周囲からは、冷静で物怖じせず、颯爽としていると評されている自分であるけれども。 そんな認識はとんだ誤りだ、とリザは思う。 なぜなら、見てみろ。 自分はこんなに小さな物体に、眉間に皺寄せ悩まされているではないか。 |
++ 渡された鍵 ++ |
ため息をつくと、幸せが逃げて行くという。 だとしたら、自分はこれからたっぷり5、6年は不幸続きということになるだろう。 しかしそれを、元凶であるとある人物に告げるのはためらわれた。 そうしたなら、あの食えない上司は嬉々として、責任は取ろうなどと阿呆なことを口走るだろうから。 1人帰った、ワンルームマンション。 軽い酔いも覚め、冷えた身体をじっくりとバスルームで温めてきたら、すでに時刻は午前2時を過ぎていた。 いくら明日が遅い出勤だからと言って、もうそろそろ身体を休めないと仕事に響く。 職を持つ人間の鑑ともいえる態度で、リザは就寝前に紅茶の葉を用意していた。 カフェイン摂取は眠りには逆効果なのだとは判っているが、ミルクをたっぷりと注いだダージリンは、最近のお気に入りだった。 アップルだとかピーチだとか、よけいなフレーバーは邪魔である。 Simple is the best リザのそんな基本姿勢は部屋のそこかしこに、如実に表れていた。 キッチンの収納はスチールラックで細かに区切られ、そして壁には市場で見つけた、簡素でしかし洒落心のある絵を1枚だけ、飾りつけている。 寝室にもよけいな家具はいっさい置かず、ベッドと書き物用机、細身の椅子、一人掛けのソファ、ローテーブル。 全体的にモノトーンで整えた、あまり生活味のない部屋であった。 そんな、全てが彼女の意思の元に作り上げられた部屋で。 ただひとつ、違和感を発している物があった。 そしてそれが先ほどからの、彼女の不運の元でもある。 テーブルの上に確かに存在を主張する、小さな鍵。 チェーンもキーホルダーもついていない、裸の鍵が1本、そこに置かれていた。 テーブルの脇、くずかごのすぐ隣に可愛らしいリボンが丸めて置いてある。否、どうやら捨てようとしたのに失敗して、そのままで放ってあるらしい。 金の糸が織り込まれた真紅のリボンは、彼女の手にかかるまでは鍵を彩っていたのだった。 小憎たらしいくらいに、可愛らしいそのリボン。 それを上機嫌に鍵に結びつける、童顔の男をまざまざと想像してしまい、そのイメージのあまりの鮮明さに軽い自己嫌悪に陥ってしまう。 あぁ、もうどうして。 不意打ちのように渡された、その瞬間のことを思い出す。 さも当たり前みたいに、あの上司は何かを取り出してきて。 促されて右手を伸ばせば、ぽとりと鍵が落とされた。 これは何かと尋ねれば、あの男はひどく楽しそうに笑って。 此処の鍵に決まっているだろう無粋だなと、言い放ってくれたのだった。 (―――よりによって、あの人に無粋と呼ばれる日が来るなんて!) それは侮辱罪に当たるのではないかとまで、思ってしまったことはおくびにも出さず。 やや作るのに苦労した、呆れた表情でそっけなく「それじゃあ頂いて帰ります。実用性はゼロですけど」とだけ告げて帰宅してきたのだ。 それから小1時間は経っているにも関わらず、まだ自分は落ち着きを取り戻していない。 慣れた手つきで葉を湯に浸した。 事前に温めていたカップは名もないメーカーの物であるが、丈夫で冷めにくいのが気に入っている。 そもそも。 どういう意図でこんな、嫌がらせとしか思えない「プレゼント」とやらを寄越したのか。 まさか自分が喜んで受け取るなど、予想していたとも思えない。そんな甘い想像を膨らませるほど、自分との付き合いは短くも浅くもないのだから。 ティースプーンで砂糖をわずか、すくう。 だいたい。 あの男は、自分がどうすると思っているのだろう。 仕事から帰ってきたらドアが開いていて、入るとそこには暖かい夕飯とともに「お帰りなさい」とでも声をかけて欲しいのか。 