font-size L M D S |
「あれ?」 オリーブの香りに包まれた金髪の少年は、微かな驚きの表情を浮かべた。 ++ 時の先に君と ++ 東方司令部の影の支配者にして絶対君臨者の異名を囁かれる、うら若き女性は名をリザ=ホークアイという。 豪奢な金に輝く髪を結い上げ、決然と平静を具現化したかの彼女は直属の上司の手綱取りとして有名である。いわく、「マスタング大佐の首根っこをとっ捕まえるのに右に出る者なし」。彼女の一言で世の女性を騒がせて止まない端正な美貌(本人談)が見る見るうちに凍りつく様は、いっそ一発芸にした方がいいのでは、というのが他の腹心たちの言であったりする。 さて、そのリザであるが、現在彼女は兵舎ではなく近くの集合住宅に居を構えている。彼女が東方に赴任した際、運悪く兵舎が満員御礼となっていたために一時的に外に家を求めたのであるが、兵舎に空きができた今になってもリザは引っ越す気が起こらなかった。自分好みの空間に作り上げた自分だけの世界を、再び無機質な一室から作り直すのが面倒になっていたのだ。そんな訳でリザは今も、司令部より徒歩10分強の所に住んでいる。近くには市場もあるし趣味の良い雑貨屋もあるしで、リザは現状に満足しているのだった。 そんな、日常のとある1日。 台所からは、機嫌の良さそうな鼻歌が微かに流れてくる。とんとんとん、と小気味良いリズムで包丁が振られ、続いて水で何かを洗う音が響いてくる。しゃっしゃっ、と水気を切ったかと思うと、さほど間も空かずにざくざくと質量のある刻み音が聞こえた。 まるで流れるように、淀みない音の連鎖。 バランスの取れたそれらは創り上げられた音楽のようで、リザは手にしていた小説を胸に置くと、仰向けになったままうっとりと目を閉じる。寝そべったソファの上にカーテンの隙間から洩れる夕日が微かに差してくるのも、心地よさの一因だろう。未だに聞こえてくる小さな旋律に、リザは目を細めた。 今台所で腕を振るっているのは、天才と称される錬金術師、エドワード=エルリックという。 エドワードは普段、弟と共に国中を飛び回っている。軍属ゆえ彼の行動の自由は軍への忠誠をもって保証されているが、例によってエドワードとアルフォンスの2人が東方の司令部に顔を出したのは、実に3ヶ月ぶりであった。たまにしか顔を合わせないが、兄弟の闊達さ、気丈さ、強さに皆思う所があるらしく、司令部では一種のマスコットかアイドルかの扱いをされているのを2人とも知らない。周囲の顔色を読むのが上手いアルフォンスは気づいているかもしれないが、少なくとも自分に対しての関心の薄いエドワードは気づく片鱗すらなかった。例え知ったとしても、顔を出す度に頭を撫でられ髪を弄られ、身長でからかわれ性格で遊ばれ、軽口と嫌味での歓迎がアイドルなのかと、本人は主張するだろうが。 そのように、今回も司令部メンバーに癒しを与える為に(?)来訪したエドワードを、さも当然の権利だと言わんばかりにリザは夕食へと招待した。そしてエドワードも自然に、その申し出を受けたのだった。「お持ち帰り」だと恨めしい目も、咎める声も、相手が司令部最高権力者では向けられるはずがない。所詮軍とは、上下関係こそが絶対なのだ。ただ東方においての上下関係とは、官位ではなく実権が物を言うだけである。 +++ 「いいよ、リザさん。俺作るから」 何が食べたい、と聞くとエドワードはあっさりそう答えた。共に夕飯の買い物に出かけ、美味しそうなものを見繕う。 「簡単なものしかできないけどさ」 「あら、楽しみにしてるわよ?」 「うわ、プレッシャー」 精々頑張らせて頂きマス、と肩をすくめ、エドワードは手にしたキャベツの値段交渉に入った。 +++ 4本の腕があると思うと買い込む量も算段が狂うのか、テーブルには大量の食材が溢れ返った。青々しいキャベツ、塩気のきいた生ハム、瑞々しいグリーンアスパラ、濃厚な生クリーム、個性的な味わいのフルムダンベール、ほうれん草入りのフィットチーネ、食卓には欠かせないレーズンブレッド…。