よく、小説の中などで見かける例え。 「空気のような存在」 1つは、いてもいなくても変わらない、赤の他人としての存在と。 そして、欠けては生きていられない、大切な人の存在と。 2つは、限りなく似た言葉で表される。 |
++ 空気と水 ++ |
「―――こんなトコにいた」 呆れたような声が頭上から降ってくるのに、エドワードはばつの悪そうな顔をして見せた。 そんな顔をしたところで、次の台詞が変わるわけもないのだが。 「心配したよ? 母さんも探してた」 帰ろう? 小さいながらも、必死で兄を探し回っていたのだろう。アルフォンスの今朝は白かったはずのシャツが、今は全体的に薄汚れてしまっている。どこかで引っかけたのだろうか、綻びもあった。 ほら、と伸ばされる弟の右手。 どっちが兄なんだか、と思いながらも、エドワードはますますばつの悪い顔をするだけだった。 そして何も言わないまま、すっと自分の足首を指差してみせる。 「え? ……もしかして兄さん、足、挫いた?」 「…仕方ないじゃん。いきなり地面が沈んだんだよ」 冬の近くなった山の中は、落ち葉が所狭しと降り積もり、時には予想もしない陥没をこしらえているものだ。 山には慣れているはずなのに、どうやら見事にはまり込んでしまい、それで身動きがろくにできなかったのだろう。 「…怒られるよ?」 「やっぱり?」 「今朝、さんざん注意されたじゃない。今年は落葉が早いから、気をつけなさいって」 「…明日、1日手伝いするから、って言っても…ダメだろーな…」 「無理だよー」 この年頃の少年にとって、母親とは絶対の存在だ。 そして普段は温厚であるが、怒る時には意外と容赦のない(というより、容赦なく叱らないとこの兄弟には効果が無い)母親の説教が待ち構えている家に、これから帰らねばいけないわけである。 いっそ、一晩野宿してやろうか、などと考えないわけではなかったが、結局エドワードは大人しくアルフォンスの手を借りて立ち上がった。 「大丈夫、兄さん?」 「あー…、何とか歩ける」 どうやら軽い捻挫程度で済んだらしく、ひょこひょこと片足を引きずって不恰好ではあるが、移動は可能なようである。 ただ、踏み込む度にエドワードの眉がひきつるのを除けば。 「痛い? ボクおんぶしたげようか」 「…てめーっ! それは何か、嫌味か!!?」 「うわ兄さん、走れてるし」 「い…って〜っっ!」 思いきり体重を患足側にかけてしまい、たまらずうめくエドワード。 「大丈夫?」 「お前が言うな〜っ」 「あはは、ごめんね?」 確かに物心ついた時から、すでに兄であるエドワードより弟のアルフォンスのほうが身長が勝っている。 身長のみでなく、日常的思考にかけてもどちらかと言うと弟のほうが大人びているようではあったが。 「ごめんね、おんぶなんて要らないよね」 にっこり笑って、アルフォンスは手を差し出した。 「帰ろう?」 2人で、歩いて。 自分たちの家へ。 自分たちを、待っている人の元へ。 少しばかり照れくさそうに笑って、エドワードはしっかりと、伸ばされた手に指を絡ませた。 +++ 本当に、久方ぶりに、夢を見た。 罪と過ちと後悔と懺悔とを蘇らせるそれではなく。 幸せな、心の端が確かに溶け出してしまうような、夢。 エドワードは夢の中から引きずってきたその柔らかな思いを、カケラでも逃さないようにとベッドで丸くなり、ぎゅっと己を抱きしめた。 確かに存在していた過去。 過去には戻れないのは世の鉄則で。 もしも戻りたいのかと言われたとしても、自分がどう答えるのかすら判らない、過去。 それでも、今この腕が抱きしめているのは確かに幸福と呼べるものだ。 静かに息を殺していないと、部屋の隅にいるアルフォンスが気づくだろう。 村で祭ごとがあるらしく、あいにくと一部屋しか取れなかった。 けして彼の休むことのないベッドが1つ、ぽつねんと空いている。 何故か、昨日見つけた本の内容を思い出した。 それは錬金術とは何の関係も無い、ただの小説だ。 ぱらぱらとめくってみたその一節が、ふと目をひいた。 『空気のような存在なんだ』 『いるかいないか、判らないって?』 『違うよ。―――ないと、死んじゃう』 普段はけして特別な意識はしないけれど、いざ失えば自分もまた、死んでしまうだろう―――そんな存在。 だったら自分にとってのアルフォンスは一体何だろう。 そう、エドワードは考えた。 大切、と呼ぶには当たり前過ぎて。 唯一、と呼ぶのは今更で。 空気のよう、と呼ぶにはそこまで自然に必要としている訳でなく。 自然に。 そう。 静かに呼吸をするように。日々の中に必須として組み込まれている空気のように。 そこまで、透明な。 綺麗な、思いじゃ、ない。 +++ すっと自分の前に何者かが立った気配に、アルフォンスは気づいた。 自分の間合いにまで踏み込んで、それでも違和感を感じない相手はただ1人。 もともと、この部屋には自分を除けばもう1人しかいないわけであるが。 「兄さん?」 どうしたの。 柔らかな弟の問いに、エドワードは無言のまま彼を力の限り抱きしめた。 少しばかり慌てたようなアルフォンスの声など無視して、相手と自分の金属部が互いに軋むような音を立てるまで。 「どうしたのさ、兄さん。眠れないの?」 「…いや、何となく」 「?」 訝しげな弟に、エドワードはようやく、自分で得心いったように笑った。 「水、だなと思って」 「水? 咽喉渇いたの?」 「違うよ。お前が―――オレにとって、水みたいな存在だな、って」 「何、それ?」 空気みたいな存在って言葉は聞いたことあるけどと、アルフォンスはそれが自分の知らない例えなのかと考え込んでいた。 心から不思議そうな弟に、エドワードは小さく『自分で考えてみな』と呟いた。 答えを教えてなどやらない。 ずっと、一生、考え込んでいればいい。 もっと、出来うる限り、叶うまで。 +++ 水の空気との決定的な違い。 それは。 足りているはずであっても、強い衝動のような渇きを感じるということ。 存在する それは ―――飢え |
了 |