意識することもないくらいに、自然なこと。 ―――それが当たり前だと思い込んでいたこと。 |
「置き去りのやさしさ」 |
祖父の顔をあたしは知らない。 一度だけあたしが生まれる前に事故に遭って亡くなったのだと聞いたことがある。 十歳を過ぎて十一に満たない頃、両親が死んだ。 殉死だの医師の使命だの高潔な人格だの、よく事情も知らない大人たちがしたり顔で語るのに、あたしは辟易してしばらく部屋にこもりっきりだった。 死を理解できない年でもなかったけれど、死を受け入れられる年でもなかったから、しばらくそうして悲しみと不条理感にひたっていたあたしを、こともあろうにドアを蹴破らん勢いでかき乱したバカがいる。 「なにやってんだ、ウィンリィ」 ああもう、何よ。 見て判るでしょ、あたしはいま悲しんでるのよ。 でも何であんたが来るの。おちおち感傷にひたりもできないじゃない。 下手に慰めでもしてきたら、このスパナでぶっ叩いてやると心に決め、あたしはそのバカを部屋に入れた。 珍しいじゃない、あんたが一人だなんて。 「悪いかよ?」 アルはどうしたの。 「あいつも…なんかショックだったらしいし。さっきまで塞ぎ込んでた」 他人の親なのに、感受性が強いというか何というか。 「なあ」 何よ? 「アルはいま寝てる。泣き疲れて」 あ、そう。 「お前は?」 何が。 「何でお前泣いてないんだよ?」 …さっきまで泣いてたとかは思わないわけ? 「跡がない」 放っておいてよ、何よ、あたしが動揺していないわけないって、知ってるくせに! 「…だから来てんだろ、ここに」 勝気な性格で負けん気も強くて、だけれども人にとっては些細なことでも涙を流す。 自分のことくらい知ってる。 バカは一つため息をつくと、自覚してないのかバカ、と自分を棚に上げて言った。 「…お前、自分だけのことに関しては、めったに泣かないから」 子どもには、自分でもよく判らない感情の起伏がある。 俗に言う癇癪とか、わがままとかに近い。 ときおりそういう波がやってきて、あたしは何もない野原を駆け巡ったり、川に飛び込んでみたり、延々金属板とネジと工具で遊んでいたり、意味もなく橋げたの影に隠れてみたりした。 何がしたかったのかという目的意識はなかったように思う。 けれど昼から夕方、遅い時はとっぷりと日が暮れても家に帰らなかった時は、祖母にしこたま怒られた。あたしの両親は割合温厚な人間で、多忙もあってあまり家に居着いていなかったので自然、あたしの教育係り兼保護者は祖母になる。けれど、本当に躊躇のカケラもなく、ドライバーやらペンチやら投げつけられた時は、あたしは養子なんだと真剣に思った。 ともかく、懲りない性格が売りのあたしは、何度も何度も養子疑惑を抱くはめになるのだけれど。 偶然見つけた洞穴(そこまで立派なものではない。せいぜい窪み程度のものだ)があまりに居心地良かったものだから、あたしは時間を忘れて座り込んでいた。 友人と話す時間は楽しい。勉強は体育の時間が大好き。オイルの匂いに包まれた自分の家に帰る時が、一番安心できる。 けれども、また違う意味で、あたしはこの時間が好きだった。 止まった空気の中で、耳だけが鋭敏に働き始めるのが判る。 ひやりとした大気が、肺に到達しようとするのがリアルに判る。 このまま彫刻のようにここにいられたら。 大きな力に引き込まれて、現実から切り離されたら。 それでもいいと、だとしたらこんな感触かなと、ぺたぺた周りの岩盤を撫で始めた頃に、そいつは。 あたしの世界をいつでも乱しにやって来るのだ。 「うらさっさと帰っぞ。うわ見ろ、もう星出てるじゃんか」 「え…もうそんな時間?」 「今から逃げる準備しとけよー? ばっちゃんぶちきれながら心配してた」 「…ごめん」 「……素直だと気持ちわりーな…」 「せっかく謝ってんのに何よそれ!ってだいたい、何であんたに謝んなきゃいけないわけ!?」 「ってお前な、それはないだろ!」 「…よく判ったわね」 「何が」 「あたしがあそこにいるって。あの場所今日見つけたんだけど」 「ばーか」 「何よバカとは!このチビ!」 「チ…っ、あぁもうバカかお前は!」 人にバカバカいいながらそのバカは、当たり前のように言ったのだ。 「見つかりたがってる奴探すのなんざ、簡単に決まってるだろーが」 あたしは、例によって例のごとく、鬼のような顔をした祖母に叱り飛ばされ、そして同じく探してくれていたらしい彼の弟と母親に、安堵のため息混じりに怒られた。 あの頃、あたしたちは誰かがいなくなっても探し出せると知っていた。 知っていたし、そして、誰かが見つけてくれるとも知っていた。 どうにもならないことがあるのだと、いやがおうにも知ってしまったのは、それから数年後。 あたしは思いきり泣き喚いた。 今まで泣きもしなかったことが、不思議で不思議でたまらなかった。 背中を貸してくれた彼は何も口にしなかったけれど、おそらくあたしが小さく身動きしても、彼は感じ取ってくれるだろう。それだけは判った。 恨み言と呪い言葉と怒りを織り交ぜた聞くに堪えないだろう叫びを、聞いて欲しくないのに聞いていて欲しかった。 生ぬるく、生きた、人の体温。 「…もう少し、自分のこと考えてもいーんだぞ?」 あんたにだけは言われたくないわ。 そのセリフは嗚咽にまぎれて、彼には届かなかったことを祈る。 けれど、誰かが彼に判らせてくれたなら、あたしはその人に「ありがとう」を告げるだろう。 ただ、それはあたしの役目じゃないだけ。 ―――予感はあった。 あのバカとその弟は家を焼き、そして、旅立っていった。 あんたこそ自分のことを考えるべきだわ。 その言葉を彼が受け入れることは、当分ないだろう。 あの兄弟は互いのために旅立っていった。己のためとはカケラも思っていないのだろう。そういう兄弟だ。 ただ、一言。 あのバカはあたしに告げた。 「『帰る場所』があったら、俺たちは多分止まっちまう。……けど、脆いもんだよな。『帰りたい場所』は……無くしたくないって、そう思う」 そうね。 だからあたしはあんたたちを安心して送り出したわ。 けして楽なはずのない旅路に出たあんたたちを。 あたしはときおり思い出すだけで心配もせず日々を過ごしている。 あれほど一緒にいたあの兄弟がいなくとも、日常は変わりなく流転していくもの。 大丈夫。 心配なんてしてやるものですか。 だってそうでしょう? 「帰りたがっている奴は帰って来るに決まってるんだから」 |