そこまで下らない期待を抱くような男なら、早々に見限ったほうが良いのかもしれない。 それとも、ただ渡したかっただけなのだろうか。 自宅の鍵を、血の繋がらない赤の他人が持っている。そんな些細なことに、安堵を覚える可愛い性格だったろうか。 おそらく、相手は自分がその鍵を使うことを期待してはいないだろう。それくらいは判る。 自己満足だと自覚している相手の頼みを、どうして人は拒むのが下手なのか。 ミルクパンで温めたミルクを、先にカップへと注ぐ。こうしておけば、ミルク臭さは消えるのだ。 と、足元に何やら柔らかい感触を感じて、リザは目線を下にやった。 「…あら。ごめんなさい」 起こしちゃったのね、ブラックハヤテ号? 深夜に帰宅した重労働な飼い主を労わるように、黒犬はつぶらな目でリザを見上げてきた。 お疲れ様、お帰りなさい、と言っているように見えるのは、飼い主としての欲目だろうか。 思わず顔も綻んで、ただいまと告げてブラックハヤテ号を抱き上げた。最近目方の増えた彼は、そろそろ抱き上げるに苦労するだろう。 ひとしきり愛犬との交流を楽しんで、リザはソファへと腰を下ろした。 ゆっくりと、ミルクティーを口に運ぶ。 甘い柔らかな香りと、優しい甘さが広がるはずであったのに。 「…っ!?」 リザは目を見開いて、思わず口の中の液体をふき出すところであった。 ミルクのために濁ってはいるが、カップをやや傾けてみるとそこには。 どろりと塊になりかけてすらいる、おそらく砂糖であったもの。 飽和状態を超えてまで、砂糖を放り込まれた液体がそこにはあった。 「……」 さすがに、これを飲める人間はいないだろう。 幾分気落ちしながら、リザは中身を流しに捨てた。 そしてふつふつと、沸いてくる感情は何かと言えば、まぎれもない怒りだろう。 あぁ、もう全部。 全部、あの男のせいだ。 ブラックハヤテ号がまとわりついてくるまで、それこそ好物を淹れている間にも思考を占拠していたあの男。 ティースプーンを、いったい幾度往復させればここまでのシロモノが出来上がるのか。 たまにはゆっくり落ち着こうと、ラベンダーオイルを入れたバスに浸かってきたのに、すっかり冷めたこの身体も。 1日の締めくくりに、とんだ紅茶を飲まされるはめになったことも。 そして何より、視界に入れただけで心がざわめく、こんな物を寄越しておいて。 人をこれだけ動揺させているだなどと、きっと想像もせずにあの男は。 自分勝手な上司だけが、ゆっくりぐっすり高いびきというのでは納得いかないではないか。 リザは、思い立ったように立ち上がるとクローゼットから衣服を取り出した。 ベージュのボックススカートに、オフホワイトのカッターシャツ。引出しからはストッキングを探し当て。 夜更けに次々と身支度を整えていく飼い主を、飼い犬は「?」と小首を傾げて見つめていた。 手早く髪を留め、小ぶりのハンドバッグを手にして中身を確認した。 化粧品ポーチ、手鏡、ハンカチ、その他いろいろ。 そして。 しばし迷った素振りの末に、リザはテーブル上に鎮座を続ける忌々しい物体を手に取った。 そのまま自棄のように、バッグ脇のポケットへと放り込む。 「ごめんねブラックハヤテ号……ちょっと、出かけてくるわ」 まさか自分が鍵を使うとは、カケラも思っていないだろう男の、ぽかんと間の抜けた顔をしっかりと拝んでやろう。 こうなったら、張本人も道連れに寝不足にしてやる。 それに、あの上司の自宅のほうが、東方司令部からは近いのだから。 もし寝ていたら、目覚めの気付けに一発お見舞いしてやろうと思いながら、リザは愛銃を最後にバッグへと放り込み。 苛立たしそうに、不愉快そうに、しかし何処かわざとらしく困った顔で。 ばたりと、つい1時間前に鍵を開けた、自宅のドアをくぐったのだった。 |
END |