「これ、明日の分もあるんじゃない?」「それじゃ、処理の為にエドワード君、朝も宜しくね」「…お泊り確定ですか……後でアルに電話しとく」苦笑しながら、調理の準備を始めたエドワードを手伝おうとすれば、彼は一言休んでて、とだけ言った。結局エドワードの言葉に甘える形になったリザは、アスパラの皮を剥き始めた少年の背中を見ながら、ソファで読書に勤しむことにしたのだった。以前、同じように2人で夕飯を共にした時は2人一緒に料理したのだが、どうやら今日はエドワード1人で作りたい気分であるらしい。もしくはリザの連日の超過勤務の疲れを、少年はあっさり見抜いていただけかもしれない。 「…これじゃ、招待主の名が泣くわね」 「何で? 俺はリザさんの顔見て夕飯食えてラッキー。リザさんは俺の手料理食えてラッキー。そーでしょ?」 俺の手料理はレアなんだぜ、と笑いながら、エドワードはリザを台所からリビングへと誘導する。冗談めかした口調でも、その仕草は完璧なエスコート。15歳にしてこれでは、先が恐ろしくも楽しみだわ、と審美眼厳しいリザが思ってしまう程に。 +++ 夕飯ができあがるまでを読みかけの長編推理小説で潰すことにしたリザは、ソファに腰かけたり寝そべったり、のんびりとした時を過ごしていた。耳を澄ませば、誰かが自分のために料理を作っている音が聞こえてくる。料理の音には、温度がある。心の篭もった温かな音を立てながら、食材は変貌を遂げていくのだ。そのことを久々に感じて、リザは胸の奥がふわりとほぐれるのを感じた。他の誰でもない、あの少年が自分のために夕飯を作ってくれている、その事実だけで十分だった。 少年の驚きの声がしたのは、それからしばらくしてから。 「…あれ?」 リザさん? オリーブとニンニクの残り香をまとった少年は、不思議そうな顔でソファに寝転ぶリザの元へと近づいた。 「どうしたの?」 「や、料理できたんだけど……リザさんさ」 「?」 「眼鏡なんて、かけてるんだ…」 あぁ、と得心いった表情でリザは頷いた。 本を手にするリザの鼻には、滅多に目にすることのない眼鏡がちょこんとかかっている。細い銀縁、レンズも細型の、いかにも彼女らしい簡素かつ鋭利なデザインだった。 「たまにね。目が疲れちゃうから」 「…俺、明日にでも元凶のどっかの上司、蹴り飛ばしてきてやるよ」 「ありがとう。業務に支障ない程度にお願いするわ」 にっこり微笑んで、リザは明日の上司の不運を確定させた。 「…それにしてもさぁ、リザさん眼鏡かけてんのなんて、俺見たことねーよ? 何か損した気分ー」 「そぅ? たまにかけてるんだけど。普段は邪魔だから、外してるけどね」 「あー、くそ。あの無能。何か本気で腹立ってきた」 ばふん、とリザのかけるソファの隣に腰掛けて、エドワードはぶつくさと文句を言った。以前彼のために購入しておいた黒のエプロンは、やはりエドワードによく似合っている。自分の選択眼に満足しながらリザはぱたりと本を閉じ、眼鏡に手をかけた。 「さて、せっかく用意してくれたんだから、冷めない内に頂いていいかしら?」 「あぁ、失礼しました。どうぞ準備が整いましたので、テーブルにおつきくださいませ」 リザの手を自然に取ろうとしたエドワードの手が、すっとリザの目元へと近づいた。彼女が外そうとしていた銀縁に指をかける。 「…エディ?」 「ん。ちょっとじっとしてて」 他人に眼鏡を外される。あまり他人との接触を好まないリザにしてみれば、経験則にないことである。嫌悪感が起こらなかったのは、相手がこの少年であったからに他ならないだろう。つるが引っかからないように丁寧に外された眼鏡を、リザは本来の少し霞んだ視界で追いかけた。エドワードは楽しそうに笑うと、自然な仕草でリザの眼鏡を自分にかける。くい、と位置を調整する動作が妙に様になっていた。 「どう? 俺?」 意識的だろう、やや細められた目でリザに問いかける。