うららかを通り越してけだるいほどの春の午後。
仕事さえなければ誰でも日向で昼寝を決め込もうとするだろう陽気の中に、とてとてと虚ろな目をしながら歩いている金髪の小柄な少年の姿があった。








++ しあわせ! ++










希望図書を手にできるのが明日以降だと知らされ、今日の予定が漂白されてしまったエドワードはふらふらと勝手知ったる何とやら、で東方司令部を訪れていた。かといってマスタング大佐を訪れたわけではない。どうして好きこのんであの飄々とした黒髪の男の顔をこんな時まで見に行かねばならんのか、と少年であれば言うであろう。エドワードの来訪の目的はただひとつ、その男の腹心の部下である、リザ=ホークアイ中尉に会うためである。
用事があるというわけでもない。ロイに会わねばならない時はごねてごねて屁理屈をつけ倒してから、ようやくぶすっとした顔でロイの執務室の扉をくぐる少年であるが、相手がリザであれば晴れでも雨でも槍が降っていようとも平然と会いに行く。リザはリザで、少年が年相応の笑顔で抱きついてくるのに母性本能がくすぐられるのか、これまた希少なスマイルの大放出で出迎える。その前でわざとらしく不機嫌な顔をしたロイが席にかけているのはご愛嬌だ。


さて、そんなわけで本日もエドワード=エルリックはお目当ての人物目指して司令部に顔を覗かせたわけであるが、しかしながら今日は彼にとってとことん間が悪い日であるらしい。


「ねぇハボック少尉。ホークアイ中尉は?」


「…大将、挨拶抜きでいきなりそれか? オレ傷つくなー」


「あはは、ごめん少尉。こんちわ」


「おう、元気そうで何よりだ。…で、中尉な。さっき緊急会議で大佐と行っちまったぞ」


「えぇ!?」


大げさに悲壮な顔をしてみせるエドワード。それはそうだろう。図書館で希望申請をすれば手続きに日にちを取られ、それならと安らぎを求めてやって来れば、その当人は不在ときた。


「その会議、長引きそう?」


「どーだろな? 大佐次第じゃねぇの?」


「…何、それ」


「あのヒトがこの昼寝に最適な日に、長々会議したいと思うか否か、って話だ」


あのヒト自分のためになら幾らでも仕事早く終わらせるヒトだから。


「……ホント嫌な上司だね、少尉」


「判ってくれるか、大将」


しみじみと、立場も年齢も全ての枠を越えて、ただ1人の人物に対して同じ思いを抱いたエドワードとハボックであった。


ハボックと別れ(どうやら彼は昼休みぎりぎりまで外でうつらうつらしていたらしい)、1人になったエドワードは当然、手持ち無沙汰になってしまう。ちなみに大抵一緒に行動している弟のアルフォンスは、どうやら愛用のオイルが切れたらしく、しかもそれがなかなかない製造元の商品であるらしく、この大きな街でくらいしか見つからないと朝から買出しに出かけている。安い物を適度に値切ってくるアルフォンスのことであるから、帰ってくるころには買い物袋に掘り出し物を詰め込んでいることだろう。


「あー、どーしよっかな…」


柔らかな陽射しに照らされた回廊を歩いていると、ここが軍施設であることを忘れてしまいそうになる。緊急会議が行われているとはいえ、それは軍事危機や国内情勢の関連ではないらしく、司令部自体は穏やかなものだ。この様子であれば、会議ももしかしたら早く終わるかもしれない。


そう思いつつ、エドワードが中庭へと視線をやると、まさにおあつらえのように白いベンチが2つ、3つ並んでいた。程よく木の陰が被り、日光浴には最適だろうと思われる。その内の1つに腰をかけ、エドワードは慣れぬ安穏さに大きくあくびをした。己の性分であろうが、気がつけば即行動、即実力行使を実践している少年にとってみれば、休息とは無縁の単語に他ならない。休み休みゆっくりと辺りを見渡していくくらいなら、疲労しきった足を引きずってでも前のめりに歩んでいくことを選んだエドワードである。


