この世で産声をあげた時にはもう、俺は故郷も名前も持たずただ生き延びることだけが決まっていた。





++ ゴーイングマイウェイ ++





 数ヶ月ぶりに、俺はホームの前に立っていた。小心者の門番に旅の最中の笑い話をひとつ提供してやって、弾むように開かれた門をくぐる。地下からの水路を通れば楽じゃないかとは今更な忠告だ。槌を思いきり伸ばして颯爽と標高数百メートルの本部に辿りつく心地よさ、児戯だと言われようと当分止める気はない。
 任務の終了と収穫をサポート班の長たる男に報告し、そして次の任務が入るまでは休息だ。貴重な休みが数時間あるか数日あるか数週間あるか。それは敵方の動向とこちらの探索能力にかかっている。ちなみに最短で任務が15分後に入った時には少し泣いた。一応俺も人間なんですが。
 馴染みの連中と他愛ない話を繰り返す。今日会えても明日会えるか判らない。そんな所に身を置いている人間は、むやみやたらに他人と関わろうとするか、排斥しようとするか、両極端だ。今俺と一緒に談笑しているこの少女は、完全に前者だった。兄と同じ黒曜石の瞳を輝かせて、精一杯に笑っている。彼女がいるだけでこの殺風景な教団が一気に華やぐ心地がする。彼女の兄は必要以上に彼女を溺愛しているが、多分それは他の面々にも言えることだろう。微笑ましい限りだ。にやにや笑い、俺がからかう類の言葉を口にすると、彼女は愛らしく頬を染め、そして容赦ない一撃を与えてくれた。足じゃなく手なだけマシか。
 数日後、同僚が任務から帰還した。たまに死者の列に加わって帰還する者もいるが、今回はきちんと生きたままでのご帰還だ。少しばかり負傷しているらしく、包帯にわずかに血を滲ませた同僚は、俺の顔を見るなりにこやかに笑って手を振った。応える俺を、奴は夕食を一緒しましょうと言って、ずるずる食堂へと引きずっていった。失った血と肉を取り戻すつもりか、いつもよりも更に輪をかけて盛られていく世界各国の料理の数々。一人前の俺の分が、やけに貧相なメニューに見える。勢い良く歯を立てて肉を食い千切っていく様を半ば呆然と眺めながら、俺はなぜか遠慮がちに魚料理にナイフを入れた。
 更に数日後、同僚が任務から帰還した。こちらもちゃんと生きたままだ。こんな事もあるのかと、俺は珍しさに少々驚いていた。イノセンス1つにつきエクソシストは1人というのは、それはその適合者が生存している間のことだ。適合者が死ねば、幾ばくかの時を経て、新たな適合者が何処かの地で生まれ落ちる。100年単位の時間をかけて全世界に網を張り巡らせた教団には、3世代ほどの年齢差のある「同僚」なんて珍しくもない。そんな中で、俺と同世代、しかも2、3歳ほどしか違わない同僚というものは大変に貴重なものだ。全エクソシスト20人中、4人も固まっている。今は若い世代が豊作なのだろうか。そしてそんな連中が揃って本部にいるということも、なかなかに珍しいに違いない。どうせすぐさま、個々に死地へと赴くこととなるだろうが。
 今回帰還した同僚は、俺の顔を見てすぐさま嫌そうな顔をした。俺がはしゃいで奴の名前をやたらと連呼することが気に食わないらしい。相手が気にしなくなったら止めようと思っているのだが、この分では当分名前連呼サービス期間は続きそうだ。俺がにこにこ笑いながら、今丁度「同僚」が勢ぞろいしていると言ったら奴はしかめっ面をした。更にはぐちぐちと誰かの悪口を口の中で呟いている。その矛先は判りきっているので、特に俺は気にしなかった。最後の舌打ちまで、俺の予想の範囲内だ。
 翌日、白髪の方の同僚と、少しばかり鍛錬をした。お互い汗だくになって泥だらけになる。大浴場というものにお互い馴染みがない訳であるが、こうしてのんびり湯に浸かっていると異文化体験もいいものだなと思う。白髪の同僚は話し上手で話題選びにも隙がない。大道芸人に育てられたというのには頷ける。茹だる直前まで浸かっていると、早々に上がった同僚が呼びに来た。湯当りを心配されたらしい。気が利く上に優しいことだ。そういえば、とさも今思い出したかのように、こちらにも「同僚」が揃ったことを告げてやる。相手の反応は、はっきり言ってなかった。そうですか、も珍しいですね、もなかった。ただ、へぇ、とどうでもいいことのように流し、そしてくるりと回って再び俺を食堂へと連行したのだった。こいつ自室と訓練場と食堂以外に足を踏み入れたことがないんじゃなかろうか。
 就寝前、俺は黒髪の同僚の部屋を訪ねた。鬱陶しげに扉を開けた奴と扉の間をすり抜け、部屋主より先にベッドメイクされた寝具へと飛び乗ったが、その数秒後には蹴り落とされた。対人能力にやや欠陥のある同僚は、俺の扱いを最初こそ持て余していたものの、ここしばらくは本当に容赦がない。だがその容赦のなさが甘えでもあるということに気づくほど、同僚は聡い性質でもなかった。
