「沖縄通信」第135号(2019年7月)

 

西浜 楢和

 

 

戦後沖縄における琉球独立論(運動)の変遷と民衆意識の変容 (上)

 

 

■ はじめに

 

琉球は三山時代(14世紀半ば~15世紀初期)を経て、1429に琉球王国と

して統一された歴史を持つ。その後1609年、薩摩藩は琉球王国を侵略、奄美諸島を直轄領にし、琉球王国を間接支配下に置いた。1850年代半ばに琉球王国は米・蘭・仏と修好条約を結んだ。1872年、日本国は琉球王国を一方的に自国の「琉球藩」と位置づけ、自らの命令に従わなかったという理由で、1879年、「琉球処分」を行い、琉球王国を日本国に併合した。それ故、琉球が日本に属した期間は1879年から1945までと1972から2019年までのわずか113年間に過ぎない。琉球が独立国であった約500年の方がはるかに長いわけである。

かつて独立国であったという歴史と、独自の文化圏を形成しているという民族的な自覚からして、現在に至るまで、琉球・沖縄では独立(論)が地下水脈の如く連綿と続いてきている。

新川明が、『反国家の兇区』「新版へのあとがき」で「近代沖縄の精神史は、日本国への同化志向と日本国からの離脱志向がせめぎ合う形で織りなされるアンビヴァレンスの態様を最大の特徴としている。沖縄の精神史は、この二つの水系が葛藤しながら…歴史の変転につれて浮き沈みを重ねつつ流れを形づくってきた所産である」と述べているところからもそれを読み解くことができよう。

 さて、本論考で明らかにしようとするのは、「沖縄・琉球は独立すべきである」とか、あるいはその逆に、「否、すべきでない」とかを論じることではない。それを選択するのはあくまでも琉球・沖縄人(ウチナーンチュ)であり、筆者の如き日本人(ヤマトンチュ)ではないからである。明らかにしたいのは、琉球独立論(運動)が歴史的にどのような変遷をたどって来たのか、そして現在、いかなる地平に到達しており、民衆意識はどのように変容してきたのかを分析することである。

 

 

   1の波:米軍占領下敗戦直後の状況

 

敗戦直後の日本(ヤマトゥ)における沖縄「独立論」は、沖縄人連盟の動きや、19462月、同連盟に寄せた日本共産党の「沖縄民族の独立を祝ふ」メッセージに代表される。他方、沖縄では、日本の版図から離脱するや、まず叫ばれた政治的な主張は「独立論」であった。

以下は、第5回大会で日本共産党沖縄人連盟にあてたメッセージの抜粋である。

 

 

   数世紀にわたり日本の封建的支配のもとに隷属させられ、明治以降は日本の天皇制帝国主義の搾取と圧迫に苦しめられた沖縄人諸君が、今回民主主義革命の世界的発展の中に、ついに多年の願望たる独立と自由を獲得する道につかれたことは諸君にとっては大きい喜びを感じておられることでせう。これまで日本の天皇主義者は…沖縄人諸君に対しても…同一民族であることを諸君におしつけました。(中略)

たとひ古代において、沖縄人が日本人と同一の祖先からわかれたとしても、 近世以降の歴史において日本はあきらかに沖縄を支配してきたのであります。すなわち沖縄人は少数民族として抑圧されてきた民族であります。(後略)

 

 

 このメッセージで日本共産党は沖縄の解放と独立を祝福した。ここで、沖縄人は日本人と同一民族ではなく、日本における少数民族と位置づけていることが読み取れる。

さて、195011月に対日講和7原則が発表され、その一項目に、「日本国はアメリカが施政権者となって沖縄を信託統治することに同意する」と記述されていたので、沖縄民主同盟(その後、共和党)、沖縄人民党、社会党、沖縄社会大衆党の主要4政党が沖縄の帰属をめぐって論戦を張った。以下に各党の主張を見よう。

 

1縄民主同盟1947615日結成)

仲宗根勇は沖縄民主同盟を次のように素描している。

 

 

戦後初期の民衆意識の中には、沖縄自立の精神が、吹き上げた地下水のよ うに横溢していた(中略)。「沖縄自立=独立論」こそが、当時における正統かつ多数派的な沖縄の思想にほかならなかった。(中略)そして、戦後初期に支配的な自立思想の誕生を表現したひとつの政治的結晶が、まさに沖縄民主同盟そのものであった。