しかし、ここは喧騒遠い木陰のベンチ。


先ほど昼食にと口にしたカツサンドとカフェオレで満たされた腹も、じわじわと心地よい眠気を持ち主へと訴えかける。普段であれば基本である食事すら疎かにして日々を送るエドワードだが、こと文献と研究にのめりこんでいない時は年に見合った量を食べる。くちくなった腹を抱え、陽だまりの中で何をするでもなくぼうっとしていれば、当然のごとく。


とろんと少年の金色の瞳がとろけ、ゆっくりと目蓋が落ちていった。あふ、と小さくあくびをかみ殺しながらも、意識はどんどんと霞がかっていく。ずるると身体が無理のある体勢へ傾いで行っても、すでにそれを直す余裕はエドワードにはなかった。


当然ながら、少年の顔に誰かの立つ影が差しても、エドワードは全く気づかなかったのである。





+++





遊びに遊んだエドワードがただいまと帰宅すれば、いつもかかるお帰りの声がなかった。どうしたんだろうとエドワードは小首をかしげ、家中をその存在を捜して歩き回る。少年が捜していることが判ったのか、寝室のほうから小さく彼を呼ぶ声がし、エドワードは部屋へと駆け込んだ。


「ただいま、お母さ」


にっこりと笑ったトリシャを見つけ元気良く声を上げかけたエドワードだが、母親の膝上の存在に気づくと、彼もまた声を潜めた。


「…ただいま、お母さん」


「お帰りなさい、エドワード」


白い母親の手が、最上の愛を込めて膝に頭を乗せた少年の髪を撫でて行く。エドワードの弟は今やすっかり夢の国の住人と化していた。1人先に帰った弟がどうしているのだろうと思えば、大好きな母親の膝を占領して昼寝中とは。


「お母さん、僕も!」


「あらあら、エドはそんなに甘えん坊さんだったの?」


ふふ、と柔らかな母親が笑みを浮かべる表情が、エドワードは大好きであった。その笑みとともに暮らせるならば何をしても構わない、と子ども心に思うほどに。


「…駄目?」


「大丈夫よ。ほら、こっちの膝においでなさい」


愛情を求めれば、いつでもその笑みで迎え入れてくれる無二の存在。何故だか急に悲しくなって、エドワードはぎゅっと眉をひそめた。


「エド?」


「あ、手、洗ってくるっ」


部屋を飛び出し、そしてすぐさま戻ってきた少年は、弟と逆の膝に頭を乗せた。ふわりと太陽の匂いがエドワードを包む。幾らかの照れくささと共に感じる、満ち足りたこの思いの名前は何だったろうか。
そう、太陽なのだ。この存在も、愛情も、生活も、全て。


「ゆっくりお昼寝、しましょうね」


そうしてトリシャは小さく、昔ながらの子守唄を口ずさむ。幼い子どもを見守り、愛するための唄。


エドワードとアルフォンスは母親の腕と唄に包まれ、ふわふわとした眠りへと落ちていく。
彼女の身体からほのかに香る石鹸、白い糊の効いたエプロンの肌触り、水仕事で少し荒れながらも、母性の象徴のような細い指。
兄弟は眠りにつく。起きた時も変わらぬ母親の笑みが見られることを疑いもせず。





+++





人間の脚とは、きっと他の誰かをその上で寝かせるためにあるに違いない。柔らかく温かな膝の感触に、エドワードはそんなことをふと思った。


太陽の匂いがする。肌に降ってくるのは、きっと心地良い春の陽射し。
少し陽の角度が変わったか、かすかに目蓋の上を日光が差す。少し眉をひそめ、むずがるように身じろぐと、それを宥めるように少年の髪を白い手が撫で上げて行った。その手に気分を良くして、エドワードはこれまた全開の笑顔で枕となってくれている膝をぎゅっと片手で抱きしめた。


さらさらと少年の綺麗な金髪を指が梳いていく。前髪をなぞり、耳元をくすぐるように撫で、そして編まれた長髪が襟元に挟まらないよう、するりと服の上へと出してくれた。


ゆっくりとエドワードが金の瞳を現すと、目に映ったのは白と青。
白は指だろう。きめ細やかな女性特有の柔らかな肌の感触。


それでは、青は一体何だろう?


