予感は、ほぼ100%当たる。
だからオレは、いつも何だかんだと理由をつけては、―――「1人で文献を読みたい」とか「少し頭を冷やしたい」とか。そしてその後に続くアルの「うん、判った。でも無理しないで、ちゃんと寝なきゃ駄目だよ」という小言に曖昧に頷くのもすでに習慣づいている―――アルと2人、別々に部屋を取った。
可能であれば隣室ですらない、一部屋以上空けた部屋を。
そしてオレはじっと待つ。その時を。
暗雲が空の舞台に垂れ込め、冷たい断罪の雫が世界を埋める―――その時を。




++ Real Pain ++






どこからだ。
どこからオレは、間違えた。
弟を取り戻そうとしたことか?
母を取り戻そうとしたことか?
それとも、錬金術を修めたこと、それ自体か?




(あぁ、そうだ。間違っていたのは―――オレたちだ)




「は…っ」
枕に顔を押しつけるようにベッドに乗り上げ、丸く猫のように縮こまってから大きくのけぞる。
1秒たりとも止まってなどいられない、かのように。
「う…っ、くぅ……」
ごろりと横向き、そして脊髄をバネに跳ねた。
身体のあらゆる骨と筋を駆使して、オレはベッドの上で1人、滑稽なダンスを披露し続ける。




―――違う。
これは、違うから。
だから。
(―――赦して)




今日は運良く、アルは隣のそのまた隣の部屋にいる。
部屋にかなり余裕のある時期で良かった。
昼過ぎからじりじりと感じていたことだが、もし今夜アルが隣室にいたならば、気づかれてしまったろうと思う。
それほどに、『予感』は激しい雷雲の到着を告げていた。




―――これは、あり得ない痛み。
幻肢痛とも呼ばれるそれは、失われた四肢が苦痛だけを脳に送り込んでくる、錯覚だ。
失ったことを信じきれずに。
失ったことを受け入れられずに。
だからその痛みにのたうちながらも、『感覚がある』ことにどこか安堵して。
そしてオレを襲うのは、雨の夜に被さる重罪そのもの。




「……ぅぁっ」
声を殺すことにも、だいぶ慣れた。
金属の肢体を得ての初めての雨の夜、オレはこのまま出血も何もないままに、苦痛だけで死ぬのだ、と漠然と思うほどの痛みに襲われた。
雨が降ると古傷が痛む、とよく年寄りは口にするが、その意味をようやくその時に実感した。
『それは…幻肢痛さね。神経が覚えてるんだよ』
手術を行った老婆が、痛みに発狂しかかったオレにそう告げた。
『気圧や湿度の変化で、すぐ痛みが起こる。それだけは今の技術じゃ、どうにもならないんだ―――後悔、してるかい?』
『…冗・談。このくらいじゃ、痛み、なんて…呼べやしない……っ!』
本当の痛みが何なのか、今のオレは知っている。
だからこのくらい、何でもない。
手足を失ったままの状態であっても、幻肢痛は起こるものだ。
それに機械鎧という、金属であっても神経の通うものを装備すれば、どうなるか。
神経はより過敏に苦痛を思い返し、それを肉体の主へと伝え続ける―――




このまま、この金属の手足をちぎり取ってしまいたい、という衝動に幾度駆られたか。
そして、どうしてオレはいまだそこまで弱いんだ、と自身を叱咤したか。
まっすぐ、前を見て。
歩くと決めたはずなのに。
そしてオレの隣には。
必ずお前がいると、いなければならないと、そう思っているのに。
ああそうだ。判っている。
真実の痛みとは、何か。
幻肢痛だか何だか知らないが、それだけでこのオレが、参るはずはない。




しかし現にオレはこうして、雨の夜ごとに醜悪に踊り続ける。
汗に濡れ、額に張りついた髪が鬱陶しい。
そしてオレは、もうすでに真実に気づいていたのだ。
そしてそれは、気づいてはいけなかったことなのだ。




これは幻覚で、錯覚だ。あり得ない痛みだ。あるはずのない痛みだ。
そして―――お前の、失ったものだ。




感覚がない、という感覚は、オレには絶対に判らないだろう。
オレだけではなく、きっと弟以外の全員が。
お前はどこで見てどこで聞いてどこで何を感じているんだ?
そんな簡単なことが訊けない。
そんなお前に、痛みに苦しむ姿など死んでも見せられない―――と、そうオレは自分を誤魔化して。
それを、お前と部屋を別にする言い訳にして。




「くそ…っ」
そうだ。これは、ファントム・ペイン。
虚構の苦痛。
無くした身体の悲鳴。
そうでなければならないのだ。
これは、幻肢痛でなければならないのだ。




だから、これは―――『成長痛』なんかじゃない。




この膝の痛みも。骨といわず関節といわず、全身に襲いかかる苦痛も。
みしみしと身体が軋む感覚。これは何だ。
成長痛なんかじゃない。そんなはずはない。これは幻肢痛だ。
だってそうじゃないか。




なんでオレがそんな痛みを感じていられるんだ?




弟は、痛みも、快さも―――成長すらも、あり得ないのに?




肉体も精神も、脳から分泌されるホルモンで成長をしていくんだ。
それじゃあお前は、成長をするのか?
お前は、どうやって時を刻んでいるんだ?
ああそうだ、オレは、それを考えることすら恐ろしいんだ。




この身体が成長することが、オレにとっては何より恐ろしいんだ。




お前との境界にあるものが明確になってしまう。
お前とオレとを隔てるものが、白日に晒されてしまう。




そしてオレは、『それ』がコンプレックスであるかのように騒ぎ立てるけれど、その原因も知っている。




背が伸びないわけじゃない。
機械鎧の負担が大きいだけじゃない。




オレが『それ』を拒んでいるんだ。




だからこの身体はいつまでも。
子どものままでとどまり続ける、はずだったのに。




雨の夜、老婆の言葉が蘇る。








『それは―――幻肢痛さね。気圧や湿度の変化で、すぐ痛みが起こる』








その言葉は、暗示だ。




それは、オレの醜悪さがありありと判る暗示だ。




仕方ないのだと。 痛むのは、仕方ないのだと。




『だってこれは幻肢痛なんだから』




そんな言い訳を脳は身体に出して、そして身体は緩やかに、しかし確実に『成長』を始めようとする。




暗示が蘇る、雨の夜。




オレは『痛み』に耐えて、そして己の俗悪さに吐き気を催して。




「は…はははは……」
考えることすらも、今は苦痛で。
窓の外を覆い尽くす雨音に、罪をまざまざと思い知らされながら。










(感じてはならない苦痛に身を捩りながら)










オレは―――『幻肢痛』に身を委ねた。













>>>豆独白。
痛みからではなく、痛みの原因から逃れようとする豆の話。



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