紅茶の歴史


茶は東にありき
中国では紀元前より霊薬として飲まれた


紅茶や緑茶、ウーロン茶など、すべての茶の原料となる茶の木は、現在、世界各地で栽培されていますが、もともとは中国の雲南省とインドのアッサム地方にしか自然育成していない植物でした。
さらに、インドのアッサム種が発見されたのは19世紀にはいってからと、比較的最近のことであり、それまでは茶といえば中国が産地と決まっていました。
しだかって、19世紀にアッサム種が発見され、各地で栽培育成が行われるまでは、タダージリンやケニア、ウバなどといった産地茶はなく、緑茶も紅茶も中国だったのです。

その中国では、紅茶よりもずいぶん古くから緑茶が飲まれていました。
茶葉に発酵処理を施さない緑茶は、有史以前から不老長寿の霊薬として飲まれていたようです。

伝説によれば・・・・紀元前2737年、今から 約3000年以上も昔の中国に、農業・薬学の祖である 炎帝神農という人物がいました。
彼は人々のために食べられる植物、薬となる植物を探して、色々な草木の葉や実を口にしましたが、そのため毒に当たってしまうこともありました。
ある日彼が木陰で湯を飲むために一休みしようとしたところ、風に吹かれた数枚のきの葉が偶然にも彼の湯の中に入ってしまいました。
ところが、木の葉の入った湯は素晴らしい香りと味に満ちていたのです。
それ以来、炎帝神農は、その葉入りの湯にすっかり魅了されたと伝えられていますが、その気の葉こそ、茶の葉だったというわけです。

これはお茶の起源にまつわるひとつの伝説に過ぎませんが、中国に始まった 「お茶」 が かなり長い歴史を持っていることがうかがえます。

その後の中国で、いつ頃から紅茶(発酵茶)が飲まれるようになったのか詳しい事については分かっていないそうですが、当初のお茶は 「薬」 として珍重された 大変高価なものであり、一般的な飲み物として中国の人々の間にお茶を飲む風習が定着するのは、 6世紀以降 のこと。
しかもそれは 「緑茶」 であり、王侯貴族だけに許された特別な飲み物として国外には秘密にされていたそうです。
紅茶の原形ともいえる発酵茶が登場したのは、宋の時代(10〜13世紀)になってからです。
どうやって茶葉を酸化発酵させたのか、当時の技法はわかっていませんが、緑茶を作る途中で自然に起こった酸化発酵によって生まれたウーロン茶から、更に変化して紅茶が誕生するのは、まだそれからだいぶあとの事でした。

紅茶が歴史の表舞台で活躍するのは、なんといっても大航海時代を経た西欧諸国が中国産の緑茶や紅茶を輸入し始め、消費地としての独自の茶文化を形成する 17世紀 からのことです。

西欧に初めて茶を伝えたのはオランダの東インド会社(1610年)でしたが、それは紅茶ではなく緑茶でした。
当時、オランダは中国やインドネシアとの東洋貿易に関して独占的な立場にあり、同じく東インド会社を経営していたイギリスはやむを得ずインドの貿易に重点を置いていました。
(インドで新種の茶樹アッサム種が発見されたのは19世紀のことで、当時のインドに茶はありませんでした。)
1630年代からすでに喫茶の風習が広まっていたオランダに対して、1650年代になるまでイギリスで茶が飲まれなかった背景には、こうした事情があったそうです。
しかも、英国貴族の間で茶が飲まれ始めてからも、茶はすべてオランダから買わなければなりませんでした。
イギリスは1669年にオランダ本国からの茶の輸入を禁止する法律を制定し、同時に戦争(イギリス・オランダ戦争1652〜1674)を始めました。
中国から直接輸入した茶がはじめてイギリスに流通したのは、オランダとの戦争に勝利を収めてから15年後の1689年のことです。
この年を境にして、イギリス東インド会社が基地を置く福建省アモイ茶が集められ、それがイギリス国内に流通するようになりました。
イギリスにおいて緑茶よりも紅茶が飲まれ、また独自の紅茶文化が発達したのは、この事が関係しているとも言われているそうです。
というのも、アモイに集められる茶はすべて紅茶に似た半発酵茶「武夷茶(bohea)」だったからです。
武夷茶は茶葉の色が黒かったことから、「black tea」と呼ばれ、やがて西欧における茶の主流になったのです。

