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いつかこの手に幸せを掴む日が来たなら。 隣に立っていて欲しいのはただ1人。 ++ 心に近い手は掴む ++ 急に吹いた風がうなじを撫で、リザはぶるりと身を竦ませた。 洩れる呼気が白く浮かび、行き交う人々も防寒に余念の無い、そんな冬の日だ。 「さむ…」 マフラーを手繰り寄せ、首元をすっぽりと覆う。柔らかなダークブラウンのそれは、ざっくりとした風合いで見た目からも暖かそうだった。 今年の冬が到来する少し前に、とある青年から贈られたもの。 毛糸の並びを指でなぞりながら、リザは小さく笑った。 今彼女の手に嵌められているのは、余計な飾りのない皮製の手袋。 彼からの贈り物に合わせて買った、こげ茶色だ。 2つを合わせて身に付けて、こうしてリザは待ち人を待っている。 その時間が、とても愛おしい。 ひょこ、と金髪が揺れた気がしたのは、錯覚ではなかった。 「待った?」 ごめんな、と言いながら背後から現れたのは待ち人たる青年。未だに最年少国家錬金術師の冠を戴く青年の名はエドワード=エルリック。 「いいえ、さっき来たばかり」 「そう?」 お約束とも言えるやり取りは、かつてリザが首を曲げて行われていたのだが、今はそんな必要はない。 リザがブーツを履いているのを計算に入れると、2人が同じ高さの靴を履けばリザが上を向かねばならないかもしれない。 「ほんと、寒いなー。待ち合わせ、外にしてごめん」 「いいのよ。冬の空気は、好きだわ」 実は俺も、と笑う青年は今やかすかに少年の面影を残すのみだ。 成長果々しい青年。 ふと、彼が手にしている紙袋に気がついた。 「?」 「あ、これ?」 あははは、とエドワードは照れくさそうに笑う。 「新商品が出てたから…つい買っちゃった」 「あぁ、ドーナッツね?」 果たして袋の中には2、3個の異なる種類のドーナッツが、美味しそうな匂いを撒き散らしていた。 「食べる、大尉?」 「エドワードくん?」 「嘘嘘。食べる、リザさん?」 にっこり笑って、エドワードは彼女の名を呼んだ。 リザは階級を大尉に上げた。 エドワードは今だ軍の狗のまま。しかし彼の悲願が成就していないわけではない。 1年と少し前、エドワードとその弟は長年の望みを叶えたのだ。弟の肉体と、弟の魂を。両方を同時に抱きしめて、エドワードがかすかに涙を見せたあの光景は、記憶から消えることがないだろう。 けれど。 「どれがいい?」 「…そうね、それじゃあ、その胡桃入りのを」 「やっぱり? それ、リザさん用なんだよね」 はい、とドーナッツを手渡してくれるその右手。いつも嵌めている手袋の下は、今だに銀の輝きを持っている。 戒めだから、と青年は言った。 被害者であると同時に、加害者である自分だけは、これでいいのだと青年は言った。 兄思いの弟をどう言いくるめたかは知らないが、エドワードは自分の欠落を埋める気はないらしい。 意固地な所だけは、年月過ぎようとも変わらないのだろう。 「ん、これ美味い。また買お」 どうやら新商品とやらがお気に召したらしいエドワードは、ぱくぱくとドーナッツを胃へと放り込んでいく。 これからレストランを予約しているというのに、大丈夫だろうか。 そんな目で見ているのに気づいたか、エドワードがもごもごと言い訳めいた台詞を口にした。 「…別腹だから大丈夫」 「……ふふっ、別に良いわよ。エディ?」 昔から、彼が本を片手に不精にも食事しているのを見かければ、それは大概ドーナッツかサンドイッチだった。 知識より本能を捨て置く彼にしてみれば、片手で食べられるものなら何でも良かったのだろうが、あれからも口にしているのを見ると単に甘いもの好きなのだろう。 「んー、確かに昔っから食ってるなぁ、これ」 最後の1個を手にして、エドワードがしみじみと呟いた。 「昔から好きなものって、変わらねーなぁ、俺」 「そうねぇ…私は、味覚が変わったわね」 小さい頃飲めなかった珈琲が飲めたり。苦味や辛味を美味しいと感じるようになったり。 そう云えば昔は彼ほどに甘いものを食べていた気もする。 大人になるにつれ味覚も嗜好も変わっていくのはよくある話だが、どうやら当てはまらない人物もいるようである。 「俺、そーゆーの無いからなぁ。昔っから、ドーナッツ好きだし、プディング好きだし」 あぁそれに、リザさんも好きなまま。 「……エディ」 この目の前の青年が、もしかすれば己の上司よりさらりと殺し文句を口にする気がするのは、錯覚だろうか。 意識していないだけ、本気なだけに余計に性質が悪い。 一回り年下の青年の言動に一喜一憂させられているなんて、同僚が知れば何と言うだろう。 