(「沖縄民主同盟」『新沖縄文学 53号』19825月所収)

 

 

沖縄民主同盟は、「恒久政策」として「独立共和国の樹立」を掲げる。結成当初事務局長で、その後委員長に就任した仲宗根源和は「沖縄は沖縄人による沖縄であって、将来は民主独立国を建設すべきである」と主張している。19509月の群島議員選挙に5名(山城善光、中山一、照屋規多郎、桑江朝幸、仲宗根源和)が立候補したが、全員落選した。

その前後から党内に分裂が生じ、結党3年余にして瓦解、同年10月に結成された共和党に合流した共和党の主張も独立であった。

 

2縄人民党1947720日結成)

琉球人の自主性を前提とした日本との結合を主張。19513月の党大会で日本復帰運動促進を決めた。

 

3会党1947720日結成)

アメリカによる信託統治下に置かれることを支持した。政策に「一 吾党ハ琉球民族ノ幸福ハ米国帰属ニアリト確信シ産業教育文化ノ米国化ヲ期ス。二 吾党ハ沖縄建設ノ基本法トシテ又国民的教典トシテ民主的沖縄憲法ノ制定ヲ期ス。三 (略)。四 南北琉球トノ統合ヲ期シ国家体制ノ整備ヲ期ス」を掲げた。

 1952年第1回立法院議員選挙に大宜味朝徳が立候補したが落選。その後社会党はほとんど活動することなく姿を消していった。

 

4縄社会大衆党19501031日結成)

 「ヒューマニズムを基底とし個々の利害に捉われず、住民全体の調和と統合とを実現するための国民的政党でなければならぬ。更にまたそれは住民大衆の福祉を希望しつつ時代の要請する革新的政策を具現する政党」とした結党大会から4ヶ月後に開かれた19513月の第2回大会で日本復帰を掲げる。その根拠は、「思うに琉球人が日本民族なる事は今更論ずるまでもなく同一民族が同一の政治体制下に置かれる事は人類社会の自然の姿である。(中略)これ(琉球と日本:筆者注)を引き離される事は琉球住民の一世紀に近い長年の努力を水泡に帰せしめる事となり、忍び得ないものである」というものである。

 以上見たように、独立を掲げる政党が誕生したが、民衆運動として19514月に日本復帰促進期成会が結成された。20歳以上の有権者を対象に始められた日本復帰署名運動は、全有権者27万人の約72%の署名を集めた。

米軍政下の沖縄の住民は復帰を熱望したことが示された。

 

 

   2の波:60年代末から70年代初頭

 

2の波は、72年「返還」=日本への再併合直前の60年代末期から70年代初頭にかけて再び日本国からの離脱を志向する動きとしてあらわれた。

この期の独立論は、米軍政下で得た既得権益を保守しようとの意図でつくられた民間団体<琉球議会>や琉球独立党に代表される。しかし「返還」が確定すると、これらは姿を消すか、支持をなくした 。

もう一つは、反権力の自立的な共和社会を視野においた「反復帰論」が登場するが、この「反復帰論」は厳密な意味において「独立論」とは異なると筆者は考える。

これらは、いずれも復帰運動の熱狂の前には余りにも非力で、この流れは地下に姿を隠したのであった。

 

 

   3の波:1982年-併合10年目の節目

 

3の波が地表に表れるのは、「復帰」後十年目にさしかかる80年代の初頭である。「復帰」が根本的に問い直された。「復帰」に託した理想と現実との、その乖離に突き動かされるように、一旦は沈静化した自立論が再熱した。

自立論、独立論として自治労沖縄県本部の「特別県」構想、「琉球共和国(または共和社会)憲法私案」が提示されて注目を集めたが、主として思想領域の運動であり、政治・社会運動化されることはなかった。

 

 

   4の波:1995年以降の動き

 

1.「居酒屋独立論」をめぐって

90代後半に入った途端に、独立論が一挙に噴き出た。第4の波の噴出は、19959月に起きた米兵による少女レイプ事件をきっかけにして、大田沖縄県知事による米軍基地強制使用手続きの代行拒否に始まる国との裁判闘争を契機にしたものだった。戦後50年、「復帰」後24、独立論はようやく民衆レベルで議論の場を得たといえる。