紅茶の歴史が次なる新しい幕を開けたのは19世紀でした。
1823年、イギリスの冒険家ブルースがインドのアッサム地方で自生の茶樹を発見し、後にそれかず中国種とは別種の茶樹であることが確認されたのです。
さらに1845年には、緑茶と紅茶はその製法が違うだけで原料は同じ茶樹であることがね英国人のフォーチュンによって発見されました。
これらの発見によって中国種と新しいアッサム種との交配がすすみ、インドやスリランカの各地で茶の栽培が始められたのです。
特にイギリス人に紅茶がうけたのは、肉食が主体の食生活において、茶葉を発酵させて作ったタイプのお茶が 脂肪やタンパク質の消化を促進する ことが体験的に分かったからのようです。
そこで緑茶よりもウーロン茶、ウーロン茶よりもさらに発酵を強くした紅茶が好まれるようになり、紅茶の需要はグンと増していったのでした。
このように中国茶は、インドのアッサムでの茶樹の発見により インドやスリランカでの茶の栽培が始まるまでの100年もの長い間、ヨーロッパ市場で独占的な地位を保っていました。
今でこそ紅茶生産量は世界第6位の中国ですが、現在もその東洋的な香味の紅茶は シノワズリー ( CHINOISERIE : 中国趣味 ) として 上流階級を中心にヨーロッパで大変珍重され、また愛されているのです。

一方、日本での紅茶消費の歴史というと、欧州において数百年というものに比べれば、明治以降100年ほどのことです。
日本では茶樹の栽培自体は12世紀の終わり頃から始まっていましたが、それらはすべて紅茶ではなく緑茶として飲まれていました。
明治以前に日本で紅茶が飲まれていたという確かな事実は無いそうで、1906年(明治39年)に初めて英国から紅茶が商品として「舶来セイロン紅茶」を輸入し、輸入食品の老舗である明治屋で売られたのが、外国産のブランド紅茶の歴史の始まりと言われているそうです。
しかし、800年の歴史を持つ緑茶の生活が習慣になっていた日本人にとって、舶来の紅茶はハイカラな飲み物として珍しがられたものの、なかなか一般には定着しなかったそうです。
当時は珍品をただ売るだけで、淹れ方や飲み方などの啓蒙がなされなかったこともあり、唯一それをたしなんだのは、海外生活の経験者だけだったようです。
主として東京の山手や横浜、芦屋、御影のあたりの京阪神のお金持ちの間で楽しまれていたそうです。
そして、大正時代流行したカフェでも、お客が男性中心であったということもあり、紅茶よりコーヒーに人気があったそうです。

紅茶が徐々に一般家庭で飲まれるようになるのは、1927年(昭和2年)日本最初の国産銘柄紅茶が販売されてからのことです。
その当時、舶来英国紅茶一缶450gのものが2円25銭、225gが1円18銭。米一升が80銭の時代だったので、庶民にとってはまだまだ高嶺の花であり、「来客時のおもてなし用」に限られたものでした。
そしてその紅茶も1938年(昭和13年)には輸入が禁止され、生活から完全に姿を消してしまいます。

その後も戦後のモノ不足の中で、唯一出回った紅茶は闇ルートで入ってくる輸入もののみ。
紅茶消費が少しずつ普及の兆しを見せ始めたのは、1970年(昭和45年)の万国博覧会の時でした。
しかし、まだ高級品イメージが強く、贈答品の需要が中心。
また、それ以前に発売されていた紅茶ティーバッグにいたっては、紙袋の封を破って中に包まれている紅茶の葉を出し、茶漉しを使って上から湯をかけるという使い方をされていたくらいで、とてもいい加減な方法で飲まれていたそうです。

それでも、戦後の食生活の洋風化により、朝食にパン食が迎えられるようになり、インスタントコーヒーやコーラブームなどを背景に、この紅茶ティーバッグは、手軽さ・簡便さが認められて普及していきます。

そして1972年(昭和47年)の紅茶の輸入自由化や、雑誌テレビなどのマスメディアによる情報の提供、1980年後半の缶やペットボトル入り液体紅茶飲料の登場などによって、紅茶製品は一気に多様化し、さまざまなライフスタイルにあった飲み方が去れるようになりました。
封を切るだけで簡単に飲める液体紅茶飲料から、紅茶ティーバッグ、そして茶葉や淹れ方、器にこだわった英国スタイルの茶葉(リーフティー)まで、その浸透ぶりと多様化の傾向は、またここ数年でさらに広がりを見せています。

ナチュラルでヘルシーでスタイリッシュな紅茶。
真紅に輝く紅茶に魅せられた日本人は、年とともに増えてきているようです。


参考 : 紅茶の辞典

[紅茶の豆知識]