思い至って、ようやくエドワードの意識は少しばかり浮上した。


「……あにゃ?」


「あら、起こしちゃった?」


「〜〜〜っ、中尉ぃ!?」


予想しない声が頭上から降り、驚きのあまり声が引っくり返るエドワード。
当然だろう。先ほどまでの捜し人が、己の頭を膝に乗せて微笑を浮かべているのだから。目に飛び込んだのは軍服の青だったのか。
慌てて起き上がろうとすれば、リザの腕がそれを優しく押しとどめた。


「いいのよ、もう少し寝てて」


「え、と……オレ、どのくらい寝てた?」


「20分くらいかしら?」


それでは20分もの間、自分はこの人の膝を占拠してしまっていたのか。
申し訳なさと同時に、どこか気恥ずかしさに似た嬉しさがこみ上げる。他人の膝枕で眠るのは、一体何年ぶりだっただろう。遠い彼方へと遠ざかってしまった過去の幸せを、今一度思い起こさせてくれたその感触。


「あ、じゃあオレもう起きるから…」


「ねぇ、エドワードくん」


さらさらとエドワードの頭を撫でながら、リザはかすかに目を細めた。少年の髪の感触はひどく気持ち良い。同じ金髪であっても、2人の髪色は微妙に異なった。リザの金が見る者を惹きつける鮮烈さに彩られているとすれば、エドワードの金は幾度でも立ち上がる強さと活力に満ち満ちた彩り。


「疲れてる時は、休んでも良いのよ?」


そう彼女が告げるのを聞いた少年の目が一瞬だが確かに動揺したのを、リザは見なかったことにした。休むことを厭う少年、寛ぐことに罪悪を覚える少年。彼が一時の休息を得るのを、一体誰が咎められるか。


「…ごめん」


「謝らないで。ね、エドワードくん。もう一眠り、しましょうか」


「え、いいよ。中尉、もう仕事あるんだろ?」


エドワードが謙虚に振舞ってみせる相手はおそらく、軍部内ではリザだけであろう。そして気丈な少年をどこまでも甘やかしてしまうのは、やはりリザが女性であるからだろうか。


「さっきまで会議だったから、私も今から休憩よ」


「でも、」


「いいの」


深く寝入ってしまっては、結局仕事に支障を来たしてしまうのではないだろうか。そう思い、今度こそ起き上がろうとした少年の肩を、リザがまたも止めた。


「好きなだけ寝てて? キミが寝てる間、私は休憩よ」


「…いいの?」


「えぇ、どうぞ。私も休むんだから、遠慮は要らないわ」


私は誰かと違って、仕事を溜めたりしてないから。


そう茶化しつつ自分を甘やかしてくれる相手に、少年は何とも言えない表情でしばし黙りこくり。
ようやくおずおずと、再び彼女の両膝に頭を乗せたのだった。


「痺れたら何時でも言ってよ、中尉?」


「大丈夫よ。そこまで柔じゃないわ」


ほんのりと耳から顎にかけてのラインが赤く染まりかけている少年の髪を梳きながら、リザは幼少時に覚えた子守唄を口ずさんだ。少しでも安らかな眠りがこの小さな少年に与えられるようにと、祈りながら。


「えと、それじゃあ、お休み、中尉v」


「えぇ、お休みなさい」


はにかんだ笑みでエドワードがベンチの上で軽く丸まり、そして彼女にしか聞き取れないほどの小声で「ありがとう」と呟くのを聞きながら。
リザはいつまでも日が落ちなければ良いのにと、淡い願いを抱いたのだった。





+++





ぶばっ!


