「失礼します。ただいま戻りました」 扉を開けた瞬間の反応が、あまりにも予想通りだったものだから、柄にもなく笑いをこらえるのに苦心した。 |
「そして」 |
「いかがなさいましたか?」 あまりにも相手が固まっているものだから、こちらから声をかけてみた。 だいたい、人の姿を見てからずっと、口を半ば開けたままこちらを凝視しているとはどういう了見だろう。 地元のうら若き女性たちに、写真でも撮って配布してあげるのが人の道かもしれない。 そんなことを考えているうちに、ようやく復活したらしい。 ちらちらと、先ほどから視線が鬱陶しいったらない。 「どうかされましたか? 先ほどから全くペンが動いていないようですが」 「…ホークアイ中尉」 「何でしょう。休憩ならまだですよ」 「……それは一体何かね?」 さっぱり判りかねる、といった表情で、わたしの直属の上司は『それ』を指差した。 「エドワードくんのコートです」 「それは見て判る」 男物の、(しかもサイズの小さな)赤い、背中に独特なシンボルの入ったコートを着ている人間など、訊くだけ愚問というものだ。 「先ほど雨に降られまして」 「かなり降っていたようだったな」 「そこで可愛らしい紳士に偶然遭いまして」 「…紳士、か?」 あれが?と目一杯疑わしげな顔。 「そうですよ。わたしが寒いだろうと、コートを貸してくれたんですから」 15歳の少年にしては、上出来ではないだろうか? 「…いや、わたしの訊きたいことはそうではなくて」 「何ですか」 「なぜ、室内に入ってからも、まだ持っているのかね?」 何となく、手放すのが惜しくてずっと手にしたままの赤いコート。 彼の優しさ。 「…あったかくて」 「?」 「暖かかったんです。これ。とても…」 「子ども体温なだけだろう」 呆れたような彼には、判らないだろう。 ふわりとコートがかけられた瞬間に感じた、温もり。 自分のために向けられた柔らかな感情が、ひどく心地よかった。 コートは当然のごとく、自分にはサイズが合わなかったけれど(女であるわたしとの体格差を彼はどうやら意識したくなかったようだ)、そんなことは問題にもならない。 「自分の首輪はちゃんと見えてるよ?」 そう言いきったあの少年。金の光に彩られ、明るい道を歩けるはずの彼もいま、わたしたちと同じ軍属の名に捕らわれている。 実際には、それ自体は枷ではないかもしれない。 あの、悪夢のような『過ち』自体でもなく。 彼の生きる指針であり支柱であり、そしておそらく理由でもある―――弟の。 彼の弟であるアルフォンスだけが、彼の枷となり得るのだろう。 全てであるが故に。 なくせば、どう転ぶのか。本人にも判らないに違いない。 だから彼は笑って言い切れた。 「自分の首輪は見えてる」と。 では、目の前は? 視線を下方に向ければそこには、弟を形作った代償である機械鎧が。 視線をまっすぐに向ければそこには、空洞の身体を持つ弟が。 君はあまりにも強く、立派に立ち上がるから。 彼の本質がそうであると、皆が信じてしまう。 少年を突き動かすのは、いつでもたった一つの存在なのだ。 彼はあまりにも、深く相手を愛しすぎる。 かつてはそれが母親で、そして今は。 また、倒れる時が来るのではないかと、それだけが恐くて仕方ないわ。 いつでもいいから、どうか気づいて。 世界は意外と広く、その中には君たちを愛する人たちがいることを。 「…君はよほど、あの兄弟が好きなのだな」 「あら、いけませんか?」 「…判らないでもない」 生きることに貪欲な彼らの姿は、好意と敬意を持つにふさわしい。 がんじがらめになってもあがいて生き続けるのは、ひどく人間らしいから。 薄く笑って、上司は感心なことに再び書類にペンを走らせ始めた。どうしても今日は自宅に帰りたいらしい。そういえばここ2、3日の間、彼を強制的に司令部に閉じ込めていたような気がする。 カリカリとペン先の滑る音が響く中で、わたしは手にしたコートをようやく片付けておこうと壁へと向かった。明日にでも司令部に寄ると言っていたから、その時まで置いておけばいい。 目の先には、机に向かう男の姿。 その襟足が、唐突に気になった。 「中尉、どうした?」 「っ、いえ、失礼しました……埃が、ついていたように見えましたもので」 「構わない」 存在しない埃を払う動作。 無意識的に、彼の襟足に伸ばしていた腕。 彼が自分の気を許した者にしか、後ろに回らせないと知っていた。 自分なら、どこまで行けるのか、とふと思ったのと。 もう一つ。 知りたいような、知りたくないような。 例えばあの少年にとって『軍属』自体は何の意味も持たないかのように。あなたの行動の全てに影響する、何かがあるのだろうかと。 ―――あなたの首輪には、どんな銘が刻まれているのだろうかと。 けれど首輪は指先にも触れず。 そして、わたしはあなたの右腕として其処にいる。 |