 それから2年後の1997大山朝常・元コザ市長が『沖縄独立宣言 ヤマトは帰るべき「祖国」ではなかった』を上梓する

 さらに、同年51415「<日本復帰・日本再併合>25年 沖縄独立の可能性をめぐる激論会」が開かれた。両日あわせて千人以上の参加があった。

ところが、新崎盛暉が同月30日付『沖縄タイムス』に、この会にも触れながら「独立論」を批判する論考を掲載した。いわゆる「居酒屋独立論」と言われる言説である。「一杯飲んでいるときは、『もうこうなれば独立だ』と悲憤こう慨して怪気炎をあげながら、酔いがさめれば、高率補助に首までどっぷりつかった日常生活にいとも簡単に舞い戻ってしまう状態」(『激論・沖縄「独立」の可能性』1997年、紫翠会出版)、「意識の面だけで独立が語られていて、生活構造はますます日本という国家に依存するような状況になっている」(『けーし風』第17号、199712月)という批判である。

それに対し新川明は、「居酒屋で一杯飲んで気炎をあげる『居酒屋独立論』大いに結構で、私なぞの目には涙がこぼれるほど嬉しい現象なのだ。/『復帰』後二十五年、沖縄社会もやっとそのような『雰囲気』を許容できる地点にまで辿りつくことが出来たと思うと感慨無量、胸をしめつけられる」、「60年代末期から70年代初頭、『復帰』のころまでの沖縄社会の『思潮』を思い起こしてみたらよい。『独立』という言葉どころか『自立』とか『沖縄の独自性』という言葉さえ『復帰』に反対するキーワードとして排斥される状況が沖縄を支配して

いた。」(『激論・沖縄「独立」の可能性』1997年、紫翠会出版)と反論した。この論争を単純化して表現すれば、「居酒屋でしか語れない独立論」か「どこでも居酒屋でも語ることのできる独立論」かと言う違いである。

その後、この激論会を主催した実行委員会を軸に「21世紀構想研究会」の結成が決まり、「21世紀同人会」と名称が変更され、琉球弧の自立・独立論争誌『うるまネシア』を2000715日に発刊するに至った。

 

2最低でも県外」から辺野古へ回帰

 沖縄が「差別」を自覚し公然と糾弾するようになったのは、「学べば学ぶほど、抑止力は重要」と述べた鳩山首相が、20105に新基地の建設先を辺野古に回帰させた時からであると筆者は考える。「国外移設、最低でも県外移設」を掲げて政権交代を果たした民主党政権であったが、それに対し、外務省官僚は偽りの情報を首相に教えるという策を弄してでも、アメリカへの従属を選択した。たとえ政権が変わっても対沖縄政策に変化は起きないことを沖縄の民衆はこの時、強く意識したわけである。

 こうした状況下、同623日の「慰霊の日」に、松島泰勝と石垣金星の二人が呼びかけ人となって、琉球自治共和国連邦 独立宣言が発表された。この営みも鳩山首相の辺野古回帰が大きな契機となったものと思われる。

この『独立宣言』の要旨は、次の通りである。

 

 

   2010、われわれは「琉球自治共和国連邦」として独立を宣言する。現在、日本国土の0.6%しかない沖縄県は米軍基地の74%を押し付けられている。これは明らかな差別である。2009年に民主党党首・鳩山由紀夫氏は「最低でも県外」に基地を移設すると琉球人の前で約束した。政権交代して日本国総理大臣になったが、その約束は本年5月の日米合意で、紙屑のように破り捨てられ、辺野古への新基地建設が決められた。さらに琉球文化圏の徳之島に米軍訓練を移動しようとしている。日本政府は、琉球弧全体を米国に生贄の羊として差し出した。日本政府は自国民である琉球人の生命や平和な生活を切り捨て、米国との同盟関係を選んだのだ。(中略)

日本国民にとって米軍の基地問題とは何か? 琉球人を犠牲にして、すべての日本人は「日本の平和と繁栄」を正当化できるのか?われわれの意思や民族としての生きる権利を無視して米軍基地を押し付けることはできない。(中略)

琉球人はいま、日本国から独立を宣言する。奄美諸島、沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島からなる琉球弧の島々は各々が対等な立場で自治共和国連邦を構成する。(中略)

国際法でも「人民の自己決定権」が保障されている。琉球も日本から独立できるのは言うまでもない。(中略)

われわれ琉球人は自らの土地をこれ以上、米軍基地として使わせないために、日本国から独立することを宣言する。そして独立とともに米軍基地を日本国にお返しする。

 

 

