稲爪神社
兵庫県明石市大蔵本町6-10


御祭神
大山祇大神、面足大神、惶根大神
合祀
伊和都比賣命
宇留命
奥津彦命
奥津姫命

摂社
稲爪浜恵比須神社
白玉神社
八将神社
猿田彦神社
高倉稲荷神社
庚申堂


御由緒

この神社の由緒は、伊予河野氏側の史料と社伝の言い伝えでは、大きく違います。

社伝のほうは、正式文書が散逸してしまい、文献としての確認ができないので、
あくまでも参考として考えてください。


一般に知られている稲爪神社の起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋
推古天皇の頃、三韓より鉄人が8千人を率い来襲した。討伐を命じられた伊予国の小千(越智)益躬は、故郷の大山祇神社の祭神である大山祇神に祈ったところ、鉄人が明石に着いた時、稲妻とともに大山祇神が姿を現し、鉄人の唯一の弱点である足裏を射よと告げた。これに驚いた鉄人を益躬が矢で射殺した。 小千益躬は大山祇神に感謝し、大山祇神が現れた地に大山祇神社を勧請したことに始まると伝えられる。
古くは稲妻大明神と呼ばれていたが、稲妻が転訛して「稲爪」となったと伝えられる。

また、小千益躬の子・武男により、小千益躬の霊を祀った社が、現在の大蔵八幡神社とされる。


社伝における口伝、伝聞
(口伝はあくまでも伝聞、口伝を寄せ集めたものなので、史実としての実証性は極めて希薄であることを心得てお読みください)

そもそも播磨の国は針間、明石、鴨の三郡にわかれ、
稲爪神社を建てた鴨一族は播磨の山岳部鴨の住人であった。
鴨族の守り神を祀る神社を鴨の地に建て、崇敬してきたが、
仁徳天皇の御世に屯倉を明石におき徴税の拠点とし、
この地を大蔵と名づけたため、鴨一族はこの地に鴨族の守り神を置き、
崇拝した。
稲爪神社の名の由来は、稲を積むことから稲積が転じて稲爪となった。
また、大山祇命は明石記に大山積命と記載されており、
大山積命とは山の意ではなく、稲を高く積む、大稲爪=大山積=高千穂の意があったとの
解釈がこの地域ではされていた可能性がある。
この大蔵の地には、元々伊和都比賣神社が祀られていたが、これを西に移動し、
現在の稲爪神社が建てられたとされている。
また、この神社には宇留命という神が祭られていたと伝えられているが、
この神が元々の鴨族の守り神で、大蔵の地名にちなんで大山積命と呼ばれるようになったかは不明であるが、
恐らくは別の神であろうと思われる。

雄略天皇の御世に和坂に文石小麻呂、赤浦鐵人なる盗賊が現れ、
明石海峡を渡る商船隊を度々襲った。
文石小麻呂は、蟹の面をかぶり、犬皮をまとって地に伏し、通りかかる住民を度々襲った。
これを討伐するため、、朝廷より小野大樹が派遣され、
これに与力し、文石小麻呂、赤浦鐵人を討つ。

推古天皇の世になり、鴨族ゆかりの越智益躬が朝廷より伊予の地を与えられ、
信仰心厚き越智益躬は、これも先祖神のご加護と稲爪神社を崇敬し、
伊予にまだ大山祇命を祀る神社がなかったことから、熱心に稲爪神社に参拝する。
異国軍が大宰府より明石まで来たがこれを撃退したことから、
稲爪神社の大規模な造営を行う。
越智益躬が熱心に稲爪神社を崇敬したことから、
その子越智武男が稲爪神社の辰巳の方向に越智神社を建て、
越智益躬を祀る。


異国軍の来襲は、
推古天皇の御世
敏達天皇の御世
の二度あり、いずれもこれを撃退していることから、
稲爪神社は厄難避け、魔よけ、勝運の神として厚く崇敬されるようになる。
異国より来襲し、討ち取られた将は圓乗寺の東に葬り、これを鉄人塚と呼ぶ。


あくまでも、厄難から守って頂くことを主願とする。
勝運の成果はあくまでも因果応報であり、努力した分に見合っただけの
勝運を授けられるとする。
どうしても願いがある場合は、
一願を決死の覚悟で念願すれば、一生のうち一願だけは、
必ず叶えられる言われる一願成就の神社である。


異国軍による明石侵攻の記録
一代要記
推古天皇八年庚申新羅合戦。
異国軍大宰府より播磨の国に至り明石浦を焼く。

蛍蠅抄
敏達天皇の時、異国より播磨国明石浦に攻寄す。

予章記
推古天皇の時、異国軍が太宰府から播磨国明石浦に来た。

八幡愚童記
敏達天皇の時、新羅軍が来襲して明石浦までを焼いた。



天武天皇の御世に百済よりの難民が
淀川の治水工事のために鴨氏の土地、三島に移住する。
大山祇命の起源は百済であると主張し、
百済の渡りの神が大山祇命であると主張する。

仁明天皇の御世に伊予三島に大山祇命を勧請する。

異国より漢室の末裔を自称する異国人が流れ着く。
大闇宿禰と名乗り、大蔵谷に住む。
没して後、天王神社の傍らに葬る。

天正六年
豊臣秀吉配下のキリシタン高山重友が稲爪神社に放火、社殿、宝物殿、社伝など焼失す。

高山重友が豊臣秀吉より罰せられ、追放されるとともに、
地元民が稲爪神社の北山に小さな祠を建てる。
この当時、稲妻神社との呼称で呼ばれる。

寛永十四年、松平丹波守が稲爪神社再建にあたり、
北山の祠があった場所に熊野三社権現を勧請する。
神社建設の前の発掘によって、境内の土中より古文書が見つかる。
ここに、元々の名が稲爪神社とあったので、社名を稲爪神社と改める。

参勤交代のさい、西国大名のうち、越智益躬の末裔、恐縮し、越智神社の前を避け、
船にて明石を通過し、松平家の関所を通らぬため、
松平家は越智神社を八幡神社と合祀し、穂蓼八幡宮と名前を改める。
のち、越智益躬の末裔も八幡宮の前を通るようになる。

賓永二年
松平直常が八幡神社の社殿造営をする。

昭和五十二年
失火により社殿、社伝、宝物、ことごとく焼失する。
左甚五郎作の随神門のみは焼失を逃れ、現在に至る。

参考資料
稲爪神社と熊野皇神社
神奈備
今治おもしろ百科
宇留神社
平野