間を見計らって、T君は日本海に注ぐ姫川の源流といわれる場所へ案内してくれ、そこに湧き出る水をマグカップですくって我々に飲ませてくれた。
冬季は大変だろうが、美味い水と空気のある場所に住み、好きな山に登り、花を育て、蝶を夢見る。そんな余生を選んだT君が<現代の仙人>のように思われた。◆