 俺が10喋るとようやく相手が1、2返す。そんな対話ともつかぬ会話を重ね、そして俺がとある方向へと話を向けた途端に、俺と奴との発言比率は逆転した。とめどなく流れてくる悪口雑言。よくもまあ、語彙が大して豊富な方ではないくせに、そして罵倒の言葉も大抵「馬鹿」「黙れ」とか「死ね」くらいしか出てこないくせに、くるくる回る舌だこと。普段の会話にもその精力の3割でいいから注ぎ込めば人並みだろうに。大きなことでは相手の正義の持ち方や任務への態勢について。小さなことでは相手の身だしなみや喋り方や笑い方まで。とうとう団服を羽織る手つきですら、彼はあげつらった。そんなに忌み嫌う相手が団服着る瞬間なんて、そうそう目撃しないと思うのは俺だけかしら。結局、俺から話を振ったにも関わらず、俺が彼を宥めすかすはめになった。まだまだ言い足りないといった表情に、なるほどこれは思わず踏みたくなる地雷だなと覚えておくことにした。
 翌朝、俺が食堂へと向かっていると、白髪の同僚の背中を見かけた。やっぱり自室と訓練場と以下略だ。俺が声をかけると、尻尾を振って喜ぶ犬のように駆けてくる。同世代ではあるが、俺が兄貴風を吹かせられる相手でもあるのだった。昨日黒髪の同僚の部屋を訪ねた、相変わらず短気で口が悪い、元気そうだった、そんなことを話題にしていたのだが、これまた綺麗に白髪の少年はその話題を黙殺した。どうかしたかと尋ねても、何でもありませんよ、それより何食べましょうか、と笑顔を向けてくる。「それより」ねえ。俺の一言一句、聞き漏らすまいと耳をそばだてているのを指摘したら、また巧妙な言い訳を展開するのだろうか。
 朝の食堂は一日の内で一番活気づいている。昼や夜は不規則に摂る人間が多いためだ。厨房で一瞬も静止することなく動き回っている料理人たちの間には怒号と掛け声が飛び交い、ついでに刻まれた野菜も舞っている。油と調味料の匂いたちこもる厨房前で、料理長に各々好きに注文を入れる。何処の国のどんなマイナーな料理を注文しても、己の仕事に矜持と誇りを持っている料理長はたちどころに要望通りのものを差し出して、どうだと言わんばかりに微笑むのだ。
 パンプディングとサラダとコーヒーをトレーに乗せて席に着くと、目の前にかけた奴は相変わらず己の体積を無視した数々の皿を嬉しそうに並べていた。漂ってくる匂いに、思わずパンプディングの皿を返却したくなったが止めておく。教団自慢の料理長は食材の無駄に厳しい。食事は会話をしながらゆっくり楽しく、が俺の信条だが、どうも同僚は違うらしい。というよりも、あまりに高く積まれた品々に、相手とまず視線が合わない。物凄い速度でかの胃袋に収納されていく食物群を眺め、俺は満ち足りた思いとはかけ離れた心地で、食後のコーヒーを啜った。彼の食べる速度は承知している。どうせこの琥珀の液体を飲み終わる前には食べ終わるのだろう。
 どうした、と俺は尋ねた。同僚が手にしたフォークを皿に静止させたからだ。まだ皿には腸詰が1本残っているではないか。同僚が表情を強張らせ、一点だけを見つめている。その先を目線で追った俺は、ため息をつかざるをえなかった。
 黒髪の同僚が、険を含んだ目でこれまた一点だけを睨んでいた。それがこちらに向いているのも判りやすい上、俺に向いている訳ではないことも判りきっている。近づかなければいいのに、黒髪の同僚はこちらへと歩を進め、無視すればいいのに、白髪の同僚は迎え撃つ態勢十分だ。口火を切ったのはどちらだったか。平和な時間はこれにて終了。互いに互いの火に油を注ぎ合う悪循環はエンドレスだ。
 昨日あれだけ文句を吐き散らしておいて、まだ足りなかったのかお前。
 今まで徹底的に相手に関しての情報を拒否していたくせに、やけに相手の近況について皮肉を飛ばすじゃないかお前。


 奴は露骨に嫌悪を表にあらわす子ども。
 奴は嫌悪を無意識に覆い隠す外面優先型。ただ引き金さえあれば(というか相手の顔さえ見れば)一気に暴走する子ども。
 あぁもう、子どもは子ども同士仲良くしておけ。


 喧々轟々そのままな騒ぎに、この場の長が奴らを追い出しにかかる前に、俺は軽くなったトレーを戻すとさっさと部屋に退散した。朝食を食べただけなのにどっと疲れたのは何故だろう。今日は一日寝て暮らすと決め込み、俺は頭から布団を被った。精神的慰謝料を請求してもいいような気がする。
 本当に、あいつらは。この場所で十二分に生きている。


 蝙蝠にもなれない俺は(俺は、俺たちは、どちらかに属したり与したり、どちらかを滅したり勝たせたりする訳じゃない)、寂しく今日も独り寝だ。






>>>よくある「第三者視点でのアレ神(ラブ)」を書くぞ、との心意気はどうやら儚く散った模様です。
どちらかというとテーマは「対象に入れ込む感の強い傍観者くん」。

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