犬は確かに飼ったけれど、二匹だったなんて思いもしなかった。 |
++ 犬 ++ |
東方指令部内に、黒い犬が一匹歩き回る姿が日常になってからの事。 今日も今日とて、ロイ=マスタング大佐は増えはしても減る事のない不思議な紙束(本人談)とお付き合いしており、リザ=ホ−クアイ中尉は己の職務をいつこなしているのか、甚だ怪しいまでに完璧に、上司の尻をひっぱたいていた。 「…中尉」 「何でしょう? 休憩でしたら先ほど取られたばかりかと」 「4時間前が先ほどなのかね!?」 「労働基準には抵触していません」 まさにその通りなのだが、さも当り前のように言われるとどうにも物悲しいのが常である。 人並み以上の集中力と処理能力を持ち合わせてはいると自負していても、それ以上にこき使おうとムチの用意をしている部下がいればさもありなん。 しかしホークアイ中尉の『逃げたければ、いつでもどうぞ?』なオーラに、すっかり気圧されている程度には、上司教育は浸透しているらしかった(byハボック) 余談であるが、つい先日マスタング大佐が大人気なく仕事から逃避しようとした際に、情け容赦なくホークアイ中尉が射撃を腕を披露したのはすでに伝説と化していた。しかも中尉愛用の拳銃ではなく、わざわざ射撃練習場から借り出してきたライフルであるから尚更に。 その弾丸がどうやら大佐の臀部を掠めたとかそうでないとか、様々に不名誉な噂が流れてしまい、泣きを見たのは逃亡した張本人である。 そして今日も減らない仕事を前にして。 もうダメだ死ぬ、とでも言いたげにロイは実に重々しく口を開いた。 「…15分」 「5分です」 「…10分」 「7分です」 「…9分」 「これ以上粘られたら無しにしますよ? 8分です」 「…判った。きっちり8分だ」 はぁ、と肩から顔から全身から力を抜き、マスタング大佐はだらりと執務机に突っ伏した。 1分1秒を賭けた馬鹿らしくも真剣な休憩時間争奪戦を毎回毎回飽きもせず繰り返し、勝ち取った時間をへたり込んで過ごすのはいつもの事だ。 この時ばかりはホークアイ中尉も上司の見張りを止め、少しばかり強張った筋肉を解していた。 きぃ、と小さく音がして扉が動いた。 誰かが入ってくる様子はない。 しかし部屋の主とその部下は別段不審にも思わず、部下の方はいそいそと扉へと近づいた。 そこにいたのは、黒いかたまり。 先日フュリー曹長が連れてきた、現ホークアイ中尉の愛犬であるブラックハヤテ号である。 「おいで、ブラックハヤテ号」 優しげな飼い主の手招きに、嬉しそうに尻尾を振ってブラックハヤテ号は駆け寄った。 抱き上げ、愛犬を腕にしたホークアイ中尉は、アニマルテラピーの効果か実に柔らかく笑っている。 その様を、机と頬とくっつけたまま恨めしげに見つめているのは誰あろう、部屋の主。 「…キミは私を上司と思っているのかね」 「そうでなければ、こうしてこの部屋にはいないと思いますが」 「それにしては、そこの犬との態度の差が露骨すぎるように思うが」 「ブラックハヤテ号と同扱いして欲しいんですか?」 呆れたようなリザに対し、 「…悪くないな」 ふむ、と顎を手に考える風情のロイ。 のっそりと身を起こし、頬杖をついて言う。 「軍の狗と呼ばれるよりは、キミの犬になったほうが箔がつく。そう思わないか?」 どういう理屈だ。 しかし相手は何処まで本気なのか、にこにこと飼い主(?)を見上げている。『待て』をしている犬状態だ。一瞬ぱたぱた揺れる尻尾と垂れた耳の幻覚まで見えてしまったリザである。 「わう」 犬の真似らしき声をあげ、顎をしゃくって示した先は処理済の書類群。 そのまま何も言わずにじぃっと部下を見上げるその目は、何か訴えようとする時のブラックハヤテ号とそっくりである。 しばしリザは考え込み。 「…よしよし」 とりあえず誉めて欲しいのだろうと判断して、上司の頭を撫でてみた。 どうやらその感触がお気に召したらしい。相手は満足そうにごろりと再度机に突っ伏した。 しかしそれで終わらないのがロイ=マスタング。伊達に焔の錬金術師を名乗っていない。 表情だけはじつに無邪気な風に装って見せながら、その実じりじりと飼い主との距離を詰めていく。 ぺし、と思わずリザはその脳天をはたいてしまった。 ほとんど条件反射か脊髄反射でやってしまうことだ。(すでに不敬罪という単語は2人の間には存在していない) そして犯人はといえば自分の所業を棚に上げ、実に不満そうな顔をしている。 「…ひどいじゃないか」 「休憩は終わりです」 見れば有能な部下のおっしゃるとおり。 時刻はきっちり、16時35分を指している。 「まさか秒単位で計っていたのかね」 「もちろんです。その1分の間に、何枚判が押せるかお教えいたしましょうか」 「……止めておこう」 賢明な答えを返し、ロイはしぶしぶと先ほどまでの流れ作業的なデスクワークへと戻った。 それを見て、腕に抱えた子犬を「それじゃまた、遊んでいらっしゃい」と廊下へと送り出し、リザもファイルケースを抱え直す。 そのまま辞去しようとした彼女であるが、ふと思い出したように足を止めた。 「…そうでした」 「? 忘れ物かね、中尉」 「ええ、忘れてました」 足早に上司へと歩み寄り、ごく自然な動作で彼へと顔を寄せる。 ふわりと、リザの愛用する柑橘系の残り香がロイの鼻腔を掠めた。 「ちゅ―――」 「…叱ってばかりでは、良い躾とは言えません」 柔らかな甘い感触を頬に残しながら、顔全ての筋肉が硬直してしまったかのようなマスタング大佐の間抜けな表情を眺めて。 リザ=ホークアイは珍しく声を立てて笑った。 |
了 |