耳障りな音に何なのかと振り向けば、回廊を歩いていたらしい自分の上司が、手にしたコーヒーを行儀悪くも噴き出している最中だった。


「軍服が汚れますよ」


「って…キミは一体何をしているのだね…!?」


「エドワードくんと一緒に休憩ですが、何か?」


言外にさっさとあっち行け、と含めながらリザは上司を平然と睨みつけた。静寂に包まれた昼下がりを満喫しているところに妙な水音とともにストレスの原因が現れれば、普通の人間ならば殺意を抱く。


「何って…いや、膝枕…」


「司令部内で膝枕をしてはいけませんか」


「いや、そうじゃなくて…」


まさか14も年下の少年が羨ましいんです、などとは口が裂けても言えない。変なところでプライドが邪魔をするロイであった。


「それより私はまだ休憩ですが、大佐はもう仕事に戻られる時分じゃないですか?」


「う゛。いや、だから今から戻ろうと…」


「じゃあ戻ってください。私がいないからとサボったら……後悔させてさし上げます」


「……はい」


確か規定上己が上司だったはずなんだが、と思わず記憶中枢を確認しながら、ロイはしぶしぶと執務室へと行こうとした。が、かすかに部下の膝を陣取る金が動いた気がして、思わず注視してしまう。


リザには判らないように薄目を開けたエドワードが、ロイとしっかり視線を合わせながら―――にんまりと笑った。


「こ…の、豆!!」


「大佐! エドワードくんが起きるじゃないですか!」


「起きているじゃないか!」


「まだ寝てます!」


リザの言う通り、再び覗き込んだ時には少年はすぅすぅと穏やかな寝息を立てている。
実は演技派だったらしい少年にあの豆め覚えてろ、と年甲斐もなく毒づいて見せるが、所詮は負け犬の遠吠えである。


「さ、大佐。どうぞ執務室へお戻りください」


「……キミもさっさと戻って来るようにな」


「善処します」


この分では夕刻までに戻ってくるか否かも怪しい。
そう思いつつも、しかしロイはすでに反論する気力もなく(何せ溜め込んでいる書類の量が半端ではないので)、諦めて焔の錬金術師殿は1人で執務室へと歩いて行ったのだった。


何処か疲れたその背中に向けて、少年が声には出さずに『やぁい、怒られた』と笑っている気配をひしひしと感じながら。


少年が差し出した、ロイの署名が必要な文献閲覧許可証に、彼がサインを渋りそれを部下が恫喝するという不毛な復讐劇(未遂)が展開されるのは、これより数週間後のことである。





+++





エドワードは実にご満悦だった。
邪魔者もいず、天気も良く、そして頭上からは大好きな人の、めったに聞けない歌声が下りて来る。
身じろげば、具合良いように膝を少し動かしてくれる。眩しさに眉をひそめれば、さり気なく繊手が日光を遮ってくれた。
全て少年のためを思って、行われる心配り。少年だけに向けられた、抱擁そのもの。
ぎゅっと膝頭を抱きしめれば、お返しとばかりに頬をぷにぷにと突付かれた。そしてその感触に、また笑う。声が洩れたのが聞こえたか、確かめるようなリザの問いかけもまた、心地良い。


「エドワードくん?」


「えへへ〜、オレまだ寝てまぁす」


「…ふふ、そうね。寝てるわね」


言葉遊びのような下らないやり取りを交わしながら、2人は何時までも『昼寝』を続けた。
ごろごろとじゃれあう金色の親子猫だと評したのは、偶然通りかかったハボック少尉である。そのハボックも、あまりの微笑ましさに声をかけることすら思いつかず、やれやれと肩をすくめてその光景を守っていたことを2人は知らない。
ひと時だけの昼下がり。二度とないかもしれない、昼下がり。


あぁ全く、こんなささやかな時間こそが本当に―――しあわせ!












>>>らぶらぶお花畑。
え、マスタングの扱いが酷い?
気のせいです。(断言)





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