かつての力感に満ちた暴君は。 いま、僕の手を恭しく支えている。 |
‡ リビドー ‡ |
気づけば彼の自慢のこぶしは、数え切れない戦闘のために無数の傷跡がついていた。 かつて彼は、己のために。己が欲のためだけにその強さを誇示していた。 そして今は。 彼は僕のためだけにそのこぶしを向ける。 「傷ついてますね」 どさりと質感のある音とともに、最後まではむかってきていた人間が崩れ落ちた。 埃を払う動作すらせずに、彼は僕のもとへとまっすぐに戻ってくる。 ―――僕を守る、そのために。 「手を出してください」 僕が言うと、彼は何も言わずにその右手を差し出した。 ハイド様。 かつての僕の主君。 かつてのウワベのご主人様。 丹念にクリームを擦り込んでやると、さすがに少しは滑らかな感触を取り戻していく。 ハイド様は完全に僕にされるがまま。 その手を委ねている。 「綺麗になりました」 ついでとばかりに、彼の左耳と下唇をつなぐ細いチェーンを丁寧に擦っていった。 埃と血にまみれたそれが徐々に銀の輝きを取り戻していく。 ある程度までは磨けたが、やはり汚れが染み付いているらしく、どうしても完全にとはいかなかった。 けれど満足して、僕は笑った。 「ちょっと座っていてください。そのままで」 あぐらをかいた格好で座り込むハイド様の膝に。 背中を彼の腹に預けるように腰かけた。 「……」 彼は何も言わない。 微動だにせず、僕の言うこと全てを聞き入れる。 …そう「刷り込まれ」たから。 ねぇハイド様? 聞いてもいいですか? 僕の言うことは理解できる。 周囲の状況も把握できる。 けれどかつての。 あなたが宿していた、横暴で粗野な、暴君然とした空気は全く無く。 そしてあなたは自身で言葉を発することはない。 じゃあ、あなたに何が残されてるんですか? 僕の一挙手一投足に目を配り。 僕の身の安全を最優先し。 時には僕の命令より先に僕を守ろうとするあなた。 オキクルミに呑まれた自我は、あなたの中にはもう存在していない。 かすかに残る残滓に支配されて、今あなたはここにこうして、僕を膝に乗せている。 「ねえハイド様?」 あなたは僕の言うことなら何でも聞くよう刷り込まれた。 だったら。 「僕のこと、殺してみます?」 あなたを当たり前に裏切ってみせた、このかつての右腕を。 ―――ぽす。 一瞬、本当に実行するのかと思われたその右手は。 僕の身体を抱きかかえるように回された。 「…つまらない、人ですね」 本当に。 「そんなんじゃ、何も感じませんよ……もっと、強く。両手で……抱いて下さい」 何故か苛々して、やけのように彼の両腕を交差させた。僕の身体を包み込むように。 ひやりとした体温。 以前の彼は、その気性に似つかわしい熱い身体の持ち主だった。 懐かしい体温を思い出しながら、僕はその腕に頭を持たせかけた。 低い体温。 ここにいるのは、僕が「あの人」から賜った、屍人形。 僕は「あの人」の隣にいるためだけに行動する。 今までもこれからも。生きている限り途切れることなく。 そして彼は、僕がそう生きるために。 初めから使い捨てるべくして使えた、「主」であったのだ。 だから僕は何の感慨もなく、彼に命令が下せる。 僕のために生きて。 僕のために呼吸を。食事を。生命活動を。 僕は「あの人」に仕えることを全てとしてきた。 それは本能にも近く。 存在意義全てに等しかった。 そして僕を抱きかかえるあなたがいる。 いつでもあなたのことなんて、使い捨てられるんですよ? 平気で笑って、あなたをまた切り捨てるんですよ? その日がいつ来るかなんて、この次の瞬間でもおかしくないのに。 ゆっくりと、目を閉じた。 「ハイド様。…目を、覆っていて下さい」 命を幾つも奪い去ってきた手のひらの感触に、どこかしら安堵を覚える。 彼のもたらした闇の中。 僕は夢うつつに思う。 このまま。どうか。 彼ですら気づかないような。 そんなとてつもない存在が。 大きな鎌を振り上げて。 僕と。 彼と。 いちどきに、屠ってみてはくれないかと。 全てを諦めることもないままに。 願ったものを何一つ手に入れられることがなくても。 存在が消えてしまっても。 それでも、いいのではないかと。 (そう、自分を護るその腕さえ感じていられれば―――) 自分が何を考えているのかも判らないままに。 僕は眠りにいざなわれた。 ―――冷たい人形の腕の中で。 |
―――何を求めて? |