普段は憎まれ口を叩き、落ち着きや常識という言葉から程遠い印象のある少年であるが、こうして誂えてみると本来は学者然とした造形美めいた造りであることが判る。 「似合ってナイ?」 「…そんな訳ないでしょ」 やっぱり、これは逃がすべきではない。 ふふ、と笑って、リザは改めて伸ばされたエスコートの腕に手をかけた。そのまま彼の耳元で、小さく囁く。 「素敵よ、私の錬金術師さん?」 瞬時に赤く染まりあがった少年の頬に、あぁ可愛いなぁと笑ってしまう性格の悪いリザだった。 「〜〜〜っ、ちょ、っと!」 「あぁそうだ。ねぇ、エディ。お願いがあるんだけど」 「……人の話聞いてないでしょ!? で、何?」 あぁくそ、顔が戻らない! と悪戦苦闘している少年を逆にテーブルにエスコートしてやりながら、リザは何でもないことのようにさらりと言った。 「エディの18歳の誕生日、空けておいてくれない?」 「……え、18? 俺、次16だよ?」 「判ってるわよ? そうね、普段の誕生日も空けて欲しいけど、18歳のバースディだけは絶対に空けておいて。どう?」 リザの意図が飲み込めないエドワードは、ハテナマークをそこらに振り撒いていた。3年後のバースディなど、予約しておくほどの価値があるだろうか。 「…別にいいけど。何かあったっけ、その日?」 「それがあるのよ。だって、結婚式だもの」 「え? リザさん結婚するの!? って、相手誰!? まさかマのつくあいつじゃないよね…っ!!?」 途端に勢いづいて、がばっとエドワードは身を乗り出した。冗談ではない。目の前のこの女性があの女にだらしなく湿気に弱く逃亡癖を抱えた男の元に嫁ぐ日が来れば、それは何処かのエリートが暗殺される前日のことだろう。 「違うわよ」 リザの返事に、安堵の溜め息をつく。それはそうだ。冷静になって考えれば、この観察眼と先見の明に溢れた才女である彼女が、あんな男を上司にすれども伴侶に選ぶハズがない…。 「え、それじゃ…」 「私と、君」 「はい?」 くるくると、エドワード特製生ハムのフェットチーネをフォークに絡ませて、リザは満面の笑みで言い切った。 「エディ。18歳になったら、結婚してくれる?」 +++ 「どうかしら?」 「エディ?」 ひらひら〜と少年の目の前で手のひらを振ってみるが、明確な反応が返らない。どうやら一時的に脳の回路が静止しているらしかった。そして数瞬の後、ようやく自失から立ち直ったエドワードは頬に耳に首筋に顔全体に、一気に朱を上らせる。 「〜〜〜っ!! え、あ、ちょ、うぇ、えぇ!!?」 「エディ。人が真面目にプロポーズしているのに、その反応は少し傷つくわ」 どう考えても真面目どころか変化球もいいところな求婚ではあったが、今のエドワードにその辺りを指摘する余裕などない。わたわたと、バスケットに盛られた林檎もかくやの勢いで血流が顔面に集中している。 「……プロポーズ?」 「えぇ」 つるん、とパスタを口にする。生クリームのソースが絶妙に絡み合っている絶品だ。 「俺、求婚された?」 「えぇ」 続いて生ハムを一口。塩気が食欲をそそる。アスパラを噛み締めると、仄かな甘味が広がった。 「……まじですか…」 「えぇ。それで、返事は頂けるのかしら?」 サラダに散らされたブルーチーズの深いコクを味わいながら、リザは向かいのエドワードを見やった。既にリザが半ば食べ終わっているのにも関わらず、彼の皿はほぼ始めの状態を維持したままだ。 「………聞かなくたって判るよね」 「でも聞きたいのも判るでしょう?」 上目遣いで何とか逃げようとするエドワードに、トドメの一言。自棄になったか、エドワードは半ば嘆くような顔で「Yes!」と盛大に叫び立てた。 「…あぁもう、俺が先にプロポーズすりゃ良かった! まだ結婚できねー年だからしなかったのに!!」 「世の中にはね、予約、というものがあるのよ」 まだまだ甘いわ、エディ。 「くっそー、悔しーっ! リザさんずりぃー!!」 