 筆者はこの「独立宣言」の賛同人になるよう、呼びかけ人から依頼された。ヤマトンチュとして賛同表明することの責任を考え熟考を重ねた末、名を連ねることにした。賛同人は38名を数えた。

 ここで一つのエピソードを紹介しよう。

20099月の政権交代後、喜納昌吉参議院議員が当時副総理だった菅直人と普天間基地問題について話し合ったという。喜納が「沖縄問題よろしくね」と言ったところ、菅は「沖縄問題は重くてどうしようもない。基地問題はどうにもならない。もうタッチしたくない」と発言。最後には、「もう沖縄は独立したほうがいいよ」と言ったと、喜納は自著『沖縄の自己決定権 地球の涙に虹がかかるまで』(20105月刊)で明らかにしている。

ここで菅直人は何を言わんとしているのだろうか。琉球・沖縄が独立した時、沖縄にある米軍基地はそのまま沖縄に存続するので、日本(ヤマトゥ)は在沖米軍基地問題に悩まされなくて済むと考えているように筆者には写る。琉球・沖縄が独立したあかつきには、琉球は琉米平和条約を締結して、沖縄から米軍基地を撤去する、そうするとアメリカはその基地を日本(ヤマトゥ)に移設する可能性が極めて高い、ということに菅直人は気付いていないのだろうか。そうなら実にお粗末な副総理(その後、総理)と言わざるを得ない。

 

 

3.「イデオロギーよりアイデンティティ」

 2012年に入ると、オスプレイの普天間配備が明らかになった。これに反対する県民大会が99日、101千人(宮古、八重山の地区大会を合わせ103千人)という「復帰」後最大規模で開催されたが、101日、オスプレイ12機が普天間基地に強行配備された。

 そこで、県民大会実行委員会は安倍晋三総理大臣宛「建白書」を提起した。「建白書」の要求項目は、①オスプレイの配備撤回、②米軍普天間基地の閉鎖・撤去、県内移設の断念である。それ故、この「建白書」は沖縄の民意の総体が体現された、沖縄戦後史に特筆されるものである。

 ところが、「建白書」提出前日の2013127、「復帰」後最大の上京行動となった銀座パレードに対して、「売国奴!」「日本から出て行け!」「中国の回し者!」との罵声が在特会(在日特権を許さない市民の会)等の右翼勢力から浴びせられたのだった。これまでに幾度となくくり返し沖縄から上京して来た要請団に対し、東京都民(日本国民=ヤマトンチュ)は冷ややかな視線を投げ掛けることはあっても、こうした罵声を浴びせたことはかつてなかった。初めてのことだった。後日、罵声を浴びせかけられた保守系首長が「それなら、日本から出て行こうかなぁ」と思ったとのエピソードが伝えられた。また、この実行委員会の共同代表を務めた翁長武志・那覇市長(当時)は銀座パレードにおいて、「沖縄県民は目覚めた」「米軍基地は経済発展の最大の阻害要因」「日本を取り戻すと言うが、この中に沖縄は入っているのか」「沖縄が日本に甘えているのでしょうか」と発言した。

銀座パレードでの事態を追体験した多くの琉球・沖縄人は、この時以降はっきりと日本(ヤマトゥ)の沖縄観を深く可視化していった。この認識は民衆意識として、広く、深く拡散した。20105月、鳩山首相の辺野古回帰を目にした時、沖縄は「差別」を自覚したと前述したが、この自覚を超えて、銀座パレードを経て、沖縄の植民地(状態)が広く認識されるところとなったのである。琉球・沖縄の独立論(運動)にとって、この出来事は大きな分岐点となったといえる。

 201312、仲井眞知事が辺野古埋め立てを承認した。今まで明らかにしてきた如く、民衆意識の変容を少しでも彼が認識出来ておれば、それは選択肢にはあり得ない行動だった。それ故、翌年201411月の知事選で、埋め立て反対を公約に掲げた翁長武志が、現職に約10万票の差をつけて圧勝した。知事候補に推薦される道程で、翁長は、日本政府が押し付けた米軍基地をめぐって県民同士が保守だ、革新だと対立することは無意味であり、上から誰かがそれを見てほくそ笑んでいる。沖縄のことは県民が力を合わせて声を上げていかなければならないとの趣旨の発言をしばしばおこない、その極めつきは人口に膾炙した「イデオロギーよりアイデンティティ」であった。この意味するところは、沖縄は宗主国・日本(ヤマトゥ)の植民地である、という翁長流の発話である。

 

(つづく)