そんなリザの内心を知ってか知らずか、エドワードは空き袋を近くのゴミ箱へと放り込んでくると、リザの前に立つ。 あの頃から何も変わらない青年。 ただ、トレードマークだった三つ編みが単に括られているだけになったのが違いだろうか。 それだけであるはずなのに、思わず見惚れてしまうまでの存在感がある。 彼が望みさえすれば、どんな賞賛だろうとも得ることができるだろう。 冬は佳境に入り、もうしばらくすれば雪解けの季節がやってくる。 2人して寒かったが、その寒さすら何処か心地よい。凍った石畳を踏みしめる度に、気遣うような青年の腕を背に感じた。 他愛のない会話は、十分に心を温めてくれる。 エドワードは軍属ではあったが、今でも時折ふらふらと研究のためと称して旅をしているらしい。 最高権力者のお墨付きまで、何時の間にか手にしているようだ。 頻繁には会えないが、たまにこうして会った時には、彼は様々な話題を提供してくれる。 そのお返しとして、リザは上司の間抜けな逃亡劇やら同僚の奇行やら、また彼の知っている軍人の近況についてを話したりする。 何物にも代え難い、貴重なひと時だ。 「そうそう、俺さ、こないだエシャロストンって町に行って来たんだ」 「あら、知ってるわ。鉱物の町で有名ね」 「あ、そうなんだ? でさ、リザさん。こないだ小ぶりのカード押さえ欲しいって言ってたよね?」 こないだ、と言ってもそれは2、3ヶ月前の話だ。 ふと零したことさえも、彼の記憶には残っているらしい。 「だから、プレゼント兼お土産」 「ありがとう」 こんな調子で、リザの部屋には国中の名産やら名物やらが、ちょこちょこと存在を主張するはめになる。 エドワードの旅の軌跡が凝集されているようだと思い、その考えの少女さ加減に笑ってしまったのはつい先日のことだ。 青年の手が何かを探すように動き、そしてリザの前で掌が開けられた。 「はい、カード押さえ…にしようと思って変えた、こっち」 手のひらの上には、小さな銀の輪がひとつ。 「…っ」 何の装飾もない、銀の指輪。 それが何の包装もされないままに、彼の手の中に存在している。 ふ、とエドワードが真面目な表情を作る。あぁ、本当に整った顔をしているんだなと、今さらのようにリザは思った。 「指に嵌めて、夕飯を共にして頂けますか、リザ=ホークアイ嬢?」 できれば、そちらの手の薬指に。 自然な動作で左手を取られた。自分の心臓が過去最高に鳴り響く。 「如何でしょう? 返事は、急ぎませんので」 考えてみて、とだけ呟かれる。きっとその吐息のような囁きだけで、何十人もの少女を射止められるだろう。 咽喉が乾く。あぁ冬はこれだから嫌いなの。空気が乾燥しすぎているのよ。 それにどうして冬のくせに、ちっとも寒くないの。コートなんて着てくるんじゃなかった。 急がない、と言いながら青年の目はかすかに不安げでもあった。 そっと指輪をリザの手に握らせると、所在なげにしている。 そんな彼を、リザは何とか自分を落ち着かせながら、見つめ返した。 「……酷いわね」 「?」 「こんなに寒いのに……もう、今夜は手袋、できないわ」 それだけ告げて、小さく笑う。 耳まで赤く染まった顔で、今さら寒いも何もないのに。 ふわぁ、とエドワードの緊張した面持が破顔する。その顔つきに、彼の成長を思い知らされた。 もう、彼は男であり、大人なのだ。自分の見つめている中で、変貌を遂げた青年。 「…それじゃあ、さ」 エドワードは自分の手袋を取り、リザへと手を差し伸べた。 「ガキのカップルみたいにさ、手、繋ごう。リザさん」 俺がまだこんなだった時、そうしたこともあったよね。 そうね、とリザは呟いた。 彼との思い出は何一つ、色あせてはいないのだ。昨日のことのように鮮明に、何もかもが思い出される。 こげ茶色の手袋は、適当にコートのポケットへと突っ込んだ。寒風に晒された白い手を、しっかりした手が握り締めた。 青年の生身の左手から、暖かな何かが流れ込んでくる気がする。 金属である右手を、彼は差し出さない。手を繋ぐことのできるのは彼の左手と、リザの右手だけだ。指輪を嵌める方の手で、彼女は彼と連れ立つことはない。 しかしそれでも虚しいとは思わないのだ。 銀の指輪の光るリザの左手は、幸福をしっかりと握り締めている。 ちらちらと、小雪が舞い始めた。 その中を、手を外気に晒しながら歩く2人の姿がある。 子どものように手を繋いで、笑い合う恋人たち。 エドワードはふと思いついたように、リザの耳元へと囁いた。 ねぇ、リザさん。 初恋が叶わないっていうのは、大人になって嗜好が変わった奴らばっかだからだと思うんだ。 だからほら、俺の場合は叶ったでしょ。 |