李成桂(りせいけい)と朝鮮王朝
1392年,高麗(こうらい)王朝の武将のひとり,李成桂は高麗王朝をたおし,翌年に国名を朝鮮(ちょうせん)とあらためました。1394年には,都を開城から漠陽(のちに漠城,現在のソウル)に移しました。高麗王朝の仏教にかわり,朝鮮王朝では朱子学(儒教の一派)を国教と定めました。中国にならって官僚制度がととのえられ,朱子学は政治や社会の規範(きはん)とされました。祖先に対する崇拝や道徳をおもんじる社会ができたのも朱子学の影響です。
李氏朝鮮では15世紀半ばに,固有の文字ハングル(訓民正音)(くんみんせいおん)がつくられ,文化が栄えました。

 歴代の王や王妃をまつる霊廟
李成桂は,北岳山に政治を行う王宮(景福宮)をつくりました。王宮の左側には,儒教の象徴であり王と王妃をまつる宗廟をつくりました。
右側には,国土の安全と五穀豊穣(ごこくほうじょう)(米や麦などの豊作)を願うための社稷壇をつくりました。
宗廟は,歴代の王と王妃のたましいをむかえ,儒教にのっとって儀式を行う場所です。宗廟の正殿には19代の王と王妃がまつられ,永寧殿(えいねいでん)には,死後に王の称号をおくられた人とその妃がまつられています。
1592年の壬辰倭乱(文禄の役)で正殿・永寧殿とも焼けました。1608年に再建され、その後も増改築を重ね、1836年に現代の形となりました。
  儒教(朱子学)と日本
儒教の教えは、朝鮮では15世紀頃から一般の人々にも広がりました。現在も、祖先をまつる祭祀(さいし)が儒教にのっとったスタイルでつづいています。
 日本では、江戸時代に林羅山(はやしらざん)という儒学者が幕府に登用され、幕府のしくみをつくることに協力しました。幕府は1630年、儒学(朱子学)を教える学校として、江戸の上野に昌平坂学問所(しょうへいさか)をつくりました。

宗廟の正殿
回廊には太い円柱が並んでいます。正殿にむかって、祖先の霊が通ると去れている道がしかれています。

韓国の首都ソウル
宗廟は、ソウルの中心部に近い森の中にあります。人工1000万人を超える韓国の首都ソウルは、22区から構成される特別市の形をとり、1394年の遷都(せんと)以来、朝鮮半島の中心地です。東京とおなじく、一極集中が進んでいます。1988年には、アジアで2回目のオリンピックが開催されました。


14世紀末から500年にわたった朝鮮王朝は儒教から発展した朱子学を国家存立の基盤に置いた。
新しい王朝は朱子学に基づき国家の体制を整えていったが新首都づくりは、王宮(景福宮)と国土と五殻の神をまつる社稷壇、祖霊をまつる宗廟の建設から始まった。
そのなかで、宗廟は朝鮮王朝の歴代王と王妃、追尊王とその王妃の神位を奉安し、祭祀(さいし)を行う祀堂である。
そこでは中国で生まれた宗廟制度をもとに独特の建築様式を生み出した。また、宗廟で行われる宗廟祭祀は、中国の雅楽をもとに定められた器楽、歌、舞踊が統合された宗廟祭礼楽にのって朝鮮時代初期から今日にいたるまで、連綿とつづけられている。

宗廟
(そうびょう、ジョンミョ)
宗廟(そうびょう、ジョンミョ)は韓国ソウル特別市に所在する李氏朝鮮(朝鮮王朝)の祖先祭祀場。1995年12月ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。李朝歴代の王と王妃などを祭る。

建築

宗廟正殿(チョンミョ・チョンジョン)
建築的に明確に分割された塀、中庭、柱、屋根などの建築を構成するパートが祭礼用建築に必要な機能と空間を完璧に構成し、さらにシンボルとしての意味も持っている。まるで地の果てにまで続いているように横に広がっている中庭は安定を、建物の前面に無限に反復しているかのような柱の配列は永遠に絶えることのない王位の継承を、水平に天の果てまで広がっているような屋根は無限を象徴している。正殿と永寧殿 一郭の建築は反復と対称を基本とする空間構成をしている。そして建築物の造営技法は非常に単調だ。どうしても必要な装飾だけが存在し、丹青も色彩と模様の使用が非常に節制されている。このように高度に節制され、省略された技法で一貫している。 建物と同様に庭の構成要素も非常に単純だ。神路、月台、基壇、塀など、絶対に必要なものだけがあり、その中に必要な空間だけを閉じ込めている。このような構成、装飾、色彩の簡潔さと単純さは宗廟建築をより壮重なものにしている。

韓国 (大韓民国)

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儒教を国教とした朝鮮王朝の歴代の王たちをまつる霊廟 韓国 1995年