「先手必勝、と言って欲しいわね。それに、式や色々と手順を考えると、今から用意してもいいくらいだわ」 勝利の笑みを浮かべつつ、リザはデザートワインを抜いた。甘い香りがふわりと漂う。実にご満悦、の様子でグラスにワインを注ぐリザを、エドワードは微妙な表情で眺めていた。 「…あの、でもさ、リザさん」 「なぁに?」 「…俺、これだからさ……結婚、ったって」 「判ってるわ」 申し訳なさそうに動かされた、機械の手。 3年後、その手が今と変わらぬ無機物か、血の通った肉体になっているか。それは誰にも判らない。 少年のこれまでの軌跡も、これからの道筋も、全てリザは理解している。そして、尊敬もしている。彼には魂の支えは必要ないことも知っている。それは彼の血を分けた弟だけの特権だ。他には誰もその地位には座れない。彼の大切な幼なじみにも、彼を守る後見人たる軍人にも、そして例えば未来の彼の伴侶にも。 しかし、支えにはなれずとも。彼の帰る場所にはなれる。憩う場にはなれる。癒し、慰め、そして時には発破をかけて発奮させる、そんな空間を提供することは可能だ。エドワードの中に弟の存在はかなりの割合を占めているが、それでも、空いたスペースに他人が割り込めない理由にはならない。 「私たちは今まで通り。何も変わらないわ」 それでも目に見える繋がりと絆を求める、自分の弱さにどうか君は気づかないで。 「…うん。だよな。そーだよな」 「そうよ。それに、どうせならもう盛大に式、挙げちゃいましょう」 「あはは、そうしようか! 大佐の奴が悔しがって涙にくれるよーなさ!!」 未来図を想像したか、くつくつとエドワードは笑った。 「準備って、色々大変だろーなー」 「そうよね。今エディのドレスの採寸したってサイズ変わっちゃうでしょうし。式場からかしら…」 「あ、そっか。ドレスだもんなー……ってちょっと中尉!?」 到底聞き逃せない問題発言に、普段から大きな瞳を更に見開いて、エドワードは思わず彼女の官位を口にした。既に散々彼女の名前を呼ぶのに慣れさせられてはいても、まだ呼び名の完全な置換には遠いらしい。 やや眉を寄せ、リザは少年の呼びかけを差し止めた。 「無粋な呼び方は禁止」 「や、あの、リザさん……つかぬ事をお伺い致しますが、ドレスというのは…?」 「ウェディングドレスでしょう? エディの着る」 「着ないから! 俺着ないよドレスなんて!? 普通ちゅ…リザさんでしょ!!?」 焦りを盛大に浮かべ、エドワードは首をぶんすか振りつつ抗議した。駄目だ。此処で引いたら本当に3年後、自分は純白に包まれて十字架の前に立つことになる。それだけは避けなければ、死んだ母さんになんて報告すれば…!! しかしエドワードの主張にもリザは耳を貸さず、逆に決定事項を述べるように淡々と言われる。 「だって、エディのが背が低いから、似合うでしょう? タキシード姿は背が花嫁より高くないと様にならないわ」 「俺はこれから成長期! もうばかすか伸びる予定!」 「仕方ないわね…それじゃこうしましょう。3年後、衣裳の採寸する時点で背の高い方がタキシード。低い方がドレス。どう?」 これでどうやら、ぎりぎりの妥協ラインらしい。どうもこうもない。この提案を受けなければ強制ドレスがひらひらとエドワードを待っている。ついでに、一生分の恥もセットで。 「…りょーかい。それでいいよ」 この答え以外、エドワードに何が発言できただろうか。リザは満足げに頷くと、夢見る目つきで指折り数えた。 「あぁ、3年後が楽しみだわ。エディのドレス姿、絶対非の打ち所がない出来でしょうね」 「だから着ないって!」 「そういえば、エディ」 「何?」 「パスタ、冷めてるわよ?」 「あ゛ぁー――っ!!?」 慌ててフォークを走らせ始めたエドワードを眺めながら、リザは幸せそうに表情を蕩かした。 そして実に残念なことではあるけれども、タキシードを着るのは少年になるのだろうと、少しばかり未来に思いを馳せたのだった。 |