約1000年間沸く、新羅王朝の都であった慶州。
仏教を積極的に取り入れた新羅王朝は、大寺院を建て、名僧を生み、仏教文化の華を咲かせた。
慶州には、数多くの仏教遺跡が点在するが、石窟庵と仏国寺は統一新羅時代を代表する仏教芸術の粋である。
慶州の南東、吐含山の山腹にある石窟庵は純白の花崗岩を組み立てた」石窟内に如来坐像を安置する石窟寺院である。
吐含山の山麗にある仏国寺は、理想的な仏の世界を具現した大寺院で境内には多宝塔、釈迦塔、青雲橋、白雲橋、蓮華橋、七宝橋など
優れた石造物が今に残っている。

石窟庵と仏国寺

石窟庵の石仏(釈迦如来座像)

仏国寺正面

1995年 文化遺産

Seokguram Grotto and Bulguksa Temple

慶州周辺は、紀元前1世紀から10世紀に栄えた新羅王朝の都が置かれていた。石窟庵と仏国寺は、8世紀ごろ新羅の景徳王の時代、宰相の金大城により建立。石窟庵と仏国寺は、新羅美術の最高峰・集大成という呼び声もある。石窟庵は、東向きに作られており、日の出、月の出の名所でもある。

 朝鮮半島と日本
日本と朝鮮半島は,古くから密接な関係をもってきました。仏教は,中国から朝鮮半島を経て日本へ伝えられました。また,渡来人とよばれる人びとは,すぐれた技術や学問を日本に伝えました。奈良の大仏も,彼らの技術協力でつくられたものです。現在でも,渡来人に関係のある地名や寺社が日本各地にあります。
朝鮮半島の人びとも日本の人びとも,米を主食としてはしを使います。また,ともに漢字をもちいるなど,生活習慣や文化の面で似ているところがたくさんあります。

石窟庵(せっくつあん)は、大韓民国慶州市の郊外にある仏教遺跡。韓国仏教美術を代表する世界的な傑作品ともいわれている。
石窟庵(ソクグラム)(せっくつあん)
751年,新羅の大臣が仏国寺を大規模に広げました。そしておなじ年,仏国寺のうしろの吐含山中に,花崗岩を組みあげて石の建物をつくりました。高さ3.4メートルの釈迦如来坐像は,世界的に有名な仏像です。
 王辰倭乱(文禄の役)で焼かれる
1592年,豊臣秀吉が朝鮮に出兵したとき,仏国寺は日本軍によって焼かれました。現在のおもな木造部分は,のちに再建されたものです。仏教寺院としては韓国一の規模ですが,もとは現在の10倍近くもありました。
1966年,仏国寺内部の釈迦塔から「無垢浄光大陀羅尼経」(むくじょうこうだいだらにきょう)というお経が発見されました。8世紀前半のものと推定され,木版印刷物としては現存する最古のものです。その後,寺院の内部は,国による復元工事で現在の姿になりました。
1995年、仏国寺とともに世界遺産(文化遺産)に登録。

大韓民国慶尚北道慶州市の郊外にある仏教寺院。

石垣で固めた盛土の上に伽藍が配置されている。伽藍は大きく3つの区域に分かれ、回廊で区切られている。参道正面から2つの区域があり、各区域がそれぞれ蓮華橋・七宝橋と青雲橋・白雲橋とで外域と結ばれている

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新羅時代の仏教文化の代表,仏国寺
日本が倭(わ)とよばれていた時代,朝鮮半島には高句麗(こうくり)・
百済(くだら)・新羅(しらぎ)などの国がありました。4世紀頃おこった新羅は,10世紀に高麗に属すまで,
一時は半島全域に勢力をおよぼした国です。慶州を都としました。
新羅は528年,仏教を国教とし,仏国寺が慶州につくられました。高さ10.4メートルの多宝塔(たほうとう)は純白の花
崗岩(かこうがん)でつくられ,釈迦塔(しゃかとう)とともに新羅の仏教文化を代表する建造物です。

  仏国寺の伽藍配置
寺院の建物の配置を伽藍配置といいます大きな配置の真ん中にある建物が大雄殿(たいゆうでん),小
さな配置の真ん中にある建物は極楽殿(ごくらくでん)です。
この伽藍配置は,仏教の考え方をあらわしており,奈良の薬師寺の伽藍配置とよく似ています。

  仏国寺の紫霞門
階段をのぼって紫霞門をくぐると,仏国寺のなかにはいります。階段は上下ふたつに分かれており,合計で33段あります。