ぞっとした。 見ている。 あの目が、わたしを。 |
「そして連帯とは生まれ出でる」 |
おだやかな振動と空気に運ばれた先で、わたしはこの世の地獄を見た。 否、「地獄だっただろう」場所を。 複雑に書き込まれた錬成陣。周囲を取り囲む化学薬品、実験器具、文献の山。 錬金術師の住む家としては日常的なその光景に、異分子がいたとしたら。 まるで罪を誇示するかのように床を染め上げた、その鮮血。 (それは実際には、血ではなかったのかもしれない) (そこにあった≠フが、ヒトではなかったように) そしてわたしは、上司がその場所に乗り込んでいった時に、一瞬だけ見てしまった。 はじめの印象は、おそらく「最低」 絶望と諦めを悔恨を淀んだ淵に沈めた、泥のような虚ろな目。 すでにそれは瞳ではなく顔にあいた穴だ。 その少年は、11歳。 近いうちに狗となるため、首輪を取りにやってくると、わたしの上司が言い切った少年だった。 移動距離もそれほどなく、大丈夫だろうと思って出てきてみれば、見事に洪水と呼んで差し支えないほどの大雨に捕まった。 軍の制服はきっちりした造りのため、雨を吸うとひどく着心地が悪くなる。 わたしは霧状の雨の向こう、霞んで見える職場を恨めしげに見つめ、そして潔く雨宿りをすることにした。この分では、どうせ直に止むだろう。突然の豪雨とは、そういうものだ。 いきなり、空が二つに割れた。 そして直後に、轟音。 雷が恐い性質ではなかったが、あまりに近いので空気そのものまでが振動しているようだった。 ちょうどすぐ横には図書館があった。入ることはこの有様では無理なので、入り口付近の屋根の下を拝借させてもらう。まとめた髪の先端から、ぱたぱたと襟足に水滴が伝っていく感触だけがはっきりとしている。 肌に張りつく湿度を持った空気。 世界のノイズにも似た、途切れない雨音。 「あれー? 中尉ー?」 びくりと身体がすくんだのは、きっと寒さのせいだ。 「…エドワード君? どうしたの」 「どーしたも、こーしたもさー」 がしがしと金髪をかき乱しながら、いつのまにか自分のすぐ隣にいた少年は愚痴をこぼす。 「今までここで文献あさり返してたんだけどさぁ、うっわ…やっぱ降ってやんのー…」 「もうじき止むわよ、きっと」 「ならいーけどさぁ。何か遠くで雷みたいな音が聞こえたような気がしたからさ、出て来てみたんだけど…あーもー、ただでさえアルに言った時間過ぎてんのに〜…っ」 彼の言う「雷の音」とは、つい先ほど落ちたものだろう。 ―――「遠くで聞こえたような」程度だったのだ。本を読んでいる彼にとっては。 生まれ育った環境と、先天的な才能と、持ち合わせた精神力。 全てが相互に作用して、今の彼が存在している。 「やって来る」とわたしの上司は断言し。 今現在。 彼の「首輪」には軍部という飼い主の銘が刻み込まれている。 彼の左足には、過去の過ちが。 そして彼の右手には、弟という絆と罪悪感が。 小さな彼の身体には、すでに太く重い鎖が何重にもとぐろを巻いている。 それでも彼は、進むことを止めない。 全てを己の弟のために捧げて。 どうして彼の目が恐いのか判る。 「…どうして」 「え?」 「どうしてあなたは、強いのかしらね?」 強くあろうと、がむしゃらに。 ぽっかりと虚ろを映していた空洞は、今や強烈な光を宿す。 「あの時、大佐…あの頃は中佐だったけれど、言ったわ。あなたが必ずやって来ると」 首輪をその身にはめるために。 「あのヤロー…好き勝手言いやがって」 「でも実際、あなたは来た。自分の決めた道のために」 一度どん底まで落ちた人間が、今や自分と同等のところまで。 這い上がってきた事実。 だから、恐いのだ。それは、わたしの目であったのだから。 「ねえ中尉」 そう言って少年は、首元をつんつんと人差し指で指し示した。 「ちゃんと見えてるよ?」 ちゃんとオレは見てるよ? 15歳にはとても見えない大人びた表情。子どもを捨てざるを得なかった、愛すべき子ども。 「首輪」 雨が小降りになってきた。止むのも時間の問題だろう。 ぞくりと忘れていた寒さがよみがえり、身を震わせると、彼が慌てる気配がした。 「あ! ごめん中尉っ!」 すばやく彼は赤いコートを脱ぐと、わたしの肩に被せかけた。一生懸命、背伸びしての動作がひどく愛らしかったと言えば、彼は怒るのだろうが。 「これ…?」 「ごめん気づかなくて。寒いだろ中尉? それ着てろよ、オレの宿目と鼻の先だしさ」 「でも、わたしも司令部に帰る途中だから、すぐそこよ?」 「だって濡れてるじゃん。女の人は身体冷やしちゃダメって…」 唐突に彼は口をつぐんだ。 かつて。おそらくは彼の母が少年に言ったことだったのだろう。 「…エドワード君」 どうして気づかなかったのだろう。 彼がこれほどに、単なる子どもだということに。 母親の言い聞かせを反射的にやってしまう、甘え盛りの子どもだということに。 「ありがとう」 少年は、ドーイタシマシテ、と照れくさそうに笑ってくれた。 君の行く先に。 どうか、そうやって君が笑うことのできる未来が待っているようにと、わたしは願う。 独りで立ち上がらなくても構わない世界があることを祈る。 今なら、きっと認められる。 同属嫌悪と、連帯感。 わたしが君に、一方的に感じていた同調性。 |